| トップページ | P-WORLDとは | ご利用案内 | 会社案内 |
■ 338件の投稿があります。
<  34  33  32  31  30  【29】  28  27  26  25  24  23  22  21  20  19  18  17  16  15  14  13  12  11  10  9  8  7  6  5  4  3  2  1  >
【288】

S0S洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年05月25日 16時42分)

【17】

昼食をすませた近藤平市は洞爺丸の
船長室で正午のニュースを聞いた。

NHK第一放送は次のように新しい台風情報を伝えた。

「台風15号は今日の夕方、奥羽地方から
  北海道に達する見込みです」

北海道、と聞いて近藤船長はイスを立ち、
ラジオのボリュームを上げた。

「中央気象台の今日午前十一時三十分の
  発表によりますと
 台風15号は午前九時、山陰地方沖合いの
 北緯36度30分、東経134度30分にあって
  毎時110キロの速さで北東に進んでいます。

  中心示度は968ミリバール
  中心付近の最大風速は35メートル。

  中心から半径400キロ以内の海上は
  20メートル以上の暴風雨となっています。

  台風はこのまま進みますと、
  今日夕方、奥羽地方北部から
  北海道に達し、夜半すぎには
  北海道の北東の海上に抜ける見込みです。

  この台風の特徴は上陸後、いぜんとして
  勢力が衰えないこと
  速度が異常に速いため、今後の進路にあたる
  奥羽地方北部から北海道にかけてしだいに
  風雨が強くなり、暴風雨となる恐れもあります。
  厳重な警戒が必要です」

来るのか、と船長はつぶやいて、
いま聞いた台風の位置を天気図に描き入れた。

午前九時に山陰沖だと今ごろはもう、
佐渡沖を通り過ぎている。

こんなにスピードの速い台風は
出会ったこともなければ
聞いたこともなかった。

そいつがどうやら進路をこちらに向けているらしい。

日本海にある寒冷前線の影響で
進路北へふれるかもしれない、
とは、彼も予測していたが、その後の情報では
やはり、三陸沖へ抜ける可能性が強いように思われた。

船長は自分で天気図を記入した海図の上で
コンパス代わりに指を使って距離を測り始めた。

真剣な顔つきだった。

もはや、天気図をいじるのは趣味ではなく、
それを頼りに職業上の決断、
つまり午後の出航をどうするのか、の
決定をしなければならなかった。
【287】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年05月22日 16時49分)

【16】

九月十五日、休暇をとった妙子は
初めて北海道への旅に出た。

その前夜、アパートで遅くまで履歴書を書いていた。

「姉さん、帰ってこないつもりじゃないでしょうね」

思い詰めた様子が不安になった妹は尋ねた。

「札幌で勤めることになるかもしれないわ。
 あなた、もう一人でやっていけるでしょう」

妙子は自分の履歴に誇りを持っていた。

北海道の大学病院が自分を採用しないはずがない。

もし、玉井の母が結婚を許してくれないのなら、
勤めながら根気よく話をしよう、と思った。
それに、大学病院で働ければ
毎日、好きな人に会えるのだ。

しかし、札幌で会った玉井はよそよそしかった。

妙子が来たことを迷惑がっているそぶりをみせ、
母は病気だから、と言って会わせたがらず、
履歴書を取り次いでくれる様子もなかった。

日が過ぎてゆくうちに彼女の気持ちは
苛立ちと失望の中に重く沈んでいった。

北海道には早くも冷たい秋風が立ち始めいていた。

まるでその空気と同じように
玉井の気持ちが冷え切っているのを
いやでも思い知らされないわけにはいかなかった。

最後に会った夜、妙子は玉井を激しい口調でなじった。

男はただ、軽蔑したような
薄笑いを浮かべているだけだった。

なにもかもお終いだ、と思いながら彼女は悔いた。

こんな男のことを好きだと思っていた
自分が急にみじめに感じられた。

死のう、と思ったのはそのときである。

それは少女のときから彼女が固く
身につけてきた貞操観念のせいだった。

純潔を踏みにじられた女は
もはや、まっとうな人間として
生きてゆくことは許されないのだ。

それよりも苦痛だったのは、そうするに価しない男に
からだをゆだねてしまった、という自己嫌悪だった。

全身がベトベトに汚れている気がして
いたたまれなかった。

この不潔感をぬぐい去るには
自分を滅ぼすしかないではないか ――

また、同じところを行ったり来たり、
していることに気がついて妙子はため息をついた。

車窓に現れては消える屋根は雨に濡れ、
木々が風にざわめき始めていたが、そんな風景は
彼女の目に入ってこなかった。


その三等車両には北海道での仕事を終えて
本州に帰る旅芸人や郷里の母の葬儀に急ぐ姉妹ら、
お互いが誰で、なにを考えているかも分らないまま、
隣り合って座っていた。



そんなさまざまな人生を乗せて
急行「まりも」は函館へ走り続けていた。
【286】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年05月22日 14時29分)

【15】

青山妙子が恋という感情を知ったのは
インターン生、玉井和夫と親しくなってからである。

玉井は札幌の大学を卒業して
東京第一病院に研修生としてやってきた。

仕事のことで言葉を交わすうちに
妙子はしだいに玉井に好感を持つようになり
食事や、映画を観たりするのが楽しかった。

そういうデートを重ねるうち、
玉井から関係を先に進めたいという
ほのめかしを受けたとき、
彼女は進んでそれを受け入れた。

相手が求めているのは結婚なのだ。

戦火をくぐり抜け、やっとつかめそうになった
幸せを離すまい、と妙子は思った。

その日から彼女はこの恋にいっそう夢中になり、
生き生きとした顔で

「私、玉井さんと結婚するのよ」

と、同僚や妹に話したりした。

だが、玉井のほうには
結婚するつもりなど最初からなかった。

彼は看護婦という存在は医師の使用人だ、
と考えているタイプの男だった。

彼にとっての妙子は病院内でよくある
医師と看護婦との情事の相手に過ぎなかった。

その年の三月、玉井はインターンの過程を終え、
母校の付属病院に医局員として勤務することになった。

彼にとって、それは妙子との関係を
終わらせる自然な機会でもあった。

一方の妙子は相手が自分を東京に残して
札幌へ帰ってゆくことは
からだを二つに裂かれるような思いがした。

一緒に行く、といって泣きやまなかった。

「君のことはまだ両親に話していないんだ。
 帰ってよく話をするから、待っていてくれ。
 しばらくの辛抱だよ」

そう言ってなだめる玉井を妙子は信じた。

少なくとも信じなければ別離に耐えられなかった。

たびたび、札幌へ思いのたけを込めて手紙を書いた。
三度に一度は返事がきて、
母が結婚に反対している、とあった。

男にとって親の反対とは結婚を避ける口実にすぎない。

だが、妙子はそうした世間的な知恵を
身につけるほど恋に慣れていなかった。

母親が反対なら自分が直接会って、お願いしてみよう

彼女の思いはその一点に凝結していった。
【285】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年05月22日 14時26分)

【14】

前日午後四時に根室を始発した
急行「まりも」は渡島半島を南へ
函館に向けて走っていた。

国立第一病院の看護婦、青山妙子は三等車両にいた。

彼女の整った顔立ちと肌の白さは
ほとんど満員になった車内の無遠慮な
視線を集めるのに十分だった。

しかし、彼女は周囲にはまるで関心を示さず、
ぼんやりと放心したように硬い座席に腰掛けていた。



ほんとうに死ねるのだろうか。



まとまりのない考えごとから我にかえるたびに
彼女はそう思い、スーツの内ポケットに手をやった。

そこには札幌の旅館で書いた母宛の遺書があった。

「おかあさん、黙って家を出てごめんなさい。
 北海道の玉井さんと会いましたが、
  はかない夢でした …」

やはり、死のう、と決めてそれを書いたのは
やっと夕べになってからである。

これを連絡船に残して海へ飛び込めばいい。

私は泳げないから、それがいちばん楽だ、と思った。

それまでの彼女の気持ちは
同じところを行ったり来たり、していた。

死ぬしかないのだ、と思った次の瞬間には
そう考えることが怖くてたまらなくなる。

二、三日前には同じアパートで暮らしてきた妹には
「東京へ帰ります」と葉書を出したりもしていた。

連絡船から飛び込むことを思いついたときには
悲しかったが、怖さは薄らいでいた。

遺書を書き終えたとき、
もう、儀式は始まってしまったのだ、という
緊張感だけが彼女を支配していた。

今朝、札幌駅では仙台までしか
乗車券と急行券を買わなかった。
青森まででもいい、とも思ったが、
なぜか津軽海峡に身を投げることを
改札口で見破られてしまいそうな気持ちにさせた。

それでも汽車が函館へ近づくにつれ、
彼女の気持ちはまた、揺れ始めるのだった。

人は死に直面したとき、もっと悟りきって
静かな気持ちになるかあるいは取り乱した
行動にでるのではないだろうか。

自分は中途半端で、
とても自殺なんかできそうもない気がした。

彼女は埼玉と群馬の県境にある
小さな農村に八人姉弟の二女に生まれた。

お国のために何ができるか、が
少女にとっても大きな価値観のある時代だった。

農夫の父も教師も自分を捨てて、
生きることの大切さを教えた。

高等小学校を卒業した彼女は
太平洋戦争が始まった年に
戦地の兵隊さんのためにお役に立とうと
看護婦養成所に入った。

戦争の末期には従軍看護婦としてフィリピンへ行った。
同僚の多くが死んでいったなか、
終戦を迎え無事に帰国でき、
東京第一病院に勤務することができた。

人のために生きるのが自分の仕事だと
考え続けていた彼女は献身的で、誰にでも
優しいことで評判の優秀な看護婦だった。

二十代なかばを過ぎるまでに
遠くから眺めて胸がときめくような
気持ちになった医師や青年将校が
いなかったわけではない。

しかし、いつもそこまでだった。
【284】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年05月22日 14時20分)

【13】

午前十一時五分、定刻より五分遅れて
洞爺丸は函館桟橋第一岸壁に着いた。

風は強かったが、雨はあがっていた。

「酔わなくて、えがったな」

原田勇は元気そうな節子の顔をのぞきこんで笑い、
米を背負って船を降りた。

日曜日だから、といって安心はできないが、
今日はかつぎ屋の取締が行われている様子はない。

ほっとして二人は桟橋の改札口を出た。
あとは駅前の馴染みの店まで、
背骨が折れそうになるのを
もう少し、辛抱すればいいだけだ。

函館海洋気象台予報室の成田信一は
その後、入電した気象情報をもとに
新しい天気図を描いていた。

普段は予報室が天気図を描くのは八時間おきだが、
台風接近時には三時間おきに作るまが決まりである。

「台風五四一五
 二十六日九時、中心示度968ミリバール
 鳥取の北、北緯36.5  東経134.5
  北東55ノット 最大風速70ノット
 半径150海里以内 40ノット
 南側200海里以内 40ノット
 予想位置 二十六日十五時
 北緯45   東経143  および
 北緯42   東経147の間」

中央気象台からの新しい台風指示情報が
入電してきたところだった。

台風五四一五は、一九五四年、すなわち
この年の15号台風のことである。

速度が55ノット、つまり時速110キロに
上がっているのを見て成田予報官は驚いた。

信じられないほどの速度だった。

午前九時のこの位置はすでに山陰沖の海上だが、
そこから北東へ時速110キロで進めば、
いまごろはもう佐渡の西方海上に来ていることになる。

また、最大風速や暴風圏は変っていないが、
特に新しくつけ加えられた午後九時の
予想位置では奥羽地方を横切って
三陸沖へ抜ける、という
これまでの想定進路がずっと北側に偏ってきている。

このぶんだと台風は津軽海峡付近を
横断してゆく可能性が一番高い。

成田予報官は天気図の上にコンパスを当てた。

佐渡沖から津軽海峡までは六百キロ足らず、だ。
この間を時速110キロで来れば、あと五時間と少し、
つまり午後四時半には台風の中心が
この近くに来ることになる。

風速計は15メートルのあたりを前後している
どんどん風は強くなってきていた。
気圧も急な下降を示し、999ミリバールを指していた。

前夜の宿直が引き揚げたあと、
予報室に勤務している予報官は
彼一人で、あとは補助の係員と
電信係が一人ずついるだけだった。

成田予報官は急いで本台の予報課に電話した。

「非常に速くなっています。
 しかも予想進路の扇形の中心にあたるのは
  青森県北部、ないし、北海道南部です。
 すぐに暴風警報を出したい、と思いますが」

「こっちもそう考えていたところだ。
 警報を出してくれ」

応対する予報課長の声にも緊迫感があった。

成田予報官は警報文を書いた。

■暴風警報  二十六日午前十一時三十分

1.台風が近づいています

2.全域とも暴風になります

3.本日、ひるごろから強くなります

4.東の風、のち北西の風

5.陸上20〜25メートル  海上25〜30メートル

6.降水量 30〜50ミリ


午前十一時四十分、函館海上保安部はただちに
信号所の吹流しを暴風警報に切り替えた。

津軽海峡にあった全ての船舶は
接近してくる台風から避難するために
もっとも近い港へ向けて進路を変えていた。
【283】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年05月24日 12時41分)

【12】

このゴメ講釈は杉田船長にとって、
ただの自慢や意地悪ではなく、
いかにも彼らしい乗組員の指導法だった。

不測の事態でレーダーや羅針盤が故障したまま、
荒天を航海しなければならないような場合、
自分の船の位置が分らなくなるときがある。

そんなとき、場所ごとに違うカモメの特徴を
覚えていればいま、船がおよそ
どのあたりにいるか、見当がつくというのである。

あらゆる意味で杉田幸雄は青函航路の名物船長だった。

航海士の中にはそのアクの強い性格のために
敬遠するものもいたが、反面、憎めないところに
妙な人気があるのも確かだった。

そこへゆくと近藤平市は若い航海士から
一様に尊敬されていたが
逸話となるとさっぱり、な男だった。

からだは細く、口数が少ないために
船長たちの集りでも目立たず
親しくしている同僚もいなかった。

ちょうど二年前、大雪丸の専属船長をしていた
佐藤は突然先輩の近藤の来訪を受けた。

「船長をやめようと思っている。
 ついては君を羊蹄丸の乗組船長に
  推薦するつもりだよ」

郷里に引き込んで晴耕雨読の
生活をする、と近藤は言った。

うらやましい思いで佐藤はそれを聞いた。

五十歳を少し過ぎたばかりで年金生活を選ぶというのは
いかにも現場ひと筋にやってきて、
国鉄内のポストには恬淡としている
この人らしい、と思った。
まだ、四十代半ばの自分を乗組船長に
推してくれる嬉しさもあった。

「でも」  と、佐藤は言った。

「どうして急にそういう気持ちになられたのですか。
 もったいないですよ」

「私はもう三十年も連絡船に乗っている。
 同じところを行ったり来たりするのに疲れたよ」

近藤はかすかに笑った。

そのさびしそうな笑みの中に
まぎれもない真実があるのを佐藤は感じた。

この人が三十年を無事故で勤め続けてきたのは
ただの僥倖の積み重ねではない。
その裏側には日々、身を削るような
緊張と忍耐があったはずだ。

名船長の評価はその対価である。

一般に船長は船を降りる時期が
近づくにつれていっそう、慎重になる。

無事に船乗りの職を全うして去りたいからだ。

まして無事故の名船長、といわれた人なら
その気持ちは大きいだろう。

結果、緊張と忍耐は極限に達し、
時として感情のバランスを崩しかねない。

いま、近藤船長はそうした心境に追い込まれ、
一日も早く解放されたい、と願っているのではないか。

「お気持ち、分かるような気がします」

無言の笑みに佐藤がそう返すと、
近藤は何冊かの大学ノートを手渡した。

そこには離着岸の心得や天気予測の方法などが
几帳面な文字でびっしりと書き込まれていた。

三十年の連絡船生活の集大成というべきそれらのメモを
佐藤は驚嘆の思いとともに深く感謝して受け取った。

まもなく、近藤平市は羊蹄丸を降り、
佐藤があとを継いだ。

しかし、近藤は退職せず、
予備船長として乗務を続けた。

どう、気が変ったのだろう。
国鉄上部から引きとめられたのだろうか、
と思っている佐藤のところへ、また近藤がやってきた。

「もうしばらく、やることにした。
 老け込むには早すぎるような気がしてね」

それだけを言った。
  
佐藤も深く尋ねなかった。

同じように海で育ってきた佐藤には近藤がいざとなって
海を離れたくない気持ちもよくわかるような気がした。

遊歩甲板の上で遠ざかってゆく
洞爺丸を見つめながら佐藤は先輩船長に
親しみをこめて語りかけたい気がした。

近藤さん ――
同じところを行ったり、来たりするのが、
つまり、人生じゃ、ありませんか、と。
【282】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年05月21日 16時57分)

【11】

午前九時半すぎ、津軽海峡のほぼ
中央へさしかかろうとするあたりで
羊蹄丸船長、佐藤昌亮は上部遊歩甲板へ出た。

ワイシャツ姿で帽子もかぶっていない。

誰もがまさか船長とは思わないその格好で客たちと
さりげない会話を楽しむのが彼は好きだった。

しかし、今朝は八時十五分に函館を出たときから雨だ。

春から夏にかけて船の周囲を群れて
競泳ショーを見せるイルカも姿を見せる季節ではない。
乗客のほとんどは船室に閉じこもったままで、
話好きな船長を落胆させた。

甲板に立った佐藤船長は空を見上げた。

一面、どんよりとした灰色に
覆われているが、それほど厚い雲ではない。

ただ、東から西への雲の流れが
しだいに速くなっているように思えた。
やはり、台風は近づきつつあるのだろう。

低気圧が近づいているときには
気象情報に頼るだけでなく
自分の目で天候の状況を確かめなくてはならない、
というのが船長としての彼の信条でもあった。

右舷の方向にちょうどすれ違っていこうとする
雨にけむった船影を佐藤船長は認めた。

洞爺丸だな、とすぐ見当がついた。

今日の船長は専属の杉田さんだな、と思ったが、
休暇で近藤さんと代わっていることを思い出した。

杉田さんはまた好きな山登りでもしているのだろうか。
この天気では山登りも断念したのかな …

杉田幸雄も近藤平市も佐藤には敬愛する船長だった。

ただ、面白いことにこの二人の性格は
水と油ほど違っていた。

近藤はもの静かで口数が少なく、家族思いの家庭人で
セオリーよりもっと慎重に操船する。

対して杉田は豪放でよくしゃべり、
五十歳をすぎた今でも独身で
絶えず独創的な操船術を研究するタイプだった。

杉田は山登りのほかにも多趣味で
船を降りてまず、向かうのは桟橋に近い魚市場だった。

そこで好物の生の鯡(にしん)を買い、
それを新聞紙にくるんで映画館に入る。

上映中は鯡をかじりながら洋画を観る。

休憩時間になって館内に灯りがともったとき、
周囲の観客はズングリとして眼光の鋭い男の口の周りに
べっとりと鯡の血がついているのを見てギョッとさせられるのだった。

洋画好きな彼はブリッジで当直の航海士をつかまえると

「いま、封切られている
  イングリッド・バーグマンの映画、観たかね?」

と話しかける。

「はい、観ました」

と答えると、すかさず質問する。

「彼女がハンフリー・ボガードと
  酒を飲むシーンがあるだろう。
 あれはどういう酒がわかるかね」

相手が答えられなければ、あのシーンで
男と女が酒を飲むのはこういう種類の酒で
しかもカクカクのブレンドでなければならない、
というお得意の講釈が始まるのだった。

かと、思うと、こんな質問がとぶ。

「ほら、あそこを飛んでいるゴメ、
  あれはどこのゴメかね」

ゴメ、とは津軽海峡をさまようカモメのことである。

どこのカモメか、と問われても航海士には分らない。
そこでまた、講釈となる。

杉田船長に言わせると、
津軽海峡周辺には七種類のカモメがいる。

函館と青森、あるいは海峡の真ん中では
それぞれの種類がいて
顔つきが違うのだ、という。

「いいか、それを見分けられないようでは、
  一人前の航海士じゃないぞ」
【281】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年05月21日 17時04分)

【10】

山田二等航海士がブリッジから降りてきたとき、
船長室からはラジオ音声が聞こえてきた。

九時五分のNHK漁業気象通報だった。

自分の部屋にラジオがない山田は
しばらく通路に立って耳をそば立てた。

「台風15号は松山の北、北緯34度0分、
  東経132度40分にあって
 毎時90キロの早い速度で北東、
  ないし北北東に進んでいます。
 中心気圧は968ミリバール、
 最大風速は35メートル、半径三百キロ以内では
 20メートル以上の暴風雨を伴っております。
 台風15号は近畿北部、北陸方面を経て今晩遅く
 三陸方面へ抜ける見込みで、
  進路にあたる船舶は十分注意してください」

船長室の近藤平市は朝食後、自分で作成した天気図に
新しい台風の位置情報を記入した。

現実には台風は午前九時には日本海に抜けているのだが
中央気象台がデータを集めて位置や勢力を判断し、
それを発表するまでにはかなりのズレがある。

「速くなっているのか」

近藤船長はつぶやいて気圧計を見つめた。

999ミリバールを指している。
七時から4ポイントの降下である。

確かに台風マリーは相当足早に
近づきつつある、と思われた。

これまでに記入した台風の位置を結んでその直線を
北東と北北東に伸ばしてみた。

二つの直線でできた扇形は
奥羽地方を横切って三陸沖へ抜ける。
その点で船長の判断と気象情報は合致していた。

「まあ、危険半円に入ることはあるまい」

思ったままを船長は声に出した。

進行してくる台風の右側を危険半円、
左側を可行半円と船乗りたちは呼びならわしている。

気象学上からもこの呼び名は正しい。

右半円の風は台風の渦巻きの
流れの和となって激しくなり、
左半円ではそれが差になって弱まるからである。

台風15号が現在の予想進路をとって
奥羽地方を横切り、三陸沖へ抜ければ
津軽海峡をはさむ青函航路は左側の可航半円にくる。

風は北西寄りになり、弱まってゆく。
洞爺丸が午後の下り便として函館を出航するのは
そう、むずかしいことではないだろう。

逆に日本海側に沿って台風が進むなら、
青函航路は右側の危険半円に入る。
風は南寄りに変わって猛烈に吹き荒れ、
出航できなくなるに違いない。

しかし、五十四歳の近藤船長は、三等航海士時代からの
長い青函航路の経験で、津軽海峡が台風の危険半円に
入ることはめったにないことをよく知っていた。

明治二十四年(1896年)からこの年までの
六十三年間に960の台風が発生していたが、
このうち、日本海へ出て
北海道西岸を北上したものは14、
全体のわずか1.5パーセントにすぎない。

日本に上陸する台風の多くはいったん日本海に出ても
裏側から再上陸して三陸沖へ抜けることが多い。

たとえ北海道へ近づいたとしても、そのころには
息切れしたように衰弱していることがほとんどである。

だから、北海道ではそれまで記録に残るような
台風被害は全くといっていいほど起きていない。
むろん、台風で青函連絡船が危険に
瀕したことは一度もなかった。

北の船乗りたちにとってこわいのは
台風よりも冬の季節風である。

それは吹雪を伴う大シケをもたらし、
しばしば、連絡船を欠航させ、ときとして遭難をよぶ。

だから近藤船長は台風マリーを
重大には考えていなかった。
彼が天気図を描き、気圧計をにらんでいたのは
職務というより多分に彼自身の趣味のせいだった。
【280】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年05月19日 16時29分)

【9】

近藤平市は青函連絡船の船長になってから二十年近く、
小さな事故さえ起こしたことがない、
というので有名な船長だった。

最もベテランの船長というのは
山田のような若い二等航海士には
少しばかりのけむたさがあった。

近藤船長は操船術にかけては
ほとんど伝説的な名声を抱えている人だった。

それもサーカスのように船を操るのではなく、
赤ん坊でもあやすかのように、
ていねいに柔らかく、大きな船を手なづけてしまう
というのだった。

昭和九年(1931年)三月二十一日、
津軽海峡一帯は春の初めにしばしばやってくる
猛烈な低気圧に襲われた。

市街地のほぼ半分を焼失する
函館大火災が起きたのはこの日であった。

津軽海峡や函館港内外にいた五隻の青函連絡船は
激しい風雨にさらされ、ことごとく座礁、
浸水して投錨した。

その中で近藤平市が一等航海士として
乗っていた津軽丸だけが
見事にこの嵐を乗り切った。

空船で港外に仮泊していたので船長は留守だった。

近藤一等航海士はブリッジで自ら指揮をとり、
船首を風に立てて機関を全速に、
あるいは低速に、と細かく駆使し
風浪にもてあそばれる津軽丸をなだめすかしきった。

間もなく船長に昇進した近藤はそうした大技だけでなく
猫が忍び寄るようにそっと船を岸壁に着けてしまう
絶妙な操船ぶりでも名人といわれるようになった。

事実、船長になる前から数えれば
三十年になる連絡船乗務の間、
船体を岸壁にこすりつけてしまう
誰でも一度や二度はやりがちな事故さえ
起こしたことがなかった。

また、彼は三等航海士のころから
気象に特に関心が強かった。

勤務中は欠かさず気象情報を聞き、
自分で天気図を描いてブリッジにあがってくる。

「船長、いまここに低気圧がありますので
 函館は東の風になっています。
 もう三時間ほどすると風は北西に変り、
 風速15メートルくらいになると思います」

若いころの近藤は人なつっこく、話好きで船長にも
一等航海士にもそんな調子で天気図を見せて回った。

古顔の船長たちはからかい半分に
「天気図」のあだ名を
この若者につけたのだった。

近藤平市の気象好きはそのころからで
やがて天候を読ませたら
右にでるものがいない、と言われる船長になった。

そのことが彼の名声に一層の輝きを与えていた。

また、近藤は自説を声高に主張することはないが、
いったん決めたことは決して曲げない、
ということで知られていた。

それはおそらく近藤船長が
自分の気象の見通しと操船術に絶えず
ゆるぎない自信を持っているに違いなかった。

そういう近藤船長に二十九歳の山田は強い憧れを持つ。

そして、その畏敬の念が近藤船長を
ますます遠い存在へとさせてしまっていた。
【279】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年05月19日 16時25分)

【8】

洞爺丸は陸奥湾を出て、津軽海峡に入った。

ブリッジの風速計は東の風20メートルを示し、
船は左右に小さくローリングし始めた。

三等船室の畳の上で原田勇は節子と並んで横になった。

「じゃ、頼むよ」

九時ちょっと過ぎ、山田二等航海士は
そう言って当直を三等航海士に引継ぎ
自室に戻るため、ブリッジを降りた。

少し眠るつもりだった。

近藤船長以下、百十一人の乗組員が
洞爺丸の乗務に就いたのは昨日の午後である。

午後五時四十分、函館発の上り六便として出航し、
午後十時二十分、青森港に着いた。

客を降ろし、荷扱いをすませてから
今朝六時の出航配置まで
船内で短い睡眠をとっただけだ。

さすがに眠い。

このあと函館からもう一往復して明朝、
船長も乗組員も交代することになっている。

間もなく、無線室が受信した
中央気象台からの午前九時の台風情報を持って
操舵手が上がってくることを山田は知っていた。

ブリッジを降りて自分の部屋へ行くのに
船長室の前を通るから
自分が持っていってやろうか、と考えた。

しかし、すぐにちょっと億劫だな、と思い直した。

いつも一緒に乗っている乗組船長か
専属船長だったら山田はそうしただろう。

台風情報を届けたついでに
お茶をごちそうになったり、
冗談を交わしたりする。

しかし、今日乗っている予備船長の近藤平市は
船長室で向き合うことを考えると
どこか、かなわない、という気にさせられた。

青函連絡船ではそれぞれの船に
乗組船長と専属船長の二人がいる。

乗組船長はその船の運航全ての責任と権限を持つほか、
人事、船体保守などにまで全責任を負う。

専属船長は乗組船長の公休日に乗務する。

その責任は乗組船長と同じだが、
乗組員の人事権だけがない。

そのほかに予備船長と呼ばれる船長がいる。

これは乗組、専属、二人の船長が
そろって休暇をとったときに乗務する。

責任と権限は専属船長と同じである。

予備船長はどの船に乗務するかわからないので
全ての連絡船のことを知っていなければならない。

「予備」という呼び名とは裏腹に船長経験が豊富な
ベテラン船長から選ばれるいわば「特別職」である。

近藤平市はそんな数少ない予備船長の一人で
洞爺丸と同型の羊蹄丸の乗組船長から
予備船長に指名されていた。

洞爺丸の乗組船長、吉岡健三は
二十五日から公休だった。

専属船長、杉田幸雄も同じく
三日間の休暇をとっていた。

そこでこの日、予備船長の
近藤平市に出番が回ってきたのだ。

近藤はこれまでにも何度か
洞爺丸の予備船長として乗務している。

しかし、乗組員のほうもその都度代わるので、
山田二等航海士は近藤とほとんど
顔を合わせたことがない。

山田にちょっと億劫だな、と思わせたのは
相手があまりにも偉大な船長だったからだった。

こわい存在というわけではない。

むしろ近藤船長はいつも、もの静かで
部下がミスをしても
決して叱らなかった。

そのために乗組員の間で評判がよく、
信頼も集めているキャプテンだった。
<  34  33  32  31  30  【29】  28  27  26  25  24  23  22  21  20  19  18  17  16  15  14  13  12  11  10  9  8  7  6  5  4  3  2  1  >
メンバー登録 | プロフィール編集 | 利用規約 | 違反投稿を見付けたら