| トップページ | P-WORLDとは | ご利用案内 | 会社案内 |
■ 338件の投稿があります。
<  34  33  32  31  30  29  28  27  26  25  24  23  22  21  20  19  18  17  16  15  14  13  12  11  10  9  8  7  6  5  4  3  【2】  1  >
【18】

凶犬たちの挽歌  評価

野歩the犬 (2015年03月20日 15時46分)

【6万分の1の奇跡】

午後十一時
兵庫県警機動隊六百人が
神戸市生田区の山口組本部事務所、
灘区篠原本町の田岡一雄宅など
十三ヶ所の非常配備についた。

山口組若頭・山本健一は肝硬変で入院中の
豊中市内の病院からパジャマ姿のまま、
あたふたと関西労災病院にやってきた。

このころから、組員多数がつめかけ、
病院前は報道陣とでごったがえした。

兵庫県警、大阪府警、京都府警のパトカー、
計二十台の赤色回転灯で
病院の白壁が夜目にも赤く彩られた。

田岡一雄組長は搬送されるや、待ち受けていた
中山英男外科部長の執刀で四十分にわたる
手術と手当てをうけた。

弾丸は田岡一雄の首の後部右下から
左上にかけての貫通銃創であったと、
中山外科部長は発表した。

弾丸の射入孔は一・五センチ、
射出孔は一・三センチである。

全治二、三週間である、という発表だった。

「頸を撃ち抜かれて、そんなに軽いのですか?」

当然のように記者団から疑問の声があがった。

「ええ、幸い頸部の筋肉部分だったからです。
 もう、1センチでも弾道が
 内側にずれていたら大動脈や神経系統を
 やられて即死だったと思われます」

この説明に記者団から「うおっ」と
感嘆ともため息ともつかぬ声があがった。

後にこの銃弾コースは撃たれた銃弾の
口径、距離、角度からして
法医学上「6万分の1の奇跡」
であったことが判明する。

「強運も強運。こんな運の強い男は見たことがない」

と、兵庫県警の捜査幹部は漏らしたが、
これは偽りのない感想であろう。

翌日の社会面に「不死身の三代目」の
見出しをとった新聞もあった。

手術を終えた田岡一雄は駆けつけた組幹部たちに

「こんなに見舞いにきてくれたら、
 わしのほうが気をつかう」

と軽口を叩くぐらいに元気で、文子夫人、
長男の満氏に付き添われ五〇六号室に入った。

いっぽう「ベラミ」で流れ弾に当たった
二人の医師は救急車で自分たちの
「安井病院」に搬送され、手術をうけた。

安井浩副院長の右肩からは比較的楽に
弾丸が摘出され、三週間の軽傷であった。

津島信則神経科医長は出血がひどく
五時間に及ぶ大手術のすえ、弾丸は摘出され、
二ヶ月の重傷ですんだことに関係者は安堵した。

手術の終わりと同時に夜は明けた。
【17】

凶犬たちの挽歌  評価

野歩the犬 (2015年03月20日 15時44分)

【激 震】

騒然とする店内の人垣をかき分け、
細田利夫と羽根恒夫は首領(ドン)のところに舞い戻ってきた。

「大丈夫ですかっ!」

「うん、心配はいらん」

なんという気丈さか、と細田利明は感じいった。

救急車は到着した。

しかし、細田はとっさに京都の病院へ行くよりは
田岡一雄が心筋梗塞で治療を受けている関西労災病院に
入ってもらったほうが身辺警護上、安全だと判断した。

三代目専用のキャディラックは
「ベラミ」の前に駐車してあった。

「尼崎の労災病院に行きます」

「そうしよう」

田岡一雄は負傷した頸をハンカチで押さえたまま、
羽根恒夫に支えられていたが自力で歩いて、
キャディラックの後部座席に乗り込んだ。

午後九時三十分
黒のキャディラックは猛然とスタートし、
夜の京都の町を名神高速道路
京都南インターチェンジに向かった。

午後九時四十分
新聞記者たちが「ベラミ」につめかけてきた。

「撃たれたお医者さんの安井病院といえば
 トラさん(蜷川虎三・前京都府知事)の
 主治医の病院じゃないか」

そのうち「べラミ」のホステスの中に、
山口組三代目の顔をよく知っている女がいて、
田岡一雄組長が負傷した事実を伝えた。

「なにっ!首領(ドン)が撃たれた!」

記者たちは店内の電話にとびついた。

午後十時十分

兵庫県警暴力対策一課(情報) 同二課(山口組専従)
の電話がいっせいに鳴り始めた。

「田岡一雄組長が撃たれたってほんとうですか?」

「えっ、どこで」

「京都のクラブ・ベラミで、ですよ」

「いつ?」

「つい、さっき」

「ちょっと待ってくれよ」

暴力対策二課はたちまち大騒ぎとなった。

「ほんとうか?」

「早く京都府警に問い合わせろ!」

兵庫県警は京都府警を呼び出した。
だが、要領を得ない。

「ベラミ」で発砲事件があったことは事実らしい。


「田岡一雄が撃たれたとなると、
 尼崎の労災病院にはいる可能性が高いな」

「時間的に考えて、田岡のクルマがまだ
 名神高速道路を走っているかもしれん
 パトカーを尼崎インターにはりつけて、 
 キャディラックがこないか監視させろ。
 別に関西労災病院にもパトカーをやれ」

指令がだされた。

記者たちが暴対一、二課に殺到してきた。

「いったい、どうなってるんですか!」

「ちよっと待ってくれ!こっちも確認の最中だから」

捜査員らはいらいらした。

午後十時三十分、尼崎インターに
張り付いていた兵庫県警のパトカーが
黒いキャディラックを発見した。

「どうしたんか」

「親分が撃たれた。早く病院にいかな、ならんのや」

「よし」

いかなる事情があるにせよ、
ことは人命にかかわっている。

兵庫県警パトカーは赤色回転灯を点滅させ、
サイレンを鳴らしてキャディラックを
関西労災病院へと誘導した。

午後十時四十分、キャディラックは
病院の救急搬送口へ滑り込んだ。

「田岡一雄が撃たれたのは事実らしいな」

パトカーからの無線を傍受していた
暴対一、二課の連中は事件の大きさに緊張した。

捜査員の一斉非常呼集がかけられた。

午後十時四十六分
京都府警本部から正式に兵庫県警本部に

「広域暴力団山口組三代目、田岡一雄組長撃たれる」

の報が伝えられた。

兵庫県警本部は直ちに県下各署に
「A1号配備」を命じた。

暴力団抗争にともなう「最大警備体制」である。
【16】

凶犬たちの挽歌  評価

野歩the犬 (2015年03月20日 15時41分)

【京都 ナイトクラブ・ベラミ】

昭和五十三年七月十一日

あの吉田芳弘射殺から一年十か月が経っていた。

京都は前線の通過で夕刻から激しい雨であった。

不気味な稲妻とともに雷鳴が轟き、
京都タワーや二条城が
青白い閃光を浴びて夜空に浮かび上がった。

京阪三条駅前のナイトクラブ「べラミ」は
夏枯れと悪天候で客入りは四分どころ、であった。

午後九時二十五分雨があがったころ、
この夜のショーであった「ルークール」による
リンボーダンスが終わり、拍手が起こった。

ステージの下手寄り、二列目のテーブルに
山口組三代目・田岡一雄組長がいた。

この日、太秦の京都撮影所に招かれた田岡一雄は
側近を引き連れ、「ベラミ」を訪れていた。

彼は心臓疾患を抱えていたから
アルコールは口にせず、オレンジジュースで
リンボーダンスのショーを楽しんでいた。

奥のテーブルにいた若い男がこのとき、
いきなり立ちあがった。

男は一歩踏み出すようにすると
コルト38口径の拳銃を抜き
両手で構えると腰を落とし、
田岡一雄めがけて、二発の銃弾を発射した。

「うっ」

思わず、田岡一雄は頸を押さえた。

田岡一雄の右奥に座っていた京都市左京区
「安井病院」の安井浩副院長は右肩に銃弾が当たり、
もう一発は同席していた津島信則神経科医長の
右背中から腹部に達する銃創を与えた。

二人の医師が倒れたのを見て、
一人のホステスは驚きのあまり失神した。

安井浩副院長らは新任の医師歓迎会の二次会として
「ベラミ」に居合わせていたのである。

撃った男は拳銃を握ったまま

「どけ、どけ!」

とわめいて入り口から逃げた。

このとき護衛の一人、羽根恒夫は
そろそろ引き揚げる時間だと、
フロントで清算を頼み、
田岡一雄組長宅への連絡のため、
受話器を握っている最中だった。

羽根恒夫は異変に気づいて
首領(ドン)のテーブルに駈け戻った。

首領(ドン)を撃った男とすれ違いになったの
はまさに皮肉なことであった。

田岡一雄のお供をしていたのは若頭補佐・細田利明、
仲田組組長仲田喜志登弘田組組長弘田武志、
それに羽根恒夫の四人だった。

三代目、首領(ドン)が撃たれた!

「追え、追えっ!」

血相を変えた細田利明と羽根恒夫は男を追ったが、
狙撃犯の姿は闇の中へ消えていた。

頸を撃たれながら田岡一雄はしっかりしていた。

自らハンカチで出血を抑えて、
青くなって飛んで来た「ベラミ」のママ、山本千代子に

「わしは大丈夫や。隣の撃たれた人をはよう、
 病院に運んであげにゃ」

と、落ち着いて指示した。

「べラミ」の中は騒然としている。

「救急車を呼べ!」

「早くあかりをつけろ!」

客たちの怒鳴る声が交錯した。

フロントの男が舌をもつれさせながら
110番の受令者にむかって叫んだ

「こちらは三条の『ベラミ』ですが、
 いま、人が撃たれました!
 救急車をお願いします!」

「ベラミ」と道を隔てた真向かいに
松原署三条大橋東派出所がある。
客待ちをしていたタクシーの運転手が
事件に気づいて派出所に駆け込んできた。

「あの店の中で」

息せき切って立番中の森田寛巡査に叫んだ。

「発砲騒ぎがあったらしいおすえ!」

「えっ!」

森田巡査は本署に急報すると
警棒を握り締めて「ベラミ」へ走った。

救急車とパトカーのサイレンが 
早くも周辺にこだましていた。
【15】

凶犬たちの挽歌  評価

野歩the犬 (2015年03月20日 15時38分)

【流血のバランスシート】

昭和五十年九月
「ジュテーム事件」から一月余りがたったころ、
山口組三代目・田岡一雄は
佐々木組、佐々木道雄組長をつかまえて

「ゴルフばっかり、やっとってええんか」

という含蓄の深い言葉をかけた、
という情報が兵庫県警に入った。


兵庫県警は大日本正義団、
吉田芳弘会長射殺事件をうけ、
この首領(ドン)の言葉や幹部連中の叱責を
殺人教唆にならないか、と検討したが
実質を確定できないことや、
仮に確定できても

「ゴルフばっかり、やっとってええんか」

というひと言だけではどうにもならない、
とサジを投げた。

それどころではなく、
佐々木組による吉田芳弘会長射殺がはっきりし、
関係者を逮捕しても警察の手は
ついに佐々木組長に及ぶことはなかった。

逮捕された者たちはこの社会の掟通り、
組長の指示によるものではないと頑として
否認したのである。

いずれにしろ「ジュテーム事件」から
一年二ヶ月後に報復は決行された。

山口組内部の反応はさまざまだったが

「これで五分五分だ」

というのが大方の見方だった。

つまり、これまでの山口組側の損害
死者四、重傷一と大日本正義団、吉田芳弘会長の死は
その重みにおいて匹敵するという意味であった。

「背中からではなく、せめて正面から撃てなかったか」

という声もあったが
これは、傍観者の言葉であり、
この事自体が山口組にとって
「他人事」という空気のあった証拠でもあった。

松田組はこの報復に当然のことながら激昂した。

事件三日後の十月六日、吉田芳弘会長の遺体は
平野区の火葬場で荼毘に付された。

大阪府警の情報では大日本正義団組員は
会長の遺骨をしゃぶって報復を誓ったという。

翌七日、再三の大阪府警の中止勧告を無視して
松田組は吉田芳弘の組葬を西成区の
「太子ホテル」で強行した。

広島、九州などから反山口組の組員七百人が集まった。

大阪府警は新大阪駅や大阪国際空港で検問を実施、
さらに会場前では機動隊が出動して、
参列者のボディチェックを行った。

「何するんか、なんも持っちょらん!」

「なんや、はよ、通さんかい!」

バスから降りようとする黒い一団に
西成署の指揮官がハンドスピーカーで

「一人もおろすな!とじこめろ!」

と命令、警官隊がバスの出口に殺到すると
ついに乱闘が始まった。

抗争事件の真っ只中での組葬は
単に殺された者を弔うだけでなく
報復への「鬨(とき)の声」に似ている。

また、参列の友誼団体からは多額の香典が集まる。
いわば、戦争のための軍資金集めでもある。

警察が躍起になって組葬を中止させようとするのは、
そのためでもある。

山口組側からみれば、大日本正義団
吉田芳弘会長を射殺したことによって
ようやく相討ちとなった。

流血のバランスはとれたのである。

当然、仲裁人が出てきて、
山口組と松田組に和解が打診された。

松田組の答えは「ノー」であった。

いぜんとして山口組が松田組、
樫忠義組長の謝罪を要求したからだといわれている。


和解は成立せず、山口組と松田組は睨みあったまま、
しばらくの時をおくるのである。
【14】

凶犬たちの挽歌  評価

野歩the犬 (2015年03月20日 15時31分)

【大日本正義団】

こうした時に大阪キタに進出して
金ヅルをつかもうとした
佐々木組系徳元組が松田組系の溝口組と衝突を起こし、
山菱の代紋をひけらかした徳元組に対して
溝口組は萎縮するどころか、猛烈な反撃にでた。

溝口組が徳元組に対して完膚なきまでの攻撃を
引き起こした裏には

「山口組なにするものぞ」

といった軽侮の念すら、感じられた。

それだけ、山口組の内部不統一は
この社会で知れ渡っていた。

だからこそ、松田組は大反撃に出たのである。

松田組は賭博一本でメシを食ってきた
博徒組織としては「名門」であり
先代の松田重義は各地の親分衆と
盃を交わしたこの稼業の重鎮でもあった。

松田重義は山口組のような膨張主義はとらずに
松田組モンロー主義を守ってきた男だったが、
昭和四十二年に引退、跡目を樫忠義が継いだ。

しかし、ここにきて、二代目・松田組も
ピラミッド体制をとりはじめ
傘下に村田組、溝口組、石田組、
瀬田組など七組があり
村田組傘下に大日本正義団などの
三次団体があって、これらを加えると
松田組は傘下二十団体、三百人となる。

大阪府警捜査四課は

「これではマンモスと狼の戦いだ」

と評した。

では、なぜ松田組はマンモスに戦いを挑んだのか。

繰り返すようだが、ヤクザは暴力を売り物としている。
相手の暴力の前で手も足もでないとなれば、
売り物なしのお手上げとなり
組織の存亡にかかわってしまう。

だから、どんな強力な相手であれ、
目には目を、歯には歯を、
で対抗しなければならない。

しかも相手の山口組は近頃、少しおかしい。
内輪もめばかりしている。

「山菱なんか、見かけ倒しだ!」というのが
当時のヤクザ社会でもちきりの話だった。

これが松田組の戦意をかきたてたのだろう

とりわけ、松田組には大日本正義団
という戦力があった。

大日本正義団は昭和四十四年、
吉田芳弘によって結成された。

吉田芳弘は元々松田組内、村田組の若頭であった。

一時、松田組の後継候補にも
挙がったことがある実力者だったが
松田組二代目を樫忠義が就任すると、
自ら大日本正義団を結成した。

吉田芳弘は賭博一本の松田組の方針には不満で、
自分が組を持つと西成を徘徊している
チンピラを片っ端から誘い込み
覚せい剤、売春、競輪、競馬のノミ行為、
債権取立てなどあらゆる黒い勢力に手を広げた。

西成は暴力団事務所がひしめく無法地帯である。

その中で黒いダボシャツ、坊主頭の
大日本正義団組員は刺青をはだけて闊歩した。

暴力団とて、スーツを着て礼儀正しい言葉遣いで
市民生活に溶け込み資金源も企業舎弟や
倒産整理などに知能化しつつある時に
大日本正義団は愚連隊への逆戻りの感があった。

もともと、喧嘩が三度のメシより好きという
チンピラたちを集めた急拵えの組織だったから、
このルーズさは仕方なかった。

しかし、彼らはほかの組織との
ドッグファイトでは負けたことがない
乱暴者ぞろいだったから、
西成の暴力団も大日本正義団には一目おいて
松田組内部における吉田芳弘の地位は
三次団体の組長にもかかわらず
傘下各組の組長を凌駕せんばかりとなった。

「ジュテーム事件」後、松田組の当面の相手は
徳元組の上部団体、佐々木組だった。

いわば、松田組の大局観は局地戦であり、
その先頭に立っていたのが
大日本正義団だったのだ。
【13】

凶犬たちの挽歌  評価

野歩the犬 (2015年03月20日 15時27分)

【潮流と苦悩】

山口組系ということであれば一万一千人は
たしかに山口組系組員であるが
純然たる山口組組員を名乗れるのは
田岡一雄一人にすぎない。

いってみれば山口組とは田岡一雄経営する
フランチャイズチェーンであり
その組織は多角的安全保障のネットワークであった。

反山口組の組織にとって、山口組の脅威とは
チェーンの一店と戦争となれば
連鎖反応的に山口組の全加盟店を敵に回すという
「大量動員」に対する恐怖であった。

昭和三十年代、山口組三代目・田岡一雄は
神戸港船内荷役を牛耳る全国港湾荷役振興会と
神戸芸能社という二本の巨大な資金源を獲得していた。

田岡一雄は傘下各組が各地に遠征する費用として
この莫大な資金を惜しみなく投じた。

この資金力こそが、
山口組の全国制覇への原動力だった。

だが、警察庁の第一次頂上作戦で
兵庫県警はこの二つの資金源に迫り
これを山口組から断ち切ることに成功した。

さらにこの時期、三代目・田岡一雄は心筋梗塞で
長期入院を余儀なくされていた。

「もう、一息で山口組を潰せる」

警察庁、兵庫県警は固唾をのんで
彼らの動向をうかがった。

しかし、山口組は潰れなかった。

その理由は先に述べたように
山口組という組織の特異性にあった。

それが偽装にせよ、首都暴力団は
警察の猛攻の前に次々と解散を声明し、
神戸でも山口組と並ぶ古豪・本多会は解体した。

しかし、山口組だけは絶対に解散を宣言しなかった。

病床にあろうとも山口組とは
田岡一雄、たった一人のものだからである。

兵庫県警、大阪府警をはじめ全国の警察が
山口組系各組を追い詰めて解散させた例は
いくらでもある。

だが、結果として山口組解体には
少しもつながらなかった。

山口組とは多節足動物であった。

五百本の足があれば、傘下の五十や六十の
団体が解散したところで
山口組は平気で歩いていけるのである。

田岡一雄が「解散」を宣言しないかぎり、
たとえ行動不能に陥ろうとも「山口組」の名は残る。

こうして山口組は生き残った。

だが、さすがに山口組の体質は変わっていた。

往時の資金力は失せ、財政を支えるためには、
傘下の組織から償還のない負債が
割り当てられるようになった。

つまり「上納金」である。

高度経済成長期には山口組傘下団体も
そのおこぼれにあずかって収入増を続けていたため、
しのいでいられたが、山健組・山本健一組長が
若頭に就任した直後に日本は
オイルショック不況に陥った。

これはヤクザ社会においても大きな打撃であった。

組の財政を預かる山本健一が
山口組フランチャイズを維持するために金集めに
口やかましくなったことは、
これはもう、当然というしかなかった。

しかも彼の若頭就任が五対四という
際どい支持であったとすれば
山口組の運営がギスギスとしたものになったことは
十分に想像がつく。

このころから山口組傘下団体がほうぼうで
他の組織との摩擦が多くなり
時には同士討ちまで引き起こしたのは、
山本健一若頭の強引な政策の結果というより、
各組とも不況のあおりで収入が激減し、
他の縄張りに侵入せざるを
得なくなっていたからだった。
【12】

凶犬たちの挽歌  評価

野歩the犬 (2015年03月20日 17時01分)

【山口組の構造】

大日本正義団吉田芳弘会長射殺は
暴力団の本質をあますところなく
世間に暴露した事件となった。

ここまでの「大阪抗争」をおさらいしてみると
次のようになる。

まず、徳元組組員に賭場を荒らされた
溝口組が豊中の喫茶店「ジュテーム」で
徳元組組員三人を射殺したことから戦争は始まった。

賭場を荒らされるということは、
縄張りを侵されることであり
ヤクザ社会の典型的な抗争パターンである。

小さな組同士の紛争ならいざ知らず、
この徳元組にも溝口組にも上部団体があった。

徳元組の上部は佐々木組であり、
さらにその上には山口組である。

いっぽう溝口組は松田組傘下である。

この下部組織同士の紛争で仲直りは成立しなかった。

それどころか、交渉が決裂すると
山口組側は溝口組の上部団体、
松田組組長・樫忠義の自宅を銃撃した。

松田組側は即座に反撃し、
神戸の山口組本部事務所に銃口をむけた。

つまり、子供の喧嘩を親が買ったことになった。

もっとも、これは理由のないことではない。

山口組というのは当時傘下五百団体、
構成員一万一千人であった。

これを単純計算してみると
山口組を構成する一団体当たりの
組員は二十二人となる。

なかには七、八十人を擁する組もあれば、
逆に七、八人という組だってあるのだ。

これらの組が親、子、孫といった上下関係、
いわばピラミッドの従属関係を
結んでいるのが山口組の実態であった。

このピラミッドの頂点に立つのが
首領(ドン)の田岡一雄であり、
その下に若頭、九人の若頭補佐がいて
最高幹部会を開き、組の運営や統制を行う。

さらに幹部ではないが、田岡一雄の
直系の若衆にあたる組長が
全国に約七十人いる。

これらの若衆(子分)たちは
若頭の山本健一が
山健組組長であるように、
それぞれが自前の組の組長である。

奇妙なことだが、
こういう観点に立てば、
山口組とはたった一人になってしまう。

つまりは首領(ドン)田岡一雄組長だけなのだ。
【11】

凶犬たちの挽歌  評価

野歩the犬 (2015年04月12日 09時42分)

【密 告】

大阪府警捜査四課はただちに捜査を開始した。

瞬時の出来事とはいえ、
白昼、繁華街が舞台であり、目撃者は多かった。
クルマで移動していた吉田芳弘会長を
待ち伏せしていたのだから、
襲撃した男たちもクルマを使っていたに違いなかった。

現場周辺の不審車の徹底した聞き込みによって、
犯行の二十分前、現場付近に
「福島ナンバー」のクルマが停まり、
後部座席から二人の男が降りていたことが判明した。

さすがにナンバープレートまでは判明しなかったが、
捜査本部は「これはレンタカーに違いない」とにらんだ。

捜査員たちは大阪のレンタカー会社を
シラミつぶしに洗った。

その結果、大阪市東区東和町の
日産観光大阪支社に「福島55れ・413」という
ナンバーのチェリー・セダンの
レンタカーがあることが判った。

さらにこのチェリーを借りた男は
山口組系佐々木組の組員だとわかった。

まさにドンピシャであった。

この組員は犯行前日の十月二日に借り、
四日には別人が返している。
しかも、この男は九月二十八日にも
同じように借りていた。

捜査四課は執拗にこの男を内偵した。

これだけでは逮捕できないからである。

執拗な内偵捜査の結果、
男が八月末に改造拳銃をちらつかせたことが分かり
十一月十四日、拳銃不法所持の容疑で逮捕した。

いわゆる別件逮捕である。

これとは別に密告情報もあった。

事件の二週間後の十月十六日昼すぎ、
捜査本部の電話が鳴った。

「おい、日本橋で吉田を撃ったやつを教えたろか」

というダミ声の男だった。

「あれはな、佐々木組の中の
 入江組と片岡組の二人組や。
 一人は大阪の極道やが、もう一人は
 奄美大島の出身のやっちゃ」

さらに二日後には同じ声で

「警察はぼやぼやしとるな。
 もうちょい、くわしいはなし、したろか。
 一人の男の名前は北中ちゅうんじゃ」

と、名指しまでしてきた。

佐々木組系入江組にはたしかに
北中政美という男がいた。

捜査四課はこの男が三年前に堺市で知人を殴り、
三日間のケガをさせた事実をつかみ、逮捕状をとった。
これも別件容疑である。

十一月十八日、北中正美は
潜伏先の高松市内で逮捕された。

現在では事件の全容は以下のように判明している。

「ジュテーム事件」以来、一周忌が過ぎても
佐々木組になんの動きもないので
九月五日の山口組定例幹部会で佐々木組長は、
若頭・山本健一らから
「それで、極道といえるか」と罵られた。

このあたりから、松田組系大日本正義団の
吉田芳弘会長に的を絞った報復計画が練られた、
というのだ。

四人の男が襲撃班に選ばれ、
一人が指揮兼見届け役、一人が襲撃車の運転、
二人がヒットマンとなり、
スミス&ウェッソン38口径拳銃二丁が渡された。

六甲山中で試射訓練が行われ、
メンバーは九月中旬から
吉田芳弘会長の行動を監視し、
十月三日、ついに射殺に成功した。

ヤクザ社会は「鉄の団結」などというが、
実態はまさに絵空事である。

襲撃班は犯行を密告され、
最期は潜伏先までも事情通によって
警察にさされたのであった。
【10】

凶犬たちの挽歌  評価

野歩the犬 (2015年03月20日 15時21分)

【報 復】

山口組の「不戦宣言」から丸一年。

昭和五十一年十月三日、日曜日の大阪は秋晴れだった。

松田組系大日本正義団会長の吉田芳弘は
韓国人女性ら三人を市内見物のために案内していた。

護衛の運転する黒塗りのクラウンで
吉田芳弘は午前十時に西成区の愛人宅を出て、
三人と落ち合い、十一時に
ミナミのふぐ料理店で昼食をとった。

午後零時五十分、
吉田は浪速区日本橋の
「やまと無線」前でクラウンを停めさせ、
お土産として電気シェーバー三個と
ホットカーラー一個、計二万七千円の買い物をした。

買い物を済ませた吉田がクラウンに
連れの客たちを乗せようとドアの横に立ち、
手をあげたとき、二人の男が近づいた。

午後一時十五分ごろであった。

実は吉田芳弘ら五人が「やまと無線」に入ったころ、
この二人の男は左隣の電器店の入り口に立っていた。

「何かお探しですか?」

女性店員が出てきて、彼らに声をかけたが、
男たちは振り向きもしなかった。

店員二人は顔を見合わせて奥に引っ込んだが、
男たちはそこから立ち去らなかった。

あきらかに彼らは吉田芳弘を待ち伏せしていたのだ。

一人は茶色のジャンパー、
一人はハイネックのセーターに紺色のジャケット

二人は無言で吉田芳弘会長の背後、
三メートルにしのび寄ると、
同時に拳銃を引き抜き、計五発を連続発射した。

拳銃弾五発は吉田芳弘の背中、腰に全弾が命中、
うち二弾は胸部を貫通した。

吉田芳弘は歩道の縁石をまたぐように
あおむけに倒れた。

日曜日、買い物客でにぎわう商店街のど真ん中で
起こった射殺劇に人々は悲鳴をあげて逃げまどった。

確実に吉田芳弘が倒れたのを見たとたん、
二人の狙撃手は商店街の中を走って逃げ出した。

吉田会長の護衛役だった西辻秀和は、
ブローニング22口径拳銃をとりだし追跡した。

男たちは商店街から左へ折れた。

俊足の西辻は距離、数メートルまで近づき、
走りながら拳銃一発を撃ったが命中せず、
流れ弾は駐車中のクルマに穴を開けた。

人々を押しのけるように彼らは走っていたから、
巻き添えの犠牲者がでなかったのは奇跡に近い。

二人の男はさらに二十メートル先の
「佐久間病院」前で左右にわかれた。

西辻秀和は左に逃げた男を追い、
続けざまに発砲したが当たらず、
それらの流れ弾は三十メートル先の
ビル三階の窓ガラスを破った。

護衛の西辻秀和はついに吉田芳弘会長を
狙撃した男たちを見失ってしまった。

吉田芳弘はパトカーで西区の救急病院に運ばれたが、
十五分後に出血多量で死んだ。

ほぼ、即死に近い状態だった。
【9】

凶犬たちの挽歌  評価

野歩the犬 (2015年03月20日 16時55分)

【迷 走】

九月五日、大阪で開かれた
西日本管区警察局長会議に出席した
浅沼清太郎警察庁長官は
第三次暴力団頂上作戦を号令した。

「白昼、暴力団組員が市街地で
 発砲するなどは法秩序への挑戦である。
 三十年代後半、四十年代半ばに続いて
 今回を第三次とする頂上作戦を全国的に実施、
 幹部級の検挙、資金源の取り締まりに全力を挙げる」

会見が開かれるや、山口組三代目、
田岡一雄の反応は素早かった。

兵庫県警情報によるとこの日の午後
、山口組本部事務所で若頭・山本健一以下
直系組長七十人が参集して、幹部会が開かれた。

席上、山本健一は

「今後、山口組側からいっさいの
 抗争をしかけてはならない。
 また、一連の松田組との抗争の報復を
 してはならない」

と通達した。

田岡一雄は出席しなかったので、山本健一は
「これは田岡組長の意思である」と、
改めて首領(ドン)の決定であることを断り
この「不戦宣言」を代理伝達した格好となった。

山口組は傘下約五百団体、一万一千人
松田組は二十団体、三百人。

まるでマンモスと狼が闘っているにもかかわらず、
実際の戦闘は対等どころか損害では
死者四と山口組側の方が大きい。

往年の山口組の破壊力はどこへいってしまったのか。

さらに、ここにきての一方的な
「不戦宣言」はなにを意味するのか。

兵庫、大阪の両警察はこの情報を慎重に分析した。

すると山口組内部で一つの見方が生まれていることが分かった。

それは警察の徹底した封鎖によって
一日に百万以上の水揚げがあった
松田組の十数か所の賭場は開けなくなっており、
彼らの資金はいまや枯渇している、というのだ。

なるほど、これでは無駄な流血をせずとも
放っておけば、松田組は自ら潰れる、
という結論である。

九月五日の山口組の「不戦宣言」はこうした
状況を踏まえてのうえのことだ、
というのが警察の観測だった。

だが、十月に入ると兵庫県警は意外な情報を入手した。

「松田組を放っておくとはなにごとか。
 山口組は四人の犠牲まで出したんだ
 なんとしても、報復しなければ、
 山菱の威光にかかわる」

タカ派の発言が強くなり、
幹部百人から一人百万、合計一億円の軍資金を
集め、同時に三十組から召集した
戦闘団が準備された、というのである。

そうなると先の「不戦宣言」という情報はウソなのか。

いったい、山口組は戦争をする気があるのか、
ないのか。曖昧となってきた。

実はこのとき、山口内部で
ある「粛清人事」が行われていたのである。

若頭補佐であった穏健派の菅谷政雄が
松田組といつまでも争う愚を説き、
自ら和解工作に奔走したが、実を結ばなかった。

主流の強硬派、若頭・山本健一はこれを

「組の決定なしで独断専行した」

との理由づけで、
菅谷政雄を若頭補佐から若衆に降格した。

首領(ドン)田岡一雄は長期入院中であり、
ポスト田岡の思惑を巡り、
内部の権力構造は極めて流動的であった。

つまり、よそと戦争するまえに
内なる戦いが優先されていた、というのが
「不戦宣言」の一面でもあったのだ。
<  34  33  32  31  30  29  28  27  26  25  24  23  22  21  20  19  18  17  16  15  14  13  12  11  10  9  8  7  6  5  4  3  【2】  1  >
メンバー登録 | プロフィール編集 | 利用規約 | 違反投稿を見付けたら