| トップページ | P-WORLDとは | ご利用案内 | 会社案内 |
■ 338件の投稿があります。
<  34  【33】  32  31  30  29  28  27  26  25  24  23  22  21  20  19  18  17  16  15  14  13  12  11  10  9  8  7  6  5  4  3  2  1  >
【328】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年06月22日 15時17分)

【56】

漏水はついに前部三等雑居室にも起きた。

原田勇たちがいる右舷側の天井から、
ざぁっと流れ込んだ。

あの海になってしまった車両甲板から
いよいよ入ってきたのだ、
と勇は節子を抱き寄せて逃げる態勢をとった。

だが、水はそれでとまった。

この船室は車両甲板に直接開口していない。
揺れて天井を伝ってきた海水が
畳二、三枚を濡らすだけですんだ。

給仕の連絡で飛んで来た船員もたいしたことはない、
という表情で引き揚げていった。

乗客の何人かは畳にたまった海水で手拭いを浸し、
船酔いで寝ている人たちの額に乗せてやった。

状況が悪くなりつつあるのは
車両甲板より上にある三等イス席だった。

この船室の舷側には四角いガラス窓が並んでいる。

それが大波で叩き破られないように
木製のフタがかけられていたが
ついに防ぎきれず、一枚が破られた。

割れた窓からは鋭い音とともに
風が吹き込み、波が踊りこんできた。

乗客たちは総立ちになった。

吹き飛んだガラス片が中年の女性の顔を襲った。

頬にやった手がべっとりと血で塗られているのを見て
女性は狂ったように泣き叫びはじめ、
イスから落ちて床を転げまわった。

「こわいよう、こわいよう」

女は泣き続けた。

出航してからもう三時間近い。

その間、ずっと緊張を高めるばかりだった彼女の神経は
血を見た瞬間、耐え切れなくなった。

緊張が恐怖に変ったのである。

給仕が二人来て、床をのたうつ彼女を抱え上げ、
船室から運び出し、ひとつ上の
二等雑居室とラウンジの間の通路に寝かせた。

どの船室も満員でケガ人を収容する場所がなかった。

「お医者さまはいらっしゃいませんでしょうか。
 ケガをされた方がありますので
 給仕に御連絡くださるよう、お願いいたします」

船内放送のスピーカーが繰り返した。

それを聞きながら青山妙子は
私も行ってあげよう、と思った。
処置をする医師は手伝いを必要とするだろうし、
ケガ人にはなにより元気を出させてやることが大切なのだ。

しかし、彼女は頭を上げられないのを感じた。

気持ちが悪くて、とても起き上がれない。

「すまないけど、勘弁してもらうわ」

と、胸の中でつぶやいた。

ふつう、千人を超える客を乗せていると
二人か三人の医師はいるものだ。

そのおかげで、船内で産気づいた妊婦が
無事に赤ちゃんを産み、
船長が名付け親になるという
エピソードが実際に連絡船の中ではあった。

しかし、医師だと名乗り出てくるものがいない。

船内放送をあきらめた給仕たちは乗客名簿を繰った。

思ったとおり、職業欄に「医師」と記された名前が見つかった。

その医師はケガをした女が寝かされていた場所から
数歩とへだたっていない二等雑居室にいた。

しかし、彼自身が医師を必要とする状態だった。

吐き続けて顔からは血の気が失せ、
名前を呼ばれて答えるのにも肩で息をしていた。
【327】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年06月22日 15時14分)

【55】

機関室では天井全体から大雨のように海水が降り注いでいた。

船の縦揺れにつれて海水は出たり入ったりしていたが、
いまでは出てゆく量より入ってくる量のほうが多くなったのだ。

突然、両舷発電機のベルの音が鳴り響きだした。

発電機はアースすると警報が鳴る。
続いてすさまじいスパークが起き、
遠雷のような音が轟いた。

左舷発電機がショートしたのだ。
きな臭い匂いが機関室に広がり、
左舷発電機はそのまま不能となった。

追いかけるようにして左舷エンジンが
大きな音をたてて異常振動を起こした。

ノズルを全開にして機関の回転数を上げた状態で
全速運転を続けていたのでタービンに
負担がかかり過ぎたのだと思われた。

「左舷エンジンをとめろ!」

機関長が叫んだ。

エンジンは停止し、振動はなくなった。

これをブリッジに報告するために
電話をつかんだ三等機関士は
瞬間、感電して受話器をとり落とした。

足が水中にあるのとコードが濡れているので
なにに触れても感電する危険があった。

三等機関士は息をきらせて階段を駆け上がり
ブリッジに左舷エンジンの故障を知らせた。

「だめだ、ぶっこわれてもいいから
  全開にして回すんだ!」

水野一等航海士は怒鳴った。

片方のタービンがきかなくなったら、
船首を風に立てることができない。
横波をまともに食おうものなら、
そのまま転覆するに違いないのだ。

「よし、左舷エンジン、回せ」

三等機関士からブリッジの返事を聞いて、
機関長は決断した。

もう一度回し始めれば、本当に
ぶっこわれるかもしれない。

しかし、止めていれば船そのものが危機にさらされる。
それなら回してやるしかなかった。

全員がこわごわ見守る中で、
左舷タービンに蒸気が吹き込まれた。

ただ、負担が大きくなりすぎないように蒸気圧を下げた。

エンジンは回りだした。

しかし、もはやその回転は正常ではなかった。
ブルブルと震えた音をたて、
長くはもたないことを誰もが予感した。

午後九時二十五分、洞爺丸は函館桟橋に宛てて打電した。

「エンジン、ダイナモ止まりつつあり。
  突風55メートル」

突然の重大な電文に桟橋の運航司令室は驚愕した。
しかし、陸側からは手の打ちようがない。

やがて信じられない出来事が機関室隣の
ボイラー室に発生した。

缶に焚く石炭がどっと室内にあふれ出てきたのである。

連絡船に使われているのは良質の粉炭で
車両甲板とボイラー室の天井との間にある
石炭庫に貯えられている。
車両甲板から石炭庫への浸水が続いたために
海水とともに粉炭が取り出し口から勝手に噴出し始めた。

水を含んでドロドロになった粉炭が
五つの焚きだし口を塞いだ。

床の浸水とともに火手たちは粉炭の
ぬかるみに足をとられることになった。

「出てきたやつから焚くんだ!」

火手長が叫びまわる。
  
火手たちは粉炭と海水とを一緒に
スコップですくいとって焚き口に放り込んだ。

「ちくしょう、だからこんな日に出るな、
  といったんだ」

火手長はわめいた。

石炭が水になってあふれ出てくる
などという話は聞いたことがなかった。
しかし、いまさら出航を決めた
ブリッジを呪ってもいられなかった。

エンジンが全速、半速、停止に
使われていることを示す白、青、赤のランプが
ボイラー室と機関室に付けられているが、
錨を下ろした二時間ほど前からランプは
ずっと白が点灯したままだ。
停船しているが、エンジンは全速にかけられている。

船は戦っているのだ。
だとすると焚火力を落すわけにはいかなかった。

「蒸気を落とすな、水もなにもかも焚いちまうんだ」。

火が消えたらエンジンも発電機も止まる。
それは船の死を意味していた。

凶暴な嵐の只中で洞爺丸の生命を守るために
火手たちは必死に焚き続けた。
【326】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年06月18日 16時30分)

【54】

午後九時、台風は寿都西方50キロの海上にあった。

この一時間に40キロほど北北東へ進んだだけである。

中心示度はさらに落ちて956ミリバールになった。

寿都では最大瞬間風速が50メートルに達していた。

中心の全面より後面で風は激しく、
江差や函館の風速は時間とともに
大きくなりつつあった。

停電した函館海洋気象台の予報室では
ローソクの灯りを頼りに
成田予報官が観測を続けていたが、
間借りしているビルの屋上に設置していた
風速計が吹き飛ばされ、記録できなくなった。

函館湾でも50メートルの風が吹いていた。

洞爺丸のブリッジで山田二等航海士は
風速計の針が58メートルに届いたのを見た。

信じられなかった。

「この針も狂ってるんじゃないか」

山田はつぶやいた。

ブリッジには波がまともにぶつかって
くるようになっていた。

しぶきではない。

波、そのものが海面から15メートルはある船の
一番高いところのブリッジに
打ちかかってくるのだった。

外は全く見えなくなる。

誰にも経験のない大波だった。

ブリッジの揺れもいっそう大きくなってきた。

なにかにつかまらなければ立っていられない。

山田はレーダーのハンドルを握り、
顔だけあげて風速計に目をやっていた。
気圧の方はもう、どうでもよかった。

ブリッジの中央の舵輪の下には
グレーティングと呼ばれる木製の台がある。

このグレーティングが操舵手を乗せたまま、滑り出した。

操舵手は舵輪にしがみついた。

と、グレーティングは操舵手を置き去りにして
ブリッジの隅まで吹っ飛んでいった。

これまでにどんなひどいシケの日でも
そんな光景は見たことがなかった。

続いてレーダーわきにある海図台が滑り始めた。

揺れにつれてあちこちにぶつかろうとする。

大きくて重い海図台にブリッジの中を
走り回られるのは危険このうえなかった。

窓枠につかまっていた近藤船長は
ブリッジ後部へふらふらと歩き出した。

途中で揺れにバランスを崩し、操舵手にぶつかった。

「危ないです、キャプテン。どこへ行かれますか」

グレーティングをなくして、
舵輪にぶら下がった格好のまま操舵手は怒鳴った。

風と波の音でブリッジではすぐそばでも
大声を出さないと聞こえなくなっていた。

「タバコ、あるか」

船長も怒鳴る。

操舵手はポケットから新生を出して渡した。

船長は窓枠のところへ戻って火をつけ、
うまそうに吸った。

部屋にタバコを忘れてきた近藤船長は
それをとりに行くつもりだった。

無性にタバコが吸いたかった。

彼がタバコを忘れてブリッジに上がるのは
珍しいことだった。

緊張するとタバコが吸いたくなるので
細かい注意が必要な離着岸の際には
何本も立て続けに火をつけながら
命令を出すのが近藤船長のクセだった。

いったい、これはどういうことなのだろう ―――

新生を吸いながら船長は考え込んだ。

これがあの足ばかり速くてたいしたことはなかった
台風の吹き返しなのだろうか。

それがなにものの仕業にしても、いまや自分の技術で
どうしても船をなだめすかしきることはできなかった。

その無力感が近藤船長をいたたまれなくした。

「また、少し、ひけています!」

山田二等航海士が怒鳴っている。

船はもみくちゃにされながら、
いぜん走錨しているのだ。

なんという状態だ。

それでも近藤船長はやれるだけやるつもりだった。

「両舷機関、半速ずつ上げろ」

小石川三等航海士にむかって船長は大声で命じた。
【325】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年06月18日 16時25分)

【53】

船室にも混乱が起き始めていた。

この日、各船室には船にあるだけの船酔い用の
スぺート(金だらい)が配られていたが、
このスぺートが畳の上を走り出した。

船客用の茶碗を収納している
木製ロッカーの引き出しが抜け落ちる。
ロッカーの上のやかんが吹き飛ぶ。

大きな縦揺れや横揺れが起きると
老人や子どもは畳の上を転がって通路に落ちた。

からだを打ちつけた子どもの
泣き叫ぶ声があちこちで挙がった。


青山妙子は畳のへりに爪をたてて、全身を支えていた。

腹這いになっている客が多かった。

せんべいをくれようとした、隣の女もそうだった。
だが、妙子にはとてもできそうにない。
ひどい格好だと思った。

座って振り回されているうち、
だんだん気分が悪くなってきた。
さっきはあんなに浮き浮きした気分だったのに
エンジンがウン、ウンと唸るような音で
前よりいっそう大きく響きだしたのも不気味だった。

節子は揺れがくるたびに畳の上を
転げまわってあえいでいた。

半ば目を閉じて、もう自分のからだを
支える気力はなくしてしまっているようだった。

さっきまで手につかんでいた
利尻昆布の袋がガサガサと音を立てて
畳の上をひとりで行き来していた。

勇と節子がいる前部三等船室では
柱と柱の間に行商人たちがロープを張った。
それにつかまっていれば、気分はともかく
大揺れに跳ね飛ばされないですんだ。

どうなるのだろう ―――――
転がる節子のからだを引き寄せたり、抱きとめたり
ときには一緒に転がりながら勇は思った。

こんなことが何時間も続いたら、
この娘は参って死んでしまうのではないか。

「ちょっと見ててくれや、な」

ロープにつかまっている行商人に節子を頼んで
勇はよろめきながら船室を出た。
誰でもいい。こんな状態がいつまで続くか
説明できる相手を見つけたかった。

下部遊歩甲板に上がった勇は
あまりの波のすごさに棒立ちになった。

見上げるほどに黒い巨大な波が
船の横腹に叩きつけてきて、真っ白に砕け散っている。

船尾に回って下の車両甲板を
のぞきこんだとき、思わず息をのんだ。

昼間、行商人たちが飛び降りていった
車両甲板がなくなっている。
大波の下に沈んでしまったのだ。

「甲板が海になっている」

ぞっとしながら、勇はうめいた。
自分たちの船室はそのすぐ下なのだ。
救命胴衣をつけ、ずぶ濡れになった
船員二人が通りがかった。

「どうなったんだ?船室にも水がくるだべか」

勇はせきこんでたずねた。  ひとりが答えた。

「機関室はもうびしょびしょだ」

「船は沈むんでねえか」

二人ともそれには答えず行ってしまった。

勇は急いで船室の階段を降りた。
節子のそばにいてやらないと、
あの娘が沈んでしまう、と思った。

午後八時十九分、洞爺丸ブリッジの士官たちは
前方を横切って港外へ出る僚船の姿を見つけた。

大雪丸だな、と思って無線電話をとった。

「本船の前方をいま、港外へ出ているのは貴船ですか」

大雪丸は激しい走錨のため、どんどん後退して
防波堤に近付きつつあった。
このままでは船尾をぶつけてしまう、と
判断した船長は錨を下ろしたまま機関を全速に駆けた。

ようやく防波堤との距離を保ったところで
いったんエンジンをとめ錨鎖を巻き上げた
大雪丸はさらに港外へ向かうため機関を回した。

これほど走錨するのでは港外に出ても危険だから
錨泊はやめて、風に船首を立てて
走り続けよう、と大雪丸の船長は決めた。

ちちゅう航法と呼ばれる操船である。

洞爺丸が大雪丸の船影を認めて、
呼びかけたのはこのときだった。

嵐の真っ只中へ出てゆく決意を固めた
大雪丸のブリッジからは
緊張した声が返ってきた。

「そうです。本船、ただいま非常に難航中」

洞爺丸のブリッジは落ち着かせようと応じた。

「本船も難航中、お互いに頑張りましょう」
【324】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年06月18日 16時11分)

【52】

洞爺丸に限らず、青函連絡船では
波が穏やかな日には機関室やボイラー室の
天井の窓は開けたままにしておく。

どちらも暑く、特に燃料の石炭を焚く
ボイラー室の温度は37〜38度にもなるからだ。

なぎの日にそれを閉めるのは
鮮魚を積んだ貨車を乗せていて
その生臭さがかなわない、ときぐらいだ。

荒天時の航海では原則として窓は閉め、
換気装置を使って室温を調整する。

しかし、そういう場合でも機関部員や
火手たちは窓を開けておきたかった。

その方が息苦しくないし、開けても
海水が入ってくるようなことはなかった。

車両甲板の開口は海面より
かなり上にあって波が届くことはまず、ない。

ただ、シケの日には閉める原則があるのだから
出航前の荒天準備にあたって水手が窓を閉めて回る。

出航後まもなく、一等航海士がそれを点検する。

点検が済んだあとでこっそり開けるものがいなかった、
とは、言い切れないが。

特にこの日の水野一等航海士は万事に厳しく、
荒天準備にもうるさかった。

窓を閉めてもクリップがかけられていないときには
水手長を呼びつけてやり直しを命じていた。

それをよく知っている甲板部員たちは
この日も十分気をつけて作業を終えていた。

だが、貨車の下になっている窓などはクリップが
かけられているかどうかの確認は難しいし、
面倒でもあった。

そして、この日に限って出航してまもなく、
ブリッジが戦場のようになってしまったために、
あの厳格な水野一等航海士が
クリップの点検に下りてこられなかった。

クリップがかけられず、ゆるんでいた
鉄のフタのすき間から海水は下の
機関室やボイラー室へと降り注ぐことになった。


「クリップはきちんとしてあったんだろうな」


浸水の報告のためブリッジに上がってきた操機手を
水野一等航海士はすさまじい形相でにらみつけた。

だが、もう手遅れだった。

車両甲板でクリップの締め付けをやり始めていた
機関部員や火手たちに作業を続けさせることは
もはや困難かつ危険になりつつあった。

船の縦揺れとともに入ってくる大波に
いつ、さらわれるかもしれなかった。

左舷側に傾いている船が大きく右へ傾きを
変えようとすると流れ寄ってくる
海水に足元をすくわれそうになる。

彼らはついに作業をあきらめ、
びしょ濡れになりながら
這うように車両甲板から逃げた。

右へ傾斜が変わるときの反動で機関長は
右舷側へと跳ね飛ばされて転倒した。

その上へ海水が叩きつけてきた。

機関室では左からも右からも浸水が始まった。
【323】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年06月18日 16時07分)

【51】

洞爺丸には海上保安部に打電した通り、
事故が発生していた。

機関室の天井から突然、漏水がはじまったのである。

機関室の天井にあたるのは車両甲板だ。

ここには換気口や明かりとりの天窓、
脱出口などいくつもの口が開いている。

閉めるときには鉄のフタを下ろし、
クリップで締め付ける。

そのすき間から水が漏れだしたのだ。

最初の漏水は左舷側の天窓から降ってきた。

まず300ワットの照明灯が音をたてて破裂した。

と、見る間に左舷側のあらゆる開口から水が入り込み
左舷機関のハンドルを握っていた
川上二等機関士はずぶ濡れになった。

「発電機と配電盤にカンバスをかけろ!」

機関長が怒鳴る。

機関部員たちは防水用のカンバスをとりに走った。

その間にもブリッジからは
次々に指示が伝えられてくる。

「右舷機関、全速前進!」

「ノズル全開、主機回転をあげろ!」

手が足りない。

右舷側の発電機や配電盤にもカンバスをかけなければ
やがてそちら側からも浸水が始まるだろう。

「総員配置、すぐ呼んでこい!」

機関長は命じた。

次の当直まで部屋で休んでいる
機関部員たちを呼ぶために
機関主が駆け出してゆく。

ブリッジと同じように機関室もまた、
戦場になろうとしていた。

まもなく機関室に隣り合ったボイラー室にも
天井から漏水が発生した。

右舷側に一、三、五号   左舷側に二、四、六号と
六つの焚き缶が並んでいて、
三号缶だけに火が入っていなかったが
左舷側の四、六号缶の上の脱出口から
海水が降り注いでくる。

機関室とボイラー室から数人が
救命胴衣をつけて車両甲板にあがった。

開口を覆っている鉄のふたの
クリップをしっかり締め付けて
水が漏れてくるのを防ぐためである。

車両甲板に上がった彼らは左舷側に
海水があふれだしているのを見た。

後部開口から波が入り込んでいるのだ。

それは彼らが始めて見るおそるべき光景だった。

シケの日に後部開口を少し濡らすくらい、
波が入ることはある。

しかし、こんな奥まで水浸しになるとは
誰も想像だにしていなかった。

左舷側に傾いたまま、船は縦揺れを繰り返している。

船首側がもち上げられると
車両甲板の水はざざぁっ、と引いてゆく。

続いて船首が下がると後部開口は
新しい波をすくいとり
すごい勢いで海水が入ってくる。

水が引いたスキをみて、
ひざまで浸かってクリップを締め付ける。

大波で危ないときには貨車の上に逃げた。

それを繰り返しながら、彼らは今度、
船が右へ傾くときには
右舷側の天井から漏水が始まるに
違いないことを予感した。
【322】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年06月18日 16時03分)

【50】

渡島半島の西側をなめるように
ゆっくりと北上してきた台風マリーは
午後八時にはまだ寿都の西側、奥尻海峡にあった。

札幌管区気象台は午後六時に
寿都の西方、と発表していたが、
実際には二時間以上のズレがあった。

それほど台風の速度は遅くなっていた。

同時に日本海側からくる寒気に刺激されて中心示度は
いっそう深まり958ミリバールになった。

午後八時に寿都では平均風速が37.6メートルに達した。記録的な風速である。
突風は50メートルに近いものと思われた。

渡島半島西側のいたるところで電柱が倒れ、屋根が飛び
立ち木が折りちぎられていった。
すべての植林が吹き倒され、一夜のうちに
丸坊主になってしまった山もあった。

函館湾でもすでに最大瞬間風速は40メートルを超え
いっそう強くなりつつあった。

もうひとつこわいのは海上のうねりだった。

台風の通過とともに日本海に発生した
波長の大きいうねりが湾口から
押し寄せてくるようになったのである。

ちょうど八時ごろ、湾外にいた第十一青函丸は
このうねりをまともに横腹にうけた。

すさまじい衝撃だった。

その瞬間、船体は三つに折れ、救助信号の
SOSを発信するまもなく、海中に沈んだ。

この日午後、出航したものの引き返して乗客を
洞爺丸に移乗させた第十一青函丸は
腹一杯に積んだ貨車をそのままにして
港外へ出て、テケミ中だった。

港外に出たのは走錨するエルネスト号に
危険を感じたからだった。

貨車を満載していたのが不幸だった。

重心が高くなっていたために横波をくって
傾いたときの復元力がなかった。

あっけないほどの沈没だった。

第十一青函丸はこの夜の函館湾の最初の犠牲だった。
船長以下、九十人の乗組員は全員、海中に没した。

午後八時三分、湾内にいたLST(米軍上陸用舟艇)
546号から突然SOSが発信された。

このLSTは米軍将校百九十一人を
乗せて小樽から塩釜へ向かう途中、
台風を避けるために函館湾に入っていた。

風浪が激しくなったので機関を全速にかけて
船首を風に立てようとしたが
どうしても成功せず、どんどん流され始めた。

ひらべったいLSTは波の上でもみくちゃにされ、
全く操船の自由を失っていた。
万策尽きて発信されたSOSだった。

函館海上保安部ただちに湾内の全船にむけて電波を発信した。

「LST546 函館北方30度、1.5マイルにて
 強風のため危険に瀕す
 付近航行の船舶応答あれ」

洞爺丸が最初に応答してきた。

電文は以下だった。

「LSTのSOS了解。こちらも港外で強風のため
 自由を失い難航中」

「それでは貴船は救助に行けぬか」

問い返す海上保安部に洞爺丸は
しばらく間をおいて打電した。

「本船も事故起きた模様、注意頼む」

続いて十勝丸が海上保安部に答えてきた。

「本船、港外にて避難中、動けず」

他の船は応答する余裕すらなかった。

救助信号が発信されたときには、
付近にいる船舶は救難にむかう義務を負う。

しかし、どの船も自分の船首を風にたて、
走錨を防ぐために必死で戦っていた。

ほかの船の手助けなどとても不可能な状態だった。

午後八時十五分ごろ、寿都から北西へ
30キロほど離れた岩内町で火災が発生した。

木造アパートの二階から出た火は
南南西の強風にあおられてたちまち燃え広がった。

風下の民家をあっというまになめつくした炎は
海岸で燃え尽きるように思われた。

しかし、海辺には漁船用の燃料油を詰めた
ドラム缶が山積みされていた。
炎はこれに燃え移り、ドラム缶は
爆発しながら吹き飛んだ。

燃えるドラム缶は港内に避難していた漁船に降り注ぎ
あるいは狭い港を飛び越えて対岸の民家に落ちた。

港の向こうで新しい火災が発生した。

すさまじい火勢が風に渦を巻き、
炎は町の中心部に戻ってきた。

岩内町、四千五百戸のうち三千三百戸が焼失し
死者、不明六十三人を出すまでに
それほど時間はかからなかった。
【321】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年06月16日 16時30分)

【49】

レーダーを見ていた山田二等航海士は
洞爺丸が振り回されだしたのに気付いた。

錨を支点として振り子のように
右へ左へと振られている。

やがて振られながら、船が少しずつ
後退しているのを山田は確認した。

レーダーに映る後方の海岸線が近付いてくるのだ。

錨が十分にきかず、走錨が始まったのだ、と思われた。

「少し、ひけています」

風の音にかき消されないように山田は大声で報告した。

「両舷機関、微速前進」

船長も怒鳴っている。

後退を避けるためにエンジンを少し前進にかけ
錨鎖にゆとりをもたせるのだ。

しかし、あまりの風と押し寄せてくる波とで、
微速では船は前に進もうとしない。
速力を上げなければならない。

「両舷機関、半速前進」

そうするうちにも船は振り子の状態になっているので
船首はまっすぐ風に立たず、右へゆっくりと振られている。
右舷側を立て直すと逆に強い風と波で
左舷側へと振られる。
これを立て直すためにエンジンの操作は
ますます複雑になった。

「左舷機関、全速前進、右舷機関、微速前進」

右舷側から風が来ると船長は命じる。

左舷側に風が変ったときはその反対だ。

復唱する三等航海士も怒鳴り返して
揺れるブリッジは戦場のようになり始めた。

函館桟橋では停電のため一時、
無線電話と電信が使えなくなった。

電信だけはまもなく予備のガソリン発動機に
切り替えられた。
午後七時半、函館桟橋は洞爺丸が
港外でテケミしたことを
碇泊位置とともに各連絡線に打電した。



青森桟橋でそれを聞いた羊蹄丸の佐藤船長は
自分の判断が正しかったことを知った。

函館はまだ、港を出てすぐに錨を入れなければならないほど荒れているのだ。

それにしても彼が尊敬するあの慎重な近藤船長が
なぜ、出航したのだろう。

そんなときに出てゆく人ではない。

むろん洞爺丸は台風から遠ざかる方向へ
走ればいいのだから羊蹄丸とは立場が違う。

しかし、少なくとも函館はまだ暴風雨県内なのだ。

あの人に限って台風を甘く見たはずはない。

それならよほど天候の好転に自信があったのだろうか。

どう考えても彼にはわからなかった。

ともかくもまだ、動かないほうがいい。

どうせここまでテケミを引き伸ばしてきたのだ。
洞爺丸がこちらへ向かった、と
聞いてからでもいいではないか。

ここは馬鹿なって待とう、と思った。

そのころ函館港内にいた日高丸と第六青函丸から
相次いで有川桟橋に緊急無線電話が飛び込んだ。

「イタリア船走錨、接近する。
  救難用ランチ派遣たのむ」

港内でも最大瞬間風速は40メートルを超えてきていた。

うねりに押されて再びエルネスト号は左右に
振られながら港の中央に近付きつつあった。

風下の連絡船は自分の船の操作がままならないところへ
近付いてくるイタリア貨物船に戦慄を感じた。

どの船長も交わしきる自信がなかった。

港内は恐怖の海面となっていた。

有川桟橋には大波が砕け飛び、
とても救難ランチを出せる状態ではなかった。

「強風浪のためランチ派遣できず」

これを最後に有川桟橋も停電のため
無線電話は不通となった。

エルネスト号の走錨状態をサーチライトで
とらえていた大雪丸は
これ以上港内にとどまることはできないと判断し、
錨を巻き上げ、港の出口へ向かおうとした。

進路をふさぐ形で碇泊していた第六青函丸と
接近するエルネスト号の間をすりぬけようとした一瞬、
大雪丸は右舷を第六青函丸にぶつけた。

ぱぁっと大きな火花が散った。

第二岸壁につながれていた石狩丸は午後八時前、
次々と係船索をひきちぎられた。

あのまま岸壁にいたら、もやい綱は切れただろう、
という近藤船長の見通しは正しかった。

船は港の中央へ向かって流れ出した。

全ての船がコントロールを失い、
函館港は混乱の極に達していた。
【320】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年06月16日 16時24分)

【48】

無線室がキャッチした台風情報を
操舵手が持ってきて近藤船長に渡した。

錨を入れてから洞爺丸のブリッジには明かりがついた。

碇泊中は闇の中に遠目をきかせる
必要がないので明るくしておくのだ。

二通ある台風情報のひとつは午後六時五十分に
中央気象台が船舶向けに打電したJMCで、
午後三時現在の台風の位置と勢力が
次のように記されていた。

「台マリー 968、日本海北緯40.9度 東経139度
 北東55ノット きわめて速い 
  中心付近最大風速70ノット
 中心より半径400海里以内、風速40ノット以上」

そのメモを近藤船長は破り捨てて
やりたいような気がした。

船が吹き返しにもまれているさなかに、
午後三時現在の台風の位置を教えてもらっても
なんの意味もない。
むしろ滑稽でさえあった。

もう一通は午後七時十分にラジオの
ローカルニュースで放送された
最新の台風情報を無線室でメモしたものだった。

札幌管区気象台午後七時発表とある。

「台風15号、午後六時、寿都西方
  50キロの海上、北北東」

妙な台風だな、と近藤船長はまた思った。

函館を中心が通りながら、いま寿都の西にあって
北北東に進んでいるのだろうか。

それだとこいつは函館からいったん西北へ進み、
また北北東に向きを変えるという
蛇行をしていることになる。

どこかおかしい。

あの晴れ間は台風の眼ではなかったのか、と
彼は初めていぶかった。

しかし、あれほどはっきりと
眼の特徴が備わっていたではないか。

彼は自分の目で見たものを信じたかった。

ともかく、いまの時点で台風は寿都の西にあるらしい。

それは確かだろう。

南から少し南南西に寄った強い風もそれで説明がつく。

「雪隠(せっちん)倒しだな、これは」

ブリッジに上がってきた
水野一等航海士に船長は言った。

南西の方角から吹く風を函館では雪隠倒し、と呼ぶ。

雪隠、つまり便所を母屋から離して建てるときには
敷地の南西側に置くことが多いのだが、
それを倒す風、という意味だ。

雪隠倒しはこわい、と日ごろから
近藤船長が言っているのを水野は知っていた。
南西から風が吹くというのは
北西方向に低気圧がある証だ。

その位置にきた低気圧はしばしば
日本海で発達し、しかも速度を落として
函館湾に長時間にわたって強い風を吹かせるのである。

「しばらく吹くかもしれません」

船長の考えていることを理解しながら水野は答えた。

「うん、こうひどいと、おそらく
  もやい綱は切れただろう」

岸壁にいて南の風に吹かれ続けると
船は沖へ流されようとし、
係船索が切れるおそれがある。

そのまま押し流されるのは非常に危険だ。

船長が言っているのはそのことである。

「はい、そう思います」

船長があの風の中で船を離岸させたことを
自らに納得させようとしていることに気付いて
水野は相槌をうった。

山田二等航海士はさっきから
レーダーと気圧計を交互にのぞいていた。

彼も自分が見た晴れ間を台風の眼だと思っていたが
だとすればそろそろ気圧が上がってこなければならない。

それが、台風が遠ざかりつつある証拠であり、
そうなれば風も衰えてくるはずなのだ。

しかし、出航したころから
気圧計の針は981ミリバール前後に
はりついたままほとんど動こうとしない。

むしろ錨を入れた七時前後に980ミリバールに落ちた。

その後少し上向いてはきたが、
やっと981ミリバールを回復した程度なのだ。

「これは壊れているんじゃないのか。
 ちょっと俺の部屋のバロメーターを見てきてくれ」

水野は操舵手に命じた。

戻ってきた操舵手はやはり981ミリバールだ、という。

「おかしいな。あの足の速いやつが
  そんなはずはないんだが」

山田二等航海士はしきりに首をひねった。
【319】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年06月15日 16時24分)

【47】

前部三等室の節子は船が出たころから
また苦しそうにしていた。

さっきタラップが架けられているうちに
降りなかったことを後悔しながら
勇は節子のスラックスのベルトをゆるめてやった。

この夏、二人で東京へ行ったときに買った
バラの花を描いたバックルのついたベルトだった。

「これは錨を入れた音だ。
  上へ行って様子をみてこないか」

淵上助教授に言われて船室を出た学生が戻ってきた。

「先生、たしかに船はとまっています。
  すごい波ですよ」

「どのあたりか、見当がつくかね」

「それがですね、ぼくが上がっていったとき、
  左手の方に函館の町の灯が見えたんです。
 ところが一瞬、すごいスパークがしたと
  思ったら灯が全部消えて
 真っ暗になってしまいました。
  どこにとまっているのかわかりません」

この日午後、函館市内に断続的に
発生していた停電は夕方、いったん復旧したが
その後風が強くなるにつれ、また停電が始まり
午後七時すぎには市内全域が闇に包まれた。

学生たちの話を聞いて淵上助教授も
外の様子が見てみたくなり
二、三人の学生と上部遊歩甲板へ上がった。

雨はほとんど降っていなかったが、
風が強く、たしかにすごい波だ。

黒く巨大な塊が船にむかって押し寄せていた。

「雄大な波じゃないか」

「船室はそれほど揺れているわけじゃありませんから
 こんな波があるとは思えませんね」

真っ暗な海の中に航海灯を
あかあかとつけた船がいくつか見え、
お互いにサーチライトで照らしあっている。

淵上助教授には雄大な波のむこうの
その光景が美しくさえ、感じた。



湯川のなじみの宿に入った佐渡味噌販売会社社長、
村川九一郎は風呂を浴びて夕食をすませ、
寝転がってラジオを聞いていた。

マッサージを頼むと女中は、
この風だから無理かもしれませんが
呼んでみます、と返事した。

七時のニュースに続く札幌からのローカルニュースが
欠航していた青函連絡船は運航を開始し、
洞爺丸が六時三十九分に出航しました、と伝えている。


出たのか、 しまったことをしたな と思った。


そのとき、明かりが消え、ラジオも聞こえなくなった。

雨戸のむこうで木の枝が激しく風に鳴る音がする。

マッサージが来られないうえ、
停電するような嵐の中に出航するのが、
あの長々と続いた会議の結論だったのか、
と、今度は笑いたいような気持ちだった。

いま船が出る、というのなら
さっきと違って、それは危険だから
降ろしてくれ、と自分は言うだろうと考えた。

口ひげをたくわえ、豪放に見える彼は
実は小心なほど用心深い男だった。

旅館に泊まるときはなにをおいても
まず非常口を確かめる。
むろん、この宿でもきちんと調べていた。

佐渡航路の海賊船も彼の体験談ではない。

人から聞いた話である。

そんな船には決して乗らない。

自分なら降りる、と考えると出航したあの船には
本当に危険が迫っているように思えてくる。

乗らなくてよかった、あのとき
虫が知らせたのかもしれない、と思った。

まあ、しかし、あの大きな船が
沈むようなことはあるまい。

結局一日、損をしたかな、と
闇の中で考えているうちに
村川九一郎は眠りに落ちた。
<  34  【33】  32  31  30  29  28  27  26  25  24  23  22  21  20  19  18  17  16  15  14  13  12  11  10  9  8  7  6  5  4  3  2  1  >
メンバー登録 | プロフィール編集 | 利用規約 | 違反投稿を見付けたら