| トップページ | P-WORLDとは | ご利用案内 | 会社案内 |
■ 338件の投稿があります。
<  34  33  32  31  30  29  28  27  26  25  24  23  22  21  20  19  18  17  16  15  14  13  12  11  10  9  【8】  7  6  5  4  3  2  1  >
【78】

ステゴロ無頼  評価

野歩the犬 (2014年10月21日 15時52分)

【殺しのタックル】

昭和21年(1946年)
千歳中学にラグビー部が創設され
そのメンバーに花形敬は名を連ねる。

16歳にして175センチ、
75キロという体格を見込まれての勧誘だった。

ポジションはフォワードのロック。

俊足の花形敬はここでステゴロの必殺技、
タックルを習得する。

後に花形と連れ立って渋谷を徘徊するようになる石井が
花形のタックルについて語っている。

ある日、石井がチンピラからカツアゲした。

街頭で靴を磨かせていると肩を叩くものがいる。

振り返った石井の周囲には十人ばかりの男がいた。

「うちの若いのが可愛がっていただいたそうで。
ちょいとそこまで顔を貸してもらえませんか」

男たちはめいめい、ツルハシ、ハンマー、
ノコギリといった道具を持っている。
土建業を看板とする組筋のものたちだった。

「靴磨いてんだ。終わるまで、待ってろ」

威勢よく言ったものの、石井もその場を
どう切り抜けるか思案がまとまらない。

通りがかったのが花形敬だった。

渋谷は安藤組のシマになりかけていた。

若いものが常時、徘徊している。
石井の窮地を見て、知らせが入ったのだろう。

「兄貴、どうしたんですか」

花形は石井をたてるようにわざと丁寧な物言いをした。

「いや、この連中が話をしたい、というもんだから」

「ああ、そうですか。じゃあ、ここは俺にまかせてください」

男たちをうながして先にたった花形は
渋谷大映裏の空き地に入っていった。

瞬間、花形の右ストレートがリーダー格の
男のアゴをまともにとらえた。

その一発で男は失神した。

あまりの花形のパンチの破壊力に驚いた一行が
四方に逃げ出すと、
その中の一人を追いかけた花形は
相手の腰に飛びつき猛然とタックルした。

「三メートルは飛んだ」と石井は言う。

地べたに叩きつけられた男の顔を踏みつけておいて
花形は石井に声をかけた。

「さあ、いこうか」

「そういうとき、花形はかっこつけないんでね。
 何事もなかったような顔してる。
 強さもさることながら、度胸が凄い。
 十人くらい、いたって平気なんだから。
 負けることなんて、
 全然考えたことないんじゃないですか」
【77】

ステゴロ無頼  評価

野歩the犬 (2014年10月21日 15時48分)

【内なる疵】

生前の花形敬の顔にいくつ疵があったのか、
正確な記録はない。

花形敬を知る者の間でも
「ずいぶんあった」という
曖昧な表現しか残っていない。

私もネット上で画像検索してみたが、
顔の疵についてはいくつあるのか判別できなかった。
むしろ、その顔面の骨格に
異様ないびつさ、を感じた程度である。

石井は初対面で「すでに四つはあった」と言っている。

いったい、いつ、どのようにして、
つけられたものなのか。

「地元の不良とケンカして顔を斬られている」

「東農大の番長に斬られた、という噂を聞いた」

などの話はあるが、後に花形敬を幹部として迎える
「東興行」(安藤組)の会長、
安藤昇はこう言っている。

「あいつはマゾヒスティックなところがあってね。
 自分でつけた疵もあるはずです。
 今で言う自傷癖というやつ。
 たしか、左の頬だったかな。
 17針縫ったことがある」

花形敬は暴力の世界に足を踏み入れてから、
ステゴロを頑なに守り
ケンカに刃物を用いたことはただの一度もなかった。

その彼が例外的に生身を切り裂いたのが
自分自身に対してだったというのは、
花形敬の鬱屈した内面をうかがわせる
エピソードである。

石井福造と対面してから一年後、
16歳になった花形敬はボクシングジムに通いだす。

父・正三もシアトル時代は日本人街のジムに
所属するアマチュアボクサーだった。

しかし、その父も今は結核から病身を横たえて、
訪れが近い死を待っている。

五人の兄姉はそれぞれ、
進駐軍とのつながりから米国へ渡ったり
日系二世と結婚したりして花形家から姿を消し、
母の美以も進駐軍幹部宅の
住み込み料理人として家を出た。

花形敬は自宅の裏庭の柿の木に
砂利を詰めたサンドバッグを吊るし、
ひたすらパンチと蹴りの練習に熱中していた。

そんな花形の野獣の血は新たなスポーツとの出会いによってさらに沸騰する。
【76】

ステゴロ無頼  評価

野歩the犬 (2014年10月15日 16時29分)

【ペテン帽】

昭和20年(1945年)花形敬は
千歳中学3年生の半ば(当時の旧制中学は5年制)で終戦を迎えた。

それから半年とたっていないころ、
花形敬と以後の人生において決定的な出会いを
果たすのが後の住吉一家・石井会会長、
石井福造である。

石井は昭和3年生まれであるから、
花形敬より2歳年長だが、
素行不良で当時、すでに四つの中学校を退学させられていた。

最後に編入したのが、ことケンカにかけては
無類の強さで名を知られていた国士舘中学である。

石井は繰り返す退学処分によって
同期より二年遅れの三年生だったが、
その蛮行ぶりはすでに知られていたから
さっそく、国士舘中学の番長となった。

石井は上級の4、5年生を張り倒しては
弁当を奪うなどやりたい放題である。

あまりの傍若無人に手を焼いた連中が
千歳の4年生になっていた花形敬に泣きついた。

「そうか。そんなにケンカに強いやつがいたのか。
どれだけ手ごたえのあるやつか、俺がいっちょ、もんでやろう」

そういうと花形はバキバキと拳の骨を鳴らした。

「敬さんが呼んでいるから、裏の山まで来てくれ」

いつもは石井の顔色をうかがっている一人が
横柄な口調で石井に呼び出しをかけた。

石井は相手が世田谷随一の進学校、
千歳中学の4年生と聞いて鼻で笑った。

片や国士舘といえばケンカの強さは都内に響き渡り、
チンピラ風情なら校名を聞いただけで
怖気づくほどである。

その国士舘で番長を張っている石井にとっては
千歳あたりで幅を利かせているヤツなど
物の数には入らない、という心境だった。

ところが呼び出された裏山へ登っていった石井は
花形を見た瞬間、
自分のイメージの大幅な修正を迫られることになる。

そこには石井の表現を借りれば
「これ以上はないペテン帽」を
アミダにかぶった花形敬が立っていた。

ペテン帽というのは
学帽の生地の毛足を焼いてきれいにそろえた上から
「ろう」をまんべんなく垂らし、
さらにタバコの灰を丹念にすり込み、
全体になめし革のような鈍い光沢をつけた帽子のことである。

花形のペテン帽はその上からピッチリと
アイロンがかけられ、
てっぺんから四つの鋭い角が突き出している、
という見たこともない代物だった。

「お前が石井か。俺は千歳の花形ってもんだ」

縁無しの眼鏡をゆっくりと外した花形を見て、
石井はさらに唖然とした。

右眼の上、左頬、あご、首すじ4、5ヶ所に
5〜6センチはあろうかという疵が縦横に走っていた。

一歩前に出た15歳の花形敬が
凄まじい気迫で石井をにらみつけた。

顔を合わせただけで二人の決着はついた。

立ち向かってこない石井に花形は二言、三言、
捨てゼリフを吐くと手を出さずに山を降りていった。

「俺も学生同士でしよっちゅう、ケンカやってて、
身体がでかいやつは見慣れていたけど花形のときだけは、本当にビックリした。
俺たちの言葉でいうヤクネタそのものの顔つきだった」


その石井が後に花形敬と
安藤組組長・安藤昇を結びつけ、
ともに大幹部となってゆくことなど
もちろん、当の二人は知る由もなかった。
【75】

ステゴロ無頼  評価

野歩the犬 (2014年11月14日 14時52分)

【少年期】

花形敬は昭和5年(1930)年
東京都世田谷区船橋町の名門旧家、花形家の
父・正三、母・美以の六人兄姉の
末っ子として生まれた。

花形家はその昔、自宅から
京王線下高井戸駅前までの直線約、1.5キロを
他人の土地を踏まずに行けた、という大屋敷であった。

海軍士官を目指していた正三は
中学を卒業すると外国語学校で英語を学び、
単身、シアトルに渡った。

名門・ブロードウェイハイスクールを経て
ワシントン州立大学に合格したが、
極度の近眼となり海軍士官の道を断たれ、
現地のキャディラック・ディラーに就職した。

大正6年(1917年)父の長之助が死去し、
一時帰国した正三は33歳で美以と見合い結婚。

新妻を連れて再びシアトルに戻り、
一男二女に恵まれて順調な生活を送っていたが、
肺結核を患い、さらに当時日本人の排斥の声が高まり始めていたため
アメリカ生活に見切りをつけて帰国する。

夫妻は日本でさらに二男一女をもうける。

この末弟が花形敬である。

正三46歳、美以36歳であったが、
とりあげた助産婦が驚くほど丸々とした大きな赤子であった、という。


昭和12年(1937)年花形敬は
世田谷区立塚戸小学校に入学したが、
4年生の春、四校を統合した新設の経堂小学校に編入された。

太平洋戦争が開戦した翌年である。

この新設校では花形敬ら4年生が最上級生となり、
統合校であるために、学内のリーダーを決める確執が始まった。
といっても小学校のことであるから
、要はガキ大将争いである。

ここですでに体格が図抜けて大きかった花形敬は
取っ組み合いでライバルたちをあっさりと屈服させる。

花形敬は成績も優秀で
担任教諭から級長を命じられていたから
当時でいう「文武両道」の大将となった。

昭和18年(1943)年府立千歳中学に
合格者250人中、10番以内という優秀な成績で合格。
ここでもさっそく同期のボス争いに飛び込み、
腕力でトップの座につく。

翌19年(1944年)からは国家総動員法に基づく
中学生の勤労奉仕が始まる。

花形敬らは銃器工場に駆り出され、
小銃部品の組み立て作業に携わった。

当時の軍需工場にはどこも不良工員がたむろし、
勤労奉仕学生への陰湿ないじめが横行していた。
なにしろ、工員自身らが現場の責任者から
鉄拳制裁を受けるのが茶飯事だった。

徴兵検査を目前にした彼らにすれば中学生たちは
日ごろの鬱憤晴らしの格好の「えもの」である。

就業遅れや作業の手際が悪いと遠慮なく
中学生にゲンコツをふるう。
人気のない試射場の裏手にひきたてられ、
殴る、蹴る、の暴行を受けたものもいた。

勤労奉仕には中学校から数人の教師が
引率としてきていたが、
不良工員たちの理不尽な暴行に気づきながら
誰一人として、制止しない。

手出しをされる仲間をかばって、
とびだしていったのが
14歳にしてすでに170センチに達していた
花形敬だった。

同級生に手をあげた工員たちは
花形の腕力と胆力の前に次々と叩き伏せられた。

戦時下という不条理な社会体制に
少年ながら立ち向かっていった姿は
悪魔のキューピー・大西政寛をイメージさせるものがあるが、
大西が「道具」にその術を求めたのに対し、
花形は自身の「拳」のみで、周囲を屈服させていった。

地元の名家の生まれで負けず嫌いの性格、
それに見合う腕力に恵まれていた花形敬は
小学校時代の仲間を自分の庇護下に置くうち、
内面で育っていったボス性が中学生になっていよいよ顕著になってゆく。

そのころの花形敬は自らの名前をもじって言った。

「俺はハナが高(たけ)えんだ。何でも一番になるんだ」
【74】

ステゴロ無頼  評価

野歩the犬 (2014年10月15日 16時07分)

ヤクネタとして石川力夫をとりあげたからには、
やはり触れておかなければいけない男がいる。

戦後の東京、群雄割拠する愚連隊のなかで
ステゴロ(素手のケンカ)ではかなうものが
いなかった、と語り継がれている、花形敬である。

昭和20〜30年団の混乱期、
東京の盛り場、渋谷を足場に暴力でのしあがった、
この男は文字通り、当時の裏社会に輝いた
「花形」であり、周囲に畏「敬」される存在だった。

花形敬に関しては本田靖晴氏の著書
「疵(きず)〜花形敬とその時代」が最も詳しい。

東京都世田谷区千歳中学で
花形敬の二年後輩であった本田氏は戦後、
読売新聞記者を経て稀代のジャーナリストとなった。

この著書の中で本田氏は花形敬が暴力の世界に、
自身が遵法の枠内に吹き分けられたのは
風のいたずらのようなものである、
と表現し、花形敬が生きた時代を
「解放感に満ち溢れた戦後への郷愁」
としてつづっている。

このため、著書は本田靖晴氏、本人の「青春史」を
オーバーラップさせることによって
昭和20〜30年代のクロニクル(年代記)
としてまとめられているが、
私はここから花形敬の生涯のみを抽出してみる。
【73】

狂犬伝説  評価

野歩the犬 (2014年10月02日 17時01分)

【あとがき】

石川力夫は現役のヤクザからライターに転身した
藤田五郎の小説のモデルになり、
深作欣二監督がメガホンをとって映画化もされた。

タイトルは「仁義の墓場」(1975年、東映)

前トピはここから拝借した。

主人公・石川役の渡哲也が
凄まじいまでに堕ちてゆく破滅劇を好演していた。

なんでも深作監督は出来上がった脚本が気に食わなくて
全て自分で書き直したが、
とうとうクランクインしてもシーンがまとまらず
その日、撮影する分を書きながら撮った、という。

そのため、完成した作品はもう画のつなぎが悪く
ストーリーがバラバラになっている印象が強いが、
深作演出ならではの、全体から生み出される迫力たるや圧倒された。

その昔、現役だった人に言わせると
利害関係や力関係に応じ状況を判断して
「いいヤクザ」にも「悪いヤクザ」にもなるのが
本物の「ヤクザ」という。

その意味で親に反逆したうえ、
警察に庇護を求めた石川はヤクザ社会の
「風上にもおけない、下の下、の男」といえる。

ただの狂犬としてヤクザ社会に語り継がれる石川力夫。

実は私と同じ人間的な弱さを丸抱えした
男のような気がしてならない。
【72】

狂犬伝説  評価

野歩the犬 (2014年10月02日 16時59分)


昭和24年(1949年)10月2日、
所払いの禁を破って上京した石川は配下一人を連れて
今井と談判したが埒が空かず、ドスをふるった。

それでも石川の鬱憤は晴れない。

10月8日、
再び中野区新井町の今井の自宅に殴りこみをかけ
まだ、傷で寝込んでいる今井に拳銃弾を撃ち込み
即死させ、さらに今井の妻にも瀕死の重傷を負わせた。

石川の暴走はヤクザ社会において
これ以上の禁忌はなかった。

親分に逆らって傷を負わせ、
関東所払い十年の廻状が出たにもかかわらず
それを破って上京し、兄弟分を殺すというおよそ、
ヤクザ史上、前代未聞の反逆行為だった。

重ね重ねの掟破りに一家の怒りは爆発、
ついに石川射殺命令が下った。

ヤクザ社会全体を敵に回し、追われる身となった石川は
またも報復から逃れるため自首し、
26年(1951年)8月、懲役10年の刑が確定、
府中刑務所に送られた。

28年(1953年)春、持病の肺結核が進行した石川は
肋骨六本を抜き取られる手術を受け、
ヘロインで弱っていた体力の衰弱は著しくなった。

出所してもヤクザ社会からはじき出され
己の行き場がないことを
石川は自覚していた。

シャバのどこにも石川のイスなどない。

31年(1956年)の正月には

「元旦や、わが前に立つ、黒き影」

と、死を予感したような句を日記帳にかきつけた。

ほどなく看守が刑期の三分の一以上をつとめた石川に
仮釈放が近いことをほのめかす。

刑務所を出ることは石川にとって死を意味していた。

2月2日、石川は看守に
「寝汗で濡れたふとんを干したい」と願い出て
屋上に付き添われて外気を吸った。

もはや、石川はシャバにいたときのような
ヤクネタからは無縁の存在だった。
闘争心のかけらもなく、死ぬことしか頭になかった。

駆け出した石川は看守が止める間もなく、
フェンス越しに身を躍らせ
15メートル下のコンクリートに全身を叩きつけた。

独房に残された日記帳には

「まるで風船のような人生を送ってきた。
 風船は絶えず飛び立とう、飛び立とうとしている。
 飛び立てば、やがて破れるのも知らないで。
 おれもそう、だった。
 とうとう、自爆するところまできてしまった」

とあり、最後に次の句があった。


「大笑い  三十年のバカ騒ぎ」


(狂犬伝説・完)
【71】

狂犬伝説  評価

野歩the犬 (2014年10月02日 17時03分)


    俺が死ぬときは・・・・

            カラスだけが鳴く・・・



現代のように組織化が進んだヤクザ社会の中には
さすがにいないが
終戦直後の混乱期には無分別の限りを尽くし、
どうにも手に負えない
「ヤクネタ」と呼ばれるヤクザがいた。

ヤクは「厄」、ネタは「種」の転倒、
つまり厄災をもたらす無法者という意味である。

そして大概、こうしたヤクネタは文字通りヤク、
つまり、ぺー(ヘロイン)やポン(覚醒剤)中毒だったので
立ち直りのしようがなかった。

ヤクネタもヤクネタ、
超がつくヤクネタとして語り継がれているのが
石川力夫である。


石川力夫は大正15年(1925)年茨城県、水戸市生まれ。

不遇な家庭環境で育ち継母との折り合いが悪く、
15歳のときに家出して上京した。

求人ビラを見て新宿のカフェボーイとして住み込み
翌年春には飯島連合・和田組、和田薫組長の盃をもらった。

この世界で売り出す早道は
親分のために身体を張ることである。

石川は和田組の若衆となって二年目、
縄張り争いで喧嘩(でいり)があった際、
相手方の親分に重傷を負わせる働きをして
1年2ヶ月の刑を受け、下獄した。

昭和19年(1944年)8月、
函館刑務所を出所した石川には
すっかりハクがつき、
次第に一家の重きをなしてゆく。

終戦直後の焼け跡闇市に
和田組のマーケットができると、
その一角を預かるまでになっていた。

しかし、これが石川の絶頂であった。

21年(1946年)10月、
石川が可愛がっていた舎弟が石川をたずね

「親父の仕打ちが冷たい。俺たちが飯も食えないのに小遣いもくれない」

と泣きついてきた。

石川は親分、和田のもとへ出向いて語気鋭く談判した。
「若い者の面倒をみろ」というのである。

舎弟思いの行動とはいえ、そこはヤクザ社会である。
親に楯突くことなど許されない。和田は激怒した。

翌日の夜、
和田が配下に石川の指を詰めさせるよう命じた、
という話が耳に入ると、今度は石川が逆上した。

石川は抜き身の日本刀を持って
和田の自宅に殴りこみをかけ
和田の肩、胸を斬りつけて一ヶ月の重傷を負わせ、
止めに入った幹部の車に火をつけた。

ヤクザ社会の論理では
親にドスをふるうことは最大の不忠である。

石川は一家総出で追われる身となり、
リンチを逃れるため警察に自首、
1年6ヶ月の刑に服した。

刑期をつとめあげた石川を待っていたのは
親分、和田を初めとする飯島連合・各組長連名による「関東所払い十年」の廻状であった。

石川は10年が過ぎたら、東京へ戻ってくるつもりで
新宿、柏木町の縄張りを弟分たちに託し、
大阪へ行き遠縁の雑貨商に住みこんで
カタギの生活を始めた。

ところが、石川のあとを追って大阪へ流れてきた若者が
予期しなかった知らせをもたらす。

石川の舎弟、二人が殺され、
石川の縄張りはかつての兄弟分である
今井幸三郎のものになった、というのである。
【70】

保守のお知らせ  評価

野歩the犬 (2014年09月19日 12時57分)


HEROのキムタクじゃないが・・・・

「そのピースが埋まらないと、パズルは完成しませんよね」

状態が続いております。

こんちくしょ――!
    材料が足らんのじゃぁぁぁああああああ!

 花形敬も、出口辰夫も、肝心なところがわっからぁぁあああああん!

なんせ、愚連隊の連中は○暴と違ってほとんどが

        な、わきゃねーだろ!ちゅう、噂話だらけ!

とりあえず、次回は石川力夫あたりでつなごうと考えてます。

  嗚呼・・・いつになったら長編に取り組めるやら・・・

つーことで保守更新!


のほ
【69】

RE:血風クロニクル  評価

野歩the犬 (2014年09月08日 13時00分)


■虹ん子さん

お〜、久しぶりぃ〜♪

無事退院したとか。

よかった、よかった (^o^)

病み上がりなのにわさわざ、足を運んでもらって、
こちらこそ恐縮です<m(__)m>


■こぱんださん

これまた、忙しいなか、すまんね。

>私も少しばかりですが(^^)気持ち。。
役に立つといいです

いや〜、なかなかできるもんじゃないよね。

自治体や国の支援もあるだろうけど、
現実、被災者の隅々に渡るのには
対象手続きがいろいろと面倒らしい。

こころざしは必ず、被災者の胸に届くとおもいます。
本当にありがとう。


■お二方へ

ちいと夏風邪気味だったが、元気です。
OLGにも顔出しできそうです。

つーて、ほとんどROMれてないので、
ついていけるかどうか ^^);
<  34  33  32  31  30  29  28  27  26  25  24  23  22  21  20  19  18  17  16  15  14  13  12  11  10  9  【8】  7  6  5  4  3  2  1  >
メンバー登録 | プロフィール編集 | 利用規約 | 違反投稿を見付けたら