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【58】

喧嘩屋一代  評価

野歩the犬 (2014年08月11日 16時35分)

【大往生】

昭和九年(1934年)六月、上野池之端の東京閣で
小千鳥組と森川組の手打ち式が行われた。

小千鳥は例によって用心のために
腹巻に拳銃を忍ばせていたが、
式場の入り口では身体検査をするので、
下帯(要はふんどし)の底へ落としていた。
これがあとで致命傷となる。

手打ちが終わり、仲裁人が
小千鳥と森川組の代表、森川一夫に
「席を変えて、一杯飲んだらどうか」
と勧めて、二人は玄関をでた。

とめてある人力車にまず、森川一夫が乗り、
続いて小千鳥が乗ろうとしたとき
植え込みの中から五人の男が飛び出してきて、
日本刀でメッタ斬りに襲いかかった。

小千鳥は咄嗟に拳銃を取り出そうとしたが、
下帯の底に潜ってしまって引き出せない。

そこをパナマ帽ごと頭から唇まで真っぷたつに
斬り下げられた。

それでも小千鳥は素手のまま、
相手の日本刀の切っ先をつかんで離さない。

「おのれ、てめえら!卑怯な・・・」

鬼の形相でにらむ小千鳥に刺客方が震えあがった。

小千鳥は相手がひるんだ隙に
その日本刀を奪い取って
振り回しながら立ち向かってくる。

噂に聞く小千鳥の不死身ぶりに
五人の刺客たちは死に物狂いになった。

「こいつは半端なことでは死なない。
この男をここで殺さなければ必ず俺たちが殺される!」

五人の男たちは意を決して再び斬りかかった。

やがて小千鳥の視界はかすんできた。

斬られた額からおびただしい血が流れ、
眼があけられなくなった。

「うおおおおおおっ!」

小千鳥は最後の力を振り絞ったが、
もはや、足は一歩も動かず
日本刀を持った腕さえあがらなかった。

刺客たちはそこを逃さず小千鳥に向かって
突進してゆく。

小千鳥の最期は凄まじかった。

ナマス斬りにされたうえ、
漁具のヤス(モリ)で電柱に串刺しにされたまま
大往生をとげたのだった。

小千鳥、三十歳の若さであった。
【57】

喧嘩屋一代  評価

野歩the犬 (2014年08月02日 16時55分)

【小千鳥一家】

関東大震災で由緒ある家名が
軒並み屋台骨を崩してしまったあと
焼け跡の東京には横浜あたりのタァ公が
どっと入り込み、ここを先途と
縄張りを無視して暴れまわった。

この勢力は侮りがたいものがあったので、
明治からの看板を誇りとしていた
金筋のヤクザもそうした愚連隊の頭株を取り込んで、
一家の温存を図った。

逆にそうした成りあがりのコースから
落ちこぼれたタァ公は
「モーロー」といって手当たり次第に
ショバ荒らしをするので
シマを持つ組の頭痛のタネだった。

「フーテンの寛」と呼ばれた男も
そうしたモーローの一人で
小千鳥が仕切っていた入谷の映画館にしょっちゅう、
ハイ出しをかけた。

寛は関西出身で、
一時同じ柳下組の下にいたこともあったので
小千鳥が直に話をつけに乗り込んだ。

小千鳥が懐から匕首(アイクチ)二本を出して
「勝負するか」と切り出すと
フーテンの寛はいっぺんにびびって
「勘弁してください」と謝った。

しかし、一度抜いた匕首をそんな泣き言で納めるわけにはいかない。

「よし、分かった。じゃあ、この先一生、俺が手足とな って世話をするから
 この場のオトシマエだけはつけろ」

そういって小千鳥は寛の両眼を斬って、
失明させようと匕首でハスったが狙いを外し、
顔を十文字に斬っただけになった。

しかし、言った手前、
小千鳥はちゃんと寛を若衆として抱え、
面倒をみてやった。

フーテンの寛は行状をすっかり改め、
のちに廻船業の立派な顔役となった。

こういう連中が小千鳥一家の身内で、
立ちんぼ(日雇い労働者)の露天バクチの
カスリをとっている「朝鮮小春」

オカマで裁縫が上手な「シマダ」

酒乱で小千鳥がシバキ棒を作らせていた
「キスグレのトシ」

強盗殺人の前科があり、雨が降り出すと幽霊がでる、
といって半狂乱になる「マサ」

小千鳥の雪駄を持って質屋のカタにいれ、
渋る店主の前で匕首で帳場の台を削り、
金を出させるのが得意の「ヒデ」といった連中だった。

そういう手合いの中で
バタヤ(廃品回収業)に顔を売っていた
「茨城徳」という子分が小千鳥にとって
致命的な事件を引き起こした。

千住柳町の遊郭に繰り込んで騒いでいるうちに
土建業「森川組」の若い者と喧嘩になったのである。

そのころ小千鳥は女房のとく江に吉原で「ハワイ」
という置屋を経営させながら
遊郭専門の土建業を請け負っていたが、
森川組がしょっちゅう、横ヤリをいれてきて、
一触即発の対立関係にあった。

倍々ゲームの小千鳥にとって、
森川組はもちろん、その後ろ盾となっていた
「畳屋一家」を相手の喧嘩は望むところだった。

今にも血の雨が降りそうになった矢先、
土建業の大物が仲裁になって
手打ちの運びとなった。
【56】

喧嘩屋一代  評価

野歩the犬 (2014年08月02日 16時49分)

【弱肉強食】

ヤクザ(特に戦前)を調べてゆくと、
どうして喧嘩ばかりしているのか
という疑問にぶち当たる。

しかし、これは、大企業はどうして
子会社や支店をどんどん増やすのか、
に置き換えれば疑問はたちどころに解ける。

水が低きに流れるようにカスリは強いものへと流れる。
五分の勢力だから、二つに分かれて流れる、
ということは絶対にない。

つまり、この世界には力の均衡を保って
皆、めでたしという状況はありえず
強いか、弱いか、勝つか、負けるか、しかない。

一見、兄弟分で仲良くしのいでいるように見えても
それは強い方が悶着を避けるために弱いほうに
適当にカスリを回しているだけのことで、
優劣の本質は変わらない。

まして、これから一家を築こうという
売り出し中の男にとって
現状維持は敗北を意味する。

ちょっとでも気を抜くとたちまち
舐められて食いつかれる。

従って、磐石の基礎を築くまでは
あとから追いかけてくるものが、
息を切らせて追いつけなくなるまで
階段を一気呵成に駆け上らなければならない。

一つの喧嘩に勝ったら、緒戦の戦果は拡大すべしで
もっと大きな喧嘩を、金を出しても買ってでる。

成功したら、さらに大物にアタックする。

まさに倍々ゲームでの株を買いまくるのと同じで、
それでやっと周囲は本人の実力を認めるようになる。

ちょうど、バブル期に利潤を追求して
止まなかった商事、証券会社が
危険を承知で相場や闇の資金運用に
手を出したのと同じように
火中の栗を拾い続けるヤクザ社会も
ひとつ間違えればサドンデスが待ち受けている。

天下の関根組・関根賢に両手をつかせた小千鳥も
倍々ゲームに乗って一家名乗りをあげた。

系図としては明治の初め、下谷、入谷界隈で名を売った
「武蔵一家」の流れを汲むという形をとった。

構えは申し分なかったが、
なにせ急拵えの一家なので若衆は不揃いだった。

腹心というのは野丁場トビ時代から
ついてきている二人ぐらいで
あとはタァ公(愚連隊)あがりだった。
【55】

喧嘩屋一代  評価

野歩the犬 (2014年07月28日 17時02分)

【男の貫目】

小千鳥が逮捕されるとガン鉄本人も一方の当事者として
市谷刑務所に留置されていたが
そのころ、共産党の検挙者が相次いで、
検事は取り調べに手が回らず
小千鳥とガン鉄の双方に
「手打ちをしたら起訴はしない」と言い渡して
二人ともその条件をのんだ。

と、いってもそれは表向きで、男稼業が
そんな生ぬるい手打ちで決着をつけたのでは
渡世内に安値を踏まれることになる。

ガン鉄は関根組に連絡をとって釈放当日は
喧嘩支度で迎えにきてくれるよう頼んだ。

刑務所を一歩出たところで一気にオトシマエをつけてしまおうという腹である。

小千鳥もすぐにその気配を悟って、
先に出ていた妻のとく江に
連絡し、愛用の拳銃をもってくるよう命じた。

小千鳥は当時、三丁の拳銃を持っており、
常時、安全装置を外した一丁を懐にしのばせ、
抜き撃ちが得意だった。

拳銃は賭場でスッたときなどにカタに預けると
五十円ぐらいのコマが借りられた。

とく江が調べてみると、
その拳銃は三丁とも賭場のカタに預けられており
引き出す金の工面もつかない。

とく江は仕方なく差し入れ屋から戻ってきた
小千鳥の座布団一枚だけをもって
若衆二、三人と市谷刑務所へ向かった。

十二月の寒空の下、
夜八時の釈放時間が近づくと
喧嘩支度の関根組の一党が音を忍ばせて
刑務所の門前に散会した。

刑務所前では共産党の第一次検挙者の釈放を
迎える人々が赤旗を振って気勢をあげている。

とく江は危険を感じ取って看守に
小千鳥を裏門から出させてくれるよう頼んだが
門前の赤旗に神経を尖らせている看守は許可しなかった。

やがて小千鳥とガン鉄が前後して
市谷刑務所から出てきた。

とく江はすぐに若衆たちと小千鳥を取り囲むようにして
門前から離れようとしたが、
語気鋭く「小千鳥、待て!」と声がした。

「俺はガン鉄の舎弟、木津政ってもんだ。
ガン鉄の兄貴に代わってオトシマエをつけにきた」

すでに銃口を向けられていたが
とく江の動きは俊敏だった。

木津政が引き金を引くより早く、
座布団を抱いたとく江は
小千鳥の前に身を投げ出していた。

「バン!」と銃声がして、
とく江の右ひじに当たった。
抱えていた座布団のおかげで深手にはならなかったが、
二発目が小千鳥の肩の肉を裂いた。

小千鳥は闇に向かって突っ走ったが多勢に無勢、
取り囲まれて三方から斬りつけられた。

咄嗟に死んだふりをしたが、
トドメのつもりか喉まで刺された。
草相撲で鍛えた体力がなかったら、とうに死んでいたところである。

木津政一味が引き揚げたあと、
小千鳥と、とく江は傷ついた身を労わりあって
病院のベッドに運ばれた。

夫婦、枕を並べて三週間、
入院生活を送っていた小千鳥は
仲裁人の調停案をはねつけ、
ガン鉄の親分の関根が目の前で手をついて
詫びなければ、手打ちはしないと主張した。

すると、まさかの関根が本当に病院に来て、
格下の小千鳥の前で手をついて謝った。

関根にすれば最強の敵を味方にする絶好の機会と、
とらえたのだろう。

この事件から小千鳥に「喧嘩屋」の仇名がつき、
いよいよ売り出すことになった。
【54】

喧嘩屋一代  評価

野歩the犬 (2014年07月24日 17時04分)

【博徒転身】

昭和三年、小千鳥が仮釈でシャバに戻ると、
末を誓い合っていた女がなんと
親分、柳下の妾になっていた。

失意の小千鳥は自分が斬った小桜長次の霊前に
線香の一本もあげようと、
小桜が生前、住んでいた長屋を訪ねた。

そこには小桜長次の兄弟分のテキヤ二人が住んでいて、
小千鳥の来訪に驚いたが、その心意気に打たれ、投合する。

その一人、近藤という男に
「とく江」という十七歳の妹がいて、
小千鳥の侠気に惚れた近藤は小千鳥との結婚を勧めた。

とく江は「堅気でなければ、いや」と
首を縦にふらなかったが、
そのころにはすでに小千鳥の方が熱くなって通い詰め

「金で買う女はつきあい上、仕方ないが、
ほかに惚れた女ができたら即座に別れる」

という、なんとも虫のいい一筆を誓約して、所帯をもった。

このため、とく江は生涯、近藤姓を通した。
つまり、内縁である。

昭和初期の東京は大震災からの復興で
鉄骨建築が主流となり
エレベーターのやぐら造りに長じていた
小千鳥組に注文が殺到した。

これを親分の柳下がねたんで、
事あるごとに干渉してくる。

小千鳥はつくづく嫌気がさし、野丁場トビの足を洗って
博徒として、身を立てる決意をする。

「足を洗う」というのは必ずしも
堅気になることではない。

一つの不文律社会から他の社会へ
転職することを言うもので
博徒が「足を洗って」テキヤになったり、
トビが「足を洗って」博徒になったりする。

小千鳥は浅草の小さな一家の賭場に出入りして
「男を磨きだした」。
賭場ではやたら勝負に強い男はむしろ嫌われる。

親分とか、兄貴とか呼ばれる人物は勝負には、
てい淡として、わざと目下の者に負けてやるのが貫禄とされる。

サラリーマン社会でも麻雀やゴルフで部下から
ガツガツ稼いでいるような上役は腹の中では
なめられているのと同じである。

小千鳥も実際、ばくちが下手で
淡白な性格でもあったので、それが逆に人気となって
銀座の顔役に可愛がられ、次第に名前が売れるようになった。

昭和六年(1931年) 小千鳥二十六歳の十一月、
酉の市(縁起熊手を売るお祭り)の夜
野丁場トビ時代、同じ河合組配下にあった
関根組の幹部「ガン鉄」の若い者が
ハイ出し(ゆすり)をかけ、
市の用心棒を引き受けていた
小千鳥の若衆を斬ってケガを負わせた。

自分の若衆がやられたと聞いて小千鳥は
その夜のうちに殴りこみをかけ
相手を半殺しにしたが、ガン鉄は不在だった。

とにかく双方で七、八人が負傷する喧嘩(でいり)となったため所轄の寺島署の手配がかかり、
小千鳥は身代わりに三人の若衆を
自首させて大阪へ飛んだが、
女房のとく江までが捕まったと聞いて、
東京に戻り逮捕された。
【53】

:喧嘩屋一代  評価

野歩the犬 (2014年07月17日 17時30分)

書きたいネタはあったのだが
現時点では資料不足…今回は

「小千鳥」について書くことにした。

まるで芸妓のような通り名だが、
とりあげるからにはヤクザである。

本名は城迫正一。

明治38年(1905年) 東京・芝明神で生まれた。

芝・増上寺の大門脇の芝明神の境内では
江戸時代から芝居や相撲の興行が打たれ
竹を割ったような気風と腕っぷしの良さが
土地っ子の自慢であった。

城迫正一の生家は造り酒屋であったが、
本人は下戸で大の甘党。
汁粉ばかりを食べて相撲熱の高い地元で
草相撲に打ち込んでいた。

草相撲とは草野球と同義で
簡単にいうとアマチュアのことだが、
プロの大相撲と同様に年二回、
場所(十日間)を開催し、番付も作られた。

城迫は五尺五寸(約167センチ)二十二貫(約83キロ)だったというから
ズングリとした豆タンクのような体型である。

しかし、腕力には自信があり、十五歳にして
四つに組めば大男を軽々と転がし、
番付でも関脇を張った。

「小千鳥」というのはそのころの四股名である。

十六、七歳のころ
喧嘩三昧に明け暮れした挙句、
とうとう親に勘当されて浅草をふらついているうちに
吉原遊郭に縄張りを持っていた「柳下組」の若衆となった。

柳下組は賭場を持っていたが
本業は「野丁場トビ」であった。

「野丁場トビ」というのは正規の「火消し鳶職」の外で
もっぱら、建設現場の足場組み立てなどで働く連中で、
上の方になると作業員の手配や請負の談合なども仕切っていた。

現在に至るトビ職というのは、
この「野丁場トビ」が発祥である。

明治の末から大正にかけては
東京が近代都市に様変わりする時期で、
また富国強兵の国策に沿って
産業資本が拡大していた時代でもあり、
東京の空き地はどこも工場の建設ラッシュだった。

その請負の利権を巡って
血の雨が降ることも少なくなかったので、
現代につながる土建業の談合というものが定着し始めた。

この「談合屋」の大物が後に「河合キネマ」を設立し、
興行界に進出した河合徳三郎で柳下組はその配下にあった。

大正12年(1923年) 関東大震災が発生。

流言飛語に動揺した自警団が
千人以上の朝鮮人を虐殺した。

翌年になっても千住小橋付近にあった朝鮮人集落を
日本人が襲うという事件が頻発していた。

柳下組はその朝鮮人集落の用心棒を頼まれ、
小千鳥が責任者となった。
十九歳のときである。

小千鳥は商人の子なので、算盤の才覚もあり、
この集落が造っている朝鮮飴の販売利権を握り、
大々的に売り出した。

このカスリに眼をつけたのが
川端康成の小説「浅草紅団」に登場する
愚連隊「紅団」で利権を巡って小競り合いが絶えなかった。

そこで小千鳥は紅団の幹部・小桜長次と
話し合おうとしたが、小桜長次は若造扱いして
小千鳥の頭を小突いたりして、ロクな返事もしなかった。

怒った小千鳥はその日のうちに日本刀を持って
小桜長次を捜しだし
有無を言わせず、斬り殺してしまう。

これで五年の刑を食った。
【52】

やくざ学  評価

野歩the犬 (2014年07月05日 12時21分)

【愚連隊】

博徒、テキヤが武家社会を祖としているのに対し
愚連隊なるものが誕生したのは、近代、である。

博徒の項で紹介した「旗本奴」自体を
愚連隊と位置づけることもできるが、
大正12年(1923年)の関東大震災後の混乱に乗じて
横浜から流れ込んできた、
不良少年の一党が始まりとされている。

彼らは、壊滅した首都の繁華街、新宿、渋谷、池袋
下町の浅草などで強盗や略奪を行い
それまで博徒、テキヤが仕切っていた縄張りを荒らしまわった。

流言飛語で朝鮮人の虐殺事件が起きると
集落の用心棒を名乗り、みかじめ料をまきあげた。

上下関係もルーズで、とにかく暴れるだけの
「愚」な連中として、組織の暖簾を守ってきた
博徒やテキヤからはボンクラやクスボリ、と呼ばれた。

ボンクラとは「盆」いわゆる「賭場」での
コマ(賭金)の配分計算もできない頭の悪いことから
「盆に暗い」が転じてボンクラと呼んだ。

クスボリは博徒の組から正式な客として扱われず
賭場で「くすぶっている」連中のことをさしている。

かの山口組三代目、田岡一雄も自伝の中で

「昭和四年当時、わたしはまだ、神戸、新開地のクスボリだった」

と書いている。

震災の影響で東京の映画撮影所が灰燼となり
興行の中心は大阪、神戸に移っていた。

関西では、このほかにバラケツという呼び名もあった。

「ばらける」「ほどける」からきたもので
くずれた人間の意味である。
喧嘩を売り物にした硬派の不良学生をこう呼んだ。

こうしたクスボリとバラケツは、しばしば衝突し、
腕っぷし、の良さを買われた男が
土建業者や興行主の用心棒を経て、組織の盃をうけた。

田岡一雄は相手の両目を指でえぐる、という必殺技で
クスボリ仲間からは「クマ」の名で怖れられ、
やがて、二代目山口組・山口登の盃を受けている。

愚連隊のピークは太平洋戦争の終戦直後から
昭和三十年代初めにかけてであった。

関東大震災当時と同様、
世情が混乱し、人心が荒廃した時代の必然でもあった。

戦後の愚連隊は
朝鮮、台湾、中国人などが
警察権力が及ばない「戦勝国特権」を
ふりかざした「民族系」と
戦場から戻ってきた元、兵士の「復員系」
さらに体育会系学生による「セイガク系」の三派に分かれた。

「セイガク系」の典型が渋谷で名を売った
安藤昇率いる「東興行」である。


終戦直後の治安は戦前からの
博徒の組織やテキヤに委ねられることが多かったが
やがて、復興事業のための土建業を表看板とした
戦後ヤクザが誕生するとこうした愚連隊を吸収して
現在の暴力団が誕生した。


昭和四十年代、高度経済成長時代に入ると暴力団も
三代目山口組を頂点にした「山口組系」と「反山口組系」に
系列化され、愚連隊は下部組織の予備軍となった。


暴走族や、そのOBで組織された「●●連合」
盛り場を徘徊する「チーマー」などが
現代でいうところの「愚連隊」である。
【51】

やくざ学  評価

野歩the犬 (2014年07月05日 12時17分)

【親農道】

一方、神農道(テキヤ)の始祖は
大阪・夏の陣の前、豊臣方の浪人たちが
資金稼ぎに香具などを売って歩いたのが始まり、
と言われている。

それで香具師(やし)と呼ぶのだという。

やがて豊臣方の敗色が濃厚となると
敗残兵たちは味方の刀、槍すらも収奪して売り歩いた。

こうした「野ぶせり」と呼ばれる人々の源は
日本古来の「やまたか」と呼ばれる
移動民族か朝鮮半島の渡来人であった、という。

神農は「商い」を業としているので
その戒律は博徒より厳しい。

三戒律というのがある。

「売(バイ)うるな」

「タレこむな」

「バシタとるな」である。

「売うるな」とは商品だけを仕入れて持ち逃げ、横流しを禁じるもの

「タレこむな」は仲間内のトラブルは官憲に訴えず、解決すること

「バシタとるな」はテキヤはしょっちゅう、
タビして歩いているので
他人の女房に手をだすな、という意味である。

この戒律があるため、盃事においても
博徒より神農の方が重厚なものとなる。

「天照大神」「八幡大菩薩」「春日大明神」の三神の軸を飾り
伝来の日本刀などを相続するのは、
儀式を宗教的に昇華させることにより
契りを深める、という狙いがあるが、
現代ではテキヤは露天商組合という
堅気の正業であり、そうした神事を見ることはほとんどない。

博徒とテキヤの結びつきは主にテキヤが方々を旅して
各地の賭場に客として金を落してゆくことから、始まっている。

また、縁日や露店の縄張り争いでは
ふだん、肉体労働をしているテキヤの方が遥かに強かった。


終戦直後の闇市などの運営はテキヤが行い、
その治安を守るのが博徒として結びつきが強まり、
合併して現在の暴力団という組織化した例も少なくない。
【50】

やくざ学  評価

野歩the犬 (2014年07月05日 12時15分)

【博徒の歴史/後】

その「町奴」の頭領が幡随院 長兵衛であった。

長兵衛は肥前・唐津(佐賀県)の浪人の子で
本名は塚本伊太郎。

江戸・浅草で口入れ業(土木工事の周旋)をしていた
山脇惣左衛門の娘を女房として跡目を継いだ。

戦国時代の戦闘部隊として活躍した旗本も
泰平の時代となると家来を飼うのも無駄となる。

しかし、幕府は江戸の土木工事に
戦時の出兵と同じように
郎党を差し出すように旗本に命じた。

そこで長兵衛のような口入れ業が栄えたのであった。

長兵衛は周旋手数料をとるだけでなく
郎党を長屋に詰め込み、賄いをし、
労働賃金のアタマをはね、博打を打たせて
「テラ銭」をとった。

これが、博徒、つまり「やくざ」の始まりである。

では、なぜ博徒が江戸で力をつけたか。

日本では江戸・徳川三百年の鎖国時代に
商品経済〜貨幣経済が発達したからである。

博徒は金が動き、労働者が集まる都市に発生した。

こうした江戸経済の落し子は各地に広がってゆく。

国定忠治を生んだ上州は蚕糸の生産地であり、
清水次郎長を生んだ駿河の名物はお茶であり
清水港の廻船業が盛んだった。

つまり、地方でも貨幣経済を促進する名物があれば、
博徒は必ず発生した。

幕末になると、いよいよ博徒の勢力は強くなった。

貨幣経済が発達してくると実質的な権力を握るのは商人である。

商人への富の集中は汚職政治を産み、
領主の搾取によって全国で百姓一揆が広まった。

そうした悪政時代に博徒は着々と勢力を蓄えていった。

貨幣経済の発達は働かなくても
食える人種を作り出したのである。

明治維新後、
博打が厳しく取り締まれるようになってからしばらくは
博徒は自らを「無職渡世人(ぶしょくとせいにん)」と名乗った。

関東大震災〜世界恐慌を経て
世情が閉塞した昭和の初めになって
「俺たちゃ、しょせん、やくざもんだ」
と名乗りだした。

つまり「やくざ」という言葉が普及したのは
まだ、百年ほどに過ぎない。
【49】

やくざ学  評価

野歩the犬 (2014年07月05日 12時06分)

【博徒の歴史/前】

やくざ、の始祖は幡随院 長兵衛(ばんずいいん ちょうべえ)
というのが定説になっている。

十六世紀、室町幕府の衰退によって
世は群雄割拠の戦国時代となる。

あっちでドンパチ、こっちでドンパチ
本能寺の変など「仁義なき戦い」の元祖といえる。

秀吉亡きあと、満を持していた家康の登場で戦国時代は終わる。

それまで戦場を疾駆してきた武士たちも
官僚に転進せねばならない。

剣の時代は去り、法律とそろばんの時代がやってきたのだ。

この時代にあぶれたのが
徳川譜代の臣である旗本と諸国浪人である。

豊臣方の落ち武者、宮本武蔵はもちろん、
徳川家の戦闘部隊として強兵ぶりを誇った旗本も
大半は邪魔者扱いとなった。

安い禄に甘んじて無為徒食の道に追い込まれてしまう。
主家を失った浪人に至ってはいっそう、惨めである。

自暴自棄になった一部の旗本は
新興都市・江戸で乱暴狼藉を働き
「旗本奴」を名乗った。

「将軍(うえさま)をとりまく老臣どもは大名に機嫌をとられ、
武士(もののふ)の心をわすれておる」

彼らの欲求不満は異装束となった。

月代(さかやき⇒ちょんまげの地肌)を剃らず、蓬髪となった。

髭で顔を埋め、浅黄木綿に派手な動物の絵を
染め抜いた小袖の上に真紅の袴を着けるという
異様ないでたちで、街を練り歩いた。

これがやくざの「彫り物」の原点と観るむきもある。

ちなみにやくざの世界では
褒め言葉としての「刺青」(いれずみ)
という表現は使わない。

「刺青」は刑罰の一種であるから、
誉めるときは「いい傷ですねぇ♪」という。


「旗本奴」は刀の柄に白いシュロを巻きつけた
「白柄組(しろつかぐみ)」や
「神宜組(しんぎぐみ)」などと名乗り
徒党を組み、うっぷん晴らしに町人をいじめ、
無理難題をふっかけ喧嘩を生き甲斐にした。


こうした「旗本奴」に対抗して
町人の保護を自ら買ってでたのが「町奴」である。

「強きをくじき、弱きを助ける」という
古典ヤクザの話にでてくる
任侠道精神はこれが原点である。
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