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返信元の記事
【154】

RE:続カンパチ・ベルガーX  

井上陽水 (2015年04月20日 20時09分)
 

カンパチ (2015年04月19日 09時05分)
 
これは 【トピック】 に対する返信です。 
お世話になりました。

■ 154件の投稿があります。
16  15  14  13  12  11  10  9  8  7  6  5  4  3  2  1 
【152】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月29日 22時56分)

タケルに一度聞いてみたかったんだけど、


なんで、そんなに怒りが持続するんだ?。


民族的憎悪というのは、伝統的に持続するらしいけど、


個人的憎悪というのは、そうは長く続かないものだよ。


親を殺された恨み、とでもいうのでない限りはね。


タケルは、rosaさんにも、未来永劫、恨みを持ち続ける気でいるらしいけど、


なんで、いつまでも恨み続けられるのか、それが不思議でしょうがない。
【147】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

ネコまんま (2015年04月29日 21時14分)

すー様、まだ起きてるかな?

> 即立てろ

カンパチさんの自由にはダメ?

カンパチさんの気持ちを尊重してあげて欲しいです。



カンパチさん、ゴメンね。

まんまが要らない事してしまいました。


すー様、トピ上げたトキ、まんまは心臓がバクっ!・・・てしちゃった。f(^_^;

もしかして、まんまの遊び場作ってくれたのかな?


だとしたら、ありがとう・・・


んじゃ、おやすみん
【146】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

井上陽水 (2015年04月29日 20時37分)

ひとつのリンゴを君がふたつに切る

ぼくの方が少し大きく切ってある

そして二人で仲良くかじる

こんなことはなかった少し前までは

薄汚れた喫茶店のバネの壊れた椅子で

長い話に相槌うって

そしていつも右と左に別れて



このリンゴは昨日二人で買ったもの

ぼくの方がお金を出して

おつりは君がもらって

こんなことはなかった少し前までは

コーヒーカップはいつだって二つ運ばれてきて

向こうとこちらに、ウエイトレスは

さりげなくカップをわけて



ふたつめのリンゴの皮を君が剥く

ぼくの方が巧く剥けるのを君はよく知ってるけど

リンゴを強く齧る、甘い汁が唇をぬらす

左の頬を君はぷくんとふくらませて

欲張ってほおばると

ほらほら 話せなくなっちまうだろう 



↑コードが簡単なので一生懸命練習したの覚えてる

あれから40年か

図書館で借りた2000BESTに入ってた

久しぶりに

聞いたな

リンゴ

実に懐かしい
【144】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

井上陽水 (2015年04月29日 20時16分)

てか

ちゃう

ここは

キミのために立てた

落としたから

キミがトピ立てれば

即、落とす

(・∀・)オッケー!

即立てろ

彼女のためにも

アホ
【142】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月28日 22時46分)

すーさん、なんか言えよ。


怒ってんのか?。



オレは、



爆笑。




ごめん、やっぱ、おれ、ピワドから去った方が・・・。
【135】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月28日 07時30分)

すーさん、


自分の過ちを認めて、反省している人の傷口をえぐるなよ。



心臓に日本刀を突きさされたも同然だった。




だから、速攻でトピを落としたんだ。



何にも考えられなかった。



頭が真っ白になる、というのは、あ〜いうことを言うんだろうな。



あんたさ、弱り切っている人間を、とことん叩きのめすのが、そんなに面白いか?。
【134】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

井上陽水 (2015年04月27日 20時52分)

今日、久しぶりに

居酒屋兆治、観た

健ちゃんて大根だよね

オレの目が肥えたのかな

あの頃はオレが20した

今はオレが10うえ

健ちゃん若すぎる

かっこええな

立ち姿がええ

セリフが少なっくなったの理解できる

やっぱり

ケンちゃんは

死んでもらいます が ええな
【131】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 20時19分)

すーさん、


あんた、友達いないのか。



オレにもいないけどね。



このくらいにしとく。
【130】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 12時41分)

グスタフ・レオンハルト(Gustav Leonhardt オランダ語発音, 1928年5月30日 - 2012年1月16日)は、オランダの鍵盤楽器奏者・指揮者・教育者・音楽学者。ピリオド楽器による古楽演奏運動のパイオニアにして中心人物であった[1]。各種の鍵盤楽器によって録音を残しているが、とりわけチェンバロ奏者・オルガン奏者として名高い。現在の主要なチェンバロ奏者の多くはレオンハルトの弟子または孫弟子である。



目次  [非表示] 
1 経歴
2 エピソード
3 脚注
4 参考文献


経歴[編集]

オランダ北部のス・フラーフェラント('s-Graveland)でプロテスタントの家庭に生まれた。両親はともに室内楽を演奏し、実業家である父は地元のバッハ協会に所属していた。第二次世界大戦中は家族にとって困難な時代で、電気も水もなく食料もわずかだった[1]。1947年から1950年までバーゼル・スコラ・カントルムにてチェンバロをエドゥアルト・ミュラー(Eduard Müller)に師事。1950年ウィーンにおいてバッハの「フーガの技法」を演奏してチェンバロ奏者としてデビュー。同地でハンス・スワロフスキーに指揮法を学ぶ[2]。1952年から1955年までウィーン音楽アカデミーにて、また1954年よりアムステルダム音楽院にてチェンバロ教授に就任。教会オルガニストも兼務している。

残した録音は膨大で、1950年代初頭にバッハのゴルトベルク変奏曲とフーガの技法を録音[3]。1954年にレオンハルト・バロック・アンサンブルを率いて、イギリスのカウンターテノールのアルフレッド・デラーと共演し、バッハのカンタータ2曲の先駆的な録音を行った。このアンサンブルには夫人のマリー・レオンハルトと、ニコラウス・アーノンクール(チェロ)が参加している。

レオンハルトはバロックから古典派に至るさまざまな楽曲を演奏・録音してきたが、1971年から1990年まで20年がかりでアーノンクールと分担で録音した、バッハのカンタータ全集がとりわけ有名である。

チェンバロ奏者としては、バッハの作品のほかに、フランス・クラヴサン楽派やフレスコバルディの作品の録音でも知られている。
【129】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 12時40分)

ホルスト・シュタイン(Horst Stein, 1928年5月2日 - 2008年7月27日)は、ドイツの指揮者。バンベルク交響楽団終身名誉指揮者。

略歴[編集]

ラインラント地方の都市エルバーフェルト(現在はヴッパータール市の一部)生まれ。親は機械工。同郷の指揮者に、ハンス・クナッパーツブッシュ、ギュンター・ヴァントがいる。フランクフルト音楽大学やケルン音楽大学でヴァイオリン・ピアノ・作曲・指揮などを学ぶ。1949年、ヴッパータール市立劇場合唱指揮者。

1951年、ハンブルク国立歌劇場指揮者。その後ベルリン国立歌劇場を経て1963年にマンハイム国立劇場音楽監督。1952年 - 1955年、バイロイト音楽祭で、クナッパーツブッシュ、ヨーゼフ・カイルベルト、ヘルベルト・フォン・カラヤンらの助手を務める。1962年、バイロイト音楽祭でワーグナーの「パルジファル」を指揮。1970年、バイロイト音楽祭でワーグナーの「ニーベルングの指環」全曲を指揮。ワーグナー指揮者としての名声を高めた。

1970年、ウィーン国立歌劇場第一指揮者。1972年、ハンブルク国立歌劇場音楽総監督。 1973年、来日してNHK交響楽団の定期演奏会を指揮。1975年、NHK交響楽団名誉指揮者。このころから活動の中心を歌劇場から演奏会に移す。1980年、スイス・ロマンド管弦楽団音楽監督。1985年 - 1989年、ザルツブルク音楽祭に出演。1985年、バンベルク交響楽団首席指揮者。同楽団を率いて各地を演奏旅行し、来日公演も果たした。1996年、病気のためバンベルク響を離任、終身名誉指揮者の地位を贈られる。
【128】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 12時40分)

ジャン=フランソワ・パイヤール(Jean-François Paillard, 1928年4月12日 - 2013年4月15日[1][2])はフランスの指揮者。

マルヌ県ヴィトリ=ル=フランソワの出身。ソルボンヌ大学で数学を専攻した後、パリ音楽院でノルベール・デュフルクに音楽学を、ザルツブルクのモーツァルテウム音楽大学にてイーゴリ・マルケヴィチに指揮を師事するなどの音楽教育を受ける。

1953年にジャン=マリー・ルクレール器楽アンサンブルを創立。これが母体となって1959年にパイヤール室内管弦楽団が結成された。同楽団はバロック音楽や古典派音楽を専門としていたが、チャイコフスキーやドヴォルザークの弦楽セレナーデのようなロマン派音楽を稀に録音することもあった。パイヤールは後者を通じてエラート・レーベルに数々のバロック音楽を録音し、また欧米の各地で演奏旅行を行なった。

パイヤール室内管弦楽団と共演して音源を残したソリストに、モーリス・アンドレ、ジャン=ピエール・ランパル、ジェラール・ジャリ、リリー・ラスキーヌ、ピエール・ピエルロらがいる。

パイヤールはしばしばその他のアンサンブルにも客演指揮者として活躍し、また著述家としても活躍した。叢書『 Archives de la Musique Instrumentale 』の校訂者であり、また1960年には『フランス古典音楽 La musique française classique 』(渡部和夫訳・白水社クセジュ文庫)を出版している。近年では2001年に来日し、水戸室内管弦楽団を指揮してドビュッシーやファリャ、オネゲルの作品を指揮した。
【127】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 12時39分)

ズデニェク・コシュラー (Zdeněk Košler, 1928年3月25日 - 1995年7月2日)[1][2][3]は、チェコの指揮者。カリスマ的なスター指揮者ではないものの堅実でバランスの良い演奏で知られていた。東京都交響楽団の客演指揮者としてたびたび来日しており、日本でも親しまれた指揮者である。

1928年、プラハ生まれ。プラハ音楽院で作曲、ピアノ、指揮を学び、そのかたわらチェコ合唱団の指揮を執り活躍した。1948年、プラハ国民劇場の練習指揮者となり、1951年の音楽院卒業と同時に「セヴィリアの理髪師」を指揮して正式に指揮者に就任した。同年、プラハ交響楽団を指揮し、コンサート指揮者としてもデビューしている。1955年のプラハ国民劇場のモスクワ公演での「売られた花嫁」で注目を集めた。1956年にブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。1958年にオロモウツ歌劇場の音楽監督に就任。1962年にはオストラヴァのヤナーチェク歌劇場の指揮者としても活躍した(1966年まで)。1963年、ミトロプーロス国際指揮者コンクールで、クラウディオ・アッバードと同時優勝し、ニューヨークへ渡ってニューヨーク・フィルハーモニックのレナード・バーンスタインのアシスタントとして研鑽を積んだ。1966年から67年にはプラハ交響楽団の首席指揮者、1966年から68年にベルリン・コーミッシェ・オーパーの首席指揮者兼音楽監督を務めている。この間にウィーン国立歌劇場やウィーン・フィルハーモニー管弦楽団にも客演している。1971年、ブラチスラヴァのスロヴァキア国立歌劇場の音楽監督に就任。1976年からはチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者も兼ねた。1978年には東京都交響楽団の首席客演指揮者となり、1983年以降は定期招聘指揮者として、ほぼ毎年来日している。1980年プラハ国民劇場の音楽監督に就任。1985年に一旦辞任したものの、1989年に再任された。その後、1993年からはチェコ・ナショナル交響楽団を指揮してドヴォルザークやスメタナの作品を録音するといった活動も行ったが、1995年、プラハで67歳で急逝した。
【126】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 12時38分)

ヘルベルト・ブロムシュテット(Herbert Blomstedt, 1927年7月11日 - )は、アメリカ生まれのスウェーデン人指揮者。ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、バンベルク交響楽団、NHK交響楽団の名誉指揮者。スウェーデン語では [ˌhæɹːbəʈ ˈblʊmːstɛt] ヘッルベト・ブルンムステット (発音を聞く)と発音するが、日本ではドイツ語読みのブロムシュテットで知られる。



目次  [非表示] 
1 人物・来歴
2 音楽的特質
3 代表的な録音
4 エピソード
5 脚注
6 外部リンク


人物・来歴[編集]

仕事で渡米していたスウェーデン人の両親の元、マサチューセッツ州スプリングフィールドに生まれる。2歳の時に一家は帰国し、その後ブロムシュテットはストックホルム音楽大学やウプサラ大学に学んだ後、イーゴリ・マルケヴィッチに師事。さらにアメリカ合衆国に留学してジュリアード音楽学校でジャン・モレルに、タングルウッドのバークシャー音楽センターでレナード・バーンスタインに師事した。1953年にクーセヴィツキー賞を獲得し、1955年にザルツブルク指揮者コンクールで優勝する。

1954年2月にロイヤル・ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団でベートーヴェン、ヒンデミットなどの作品を指揮して指揮者として本格的にデビューする。その後、ノールショピング交響楽団、オスロ・フィルハーモニー管弦楽団、デンマーク放送交響楽団、スウェーデン放送交響楽団の首席指揮者を歴任した後、シュターツカペレ・ドレスデンの首席指揮者に就任。ドレスデンを去った後はサンフランシスコ交響楽団(1985年 - 1995年、現在は桂冠指揮者)、北ドイツ放送交響楽団(1995年 - 1998年)を経て、1998年から2005年までライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の首席指揮者を務めた(現在は名誉指揮者)。また、バンベルク交響楽団とNHK交響楽団の名誉指揮者でもある。N響との共演により、日本国内でよく知られた指揮者の一人である。

2009年11月、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団との客演指揮者としての来日公演において、東京・大阪をはじめ全国数ヶ所で、ブルックナーの交響曲第8番やドヴォルザークの交響曲第8番や第9番「新世界より」などを指揮した。特にサントリーホールで演奏されたブルックナーの「8番」は、大きな話題を呼んだ。

2011年1月、急遽静養することになったニコラウス・アーノンクールの代役として、ウィーンのモーツァルト週間に登場し、1月26日にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートを指揮した。巨匠ピエール・モントゥーと同じく、高齢でのウィーン・フィル初登壇となった。また同年6月には、ライプツィヒ市からバッハメダル賞を[1]、2014年にはスウェーデン王立科学アカデミーからショック賞音楽芸術部門を授与されている。
【125】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 12時37分)

ピエール・ブーレーズ(ブレーズ、ブゥレーズとも表記される。前の長音は後ろの長音の半分の長さであると本人は語っている Pierre Boulezの発音例)(Pierre Boulez, 1925年3月26日 - )は、フランスの作曲家および指揮者。



目次  [非表示] 
1 人物
2 作品について
3 指揮活動
4 主要作品
5 著作
6 脚注


人物

パリ国立高等音楽院でアンドレ・ヴォラブール(アルテュール・オネゲルの妻)とオリヴィエ・メシアンに対位法や作曲を師事するが中退し、ルネ・レイボヴィッツ(レボヴィツ、レボヴィス)にセリアリスムを学ぶ。作曲の弟子にはバーゼルの音楽大学で教えたハインツ・ホリガーがいる。ダルムシュタット夏季現代音楽講習会でその初期から活躍し注目される。シュトックハウゼンと共鳴するが、ノーノとは鋭く対立している。

初期にはヴェーベルンの極小セリー形式から出発。シェーンベルクの音楽に対しては次第に批判的となる[1]。また、後にはドビュッシーやストラヴィンスキーの再評価に務めた。詩人では最初にルネ・シャールを取り上げるが、後にはステファヌ・マラルメによる作品を書き、指揮活動としても徐々に前の時代の作曲家へと遡って評価する姿勢が見られる。

ジョン・ケージと往復書簡を交わすほかダルムシュタットなどで交流し、偶然性を導入する。ただしケージなどアメリカ作曲界は偶然性を不確定性(チャンス・オペレーション)として導入したのに対し、ブーレーズをはじめヨーロッパ作曲界は「管理された偶然性」とし、偶然性の結果によってどんなに音楽が異なる解釈をされようとも、全体としては作曲者の意図の範囲で統率されるべきとした。この考えに基づく作品としては「ピアノソナタ第3番」、『プリ・スロン・プリ - マラルメの肖像』などが挙げられる。
【124】

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カンパチ (2015年04月26日 12時36分)

ルドリフ・ボリソヴィチ・バルシャイ(Рудольф Борисович Баршай, Rudol'f Borisovich Barshai, 1924年8月28日 - 2010年11月2日)は、ロシアのクラスノダル近郊ラビンスカヤ(Labinskaya)出身でスイスに在住していた指揮者。



目次  [非表示] 
1 人物
2 歴任したオーケストラ
3 脚註
4 外部リンク


人物[編集]


 


ルドルフ・バルシャイ
1943年にモスクワ音楽院に入学し、ヴァイオリンをツァイトン、ヴィオラをボリソフスキーに師事した。ショスタコーヴィチにも師事したことがある。

当初はヴィオラ奏者として活躍を開始。1948年からモスクワ音楽院弦楽四重奏団(現ボロディン弦楽四重奏団)、チャイコフスキー弦楽四重奏団でヴィオラ奏者を務め、翌1949年にはブダペストで開催された世界青年学生フェスティバルで最高名誉賞を受賞している。

指揮者としてのスタートは1955年。レニングラード音楽院でイリヤ・ムーシンに師事した後、モスクワ室内管弦楽団を創設して指揮者に就任した。ソ連内でも積極的な活動を行い、ソ連の作曲家の多くの作品の初演を飾っている。また、師ショスタコーヴィチの交響曲第14番の初演指揮を行い弦楽四重奏曲第8番を「室内交響曲」として編曲している。以後も何曲か編曲している。

1976年にイスラエルへ亡命。数々のオーケストラの指揮者、音楽監督を務めた。1991年にはナチスドイツによるソ連侵攻50年記念日に、ドイツの若手演奏家(ユンゲ・ドイッチュ・フィルハーモニー管弦楽団)とモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団のメンバーで構成された臨時オーケストラの指揮をしている。1993年4月、亡命以来久しぶりにロシアに帰り、ロシア・ナショナル管弦楽団とベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」(サンクトペテルブルクで初演されている)を、モスクワ放送交響楽団とマーラーの交響曲第9番を演奏した。

初来日したのは1966年、以後たびたび来日。2004年12月には急病のシャルル・デュトワの代役でNHK交響楽団定期演奏会を振っている(偶然、直前の名古屋フィルハーモニー交響楽団の演奏会に客演しており、本来デュトワが指揮する予定だった曲目がバルシャイが得意とする室内管弦楽主体のものだったための人選だったようである)。
【123】

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カンパチ (2015年04月26日 12時35分)

クラウディオ・シモーネ(Claudio Scimone, 1934年12月23日 - )はイタリアの指揮者。パドヴァ出身。

人物[編集]

イ・ソリスティ・ヴェネティ創設者ならびにリスボン・グルベンキアン管弦楽団の名誉指揮者。ディミトリ・ミトロプーロスとフランコ・フェラーラに師事。指揮者としての国際的名声に加えて、音楽学者としても活動してきた。

多くのバロック音楽やルネサンス音楽の復活に寄与し、録音は150点を超える。ディスク・グランプリ(Grand Prix du Disque)などの受賞歴もある。

学究然とした容貌で、指揮のスタイルは端正であるが、人柄はユーモアに富んでいて、その人格的魅力にも高い人気がある。
【122】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 12時35分)

スタニスワフ・スクロヴァチェフスキ(Stanisław Skrowaczewski, 1923年10月3日 - )は、ポーランド出身の指揮者、作曲家。ファースト・ネームは日本では「スタニスラフ」と表記されることが多い。名前が長く読みにくい為、欧米では略してMr.Sとも呼ばれる。



目次  [非表示] 
1 略歴
2 指揮者としての活動
3 作曲家としての活動
4 来日歴
5 主なポスト


略歴[編集]

ポーランドのルヴフ(現ウクライナ)生まれ。4歳でピアノとヴァイオリンを始め、7歳でオーケストラのための作品を作曲したという。11歳でピアニストとしてリサイタルを開き、13歳でベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番を弾き振りするなど、神童ぶりを発揮した。しかし、第二次世界大戦中の1941年、ドイツ軍の空襲によって自宅の壁が崩れて手を負傷したため、ピアニストの道を断念。以後、作曲と指揮に専念するようになる。

1946年にブロツワフ・フィルハーモニー管弦楽団の、1949年にカトヴィツェ・フィルハーモニー管弦楽団の、1954年にクラクフ・フィルハーモニー管弦楽団の、それぞれ指揮者を務める。1956年、ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任。同年、ローマの国際指揮者コンクールに優勝。1958年には、ジョージ・セルから招かれて渡米。クリーブランド管弦楽団を指揮してアメリカデビューを果たす。

その後も、1960年-1979年ミネアポリス交響楽団(現ミネソタ管弦楽団)音楽監督。(現在桂冠指揮者。)1984年-1991年、イギリスのハレ管弦楽団(マンチェスター)首席指揮者。1994年からザールブリュッケン放送交響楽団(現ザールブリュッケン・カイザースラウテルン・ドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団)の首席客演指揮者を務める。2007年4月-2010年3月、読売日本交響楽団第8代常任指揮者を務め、2010年4月から同団桂冠名誉指揮者。

2011年5月には病気療養のためキャンセルした小澤征爾の代役として25年ぶりにベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮台に立ち、聴衆はもとより楽団員からも絶賛された。日本では、NHK交響楽団と読売日本交響楽団、さらに札幌交響楽団に客演している。2011年8月には、フレデリック・ハリス(マサチューセッツ工科大学ウインド・アンサンブル指揮者)の著による伝記「Seeking The Infinite : The Musical Life of Stanislaw Skrowaczewski」が出版された。

アメリカ国籍を取得し、現在はアメリカ・ミネアポリス市在住。
【121】

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カンパチ (2015年04月26日 12時34分)

ヴォルフガング・サヴァリッシュ(Wolfgang Sawallisch, 1923年8月26日 - 2013年2月22日)は、ドイツ、バイエルン州ミュンヘン生まれの指揮者・ピアニスト。



目次  [非表示] 
1 概要
2 日本との関係
3 演奏スタイル・レパートリー
4 エピソード
5 著作
6 出典
7 参考文献
8 外部リンク


概要[編集]

幼少期からピアノ、音楽理論、作曲を相次いで学ぶ。指揮も、現代音楽の指揮で名高いハンス・ロスバウトに師事する。第二次世界大戦で通信兵として徴兵され、大戦後は1947年にアウクスブルク市立歌劇場でフンパーディンク作曲のオペラ「ヘンゼルとグレーテル」でデビューする。この指揮が高く評価され、第一指揮者に抜擢される。次いで1949年にはピアノ奏者としてヴァイオリニストのゲルハルト・ザイツと共演し、ジュネーヴ国際音楽コンクールの二重奏部門で1位なしの2位となる。以後、指揮者とピアニスト(主にリートの伴奏者)としての活動を並立させる。

1953年にはアーヘン、1958年にヴィースバーデン、1960年にケルンのそれぞれの市立歌劇場の音楽総監督に就任する。その間の1957年にはロンドン・デビュー(エリーザベト・シュヴァルツコップの伴奏者[1]、フィルハーモニア管弦楽団の指揮)と、バイロイト音楽祭初出演を果たす。33歳でのバイロイトへの出演は当時の最年少記録だった(1960年にロリン・マゼールが30歳で初出演し、現在はこれが最年少記録)。

これらの成功で、カラヤンはサヴァリッシュをウィーン国立歌劇場に、一方でルドルフ・ビングも当時支配人であったメトロポリタン歌劇場に引っ張りこもうとした。しかしサヴァリッシュは、自分はまだ経験不足だということを理由にいずれも断っている。結果的にこれが、プライドの高い2人の逆鱗に触れてしまい、カラヤンからは一度もベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に招かれることがなく、また生涯一度もメトロポリタン歌劇場で指揮することなく終わった[2]。

歌劇場での活躍の一方で、オーケストラの音楽監督でも活躍し、ウィーン交響楽団やハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団、スイス・ロマンド管弦楽団の首席指揮者を歴任した。スイス・ロマンド管弦楽団では創設者エルネスト・アンセルメ亡き後のオーケストラの再構築に尽力した(この再構築を評価する者と「アンセルメの響きが失われた」として評価しない者に二分している)。1971年からはバイエルン国立歌劇場の音楽監督(1982年から1992年は音楽総監督)に就任した。若手の逸材歌手を積極的に登用し、出演者の相対的な若返りに成功した。1988年には、ミュンヘン・オペラ・フェスティバルにおいて、リヒャルト・シュトラウスのすべてのオペラを上演して話題を呼んだ。

バイエルンのポストを退任後、リッカルド・ムーティの後任としてフィラデルフィア管弦楽団の音楽監督に就任した。フィラデルフィアのポストを退任した後は特定のポストには就かず、フリーの指揮者となっていたが、2006年3月に、5月以降に予定していたフィラデルフィアやローマなどでのコンサートを心臓病の悪化を理由にキャンセルし、現役からの引退を事実上表明した。2013年2月22日、バイエルン州グラッサウ(ドイツ語版)にある自宅で死去した[3]。
【120】

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カンパチ (2015年04月26日 12時33分)

ヴァーツラフ・ノイマン (Václav Neumann, 1920年9月29日 - 1995年9月2日) は、チェコの指揮者。1968年から20年以上にわたってチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務め、同管弦楽団の国際的な名声を築き上げた。



目次  [非表示] 
1 生涯
2 レパートリー
3 脚注
4 参考文献


生涯[編集]

プラハ生まれ。プラハ音楽院でヴィオラを学ぶかたわら、同時に指揮をヴァーツラフ・ターリヒに学んだ。在学中から音楽院内の弦楽四重奏団でヴィオラ奏者を務めた。1945年にチェコ・フィルハーモニー管弦楽団(以後「チェコpo」と略記)のヴィオラ奏者となる。同じ年に音楽院時代の弦楽四重奏団がスメタナ弦楽四重奏団として正式にデビューした。1947年、当時チェコpoの首席指揮者であったラファエル・クーベリックが急病となり、その代役として指揮者デビューを果たし、これ以後指揮に専念するためスメタナ弦楽四重奏団を退団した。さらに、1948年にクーベリックが共産党支配体制に反発し祖国を離れるとチェコpoの常任指揮者となった。

1950年、クーベリックの後任にカレル・アンチェルが就任すると同楽団を離れ、ブルノ交響楽団、プラハ市交響楽団で指揮を執り、その後活躍の場を東ドイツに移す。1957年から1964年までベルリン・コーミッシェ・オーパーの首席指揮者、1964年にはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の音楽監督およびライプツィヒ市の音楽監督に就任した。

1968年、プラハの春にソヴィエトが介入するとアンチェルはカナダに亡命、ノイマンはその後任としてチェコpoの首席指揮者に就任し、祖国に戻った。この際、ソ連の介入に東ドイツが同調し東ドイツ軍を参加させたことに抗議して、ライプツィヒのポストを辞任している。その後1970年から1973年までシュトゥットガルト国立歌劇場の音楽監督を兼任しているが、1990年に名誉指揮者となるまでの22年間チェコpoの首席指揮者の地位にあり、数々のツアーやレコーディングを通じ、同管弦楽団の国際的名声を築き高めていった。この頃、ウィーン音楽院の教壇にも立っている。日本へも1969年の初来日以降、9度来日し演奏を行った。

1989年、チェコ国内で発生したビロード革命では一貫して反体制派側につき、11月17日〜20日の間スメタナホールにおいて連日スメタナの「わが祖国」を演奏して学生ら活動家を応援し、民主化が成功した直後の12月14日には新大統領のヴァーツラフ・ハヴェルを招いてベートーベンの第9を演奏するなど、さまざまな面で活躍した。この直後、イルジー・ビエロフラーヴェクに首席指揮者の地位を譲るが、その後もチェコ・フィルとの活動は継続した。

1995年9月2日、滞在先のウィーンで逝去した。
【119】

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カンパチ (2015年04月26日 12時33分)

ヘルベルト・ケーゲル(Herbert Kegel, 1920年7月29日 - 1990年11月20日)は、ドイツのオーケストラ・合唱指揮者。

生涯[編集]

ドレスデンに生まれ、幼いうちから聖十字架合唱団の団員となる。はじめはピアニストを志すが、第2次世界大戦中に東部戦線で手榴弾の破片を受けて負傷し、指揮に転向した。指揮をアルフレッド・シュティアー、カール・ベーム、作曲をボリス・ブラッハー、パウル・デッサウに師事。

ドレスデン郊外のピルナで指揮者としての活動を開始するが、まもなくロストックに移る。1949年にヘルマン・アーベントロートのアシスタントとしてライプツィヒに招かれ、ライプツィヒ放送交響楽団、ライプツィヒ放送合唱団の指揮者となる。ライプツィヒ放送合唱団は今でも優秀な合唱団として評価が高いが、ケーゲルはその礎を築いた一人である。1956年アーベントロートの死去に伴い1978年までライプツィヒ放送交響楽団の首席指揮者となり、その後ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者となる。

1979年に初来日し、その後もたびたび日本を訪れている。NHK交響楽団を指揮した演奏記録の一部はCDとして発売されている。

ケーゲルは、ドイツ再統一の直後、1990年に拳銃自殺した。もともと彼は以前から何度か希死念慮を抱いていたといわれているが、統一後に自らの仕事の場所が無くなっていったことへの苛立ち、それによる周囲との不和で鬱状態に陥ったことが原因と考えられている。このさい、ライバルと見られていたクルト・マズアから嫌がらせをされていたという指摘もある。また、息子の病気を心配していたこと、社会主義思想を持っていたとされる彼が、事実上東ドイツが西ドイツに吸収される形での統一したドイツの将来を絶望したためではないか、と言われることもある。

旧東独時代の放送用録音を含め、古典派から現代音楽に至る膨大な録音を残し、現代音楽に理解の少ない共産圏においてそれらの普及にも力を尽くしたが、彼の活動は必ずしも正当な評価を受けるに至っていない。
【118】

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カンパチ (2015年04月26日 12時31分)

ウィリアム・スタインバーグ(William Steinberg, 1899年8月1日 - 1978年5月16日)は、ユダヤ系ドイツ人の指揮者。第二次世界大戦後にアメリカを中心に活動しており、もっぱら英語名で知られる。

略歴[編集]

ケルンに生まれ、本名はハンス・ヴィルヘルム・シュタインベルク(Hans Wilhelm Steinberg)といった。1933年にナチスによりフランクフルト歌劇場から引退を余儀なくされた上、演奏活動を制限されたことから、1936年にイギリス委任統治領パレスチナに移住した。同地でブロニスワフ・フーベルマンらと共にパレスチナ交響楽団(現イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団)を結成し、指揮者を務める。

第二次世界大戦後に欧米の楽壇に復帰し、1945年から1953年までバッファロー・フィルハーモニー管弦楽団を、1950年代にはロンドン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した。1969年から1972年までボストン交響楽団音楽監督を務めた。しかし一般的には、1952年から1976年までのピッツバーグ交響楽団の指揮者としての活動、とりわけ名ヴァイオリニスト、ナタン・ミルシテインの伴奏者として有名である。ピッツバーグ交響楽団とは日本での公演も行なっている。

ニューヨークで他界した。息子のピンカス・スタインバーグも指揮者である。
【117】

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カンパチ (2015年04月26日 12時30分)

ヤッシャ・ホーレンシュタイン(Jascha Horenstein, ウクライナ語: Яша Горенштейн, 1898年5月6日 - 1973年4月2日)は、ウクライナ出身のアメリカ合衆国で活躍したユダヤ系指揮者。

生涯[編集]

オーストリア人を母親にキエフに生まれる。1911年に家族に連れられウィーンに転居し、同地でフランツ・シュレーカーほかに師事する。その後、ベルリンに移ってヴィルヘルム・フルトヴェングラーの助手を務める。1920年代にはウィーン交響楽団やベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮する。ナチスが権力を掌握すると亡命を余儀なくされ、1940年に渡米、最終的にアメリカ国籍を取得した。ロンドンで他界している。
【116】

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カンパチ (2015年04月26日 12時29分)

パウル・ヒンデミット (Paul Hindemith, 1895年11月16日 - 1963年12月28日)は、ドイツ・ハーナウ出身の作曲家、指揮者、ヴィオラ奏者。その他にもヴァイオリン、クラリネット、ピアノなど様々な楽器を弾きこなす多才な演奏家であった。

第一次世界大戦後、ロマン派からの脱却を目指し、新即物主義を推進。20世紀ドイツを代表する作曲家として同時代の音楽家に強い影響を与えた。また生涯に600曲以上を作曲。交響曲やオペラばかりではなく、オーケストラを構成するほぼすべての楽器のためのソナタを作曲した。



目次  [非表示] 
1 経歴
2 作風
3 音楽論
4 主な作品 4.1 歌劇
4.2 付随音楽
4.3 映画音楽
4.4 管弦楽曲
4.5 吹奏楽曲
4.6 協奏曲
4.7 室内楽曲
4.8 独奏曲
4.9 ピアノ曲
4.10 歌曲
4.11 合唱曲
4.12 その他の作品

5 著作
6 教え子
7 関連事項
8 外部リンク


経歴[編集]

1895年11月16日ドイツのハーナウに生まれる。11歳の時に音楽家になる決心をしてフランクフルトのホッホ音楽院でヴァイオリンを学ぶかたわら、作曲も専攻する。

その後ヴァイオリン奏者として音楽家としてのキャリアを開始し、一時映画館のジャズバンドで演奏していたこともあったが、20歳の時にフランクフルト・ムゼウム管弦楽団(フランクフルト歌劇場管弦楽団)のコンサートマスターを務めている。

第一次世界大戦に従軍、除隊後、弦楽四重奏団のヴィオラ奏者を務める。その後、ヴィオラのソロ奏者としての活動を行うとともに、多くの作曲を行う。1920年に結成したアマール弦楽四重奏団では、8年間にわたり活動し、自身の作曲した『弦楽四重奏曲第2番』の初演などを行っている。ヴァイオリンのシモン・ゴールドベルク、チェロのエマヌエル・フォイアーマンとの三重奏は有名で、自身が演奏するための弦楽三重奏曲も作曲している。1927年から、ベルリン音楽大学の作曲科の教授を務めている。

1934年には、代表作のオペラ『画家マチス』を作曲するが、ドイツ人でありながらナチスの意に沿う保守的作品を作曲しなかったため、「退廃音楽」であるとの烙印を押され、弾圧を受ける(ヒンデミット事件)。1935年にはトルコ政府からの依頼で、音楽教育の編成に携わり、アンカラ音楽院の開校に尽力した。

1938年にスイスへ亡命、さらに1940年にはアメリカに亡命し、市民権を得て、イェール大学の教授に就任している。アメリカ時代の教え子にはルーカス・フォス、ノーマン・デロ=ジョイオ、映画監督のジョージ・ロイ・ヒルらがいる。第二次世界大戦終結後の1953年にようやくスイスへ帰還。ウィーン音楽院の教壇にも立ち、1956年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の初の日本への演奏旅行に指揮者として来日している。

1963年、フランクフルトにて死去。
【115】

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カンパチ (2015年04月26日 12時29分)

サー・ハロルド・マルコム・ワッツ・サージェント(Sir Harold Malcolm Watts Sargent, 1895年4月29日 - 1967年10月3日)は、イギリスの指揮者、オルガニスト、作曲家。

生涯[編集]

ケント州アシュフォード(英語版)出身。初めはオルガニストだったが、1921年、ヘンリー・ウッドの招請によりクイーンズホール管弦楽団の指揮台に立ち、自作の管弦楽曲「強い嵐の日の印象」(Impression on a Windy Day)作品9を振った指揮者デビューは大成功に終わり、以後指揮者としてロンドンを中心にキャリアを重ねる。

1928年にはロイヤル・コーラル・ソサエティの合唱指揮者に就任、死に至るまでこのポストに留まる。1931年、ウォルトンの「ベルシャザールの饗宴」(Belshazzar's Feast)の初演を指揮している。翌1932年、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団が創設されるとその客演指揮者の中心を占め、1942年から6年間にわたってリヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団(現ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団)の常任指揮者を務めた。この間、1947年にはナイトの称号が授与されている。
【114】

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カンパチ (2015年04月26日 12時28分)

アレクサーンドル・ワシーリエヴィチ・ガーウク(ロシア語: Алекса́ндр Васи́льевич Га́ук / Aleksandr Vassilievich Gauk, 1893年8月15日 オデッサ - 1963年3月30日 モスクワ)は、ウクライナ出身のソ連邦の指揮者・作曲家。エフゲニー・ムラヴィンスキーやアレクサンドル・メリク=パシャーエフ、コンスタンチン・シメオノフ、エドゥアルド・グリクロフ、ニコライ・ラビノヴィチ、エフゲニー・スヴェトラーノフ、ゲンナジー・プロヴァトロフらとともに、戦後のソ連楽壇において指導的役割を果たした。チャイコフスキーやムソルグスキーの管弦楽曲を得意としたが、アレンスキーやプロコフィエフ、ハチャトゥリアン、ショスタコーヴィチなどの作品も演奏・録音した。厖大な数の録音を遺したにもかかわらず、現在のところ入手できる音源は限られている。 


目次  [非表示] 
1 略歴
2 註釈
3 外部リンク 3.1 音源



略歴[編集]

本人の回想によると最初の音楽体験は、軍楽隊や、母親がピアノで伴奏しながら歌っているのを聞いたことであるという。7歳でピアノを始める。17歳でペテルブルク音楽院に進学し、アレクサンドル・グラズノフやワシーリー・カラファーティ、ヤーセプス・ヴィートリス、ニコライ・チェレプニンならびにフェリックス・ブルーメンフェリトに師事した。在学中に教師に連れられ、クロード・ドビュッシーやリヒャルト・シュトラウス、アルトゥール・ニキシュが指揮する様子を見学したという[1]。1912年に学生オーケストラを指揮して初めて指揮を経験し、1917年10月1日にペトログラード音楽演劇劇場において、ピョートル・チャイコフスキーの歌劇《チェレヴィチキ》の公演により、職業指揮者として初舞台を踏んだ。1920年代は大半をマリインスキー劇場バレエ団の指揮者として過ごし、バレリーナのエレーナ・ゲルトと結婚した[1]。

1930年から1934年までレニングラード・フィルハーモニー交響楽団の首席指揮者を務め、その間1931年11月6日に、同楽団を指揮して、ショスタコーヴィチの《交響曲第3番「メーデー」》作品20を初演した。1932年よりモスクワで活動し、1936年から1941年まで、新設された放送管弦楽団(後のソヴィエト国立交響楽団)の首席指揮者に迎えられた。1941年から1943年までの2年間は、トビリシ音楽院で教鞭を執り、グルジア国立交響楽団を再生させた[1]。1943年にモスクワ音楽院の資料室において、ラフマニノフの《交響曲第1番ニ短調》のパート譜を発見し、散逸した総譜を再構成することに成功した。1953年から1961年までモスクワ放送交響楽団の音楽監督に就任している。1958年来日。

作曲も手懸け、交響曲や室内楽曲、ピアノ曲を遺した。未完に終わったが、自叙伝も執筆していた[1]。
【113】

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カンパチ (2015年04月26日 12時27分)

パウル・ファン・ケンペン(Paul van Kempen, 1893年5月16日 - 1955年12月8日)は、オランダ出身のドイツの指揮者。

略歴[編集]

オランダの南ホラント州ズーテルヴァウデに生まれる。アムステルダム音楽院でユリウス・レントヘン(レントゲン)、ベルナルド・ズヴェールスに作曲および指揮を、ルイ・ジマーマンにヴァイオリンを学び、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の第2ヴァイオリニストとして音楽キャリアをスタートさせた。1932年にドイツ国籍を取得、1933年に指揮者としてデビューする。1934年にドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任し、1942年から1944年までヘルベルト・フォン・カラヤンの後任としてアーヘン市立歌劇場の音楽監督を務めた。第二次大戦後、活動の場を故国に移したが、ドイツ国防軍の慰問演奏会を行うなどといった戦時中のナチス政権とのかかわりが問題視され、物議を醸した。1955年、アムステルダムにて没。
【112】

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カンパチ (2015年04月26日 12時27分)

ヴィクトル・デ・サバタ(Victor De Sabata, 1892年4月10日 - 1967年12月11日)はイタリアの指揮者・作曲家。



目次  [非表示] 
1 略歴 1.1 作曲家として
1.2 指揮者として
1.3 ミラノ・スカラ座
1.4 晩年

2 文献


略歴[編集]

作曲家として[編集]

サバタは、ミラノ・スカラ座の合唱指揮者でカトリックの父とユダヤ人の母の息子として、当時はオーストリア=ハンガリー帝国領だったトリエステに生まれた。1902年から1910年までミラノのジュゼッペ・ヴェルディ音楽院で作曲を学び、卒業後作曲活動に入ったサバタの作品はセラフィンやトスカニーニによって採り上げられ、ドイツではリヒャルト・シュトラウスがサバタの作品を指揮、1917年にはサバタが作曲した歌劇『岩石』がスカラ座の舞台にかかり、大成功をおさめている。

指揮者として[編集]

1918年、サバタはモンテカルロ歌劇場の指揮者として指揮者デビュー。1921年にはローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団を指揮して管弦楽の世界にも足を踏み入れている。1925年、ラヴェルの歌劇『子供と魔法』の世界初演を成功に導き、初演の翌日サバタは作曲者からの賞賛の手紙を受け取ったという。1929年、サバタはプッチーニの歌劇『西部の娘』でスカラ座にデビュー(厳密に言うとサバタはスカラ座管弦楽団のコンサートという形で1926年にデビューしている)を果たす。その同じ年にはアメリカのシンシナティ交響楽団にも客演している。
【111】

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カンパチ (2015年04月26日 09時00分)

アルトゥール・ロジンスキ (Artur Rodziński, 1892年1月1日 - 1958年11月27日)は、オーストリア出身の、アメリカ合衆国で活躍した指揮者。[1][2][3][4]



目次  [非表示] 
1 生涯
2 レコーディング 2.1 主な録音

3 逸話


生涯[編集]

ポーランド人を両親に、オーストリア=ハンガリー帝国領スパラト[5]に生まれる。現在はウクライナ領のリヴォフで育ち、同地の大学で法学を学んだ。1914年に、オーストリア・ハンガリー帝国の軍医だった父親の転勤により、家族とともにウィーンに行き、引き続き法学を研究。そのかたわらでウィーン音楽アカデミー(旧名ウィーン音楽院)に進学する。1916年に法学博士の学位を取得。第一次世界大戦後、1918年に、当時ポーランド領だったリヴォフに戻り、歌劇「エルナーニ」を指揮して指揮者としてデビューする。その後は渡米し、1925年から1929年までレオポルド・ストコフスキー率いるフィラデルフィア管弦楽団のもとで勤める。1929年からはカリフォルニア州に移動し、4年間にわたってロサンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団を指揮。1933年から1943年まで、クリーヴランド管弦楽団の音楽監督に就任し(1933年にアメリカ国籍を取得している)、在任期間中に数度のオペラ上演にも携わった。1936年にはザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮。その際に知り合ったアルトゥーロ・トスカニーニの依頼で、NBC交響楽団の練習指揮者に就任。トスカニーニ着任までの間にオーケストラをトスカニーニ好みに合うよう徹底的に鍛え上げた(ただし、訓練があまりにも峻烈すぎたためか、オーバーヒートを恐れたNBC側は、タイプの異なるピエール・モントゥーも訓練指揮者として招聘した)。
【110】

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カンパチ (2015年04月26日 09時00分)

ヘルマン・シェルヘン(Hermann Scherchen、1891年6月21日 - 1966年6月12日)は、ドイツ出身の指揮者[1]、作曲家。現代音楽の推進者として知られた。「ヘルマン・シェルヒェン」とも呼ばれる。

生涯[編集]

ベルリンの酒場の息子として生まれ、ヴィオラを学ぶ。家計が苦しく、1907年からブリュートナー管弦楽団、ベルリン・フィル、クロール・オペラなどでヴィオラ奏者として活動する一方、ナイトクラブなどでも演奏した。

1912年にはシェーンベルクとそのグループに出会い、11月5日、ミュンヘンでシェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』を演奏し、指揮者としてデビューした。リガ交響楽団の指揮者としてロシアに滞在中、第一次世界大戦が勃発し、捕虜として抑留されたが、音楽活動は継続、弦楽四重奏曲などの作曲を行った。

1918年にベルリンに戻り、以後、ドイツを中心としたヨーロッパ各地のオーケストラで指揮活動を行った。ヒンデミットやクルシェネク、オネゲルなど現代音楽の初演も数多い。一方で、音楽教育や、労働者合唱団の指導にも力が注がれ、さらに新音楽擁護のための雑誌を発刊するなど、精力的に活動した。

シェルヘン自身はアシュケナジム・ユダヤ系ではなかったが、1933年にナチス政権が成立すると、これに反対してスイスに移住、第二次世界大戦が始まるまでは、ドイツを除く欧州諸国のほか、パレスチナや中国にまで足を伸ばした。1936年には、本番直前に指揮をキャンセルしたヴェーベルンの代役として、ベルクのヴァイオリン協奏曲をルイス・クラスナーとともにバルセロナで初演している。しかし、開戦後はほぼスイス国内のみに活動範囲が制約された。
【109】

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カンパチ (2015年04月26日 08時59分)

シモン・ゴールドベルク(Szymon Goldberg[1] 、1909年6月1日 ポーランド/ヴウォツワヴェク - 1993年7月19日 日本/富山県大山町(現富山市))は、ポーランド出身のユダヤ系のアメリカのヴァイオリン奏者・指揮者。最後の夫人は山根銀二の姪でピアニストの山根美代子。

少年時代にワルシャワでヴァイオリンを学び、1917年よりベルリンでカール・フレッシュに入門。12歳でワルシャワでデビューし、センセーションを呼ぶ。1925年にわずか16歳でドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターに就任するが、1929年に退団。同年、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの招きで、弱冠20歳でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターに就任。1930年には、パウル・ヒンデミットやエマヌエル・フォイアーマンと弦楽三重奏団を結成して室内楽演奏を、またピアニストのリリー・クラウスとはデュオを組んでソリストとしての演奏を精力的に続ける。

しかしナチスによる政権奪取の後、1934年に国籍と民族を理由にベルリン・フィルより退団を余儀なくされる。1938年にソリストとしてニューヨークにデビューした後、1942年からアジア楽旅を行なった折、日本軍により、1945年までジャワ島での抑留生活を強いられる。ようやく戦後に再渡米し、1953年にアメリカに帰化した。

1951年から1965年までの15年間にわたって、アスペン音楽学校で教鞭を執るかたわら、指揮活動にも着手。1955年にアムステルダムにてトーマス・マジャールらと共にネーデルラント室内管弦楽団(オランダ室内管弦楽団)を結成し、以後22年間にわたって同楽団を指導し、ともに演奏旅行も行なった。1977年から1979年までマンチェスター・カメラータの指揮者に転ずる。
【108】

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カンパチ (2015年04月26日 08時58分)

ダヴィート・フョードロヴィチ・オイストラフ(あるいはオイストラッフとも、Давид Фёдорович Ойстрах, David Fiodorovich Oistrakh、1908年9月30日 - 1974年10月24日)は、ソ連(現在はウクライナ)のオデッサ出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。息子イーゴリ・オイストラフもヴァイオリニストである。



目次  [非表示] 
1 概要
2 使用楽器
3 関連項目
4 外部リンク


概要[編集]

数多くの録音と、数々の献呈されたヴァイオリン作品を誇る。とりわけショスタコーヴィチやハチャトゥリアン、ヒンデミットの協奏曲の録音で著名だが、ブラームスやチャイコフスキー、ブルッフなど、より古典的なレパートリーにも通じていた。ロシア内外のオーケストラとの共演も数多く、ロストロポーヴィチやリヒテル、カラヤン指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とともに演奏したベートーヴェンの『三重協奏曲』、コンヴィチュニー(右側の写真中央)指揮のシュターツカペレ・ドレスデンとともに演奏したチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲およびブラームスのヴァイオリン協奏曲の録音が知られている。

オイストラフは学生時代はヴィオラを演奏しており、生まれついてのヴァイオリニストではなかった。1935年のヴィエニアフスキ国際ヴァイオリン・コンクールでは、15歳のジネット・ヌヴーに敗れて、第2位に甘んじている。名ヴァイオリニストとの評価が広められたきっかけは、1937年、ブリュッセルのウジェーヌ・イザイ・コンクール(現:エリザベート王妃国際音楽コンクール)で首位をかち取り、世界の檜舞台にその名を轟かせたからだった。その後はモスクワ音楽院で教鞭を執るかたわら演奏活動を続けたが、ソ連が第二次世界大戦に参戦すると、最前線に出て慰問演奏を行なった。

教師としても声望に恵まれ、ギドン・クレーメル等が門人にいる。息子のイーゴリ(1931年4月27日 - )も指揮者、ヴァイオリニストとして著名で、しばしば親子で共演し、録音を残した。

1974年にアムステルダムで演奏旅行中に客死、遺体はモスクワに送られ、同地で埋葬された。
【107】

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カンパチ (2015年04月26日 08時57分)

ヴァーツラフ・スメターチェク(Václav Smetáček, 1906年9月30日 - 1986年2月18日)は、チェコの指揮者・オーボエ奏者・作曲家。

経歴[編集]

プラハで指揮法をメトド・ドレジルとパヴェル・ジェデチェクに師事するかたわら、プラハ大学で音楽学・美学・哲学を修める。プラハ木管五重奏団の創設メンバーであり、その演奏活動のために編曲や新作の提供もこなした。1930年から1933年までチェコ・フィルハーモニー管弦楽団に入団し、1934年から1943年までチェコ放送局の指揮者ならびに編集者を務めた。1945年からプラハ大学やプラハ芸術アカデミーの教員となる。

プラハ交響楽団の指揮者として、いくつかの改革に着手した。古い時代の作品と、20世紀音楽の両方にレパートリーを押し広げたことはその一つであり、モーツァルトやケルビーニ、レイハ、ドヴォルジャーク、フェルステル、マルティヌー、オルフのほかに、ミロスラフ・カベラーツやルーボス・フィシェルの管弦楽曲がプラハ交響楽団のレパートリーに採用された。1938年からは国外でも演奏し、ヨーロッパや海外の音楽の中心地からも招待を受けるようになった。もっぱらコンサートの指揮者であったといえるが、オペラについても熟知していた。その幅広い活躍から「チェコのカラヤン」と称されたとの記載がCD解説にある。
【106】

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カンパチ (2015年04月26日 08時56分)

アンドレ・クリュイタンス(André Cluytens, 1905年3月26日 - 1967年6月3日)は、ベルギーのアントウェルペン出身の指揮者である。

生涯[編集]

アンドレ・クリュイタンスは1905年3月26日、アントウェルペンで代々音楽家の家系に生まれた。父も音楽家で、幼少時より音楽教育を受けて育った。9歳からアントウェルペン王立音楽院でピアノ・和声・対位法を学び(同窓に作曲家のジェフ・マースがいた)、同時に王立劇場の指揮者であった父からも教えを受けた。多言語国家ベルギーは、フランス語、フラマン語(オランダ語の近縁言語)、ドイツ語を公用語としているものの、話者の割合は前二者が圧倒的で、ドイツ語は王室の言語でありながら1%程度しか使用人口がない。しかし、クリュイタンスの父は「フラマン語のオペラなどないのだから、そんなものを学んでもどうにもならない」と言って息子にドイツ語を教えたという。このようにしてフランスのラテン系文化とドイツのゲルマン系文化を幼少時より身につけ、この教養は、クリュイタンスがドイツ音楽とフランス音楽という、一般には相反すると考えられるジャンルの音楽を自在に演奏することに繋がっている。ドイツ音楽も得意とするフランス語圏出身の指揮者としては、ピエール・モントゥーと双璧的存在と評価されている(他にドイツ系アルザス人のミュンシュもいる)。

アントウェルペン王立音楽院を卒業し、1922年に王立歌劇場の合唱指揮者となる。1927年には同歌劇場第一指揮者に任命され、ビゼーの歌劇『真珠採り』をヨーゼフ・クリップスの代役として指揮し、高く評価される。1932年からフランスの歌劇場でも活動を始める。その後もキャリアを重ね、1944年にパリ・オペラ座の指揮者となり、1949年にはミュンシュの後任としてパリ音楽院管弦楽団の首席指揮者に就任する。以降1967年にクリュイタンスが逝去するまでこのコンビは黄金時代を築くことになる。それと並行してフランス国立放送管弦楽団、ベルギー国立管弦楽団の指揮も兼任した。
【105】

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カンパチ (2015年04月26日 08時55分)

エフゲニー・アレクサンドロヴィチ・ムラヴィンスキー(エヴゲーニイ・アレクサーンドロヴィチ・ムラヴィーンスキイ;ロシア語:Евгений Александрович Мравинский, イヴギェーニイ・アリクサーンダラヴィチュ・ムラヴィーンスキイ;ラテン文字転写の例:Evgeny Aleksandrovich Mravinsky、1903年6月4日[1] - 1988年1月19日)は、ロシアの指揮者。20世紀におけるソ連・ロシア・東側諸国指揮界の第一人者、世界でも有数の指揮者の一人に挙げられる。

若い頃は作曲家を志しピアノ曲を中心に作曲もしたが、作曲家への道は断念した。ムラヴィンスキーは自身が貴族階級出身であった為、革命後の共産主義国家で作曲家になることは難しいと考えたのではないかとアレクサンドラ夫人は述べている(毎日新聞)が、断念した実際の理由は不明である。



目次  [非表示] 
1 略歴
2 レニングラード・フィルの常任指揮者として
3 芸格とエピソード 3.1 人物像
3.2 リハーサル

4 日本との関係
5 代表的なレパートリー 5.1 ショスタコーヴィチ
5.2 チャイコフスキー
5.3 その他

6 映像
7 作品
8 脚注
9 参考文献(日本語:出版年順)


略歴[編集]
1903年 - 帝政期サンクトペテルブルクにて、非常に高い地位を有する貴族であり法律家の父と、歌手であり音楽に対し造詣の深い母との間に誕生。また、父方の伯母も有名な歌手であった。
1909年 - 6歳の時からピアノを学びはじめる。
1917年 - ロシア革命により一家は財産を没収され、アパート一室の雑居生活を強いられる。
1920年 - ペトログラード大学に入学し、生物学を専攻する。同年に父親が亡くなる(父親はこのアパート一室の生活に耐えられず、心労のあまり倒れた)。生活費捻出のためにマリインスキー劇場のパントマイムの端役を務める。
1924年 - レニングラード音楽院に入り直し、作曲と指揮を学ぶ。指揮法をアレクサンドル・ガウクとニコライ・マルコに学んだ。
1931年 - レニングラード音楽院を卒業。マリインスキー劇場(当時の名称はレニングラード・バレエ・アカデミー・オペラ劇場)で指揮者デビューを果たし、以後1938年までこの職にとどまる。また、初めてレニングラード・フィルハーモニー交響楽団に招待され指揮をする。
1934年 - レニングラード・フィルハーモニー交響楽団で定期的な客演を開始する。
1937年 - ショスタコーヴィチの第5交響曲を初演する。
1938年 - 全ソ指揮者コンクールに優勝。このときの審査員に「彼は我々の文化の中で最高の天才のひとり」と賞される。この優勝により、すぐにレニングラード・フィルハーモニー交響楽団の常任指揮者に就任。以後、50年間にわたってこの地位に君臨する。
1946年 - スターリン賞受賞。
1954年 - 人民芸術家の称号を授与される。
1961年 - レーニン賞受賞。後にレーニン勲章も受章した。
1973年 - 社会主義労働英雄の称号を授与される。
1973年 初来日。以後1975年、1977年、1979年と合計4回の来日を果たす。
1988年 - レニングラードにて死去。
【104】

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カンパチ (2015年04月26日 08時55分)

エドゥアルト・ファン・ベイヌム (Eduard van Beinum, 1901年9月3日 - 1959年4月13日) はオランダの指揮者。



目次  [非表示] 
1 生涯
2 演奏について
3 録音 3.1 デッカへの録音
3.2 フィリップスへの録音

4 その他


生涯[編集]

オランダ東部の町アルンヘムの音楽一家のもとで生まれ、幼少の頃から兄についてヴァイオリンとピアノの手ほどきを受け、16歳でアルンヘム管弦楽団のヴァイオリニストとして入団し、その傍ら指揮の勉強を始め、翌年にはアムステルダム音楽院に入学し、ピアノ、ヴィオラ、作曲を学ぶ。

1920年にはまずピアニストとしてデビューしたが、同時に各地のアマチュアの合唱団やオーケストラで指揮をとり始め、まもなく指揮者に転向した。1927年にプロの指揮者としてデビューし、同時期にハールレム交響楽団の音楽監督に就任。1929年の6月に、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団へのデビューが大成功を収め、1931年にピエール・モントゥーの推薦とウィレム・メンゲルベルクの招きで同楽団の次席指揮者となった後、1938年からはメンゲルベルクとともに首席指揮者として活躍した。

戦後の1945年、メンゲルベルクがナチスへの協力の廉でスイスに追放されると、ベイヌムはメンゲルベルクの後をついで、コンセルトヘボウ管弦楽団の音楽監督兼終身指揮者に就任した。またコンセルトヘボウ管弦楽団とのロンドン公演が大成功を収め、1949年から1951年にかけてロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任。1954年にはフィラデルフィア管弦楽団を指揮してアメリカへのデビューを果たして大成功を収めている。1956年から1958年にかけて、ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者として迎えられた。
【103】

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カンパチ (2015年04月26日 08時54分)

ハンス・シュミット=イッセルシュテット(Hans Schmidt-Isserstedt、1900年5月5日 ベルリン - 1973年5月28日)は、ドイツの指揮者。



目次  [非表示] 
1 来歴 1.1 生い立ち
1.2 指揮者として
1.3 北ドイツ放送交響楽団の創立者として
1.4 海外に於ける公演活動
1.5 死去

2 音楽
3 主な録音と映像 3.1 録音 3.1.1 戦前の商業録音
3.1.2 戦後の商業録音
3.1.3 主な放送録音

3.2 映像

4 私生活
5 日本との関わり
6 脚注
7 外部リンク
8 参考文献


来歴[編集]

生い立ち[編集]

ベルリン東部で200年続いていた旧家であるビール醸造所の息子として生まれる。”イッセルシュテット”の名は母の旧姓であり、1928年にベルリンに在る多くのシュミット家と差別化するために改名したもの。 7歳の頃、実家の営むカフェに訪れた楽団に強く影響を受けバイオリニストを目指す。 音楽に造詣の深かった両親はバイオリンを買い与え、9歳の時に家族でカール・ムックの指揮するワーグナーのローエングリンをベルリン王立歌劇場で観覧し、以降次第に音楽に魅せられていった。中でも、家族コンサートで演奏したモーツァルトのクラリネット協奏曲からは生涯における音楽的な影響を受けたと語っている。

また、指揮者となったきっかけには、アルトゥール・ニキシュの指揮する振舞とその音楽の創造性に感銘したことが決定的だと語っている。[1]

指揮者として[編集]

1918年にベルリンでアビトゥーアを取得、ベルリン・ミュンスター・ハイデルベルクに学ぶ。1922年3月には、ハインツ・ティーセン率いるベルリン大学楽団連盟のスェーデンツアー公演にコンサートマスターとして参加した。1923年からベルリン高等音楽学校において院長のフランツ・シュレーカーに作曲を師事、『イタリアがモーツァルト初期の歌劇作品の楽器構成に与えた影響』(原題:"Die Einflüsse der Italiener auf die Instrumentation der Mozartschen Jugendopern")の論文で博士号を取得する。 1923年にバルメン(現在のヴッパータール)の歌劇場でコレペティートルを務め、1928年には自作『ハッサンの勝利』(原題:Hassan gewinnt)を演奏するにいたった。その後ロストック・ダルムシュタットで研鑽を積み、1935年にハンブルク国立歌劇場の首席指揮者となった。1942年にはベルリン・ドイツ・オペラの歌劇監督に就任。 1944年8月には芸術家としての保護恩赦Gottbegnadeten-Listeを受け、戦線に向かうことは無かったが、ナチス党員にはならなかった。
【102】

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カンパチ (2015年04月26日 08時53分)

ペーター・マーク(Peter Maag, 1919年5月10日 - 2001年4月16日)はスイス出身の指揮者。

スイス東北部ザンクトガレン出身。モーツァルトとメンデルスゾーンのスペシャリストとして知られる。バーゼル大学とチューリッヒ大学で哲学と神学を修め、アルフレッド・コルトーにピアノを、また指揮をエルネスト・アンセルメとヴィルヘルム・フルトヴェングラーに師事。2001年イタリア北部ヴェローナ没、享年81。
1947年 スイス・ビールゾロトゥルン歌劇場音楽監督に就任。ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの推薦で、1952年にデュッセルドルフ市立歌劇場第1指揮者。
1955年 ボン市音楽監督就任。
1964年 ウィーン・フォルクスオーパー音楽監督就任。
1974年 トリノ・レージョ劇場音楽監督就任。
1983年 パドヴァ・ヴェネト管弦楽団首席指揮者就任。
1984年 ベルン交響楽団専任指揮者就任。

禅に傾倒し、1962年から2年間香港で禅僧として修行したという、指揮者としては異色の経歴の持ち主。
【101】

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カンパチ (2015年04月26日 08時53分)

ルドルフ・バウムガルトナー(Rudolf Baumgartner、1917年9月14日 - 2002年3月22日)は、スイスの指揮者、ヴァイオリニストである。[1][2]

1917年、チューリッヒで生まれた。初めはヴァイオリンを学び、チューリヒ音楽院、ウィーンでヴォルフガング・シュナイダーハンに、パリでカール・フレッシュに師事した。ソリストとして活動するとともに、室内楽の分野でもゲイヤー四重奏団などで活動していた。

1950年、ルツェルン音楽院の教授となり、1956年、シュナイダーハンとともにルツェルン音楽祭弦楽合奏団を組織して指揮者に就任した。1960年、ルツェルン音楽院院長に就任し、1968年から1980年までルツェルン音楽祭の音楽監督を務めた。

2002年3月、シエーナで没。
【100】

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カンパチ (2015年04月26日 08時52分)

アルヴィド・ヤンソンス(Arvid Jansons, 1914年10月24日 - 1984年11月21日)は、ラトヴィアの指揮者。

略歴[編集]

ロシア帝国領クールラントのリバウ(現在のラトヴィア共和国リエパーヤ)の生まれ。リガ音楽院に学び、1946年、全ソ指揮者コンクールに優勝、1952年よりエフゲニー・ムラヴィンスキー音楽監督のもとレニングラード・フィルハーモニー交響楽団の指揮者として、またレニングラード音楽院の教授として活躍した。しばしばレニングラード・フィルハーモニー交響楽団とともに、あるいは単身来日し、在京オーケストラを頻繁に指揮するなど日本におけるクラシック音楽の普及に尽力し、東京交響楽団から永久名誉指揮者の称号を贈られる。マンチェスターに没する。指揮者マリス・ヤンソンスは息子である。
【99】

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カンパチ (2015年04月26日 08時51分)

ブリテン男爵、エドワード・ベンジャミン・ブリテン(Edward Benjamin Britten, Baron Britten OM CH, 1913年11月22日 - 1976年12月4日 )は、イギリスの作曲家・指揮者・ピアニスト。姓はブリトン、ブリトゥンと表記されることがあるが、実際の発音はブリトゥンの表記が原音に一番近い。

代表作としては オペラ『ピーター・グライムズ』や『シンプル・シンフォニー』、『戦争レクイエム』、バロック期の作曲家ヘンリー・パーセルの劇音楽『アブデラザール』(Abdelazar) からの主題を引用した 『青少年のための管弦楽入門』 が知られている。



目次  [非表示] 
1 生涯 1.1 出生と幼少期
1.2 青年期と作曲家としての活動
1.3 中期の活動と戦後
1.4 晩年

2 人物 2.1 作風
2.2 演奏家としてのブリテン
2.3 日本との関係

3 主な作品 3.1 オペラ
3.2 バレエ
3.3 合唱曲
3.4 管弦楽曲
3.5 室内楽曲
3.6 器楽曲
3.7 ピアノ曲
3.8 歌曲
3.9 声楽曲
3.10 劇付随音楽
3.11 映画音楽
3.12 編曲

4 参考資料
5 外部リンク


生涯[編集]

出生と幼少期[編集]

1913年11月22日、イングランドのサフォーク州にある海港ローストフト(英語版)にて、歯科医の父ロバート・ビクター・ブリテン(Robert Victor Britten, 1878年 - 1934年)とアマチュアのソプラノ歌手の母イーディス・ローダ(Edith Rhoda, 1874年 - 1937年)との間に生まれる。

幼少期のブリテンは、2歳になる頃にピアノに対して興味を抱き、ピアノを7歳から習い始めている。また母の勧めでヴィオラも習っている。わずか5歳で歌曲、7歳でピアノ曲を作曲、そして9歳の時には最初の弦楽四重奏曲を完成させるなど、この時期から音楽の才能を示していた。彼が持っていた音楽的素質は母方から受け継いだものと言えるが、母は地元の合唱団の幹事も務めていたほどの音楽好きであったという。

1924年10月、ノーフォークとノーウィッチで開催されていた音楽祭において、当時10歳のブリテンはこの音楽祭で演奏されていたフランク・ブリッジの交響組曲『海』(1911年作)を聴いて感銘を受け、演奏後にブリッジ本人と初めて対面した。ブリッジは少年ブリテンの音楽的才能を認め、自ら本格的な指導を買って出たという。指導は数年後の1928年にロンドンにあるブリッジの自宅まで、時には休暇を利用しながら通い、彼の許で音楽の基礎となる理論や和声法・対位法を厳しく学んだ。この厳格な個人指導は本人にとって大きな影響を与えたといわれる。

後に1937年に作曲され、出世作となった『フランク・ブリッジの主題による変奏曲』で師に対する感謝の念を表している
【98】

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カンパチ (2015年04月26日 08時50分)

ルネ・レイボヴィッツ(René Leibowitz, 1913年2月17日 ワルシャワ - 1972年8月29日 パリ)はポーランド出身のユダヤ系作曲家・指揮者・音楽理論家。ウィーンに留学し、亡命先のフランスを拠点に、西欧全土に新ウィーン楽派の作曲技法を伝播する上で貢献した。解釈の正当性をめぐって議論は多いが、卓越した指揮者としても活躍、伝統的なレパートリーをステレオ録音で残した。

仏語読みに準じる姓の表記はレボヴィツないしはレボヴィス、独語読みではライボヴィッツ、英語読みではリーボウィツのようになる。イスラエルの化学者イェシャヤフ・レイボヴィツ Yeshayahu Leibowitz はいとこ。






目次  [非表示] 
1 略歴
2 作品 2.1 交響曲
2.2 管弦楽曲
2.3 協奏曲
2.4 舞台作品
2.5 室内楽曲
2.6 ピアノ曲
2.7 声楽曲
2.8 未分類



略歴

1930年代初頭にシェーンベルクとヴェーベルン、ラヴェルに作曲と管弦楽法を師事。1947年にパリで国際室内楽フェスティバルを開催し、新ウィーン楽派の作品のほとんどを上演する。これらの作曲家の評価を確立するにあたって、音楽家や教育者として影響力を発揮した。主要な門人にピエール・ブーレーズ、ジャック=ルイ・モノ、セルジュ・ニグ、ヴィンコ・グロボカール、ミキス・テオドラキス、アンドレ・カザノヴァ、アントワーヌ・デュアメル、ハンス・ウェルナー・ヘンツェ、ジャネ・マギール、ピエール・アンリ、キース・ハンブル、アラン・ペッテション、ハンス・ウルリヒ・エンゲルマン、指揮者ディエゴ・マッソン、打楽器奏者ジャン=ピエール・ドゥルー、ピアニストのクロード・エルフェがいる。

知的な人柄に惹かれて周囲に集まった文人や哲学者・芸術家が多く、ジョルジュ・バタイユ、トリスタン・ツァラ、レイモン・クノー、ミシェル・レリス、ジョルジュ・ランブール、ダニエル=アンリ・カーンヴェレール、アンドレ・マッソン、モーリス・メルロー=ポンティ、クロード・レヴィ=ストロース、テオドール・アドルノらと親しく、そのうち何人かはレイボヴィッツから作品を献呈され、また文学者の場合はそのテクストに曲付けされている。
【97】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 08時50分)

ユーディ・メニューイン(Yehudi Menuhin, 1916年4月22日ニューヨーク - 1999年3月12日ベルリン)はアメリカ合衆国出身のユダヤ系ヴァイオリン・ヴィオラ奏者、指揮者、音楽教師。年少の頃は演奏界における神童の象徴的な存在でもあった。

イギリスに帰化し、長年の多方面にわたる国際的な音楽活動に対してサーの勲位を授与され、さらに貴族の称号であるロードも授与された。爵位名は、メニューイン男爵(Baron Menuhin of Stoke d'Abernon。なお、音楽家でロードの称号を授与されたのは、ほかにベンジャミン・ブリテンや、アンドリュー・ロイド・ウェバーなどがいる)。

日本では慣習的に「ユーディ」と呼んでいるが、これはメニューインのレコードが最初に発売された頃に日本ビクター蓄音器が制定した呼び方で、『ウェブスターの人名辞典』、『リーダース英和辞典』など著名な事典では「イェフディ」としている。Yehudiとはヘブライ語で「ユダヤ人」を意味する普通名詞の男性単数形である。また、姓はヘブライ語では「メヌーヒン」と発音するが、日本では「メニューヒン」と表記されることもある。

愛器は1742年製のグァルネリ・デル・ジェス(愛称「ロード・ウィルトン」)。
【96】

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カンパチ (2015年04月26日 08時49分)

カール・ミュンヒンガー(Karl Münchinger, 1915年5月29日 - 1990年3月13日)は、ドイツの指揮者。

シュトゥットガルトに生まれ、シュトゥットガルト音楽院を経て、ライプツィヒでヘルマン・アーベントロートに指揮を学ぶ。

シュトゥットガルトでオルガニスト兼合唱指揮者としてキャリアをスタートし、1941年にハノーファーのニーダーザクセン国立管弦楽団の指揮者となった。1945年にシュトゥットガルト室内管弦楽団を結成、バッハなどのバロック音楽の清新な演奏で世界的名声を得た。1961年にはこの室内管弦楽団を45名編成のオーケストラに拡大したシュトゥットガルト・クラシック・フィルハーモニーを組織するが、こちらの試みは成功しなかった。晩年はシュトゥットガルト室内管弦楽団からも離れ、不遇であった。

いわゆるバロック音楽の演奏家としてその普及に努めた。ヴィヴァルディの『四季』などポピュラーなもので大変成功したが、その録音をたどる限りバッハ演奏に力をいれていたと言うことができる。特に4大宗教曲(マタイ受難曲、ヨハネ受難曲、ロ短調ミサ、クリスマス・オラトリオ)は全てエリー・アメリンクをソプラノ独唱に採用して録音し、成功を収めた。また『フーガの技法』、『音楽の捧げもの』など晩年の作品を弦楽合奏を中心として演奏し、現在でも典型的な解釈のひとつとされている
【95】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 08時48分)

ラファエル・イェロニーム・クーベリック(Rafael Jeroným Kubelík チェコ語発音, 1914年6月29日 ボヘミア - 1996年8月11日 スイス・ルツェルン)は、チェコ出身で、ドイツを中心に国際的に活躍した指揮者、作曲家。ラファエル・クベリークとも表記される。



目次  [非表示] 
1 生涯 1.1 出自
1.2 指揮者としてデビュー、そして亡命
1.3 苦難のシカゴ時代
1.4 バイエルン放送交響楽団との全盛期
1.5 思わぬ不運
1.6 奇跡のカムバック

2 録音・活躍 2.1 主な録音
2.2 作曲活動

3 脚注
4 関連項目
5 参考文献
6 外部リンク


生涯[編集]

出自[編集]

世界的ヴァイオリニスト、ヤン・クーベリック (1880-1940) の長男としてチェコのビーホリー (Býchory) に生まれる。母はハンガリーの伯爵の夫人であったマリアンナ・ツァーキー=セル(マリアンナの父母は医師とオペラ歌手であったが、本人がハンガリー貴族と結婚し伯爵夫人の称号を得ていた)。夫妻は5人の娘、3人の息子をもうけ、指揮者となったラファエル以外に、娘アニータ(1904年生まれ)もヴァイオリニストとなった。音楽的に非常に恵まれた環境の下、読み書きができるようになるよりも先に楽譜が読めるようになり、やがて両親にねだってベートーヴェンの全交響曲のスコアを買ってもらい、学校の授業中や夜寝る前のベッドの中で読む、といった少年時代を過ごす[1]。13歳でオタカール・ジンに師事して作曲を学び始め、16歳でいくつかの曲を試作するに至る。指揮者として本格的に活動する前には、父の伴奏ピアニストとして各地への演奏旅行に同行した[2]。

指揮者としてデビュー、そして亡命[編集]

14歳のときヴィルヘルム・フルトヴェングラーの指揮するチャイコフスキーの交響曲第4番、ブルーノ・ワルターの指揮するマーラーの交響曲第1番に感銘を受け、指揮者を志す。プラハ音楽院でヴァイオリン、作曲、指揮を学び、1934年に自作の「ヴァイオリンとオーケストラのための幻想曲」を完成させて作曲科を、ドヴォルザークの「オテロ」序曲を指揮して指揮科を、パガニーニの楽曲を演奏してヴァイオリン科を、それぞれ卒業[3]すると、同年チェコ・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してデビュー。1936年にチェコ・フィルの常任指揮者、1939年にブルノの国立歌劇場 (Národní divadlo Brno) の音楽監督に就任。そして1942年、指揮者ヴァーツラフ・ターリッヒがナチス政権に反抗して解任された後をうけ、チェコ・フィルの首席指揮者に就任。同年チェコ人ヴァイオリニスト、ラーラ・ベルトロヴァーと結婚。しかし大戦終結後の1948年にチェコスロバキアでチェコスロバキア共産党を中心とした政権が成立する(1948年のチェコスロバキア政変)と、チェコの共産化に反対したクーベリックは、同年のエディンバラ音楽祭へ参加するために渡英、そのままイギリスへと亡命した。
【94】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 08時48分)

キリル・ペトローヴィチ・コンドラシン(ロシア語: Кирилл Петрович Кондрашин, 1914年3月6日 - 1981年3月7日)は、旧ソ連出身の指揮者である。

モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団在任中、ショスタコーヴィチの交響曲の初演に携わった。交響曲第4番、交響曲第13番「バビ・ヤール」は、彼の指揮により初演された。モスクワ・フィルを指揮して、世界で初めてショスタコーヴィチの交響曲全集を録音した。



目次  [非表示] 
1 略歴
2 1981年3月8日の出来事
3 録音
4 放送
5 著作


略歴[編集]
1914年、モスクワ生まれ。
1943年、ボリショイ劇場の常任指揮者となり、1956年まで在任。
1960年、モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督となり、1976年までそのポストにあった。
1967年、モスクワ・フィルと来日。この際にマーラーの交響曲第9番を日本初演した。
1978年、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団に客演中のアムステルダムにおいて、オランダへの亡命を表明。同楽団にて、常任客演指揮者に就任する。
1980年、再来日してNHK交響楽団を指揮。
1981年、心臓発作のためアムステルダムにて死去。この日、コンドラシンは、アムステルダム公演中の北ドイツ放送交響楽団の演奏会において、クラウス・テンシュテットの代役として急遽リハーサルなしでマーラーの交響曲第1番「巨人」を演奏して成功を収めた後、戻ったホテルで心臓発作を起こして息を引き取った。この突然の死から、KGBによる謀殺説が囁かれたが、当時のKGBは暗殺の際に偽装自殺を用いていたため、KGBの関与の可能性は低いとされている。この時、コンドラシンは1982年からラファエル・クーベリックの後任として、バイエルン放送交響楽団の首席指揮者になることが内定していたが、実現することはなかった。
【93】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 08時47分)

アタウルフォ・アルヘンタ(本名アタウルフォ・エクスペリオ・マルティーン・デ・アルヘンタ・マサ(Ataúlfo Exuperio Martín de Argenta Maza))(1913年11月19日 カンタブリア州カストロ・ウルディアレス - 1958年1月21日 マドリッド市ロス・モリノス)は、スペインの指揮者である。

生涯[編集]

アルヘンタは1927年に13歳で王立マドリッド高等音楽学校に入学。1930年にピアノ科で首席を獲得し、1931年にはクリスティーナ・ニルソン賞を受賞する。ダンスホールや酒場でピアノを弾く傍ら、父親と同じくレンフェ(スペイン国鉄)に勤務した。音楽院で首席を獲得していたために、スペイン内戦への徴兵を免れ、ベルギーやドイツでピアノと指揮の研鑽を積むことができた。ドイツでは、指揮法をカール・シューリヒトに師事した。内乱が終わるとスペインに帰国。

第2次世界大戦中は、マドリッド・スペイン国立管弦楽団に入団して、ピアノやチェレスタなどの鍵盤楽器を担当する。1944年にマドリッド室内管弦楽団の指揮者に就任し、1945年10月10日よりスペイン国立管弦楽団を指揮するようになる。1947年より終身音楽監督に就任した。

1958年1月に一酸化炭素中毒により不慮の死を遂げる。書斎の暖房のスイッチを入れっぱなしにして自動車に乗り込み、車庫の扉を下ろしたままエンジンとヒーターをふかしたのである。車内に同乗していた学生は生き残った。国際的な成功はこれからという矢先の突然の死であった。
【92】

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カンパチ (2015年04月26日 08時46分)

ジャン・フルネ(Jean Fournet, 1913年4月14日 - 2008年11月3日)は、フランスの指揮者。明快な造形と繊細・高雅な感覚を兼ね備えたラテン系指揮者として知られる。



目次  [非表示] 
1 略歴
2 日本での活動
3 芸風
4 人柄


略歴[編集]

ルーアン生まれ。パリ音楽院で指揮及びフルートをフィリップ・ゴベールに師事し、首席で卒業する。

1936年、ルーアンで指揮者デビューする。直前に病気で倒れた指揮者の父の代役として舞台に立った。マルセイユ歌劇場の第二指揮者を経て、1944年にフランス国立放送管弦楽団常任指揮者及びパリ・オペラ=コミック座音楽監督。1945年からエコール・ノルマル音楽院で指揮を教授する。

1958年、ドビュッシーのオペラ『ペレアスとメリザンド』の日本初演のため初来日する。このとき指揮を依頼されたのはデジレ=エミール・アンゲルブレシュトであったが、アンゲルブレシュトは当時78歳で高齢を理由に断り、代わりにフルネを指名したという。以後フルネは頻繁に来日する。

1961年、オランダ放送フィルハーモニー管弦楽団常任指揮者に就任する。のち終身指揮者となった。

1968年から1973年まで、ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団音楽監督を務める。その後アメリカでメトロポリタン歌劇場、シカゴ・リリック・オペラ、サンフランシスコ歌劇場などのオペラ界で活動する。

2005年12月21日、東京都交響楽団の定期演奏会を最後に引退した(92歳)。
【91】

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カンパチ (2015年04月26日 08時46分)

セルジュ・チェリビダッケ(セルジウ・チェリビダッケとも、Sergiu Celibidache, 1912年7月11日[1] - 1996年8月14日)は、ルーマニア生まれでドイツで活躍した指揮者・作曲家。



目次  [非表示] 
1 出生
2 指揮者として
3 厳しいリハーサル
4 死後
5 作品
6 教育
7 演奏解釈
8 脚注


出生[編集]

ローマンに生まれ、第一次世界大戦中にヤシに転居、同地で21歳頃までを過ごす。6歳頃からピアノを学びはじめるが、これが直接音楽家を目指す契機にはならなかったようで、27歳になるまで天職を決めかねていたと告白している。父親は彼を政治家にしたがっていた、というのは本人の弁。ユダヤ文化の中心地であったヤシで育ちユダヤ人と深く交流したため、イディッシュ語も堪能であった。

指揮者として[編集]

チェリビダッケは初めパリに留学したが、1936年にドイツのベルリンに移り、ベルリン大学やベルリン芸術大学で哲学、数学、作曲、指揮などを専攻した。彼は戦時中もベルリンに留まり、同地で終戦を迎えた。ベルリン滞在中にヴィルヘルム・フルトヴェングラーの演奏会をチケットが手に入ろうが入るまいが聴き逃した覚えはない、と後年に回想している。

戦後、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者だったフルトヴェングラーをはじめとする有名指揮者たちはナチスとの関係をとがめられて謹慎生活に入り、ロシア生まれの指揮者レオ・ボルヒャルトがベルリン・フィルを率いることになるが、わずか3か月後の8月に米軍の誤射でボルヒャルトは帰らぬ人となった。このため、後継指揮者を探すコンクールが開かれた。受けるように勧めたのは師のハインツ・ティーセンだったという。この大事なチャンスに、チェリビダッケは遅刻したらしい。課題曲はヨハネス・ブラームスの交響曲第4番第1楽章(一説によると交響曲第1番)。審査員全員一致で優勝。ボルヒャルト死去のわずか6日後にベルリン・フィルの野外コンサートで指揮者デビューを飾る。曲はロッシーニのセビリアの理髪師序曲とカール・マリア・フォン・ウェーバーのバスーン協奏曲、そしてアントニン・ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」だった。
【90】

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カンパチ (2015年04月26日 08時45分)

ジャン・マルティノン(Jean Martinon, 1910年1月10日 - 1976年3月1日)は、フランスの指揮者、作曲家である。



目次  [非表示] 
1 生涯
2 来日
3 人物
4 外部リンク


生涯[編集]

ジャン・マルティノンは1910年1月10日、リヨンに生まれた。パリ音楽院ではヴァイオリンを学び、ヴァンサン・ダンディ、アルベール・ルーセルに作曲、シャルル・ミュンシュとロジェ・デゾルミエールに指揮を師事。

ヴァイオリン奏者として出発するが、指揮者に転身、パリ音楽院管弦楽団、ボルドー交響楽団、コンセール・ラムルー、イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団、デュッセルドルフ交響楽団などの首席指揮者などを歴任。1958年からはフリーランス。その後1963年にはシカゴ交響楽団の音楽監督となるが、オーケストラとの相性は決して良くなかった。後年のインタビューで「アメリカでの苦渋に満ちた時代は思い出したくない」とコメントしているほどである。1968年からはフランス国立放送管弦楽団の音楽監督に就任し、フランス指揮界における重鎮として活躍したが1976年3月1日、66歳という熟年期に他界した。
【89】

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カンパチ (2015年04月26日 08時43分)

アーネスト・ヘンリー・シェリング(Ernest Henry Schelling, 1876年7月26日 - 1939年12月8日)はアメリカ合衆国のピアニスト・指揮者・作曲家。

ニュージャージー州ベルヴァディアー出身。スイス出身の父親の手ほどきを受けて音楽的神童として名をはせ、わずか4歳にしてフィラデルフィア音楽アカデミーに入学。7歳でヨーロッパに留学し、パリ音楽院に進学する。ハンス・フーバー、モーリッツ・モシュコフスキー、テオドール・レシェティツキー、ヤン・パデレフスキらに師事。

シェリングは、後にバーンスタインによって有名になったニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の青少年のためのコンサートを開始した指揮者である。初回は1924年3月27日に催された。この演奏会は、オーケストラの演奏に、オーケストラについていくつかの側面からの講演を交えるというもので、青少年にさまざまな刺激を与えることができるように考慮されていた。この演奏会は、親ばかりか子供たちからも受けが良く、シェリングはニューヨークだけでなく、フィラデルフィアやロンドン、ロッテルダム、ロサンジェルスなどでも同様の演奏会を主宰した。
【88】

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カンパチ (2015年04月26日 08時42分)

ウィレム・メンゲルベルク[ヴィレム・メンヘルベルフ](Willem Mengelberg, 1871年3月28日 - 1951年3月22日)は、オランダの指揮者。フランツ・ヴュルナーの弟子であるため、ベートーヴェン直系の曾孫弟子にあたり、ベートーヴェン解釈には一目を置かれた。

甥にルドルフ・メンゲルベルク(音楽学者)とカレル・メンゲルベルク(作曲家)、カレルの息子にジャズピアニストのミッシャ・メンゲルベルクがいる。



目次  [非表示] 
1 生涯
2 音楽
3 エピソード
4 参考文献


生涯[編集]

幼少期から特異な音楽的才能を見せ、8歳の時に作曲した合唱曲などはすでにCD化されている(オランダ国内盤のみ。廃盤)。メンゲルベルクは美声に恵まれ、幼少期から父(ブランデンブルク門の彫刻を担当)の彫刻工房の職人たちをまとめて教会音楽を中心とした合唱指揮などを行っていた。また、ケルンでの学生時代は、ヴァイオリン・管楽器などオーケストラの楽器を広く演奏する腕前を持っていた。このため回りの学生からの信任も厚く、声楽家の友人の伴奏を頻繁に手伝うなど、音楽家として見識を非常に広げた。肩を壊してヴァイオリン演奏を医師に止められたため、以後ヴァイオリンを自ら演奏することはなかったが、奏法自体は熟知しており、こうしたことがオーケストラ・トレーニングにすべて役立った。

1895年に24歳でアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者として採用される。この際バッハの宗教曲を演奏する必要性を強く説き、特に『マタイ受難曲』の演奏に特別の意思を示した。このため、自ら合唱団を組織することを条件として提示し、コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者を引き受けている。後に、自らオーディションして組織した合唱団はトーンクンスト合唱団で、有名な1939年録音の『マタイ受難曲』などで実際に聴くことができる。その後、常任指揮者に就任した彼は、徹底した訓練で一流のアンサンブルに育て上げ、世界的な名声を得た。1922年から1930年の間は、自らオーディションして5つのオーケストラを統合再編したニューヨーク・フィルハーモニックの首席指揮者も兼任した。
【87】

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カンパチ (2015年04月26日 07時42分)

クリストフ・フォン・ドホナーニ(Christoph von Dohnányi, ハンガリー語: Dohnányi Kristóf, 1929年9月8日 - )は、ドイツ出身の指揮者、作曲家。

来歴[編集]

ベルリン生まれ。父はウィーン生まれのドイツの法律家ハンス・フォン・ドホナーニである。しかし、反ナチスとユダヤ人支援のレジスタンス活動をしたため、1945年にナチスの強制収容所で処刑された。母はクリスティーネ・ボンヘッファー。母方の叔父はルター派の神学者で、やはり反ナチスのレジスタンス活動家であり、ヒトラー暗殺計画に関わって1945年に強制収容所で処刑されたディートリッヒ・ボンヘッファー。兄は後にハンブルク市長をつとめたクラウス・フォン・ドホナーニ。ハンガリーの作曲家でありピアニストのエルンスト・フォン・ドホナーニ(1877年 - 1960年)を祖父に持つ。一度目の結婚でもうけた息子ユストゥス・フォン・ドホナーニは俳優。2番目の妻はソプラノ歌手のアニャ・シリヤ。オペラと演奏会の両方で評価が高く、ドイツ系の現役指揮者として重鎮的存在である。

第二次世界大戦後、ミュンヘン大学で法律を学ぶが、1948年に音楽の道に転じ、指揮と作曲でリヒャルト・シュトラウス賞を獲得して卒業、祖父の元で作曲を学ぶためにフロリダ州立大学に留学する。アメリカではレナード・バーンスタインに師事したと言われる。その後、指揮の勉強に専念し、1952年にゲオルク・ショルティの指名により、フランクフルト歌劇場の助手となる。
【86】

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カンパチ (2015年04月26日 07時41分)

エーリヒ・ラインスドルフ(Erich Leinsdorf 1912年2月4日 - 1993年9月11日)はオーストリア出身で、後にアメリカに帰化した指揮者である[1]。アメリカやヨーロッパを渡り歩いて一流のオーケストラや歌劇団を指揮し、演奏に求める水準の高さとともにその辛辣な人柄で有名になった[2]。音楽に関する著書やエッセーもある。

経歴[編集]

ラインスドルフはウィーンのユダヤ人家庭に生まれ、5歳から地元の学校で音楽を学び始めた。父はアマチュアのピアニストだった[3]。ザルツブルクのモーツァルテウムで指揮法を学び、その後はウィーン大学、ウィーン国立音楽大学でチェロとピアノを学んだ[4]。

1934年から1937年までザルツブルク音楽祭で著名な指揮者であったブルーノ・ワルターやアルトゥーロ・トスカニーニの助手を務める。1936年にはイタリアのボローニャで歌劇を指揮している。1937年にアメリカのメトロポリタン歌劇場でワルキューレを指揮[3]。その後はフランス、イタリアなどで活動する[3]。

1937年11月、ラインスドルフはアメリカに向かい、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で副指揮者の地位を得た。オーストリアがナチス・ドイツに占領されるのは、彼が祖国を発ってわずか数ヶ月後のことであった。当時新人の上院議員であった(そして後の大統領である)リンドン・ジョンソンの支援をうけてラインスドルフはアメリカに留まることが可能になり、また1942年にはアメリカ市民権をえて帰化することができた[1]。

1938年からニューヨーク市のメトロポリタン歌劇場で常任指揮者を務め、とりわけリヒャルト・ワーグナーの解釈で名声を博す。メトロポリタン時代はとりわけ彼の指揮するワーグナーに注目が集まった。1939年にアルトゥル・ボダンツキーが突然の死を迎えると、ラインスドルフはメトロポリタン歌劇場のドイツ物レパートリーの責任者となった[5][1][6]。

1943年には3年契約でクリーヴランド管弦楽団音楽監督の地位を得たが、実際にはほとんど在職期間がなかった。第二次世界大戦のためにアメリカ軍に徴兵されてしまい、契約も更新されなかったからだ。1982年から1984年にかけてクリーヴランド管弦楽団の音楽監督がロリン・マゼールからクリストフ・フォン・ドホナーニへと移行していた時期に、ラインスドルフは何度か同楽団でコンサートを指揮したことがある。彼の言葉を借りればラインスドルフは「政権交代の橋渡し」役だった[6]。
【85】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 07時40分)

ジョージ・セル(George Szell 、Széll György 、György Endre Szél、Georg Szell、1897年6月7日 - 1970年7月30日)はハンガリーのブダペストに生まれ、アメリカ合衆国クリーヴランドに没した指揮者である。ハンガリー語でセーッル・ジェルジ(ジェルジ・エンドレ・セール)、ドイツ語でゲオルク・セルとも呼ばれる。



目次  [非表示] 
1 生涯
2 芸風
3 レコーディング 3.1 戦前期
3.2 戦後期
3.3 ライヴ録音

4 ザルツブルク音楽祭とセル
5 作曲
6 逸話
7 脚注
8 参考文献


生涯[編集]

ハンガリー人の父とスロヴァキア人の母の間に生まれ、3歳で一家ともどもユダヤ教からカトリックに改宗。幼くしてピアノ演奏に才能を示し、「神童」と呼ばれた。わずか3歳からウィーン音楽院でピアノ、指揮、作曲(教師はマックス・レーガーなど)を学んだ。11歳で自作を弾いてまずピアニストとしてデビューし、次いで16歳でウィーン交響楽団を指揮して指揮者としてもデビュー。さらにベルリン・フィルハーモニー管弦楽団にもピアニスト・指揮者・作曲家として顔を出すようになった。セルは青年期までは作曲家としての作品も数多く残したが、最終的には指揮者の道を選び、リヒャルト・シュトラウスの教えを受け、彼のアシスタントを経た後、1917年ごろからストラスブールの歌劇場をはじめドイツ各地の歌劇場でキャリアを積んだ。1924年には当時ベルリン国立歌劇場に君臨していたエーリヒ・クライバーの下で第1指揮者を務め、その後プラハのドイツ歌劇場音楽総監督に就任した。しかし、ナチの台頭に脅威を感じてイギリスに移動し活動を続けた。1939年オーストラリア・アメリカへの演奏旅行中に第二次世界大戦が勃発したため、帰国をあきらめそのままアメリカに定住した。トスカニーニの援助で彼のNBC交響楽団の客演指揮者として迎えられた後、メトロポリタン歌劇場でも指揮をとった。

1946年、ラインスドルフの後任としてクリーヴランド管弦楽団の常任指揮者に就任した。これは1945年〜46年のシーズンに客演した際に大好評だったから招聘されたといわれている。このとき、セルは地元の代議士トーマス・セルドーの後援を受けて、経営陣から一切のマネジメントの権限を手に入れ管弦楽団の改革に大ナタを振るう。こうして一旦はアルトゥール・ロジンスキ(ラインスドルフの前任)が鍛えたものの決して一流とは言えなかった同楽団をさらに鍛えぬいた結果、程なく全米の「ビッグ・ファイブ」と呼ばれる第一級のオーケストラのひとつ[1]として高い評価を得るに至った。

1960年代にはウィーン、ベルリン、ロンドンなどでも客演指揮を行なった。1970年5月13日から5月27日にかけてクリーヴランド管弦楽団とともに日本万国博覧会を記念した企画の一環として来日公演を行い、日本でも極めて高い評価を受け、多くの聴衆に感銘を与えたが、帰国後まもなく多発性骨髄腫のため急逝した。
【84】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 07時39分)

ルドルフ・ケンペ (Rudolf Kempe,1910年6月14日 - 1976年5月12日)はドイツ人の指揮者。



目次  [非表示] 
1 生涯
2 指揮の特徴と評価の変遷
3 客演指揮者として
4 ケンペの代表的な録音
5 外部リンク


生涯[編集]

宿屋の息子としてドレスデン近郊ニーダーポイリッツで生まれた。ドレスデン音大でオーボエを学び卒業。
1929年、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のオーボエ奏者となる。当時、同楽団はブルーノ・ワルターが指揮者、シャルル・ミュンシュがコンサートマスター、フランツ・コンヴィチュニーが首席ヴィオラ奏者だった。
1935年、ケムニッツとヴァイマルの歌劇場指揮者。
1950年、ドレスデン国立歌劇場の音楽監督。
1952-1954年、ショルティの後任としてバイエルン国立歌劇場の音楽監督。
1954年、渡米してニューヨーク・メトロポリタン歌劇場の指揮者。
1956年、病気のため一時活動を中断。
1960年、バイロイト音楽祭に初登場、1963年まで4年間『ニーベルングの指輪』を指揮。
1961年、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者。トーマス・ビーチャムの遺志により、残されたオーケストラを支えるも、楽団が「ロイヤル」の称号返上を余儀なくされ、運営困難となって1963年に退任。しかし、オーケストラは1966年に再び「ロイヤル」の称号を得てケンペを迎え入れた。ケンペは1975年にBBC交響楽団に招かれるまでこの地位にあった。
1965年-1972年、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団首席指揮者。
1967年、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者。任期中の1972年、ミュンヘン・オリンピックでのテロ事件による犠牲者を悼む集会が会期中にスタジアムで行なわれ、ケンペ指揮のミュンヘン・フィルが「英雄」第二楽章を演奏し、映像が世界に中継された。
1975年、BBC交響楽団の常任指揮者を兼任。
1976年、チューリッヒにて急逝(肝臓癌)。
【83】

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カンパチ (2015年04月26日 07時38分)

ジェームズ・ローレンス・レヴァイン(James Lawrence Levine, 1943年6月23日 - )はアメリカ合衆国の指揮者・ピアニスト。愛称はジミー。オハイオ州シンシナティのユダヤ系音楽家の家庭に生まれる。祖父はシナゴーグの楽長、父親ラリー・レヴァイン(芸名ラリー・リー)はダンス・バンドのリーダー兼ヴァイオリニスト、母親ヘレン・レヴァインは女優。



目次  [非表示] 
1 概要 1.1 デビュー
1.2 メトロポリタン歌劇場
1.3 ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
1.4 ボストン交響楽団
1.5 客演活動

2 健康問題
3 出典
4 外部リンク


概要[編集]

デビュー[編集]

幼児期からピアノを始め、10歳でシンシナティ交響楽団のユース・コンサートでデビュー。1956年にマールボロ音楽院でルドルフ・ゼルキンにピアノを師事。その翌年にはアスペン音楽院でヨゼフ・レヴィーンにも薫陶を受ける。1961年にジュリアード音楽院に入学、ジャン・モレルに指揮を学ぶ。ジュリアードを卒業後、ボルティモア交響楽団のプロジェクトに参加後、クリーヴランド管弦楽団でジョージ・セルの指揮見習いと助手を1970年まで務める。1970年にフィラデルフィア管弦楽団の客演指揮者として指揮者デビュー。同年オペラ指揮者としてもデビュー。アメリカのオケではシカゴ交響楽団と関係が深く、これまでラヴィニア音楽祭、シンシナティ五月音楽祭の音楽監督を務めた。

メトロポリタン歌劇場[編集]

メトロポリタン歌劇場と関係が非常に深い。ドナルド・キーンは、



「私のようにMETを70年以上みてきた人間にとって、レヴァインの登場は絶対に無視できない現象であった。…かつて名歌手たちが綺羅星のごとく舞台に立っていた時代でさえ、オーケストラのレベルはひどいものであった。レヴァインがMETの監督になってからというものの、オケの響きが格段に精妙になった。これは実に驚くべきことで、今やコンサートオーケストラとしても一流と言っても過言ではないだろう。」

と語っている[1]。

彼は1971年6月の『トスカ』の記念公演で初めてこの劇場の指揮台に立ち、大成功をおさめた。その後も同劇場に出演を重ねる事となり、首席指揮者に任命される。1975年より音楽監督、1986年からは(同劇場で史上初の)芸術監督に就任。世界の大歌劇場、コンサートオーケストラとしても類をみない長期政権が現在まで続いている。

メトロポリタン歌劇場管弦楽団およびそのメンバーで編成された室内オーケストラは、忙しいオペラ公演の合間を縫って定期公演にも力をいれている。また、国際的な演奏旅行も行なっており、2002年には還暦記念公演として、メトロポリタン歌劇場管弦楽団・合唱団とワールド・ツアーを行い、日本では東京文化会館で公演している。メトロポリタン歌劇場においてレヴァインが取り組んできたレパートリーは非常に広範かつ多彩な演目である。同歌劇場におけるデビュー25周年記念事業では、この機会のために特別に委嘱されたジョン・ハービソンのオペラ『華麗なるギャツビー』が上演された。
【82】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 07時37分)

パウル・クレツキ(Paul Kletzki, 1900年3月21日 - 1973年3月5日)はポーランドの指揮者・作曲家。

ウッジ出身。

略歴[編集]

地元のオーケストラに15歳で加わる。第一次世界大戦後にワルシャワ大学で哲学を学んでから、1921年にベルリンに留学した。クレツキの作品は1920年代にトスカニーニやフルトヴェングラーによって擁護された。1925年にフルトヴェングラーに招かれ、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮する。

ナチスが政権を掌握するとユダヤ系のためにヴァイマル共和国から離れざるを得なくなり、1933年にイタリアに行くが、ファシスト政権の反ユダヤ主義政策のためにソ連に逃れる。しかし今度は1936年にスターリンの大粛清を逃れて、スイスへの亡命を余儀なくされた。

クレツキの最も有名な作品《交響曲第3番「イン・メモリアム」》は、1939年10月に作曲され、ナチスの犠牲者のための墓碑として、哀調を帯びた作品にまとめられている。1942年以降は作曲を辞めた。ナチスによって精神を破壊され、作曲の意志を損なわれたと本人が認めているように、両親や姉妹を含む肉親を、ホロコーストによって殺害されていたのである。

第二次世界大戦後は指揮者として、とりわけベートーヴェンとマーラーの解釈で著名であった。1958年から1961年までダラス交響楽団の首席指揮者を務め、1966年から没年の1973年まで、スイス・ロマンド管弦楽団音楽監督を務めた。日本では日本フィルハーモニー交響楽団を指揮した。
【81】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 07時35分)

クレメンス・ハインリヒ・クラウス(Clemens Heinrich Krauss, 1893年3月31日 - 1954年5月16日)はウィーン出身の名指揮者。



目次  [非表示] 
1 生涯
2 演奏スタイル
3 レパートリー
4 レコード録音
5 ニューイヤーコンサート
6 ポスト


生涯[編集]

母親はウィーン宮廷歌劇場(後のウィーン国立歌劇場)のソロ・バレリーナで、当時まだ17歳にもならないクレメンティーネ・クラウスであり、私生児だったクラウスは外交官だった祖父の下で育った。クラウスの持つそのエレガントな美貌から、父親はハプスブルク家の人間ではないかという噂が絶えず、バルタッツィ侯爵(ルドルフ皇太子と心中したマリー・ヴェッツェラの叔父で当時稀代のプレイボーイ)、ヨハン・サルヴァトール大公、あるいは皇帝フランツ・ヨーゼフ1世などと言われている。

10歳でウィーン少年合唱団に入団し、その後ウィーン音楽院で作曲家リヒャルト・ホイベルガーに学ぶ。リガ、ニュルンベルク、シュテッティン、グラーツ、フランクフルトなど各地の歌劇場で研鑽を積んだ後、1929年にフランツ・シャルクの後任としてウィーン国立歌劇場の音楽監督に、また翌年ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの後任としてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任する(クラウスが辞任後ウィーン・フィルは常任指揮者制そのものを廃止し、70年を経た現在もなお復活の予定はない)。クラウスはまさにウィーンを掌中に収めたかに見えたが、折りしも1928年に始まった世界恐慌で演奏会やオペラへの客足が鈍り(ウィーン・フィルの演奏会のチケットなど楽員が内輪で捌かねばならないほどだった)、またクラウスは当時前衛的だった作品をプログラムに盛んに取り上げたため各方面から強い反発を受けた。

1934年に国立歌劇場を失脚してウィーンを離れた後、1935年にナチスと衝突して辞任したエーリッヒ・クライバーの後任として、ベルリン国立歌劇場の音楽監督に就任する。また1937年にはナチスによって辞任に追いやられたハンス・クナッパーツブッシュの後任としてバイエルン国立歌劇場の音楽監督に就任する。1941年からはやはりナチスによりザルツブルク音楽祭の総監督に任命されている(これが災いし、戦後は1952年まで音楽祭から締め出されてしまう)。この戦前、戦中のナチスとの協力関係が後に指弾されることになるが、クラウスはフルトヴェングラー同様に最後までナチス党員ではなく、ナチスの下で要職に就く一方、ナチスの手からユダヤ人音楽家を少なからず救ったとも言われている。戦後クラウスは、彼自身のナチスに対する日和見的な態度を強く恥じ、反省したという。
【80】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 07時34分)

ハンス・クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch, 1888年3月12日 - 1965年10月25日)は、ドイツの指揮者。ミュンヘンやウィーンで活躍し、第二次世界大戦後に再開されたバイロイト音楽祭を支えた指揮者でもあった。リヒャルト・ワーグナーやアントン・ブルックナーの演奏で有名だった。

193センチの長身でいかつい顔の指揮者で、ドイツや日本では「クナ」(Kna) の愛称で親しまれた。



目次  [非表示] 
1 生涯
2 人物
3 演奏解釈・スタイル・レパートリー 3.1 ワーグナー
3.2 ブルックナーのスコア選択
3.3 レパートリー

4 関連項目
5 参考文献
6 脚注
7 ポスト


生涯[編集]

 この節は言葉を濁した曖昧な記述になっています。
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ラインラント地方の都市エルバーフェルト(現在はヴッパータール市の一部)にあるアルコール蒸留会社を経営していたグスタフの次男として生まれる。ギュンター・ヴァント、ホルスト・シュタインと同郷である。子供の頃から音楽家に憧れていたが、家族、特に母と兄(後に会社を継ぐ)の反対もあり、ボン大学に進み哲学を学んだ。後にミュンヘンでも哲学を学び、卒業論文は『パルジファルにおけるクンドリー」であったと言われる。音楽の勉強もケルン音楽大学で行っており、ブラームス演奏で有名なフリッツ・シュタインバッハに指揮法を学ぶ。

1909年から1912年にはバイロイト音楽祭に、ハンス・リヒターの助手として潜り込むことに成功。それ以後、故郷のエルバーフェルトやライプツィヒ、デッサウ、ミュールハイム・アン・デア・ルール(1910年に、ここでデビューしたと伝えられる)など各地の歌劇場やオーケストラで修行に入り、34歳の時の1922年には、ブルーノ・ワルターの後任としてミュンヘンのバイエルン州立歌劇場の音楽監督に就任する。翌1923年にはウィーンに初めて進出し、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とも1929年のザルツブルク音楽祭で初顔合わせを果たしている。しかし、客演先のオランダのハーグで、ヒトラーをからかうような発言をしたことがナチス高官の耳に入りヒトラーを激怒させ[要出典]、1935年にバイエルン州での演奏活動を禁止され、同時にバイエルン州立歌劇場からも追い出された(後任は当時ナチ寄りとされたクレメンス・クラウス)。追放後はウィーンとベルリン、ザルツブルク音楽祭などに定期的に来演した。1936年からはウィーン国立歌劇場を根城に、1944年6月30日の『神々の黄昏』上演(爆撃で破壊される前の最後の上演)まで同劇場で精力的な演奏活動を繰り広げた。『黄昏』上演後は、終戦まで息を潜めていた。
【79】

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カンパチ (2015年04月26日 07時32分)

ゲオルク・ティントナー(Georg Tintner, 1917年5月22日 - 1999年10月2日)は、オーストリア・ウィーン生まれの指揮者。最晩年にナクソス・レーベルに録音したブルックナーの交響曲全集録音で知られている。



目次  [非表示] 
1 経歴
2 ブルックナー交響曲全集 2.1 ナクソスとの出会い
2.2 交響曲全集の特徴

3 晩年
4 作曲
5 参考文献


経歴[編集]

ゲオルク・ティントナーは6歳からピアノを習い始め、10歳だった1927年にウィーン少年合唱団で名指揮者フランツ・シャルクのオーディションに合格した。シャルクはブルックナーの弟子として高名であり、ティントナーはシャルクの指揮棒の下でブルックナーのミサ曲などを歌っている。1931年に合唱団を離れ、ウィーン国立音楽アカデミーでピアノと作曲を学ぶ。しかし彼はユダヤ人であったため、1938年にヒトラーの軍隊がオーストリアに進駐したことでウィーン・フォルクスオーパーの仕事を失い、国外脱出を余儀なくされる。それからは仕事を求めて世界各国に移転する生活が長期間続いた。1940年にニュージーランドのオークランドに到着し、それから14年後の1954年にオーストラリアへ移った。ニュージーランドで結婚した最初の妻はオーストラリアでの生活に馴染めず、1961年に離婚してしまう。やがて1967年に南アフリカでケープタウン市立管弦楽団の常任指揮者に就任するが、アパルトヘイトの現実に接して1年で辞任し、それからイギリスへ渡ってサドラーズ・ウェルズ・オペラ(現在のイングリッシュ・ナショナル・オペラ)の補助指揮者として短期間働いた。間もなくオーストラリアに戻り、パース市に新しく創設されたウェスト・オーストラリア・オペラを指揮する。そこで2番目の妻とも別れ、シドニー市でオーストラリア・オペラの上級常任指揮者を務めていた時期に、ターニャ夫人と出会う。1978年に3番目の妻となった彼女は、最後までゲオルク・ティントナーと連れ添う伴侶となった。
【78】

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カンパチ (2015年04月26日 07時31分)

オイゲン・ヨッフム(Eugen Jochum、1902年11月1日 - 1987年3月26日) は、ドイツの指揮者。バイエルン王国バーベンハウゼン(ドイツ語版)(現在はバイエルン州・シュヴァーベン行政管区)生まれ、ミュンヘン郊外トゥッツィングで死去。弟のゲオルク・ルートヴィヒ・ヨッフムも指揮者であり、娘ヴェロニカはピアニストになった。NHKで演奏が紹介される際にはオイゲン・ヨーフムと表記されていた。



目次  [非表示] 
1 年譜
2 レパートリー
3 業績
4 ポスト


年譜[編集]
1926年 ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してデビュー
1927-1929年 キール歌劇場音楽監督
1929-1930年 マンハイム国立歌劇場音楽総監督
1930-1932年 デュースブルク市音楽総監督
1932-1934年 ベルリン放送交響楽団首席指揮者
1934-1949年 ハンブルク国立歌劇場音楽総監督(ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団常任指揮者と兼任)
1949-1960年 バイエルン放送交響楽団首席指揮者
1961-1964年 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団首席指揮者(ベルナルト・ハイティンクと共同)
1968-1971年 バンベルク交響楽団芸術顧問
1971-1973年 バンベルク交響楽団首席指揮者
1977年 ロンドン交響楽団桂冠指揮者
【77】

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カンパチ (2015年04月26日 07時30分)

ベルナルト・ヨハン・ヘルマン・ハイティンク(Bernard Johan Herman Haitink, 1929年3月4日 - )はオランダの指揮者である。



目次  [非表示] 
1 略歴
2 音楽
3 脚注
4 関連項目


略歴[編集]

アムステルダム出身で同地の音楽学校に学ぶ。1954年から1955年までフェルディナント・ライトナーに指揮を師事するまでは、地元のオーケストラでヴァイオリンを弾いていた。1955年にオランダ放送フィルハーモニー管弦楽団の次席指揮者(1957年より首席指揮者)に就任。1961年から1988年までアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の、1967年から1979年までロンドン・フィルハーモニー管弦楽団のそれぞれ首席指揮者に就任。1978年から1988年までグラインドボーン音楽祭の、1987年から2002年までロイヤル・オペラ・ハウスの音楽監督を務める。1991年にエラスムス賞を受賞。1995年からボストン交響楽団の首席客演指揮者となり、2004年に名誉指揮者となっている。

2002年にドレスデン国立管弦楽団の首席指揮者に就任したが、これは音楽監督就任を要請されたものを辞退した結果であり、同時に次期音楽監督の選任への協力を託された。しかし2004年、楽団とザクセン州は、彼に相談なしにファビオ・ルイージを2007年からの次期音楽監督(ドレスデン国立歌劇場の同ポストと兼務)に指名。ハイティンクはこの事に対し、「オペラはともかく、オーケストラレパートリーの経験が少な過ぎる」として反対したが、聞き容れられなかったため、同年5月に辞任を発表、11月のロンドンでの演奏会を最後に辞任した。[1] 以後は同楽団には客演していない。2004年5月には、同楽団と最初でそして恐らく最後の来日をした。2006年からシカゴ交響楽団の首席指揮者に就任。2009年2月にはシカゴ交響楽団とともに再来日を果たしている。

日本には、1962年のコンセルトヘボウ(オイゲン・ヨッフムが同行)との来日を皮切りに、1968年に再度コンセルトヘボウ(ヨッフムも同行)、1969年はロンドンフィル(ジョン・プリッチャードが同行)、1974年はコンセルトヘボウと初の単独来日、1977年はコンセルトヘボウと首席指揮者在任中最後の来日、1992年はロイヤルオペラ(テイトが同行)と初のオペラ公演、1997年はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、2003年はPMFとスーパーワールドオーケストラ(チョン・キョンファと共演)、2004年はドレスデン国立管弦楽団、2009年はシカゴ交響楽団、2013年はロンドン交響楽団(共演はマリア・ジョアン・ピレシュ)と来日。
【76】

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カンパチ (2015年04月26日 07時29分)

シャルル・エドゥアール・デュトワ(Charles Édouard Dutoit、1936年10月7日 - )は、スイス出身の指揮者。「音の魔術師」との異名をとる。



目次  [非表示] 
1 経歴
2 演奏
3 シャルル・デュトワと日本 3.1 NHK交響楽団音楽監督

4 受賞歴
5 脚注
6 外部リンク


経歴[編集]

ローザンヌ生まれ。青年期にエルネスト・アンセルメと交流を深めるかたわら、同地とジュネーヴの音楽院で指揮、ヴァイオリン、ヴィオラ、打楽器、作曲を学ぶ。指揮科を首席で卒業後、シエナのキジアーナ音楽院でアルチェオ・ガリエラに師事。その後、アメリカ合衆国のタングルウッド音楽祭でシャルル・ミュンシュに師事。また、ルツェルン音楽祭ではオーケストラの奏者としてヘルベルト・フォン・カラヤンと共演し影響を受けている。

学生時代からヴィオラ奏者として、欧州や南米のさまざまなオーケストラに在籍する一方で、1958年から1963年までローザンヌ大学合唱団の指揮者を務める。1959年1月、既に親交のあったマルタ・アルゲリッチをソリストに迎え、ローザンヌ放送所属のオーケストラを指揮して指揮者としてプロデビューする。以降、スイス・ロマンド管弦楽団やローザンヌ室内管弦楽団の客演指揮者を務める他、チューリヒ放送所属のオーケストラの指揮者となる。1964年にカラヤンの招きでウィーン国立歌劇場に登場し、以降2シーズン、同劇場のバレエを担当する。1967年にパウル・クレツキからベルン交響楽団を引き継ぎ1978年まで首席指揮者を務める一方、ベルンに在任中の1967年から1971年までチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団でルドルフ・ケンペを補佐している。1973年から1975年にメキシコ国立交響楽団を、1975年から1978年までイェーテボリ交響楽団の指揮者も兼務した。

1977年にモントリオール交響楽団の音楽監督に就任。短期間で同楽団をカナダ随一の世界的なオーケストラに育て上げ、「フランスのオーケストラよりもフランス的」と評された。以後2002年に辞任するまでの25年もの間、精力的に海外公演や録音活動を行い、世界中から数々の賞も受賞した。
【75】

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カンパチ (2015年04月26日 07時28分)

ジェフリー・テイト(Jeffrey Tate CBE, 1943年4月28日 ソールズベリー - )は、イギリスの指揮者。生まれつき二分脊椎症を患っており、1989年より英国ASBAH(二分脊椎症と水頭症の患者と家族のための慈善団体)の総裁に就任している。

略歴[編集]

1961年から1964年までケンブリッジ大学クライスト・カレッジにて医学を専攻し、ロンドンのセント・トーマス病院で研修を積むが、間もなく1970年に医療の道を断念して、ロンドン・オペラ・センターに学ぶ。その後はもっぱら現場で地道な経験を積み重ね、ゲオルグ・ショルティ、ピエール・ブーレーズ、ヘルベルト・フォン・カラヤン、ジェームズ・レヴァイン、ルドルフ・ケンペ、カルロス・クライバー、コリン・デイヴィスらの助手を務めつつ、それぞれから実践的な助言を受ける。

1979年にニューヨークのメトロポリタン歌劇場にデビューし、国際的な活躍を始める。1985年にイギリス室内管弦楽団の初代首席指揮者に任命され、同年よりロイヤル・オペラ・ハウスの首席指揮者も務めた。2005年にはナポリのサン・カルロ劇場の音楽監督に任命され、2008年からはハンブルク交響楽団の首席指揮者に就任した。

モーツァルトからシェーンベルクに至る18世紀から20世紀初頭のドイツ音楽を得意としており、協奏曲の伴奏や器楽曲、オペラのいずれにおいても、自然な表現と緻密な構成力により、数々の演奏を残してきた。録音も数多い。
【74】

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カンパチ (2015年04月25日 22時07分)

シャルル・ミュンシュ(Charles Munch, 1891年9月26日 - 1968年11月6日)は、当時ドイツ領であったアルザス・ストラスブールに生まれ、のちフランスに帰化した指揮者である。



目次  [非表示] 
1 生涯
2 人物
3 主要な録音
4 参考文献
5 外部リンク
6 脚注


生涯[編集]

ルーテル教会のオルガニストで合唱指揮者のエルンスト・ミュンヒの息子として生まれる。一族には音楽家が多く、おじのオイゲン・ミュンヒ、従弟のハンス・ミュンヒ、兄のフリッツ・ミュンヒは共に指揮者である。またシャルルの姉のエマはアルバート・シュヴァイツァーの弟のパウル・シュヴァイツァーと結婚した。

家はドイツ系のアルザス人であり、第一次世界大戦後アルザスがフランス領に戻った際、いったんはドイツ国籍を選択するが、のちナチスの台頭を嫌ってフランスに帰化し、その際にフランス風の名前に改めた[要出典]。出生名の綴りはCharles Münchで、1940年初頭からウムラウトを外してMunchと綴るようになったという通説もあるが、実際には1940年代を通じてウムラウトを付けたり付けなかったりで一定せず、1946年の署名でもウムラウトを付けていたことが指摘されている[1]。

ヴァイオリンを学び、1926年にはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の奏者となった。ゲヴァントハウス管弦楽団で1932年まで楽長のフルトヴェングラーやワルターの下でコンサートマスターを務める。ゲヴァントハウスではドイツ語でカール・ミュンヒ(Carl Münch)と呼ばれていた[1]。

1929年にパリで指揮者としてデビュー、後にネスレの創業者の孫娘と結婚する。1937年にパリ音楽院管弦楽団の指揮者となって、1946年まで在任した。1949年にボストン交響楽団の常任指揮者に就任、1962年までその座にあって、数々の演奏を行った。1960年にボストン交響楽団、1966年にフランス国立放送管弦楽団と来日、単身では1962年に日本フィルハーモニー交響楽団を指揮するために来日している。1970年にも来日する予定であったが、死去により叶わなかった。1967年にパリ管弦楽団が組織された際には初代の音楽監督に就任したが、翌年同団とともに演奏旅行中、アメリカのリッチモンドで急逝した。
【73】

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カンパチ (2015年04月25日 22時06分)

ピエール・モントゥー(フランス語: Pierre Monteux, 1875年4月4日 - 1964年7月1日)は、フランス・パリ生まれの指揮者。



目次  [非表示] 
1 略歴
2 その音楽
3 後進の育成
4 参考文献
5 外部リンク


略歴[編集]

靴のセールスマンのギュスターヴ・エリ・モントゥーとクレマンス・レベッカ(旧姓ブリザック)の息子、6人きょうだいの3男としてパリに生まれる。モントゥー家は南フランスに定住したセファルディムの出で、祖先には少なくとも1名のラビがいたが、モントゥーの両親は宗教的ではなかった。ピエールの兄弟には俳優のアンリ・モントゥー、軽音楽の指揮者のポール・モントゥー=ブリザックがいる。父は音楽に興味がなかったが、母はマルセイユのコンセルヴァトワールの卒業生で、ピアノの教師をしていた。

パリ音楽院でヴァイオリンを学び、在学中から指揮活動をしていたという。パリ音楽院卒業後はパリ・オペラ=コミック座(ここではドビュッシーの歌劇『ペレアスとメリザンド』の初演にも楽員として立ち会っている)やコロンヌ管弦楽団の楽員だったが、1906年にコロンヌ管を指揮してデビューを飾る。

1911年からはディアギレフのロシア・バレエ団で指揮を担当、ストラヴィンスキーの『春の祭典』、『ペトルーシュカ』、ラヴェルの『ダフニスとクロエ』、ドビュッシーの『遊戯』など、20世紀の名作バレエ音楽の初演を多く振った。ロシア・バレエ団の指揮者就任と同じ年、自らコンセール・ベルリオーズを設立している。

第一次世界大戦中はモントゥーも兵役に服し、除隊後の1916年、アメリカに渡り、翌年からはメトロポリタン歌劇場の指揮者に就任、主としてフランス系のレパートリーを多く指揮したが、リムスキー=コルサコフの『金鶏』のアメリカ初演も振っている。戦後はアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、ボストン交響楽団(1919年から1924年まで音楽監督)の指揮者を歴任、その後、1929年にはパリ交響楽団の創立時の常任指揮者を務め、パリ響常任時代にはプロコフィエフの第3交響曲の世界初演を手がけている。1935年からはサンフランシスコ交響楽団の常任となり、同楽団の黄金時代を築いた。1953年に、同交響楽団の常任を退任。フリーとなり、客演活動が中心となる。
【72】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 22時05分)

アンタル・ドラティ(Antal Doráti, ハンガリー語表記:Doráti Antal, 1906年4月9日 - 1988年11月13日)は、ハンガリー出身の指揮者・作曲家。アメリカや北欧での活躍が長く、またイギリス女王エリザベス2世からナイトに叙任されている。妻はピアニストとして著名なイルゼ・フォン・アルペンハイムである。



目次  [非表示] 
1 生涯
2 レコーディング
3 作曲家として
4 手腕
5 外部リンク


生涯[編集]

父アレクサンダーはブダペスト・フィルハーモニー管弦楽団のヴァイオリニスト、母マルギトはピアノの教師という家庭環境でブダペストに生まれた。

フランツ・リスト音楽院でコダーイとヴェイネル・レオーに作曲を、バルトークにピアノを学ぶ。1924年にハンガリー国立歌劇場で指揮者としてデビューを果たす。その後、フリッツ・ブッシュのアシスタントとしてドレスデンに行き、次に現在のドイツ連邦共和国ヘッセン州ダルムシュタット=ディーブルク郡ミュンスターのオペラ・ハウスの指揮者として契約し、1933年まで滞在した。

ドラティのアメリカでのオーケストラ指揮者としてのデビューは1937年、ワシントン・ナショナル交響楽団との共演であった。1947年にアメリカ合衆国に帰化した。1949年にミネアポリス交響楽団(現ミネソタ管弦楽団)を指揮して、バルトークのヴィオラ協奏曲(ティボール・シェルイによる補筆完成版)の世界初演を行なった。1950年代以降、マーキュリー・レコードにたくさんの録音を残し、代表的な録音としては序曲『1812年』をはじめとする高音質録音を数多く残した。また、ハンガリー動乱後の亡命者を中心に西ドイツで結成されたフィルハーモニア・フンガリカの音楽監督を長く務め、ハイドンの交響曲全集、コダーイの管弦楽曲集などを録音している。1975年に自叙伝(Notes of Seven Decades)を上梓した。1983年にイギリス女王エリザベス2世よりナイトの称号を授与される。1988年に、癌のためスイスのゲルツェンゼーの自宅にて他界。

なお、1963年にはピエール・モントゥー、ゲオルク・ショルティと共にロンドン交響楽団の3人の指揮者の一人として初来日、1982年には読売日本交響楽団に客演した。
【71】

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カンパチ (2015年04月25日 22時04分)

ジョン・バルビローリ(Sir John Barbirolli, 1899年12月2日 - 1970年7月29日)はイギリスの指揮者。「サー・ジョン」(Sir John)の愛称で知られる。本名はジョヴァンニ・バッティスタ・バルビロッリ(Giovanni Battista Barbirolli)。



目次  [非表示] 
1 略歴
2 録音
3 初演
4 脚注


略歴[編集]

イタリア人の父とフランス人の母の間にロンドンで生まれる。1916年、ヘンリー・ウッド率いるクイーンズ・ホール管弦楽団に入団、最年少のチェリストとして音楽活動を始める。1921年にはエルガーの『チェロ協奏曲』を演奏し、弦楽四重奏などの活動も行った。1925年、室内管弦楽団を組織して指揮者に転向、1936年ニューヨーク・フィルハーモニックの首席指揮者(1936年 - 1943年)に30代の若さで抜擢される。1943年イギリスのハレ管弦楽団の音楽監督(1943年 - 1958年)となり低迷していたオーケストラを鍛え上げて名声を博する。また、ヒューストン交響楽団の常任指揮者(1961年-1967年)を歴任した。エドワード・エルガー、レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ、フレデリック・ディーリアスなどのイギリス音楽、ヨハネス・ブラームス、グスタフ・マーラー、ジャン・シベリウスなどの後期ロマン派を得意とした。

1970年、フィルハーモニア管弦楽団との初来日を目前にして心臓発作により死去。日本公演はサー・ジョン・プリッチャードの指揮で行なわれた。
【70】

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カンパチ (2015年04月25日 22時03分)

第2代準男爵、サー・トーマス・ビーチャム(Sir Thomas Beecham, 2nd Baronet, CH, 1879年4月27日:セント・ヘレンズ(ランカシャー州) - 1961年3月8日:ロンドン)は、イギリスの指揮者。



目次  [非表示] 
1 生涯
2 レパートリー 2.1 主要レパートリーとレコーディング
2.2 3大退屈男

3 人物
4 日本における評価
5 参考文献
6 脚注


生涯[編集]

ビーチャム製薬(現:グラクソ・スミスクライン)の御曹司として裕福な家庭に生まる。ピアノを学んだり家に来た音楽家から各種楽器や作曲を学び、また父に連れられて国内外のコンサートやオペラ上演を鑑賞したりもしたが、結局学校での音楽の専門的教育は受けなかった(後年、モーリッツ・モシュコフスキらから学びなおしている)。オックスフォード大学に短期間在籍(中退)後、アマチュア・オーケストラの指揮者などを経て、1899年にハンス・リヒターの代役でハレ管弦楽団を指揮し、プロの指揮者としてデビューを飾った。一説には適当な代役がいなかったため、楽員が冗談半分で推薦したところ、本当に指揮台に上がったということである[要出典]。

突然のプロ・デビューののち、ビーチャムは莫大な財産を惜しげも無く投じ、まずは巡業オペラ団を結成し、これは数年続いた。次にいくつかの自前のオーケストラを創設。また、この頃にディーリアスと知り合う。1910年からはロイヤル・オペラ・ハウスを自腹で借り切って、自分の思うとおりのオペラ上演を開始した。半分以上はロンドン初演で当たり外れも大きく、決して充実した実入りにはならなかったものの、足らずと損失補填分は父に借財してどうにか凌いだ。1915年にはイギリス・オペラ・カンパニーを創設、しばらくはオペラ指揮者として活動したが、1932年にロンドン・フィルハーモニー管弦楽団を創設。また同年にロイヤル・オペラ・ハウスの音楽監督に就任し、再び自分の望みどおりのオペラ上演に専念できることとなった。この頃から国外での指揮活動も始め、ニューヨーク・フィルハーモニックやザルツブルク音楽祭(1931年)の指揮台に立った。
【69】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 22時02分)

エサ=ペッカ・サロネン(Esa-Pekka Salonen, 1958年6月30日 - )は、フィンランドの作曲家・指揮者。2008年から、フィルハーモニア管弦楽団の首席指揮者・芸術顧問を務める。またロサンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団の名誉指揮者である。



目次  [非表示] 
1 略歴
2 来日
3 出演 3.1 CM

4 外部リンク


略歴[編集]

ヘルシンキ・シベリウス音楽院でホルン演奏と作曲を学ぶ。同級生の作曲家マグヌス・リンドベルイやサーリアホと実験音楽合奏団「トイミー」(Toimii、フィンランド語で「それは作用する」の意)を結成。その後、フランコ・ドナトーニとニコロ・カスティリオーニのもとで作曲の研鑽を積む。当初は作曲活動に専念したが、1983年に急遽ロンドンでマイケル・ティルソン・トーマスの代役としてフィルハーモニア管弦楽団のマーラー作曲交響曲第3番の公演を引き受けることとなり、指揮者としての経歴が開始された。その後も1985年から1994年までフィルハーモニア管弦楽団の首席客演指揮者を務めてきた。

1985年からスウェーデン放送交響楽団の首席指揮者に、また1984年にアメリカ合衆国デビューを果たして以来、1991年からロサンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任(首席指揮者と兼任)し、現代音楽の演奏と録音に献身してきた。ヴィトルド・ルトスワフスキの交響曲第3番の世界初録音は、1985年度グラモフォン賞(英語版)現代音楽部門最優秀録音に選ばれた。

サロネンの作品には、フランツ・カフカの『判決』から題名をとったサクソフォーン協奏曲『…一瞥して何も気付かず…』(...auf den ersten Blick und ohne zu wissen..., 1980年)や、スタニスワフ・レムのテクストによるソプラノのためのFloof(1982年)、管弦楽曲『ロサンジェルス変奏曲』(L.A. Variations, 1996年)がある。作曲活動に没頭できるように2000年に1年間の休息をとり、その間にホルン独奏曲『演奏会用練習曲』(Concert Étude )や、アンシ・カルトゥネンとロンドン・シンフォニエッタのためのチェロ作品や管弦楽曲を作曲した。

サロネンは現代音楽だけでなく、シベリウスやニールセン、ラーションなどの20世紀前半から中頃に活躍した北欧の作曲家の紹介にも取り組んでいる。
【68】

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カンパチ (2015年04月25日 22時01分)

オッコ・カム(Okko Kamu, 1946年5月7日 - )は、フィンランド、ヘルシンキ生まれの指揮者、ヴァイオリニスト、芸術監督。

1965年にヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団の第2ヴァイオリン首席奏者として入団。続いて1966年にフィンランド国立歌劇場のコンサートマスターとなる。

指揮はまったくの独学であったが、1969年の第1回カラヤン国際指揮者コンクールで優勝して指揮者としての道を開いた。カラヤンのアシスタントを務めた後、フィンランド国立歌劇場やストックホルム王立歌劇場の指揮者を務めた。1970年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団に客演。1971年から1977年までフィンランド放送交響楽団、1981年から1986年までオスロ・フィルハーモニー管弦楽団、1981年から1988年までヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団、1983年から1986年までオランダ放送交響楽団、1996年から2000年までフィンランド国立歌劇場の音楽監督や首席指揮者を務めた。

現在までの30年間にたびたび来日し、日本フィルハーモニー交響楽団、読売日本交響楽団、東京フィルハーモニー交響楽団、札幌交響楽団などを指揮している。

1982年にヘルシンキ・フィルと来日してFM東京で放送(TDKオリジナル・コンサート)された演奏は、2008年3月にCDとしてTDKコアより発売された。

2011年秋よりラハティ交響楽団の芸術監督兼首席指揮者に就任することが発表された(2009年4月28日)。
【67】

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カンパチ (2015年04月25日 22時00分)

ルイ・フレモー(Louis Frémaux, 1921年8月13日 エール=シュ=ラ=リス - )はフランスの指揮者。レーニエ3世の依頼でモンテカルロ歌劇場管弦楽団(モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団)の首席指揮者を務めた後、バーミンガム市交響楽団の音楽監督に就任。同交響楽団の名声が高まるのを見届けた後、サイモン・ラトルに役目を引き継がせた。その後はシドニー交響楽団の首席指揮者に転任した。
【66】

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カンパチ (2015年04月25日 21時59分)

サー・アラン・チャールズ・マクローリン・マッケラス(Sir Alan Charles Maclaurin Mackerras 1925年11月17日 - 2010年7月14日)はオーストラリアの指揮者。幅広いレパートリーを持つが、特にヤナーチェクのオペラ、管弦楽曲で優れた録音を行っている。1979年にナイトの称号を得ている。

来歴[編集]

1925年11月17日、オーストラリア人の両親のもとにニューヨーク州スケネクタディで生まれた。「オーストラリア音楽の父」と呼ばれるユダヤ系作曲家アイザック・ネイサンの子孫にあたる。2歳の時に両親とともにオーストラリアのシドニーへ移った。ニュー・サウスウェールズ音楽院でオーボエを学び、1943年からシドニー交響楽団の首席オーボエ奏者を務めるが、指揮に興味を持ち、1946年にイギリスに渡り、翌1947年から1年間プラハに留学してヴァーツラフ・ターリヒに指揮を学んだ。

1948年にイギリスに戻り、サドラーズ・ウェルズ・オペラでヨハン・シュトラウス2世の「こうもり」を指揮し、指揮者としてデビューしている。1953年まで7年間、このオペラを指揮した。この間の1951年4月10日にヤナーチェクの「カーチャ・カバノヴァー」のイギリス初演を行い注目を集めた。これは同時にヤナーチェクのオペラのイギリス初演でもあった。1954年から1956年にはBBCコンサート管弦楽団の首席指揮者を務めている。1963年に、ショスタコーヴィチの「カテリーナ・イズマイロヴァ」でコヴェント・ガーデン王立歌劇場にデビューを果たしている。

1966年から1970年、ハンブルク国立歌劇場の第1指揮者、1970年から1977年にサドラーズ・ウェルズ・オペラ(1974年以降はイングリッシュ・ナショナル・オペラと改名)の音楽監督を歴任した。1978年にヤナーチェク賞、1979年にナイトの称号を受けている。1979年からBBC交響楽団の首席客演指揮者、1981年からはシドニー交響楽団の首席指揮者にもなっている。1986年から1992年までウェールズ・ナショナル・オペラの音楽監督を務める。1992年以後はスコティッシュ室内管弦楽団の、1993年からはロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団およびサンフランシスコ・オペラの首席客演指揮者も務めている。この間、1996年から1997年のシーズンにはチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の首席客演指揮者を務めた。イギリスのフィルハーモニア管弦楽団の首席客演指揮者でもあった。彼は、ヨーク大学やブルノのマサリク大学をはじめとする多くの大学から名誉博士号を授与されている。

マッケラスのレパートリーはバッハからエリオット・カーターまでをカバーする大変幅広いものであるが、彼の名を一躍有名にしたのが1976年から始まるヤナーチェクのオペラ録音である。それまでにも彼は1951年に「カーチャ・カバノヴァー」、1964年「マクロプロス事件」、1965年「死者の家から」のイギリス初演をそれぞれ行っており、ヤナーチェクのエキスパートであった。
【65】

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カンパチ (2015年04月25日 21時59分)

フェレンツ・フリッチャイ(Ferenc Fricsay, 1914年8月9日 - 1963年2月20日)は、ドイツを中心にヨーロッパやアメリカで活躍したハンガリー出身の指揮者。

生涯[編集]

1914年、ブダペストに生まれる。幼少の頃からハンガリーで著名な指揮者であった父リヒャルトから音楽教育を受け、6歳でブダペスト音楽院に入学し、ピアノを学び始め、続いてヴァイオリン、クラリネット、トロンボーン、打楽器なども習得する。コダーイ、バルトークらに指揮と作曲を学ぶ。卒業時に自作の『「シラノ・ド・ベルジュラク」序曲』を指揮。卒業と同時にセゲドの軍楽隊の指揮者に就任。その後、セゲド・フィルハーモニーやブダペスト国立歌劇場、ハンガリー国立交響楽団(現ハンガリー国立フィルハーモニー管弦楽団)の音楽監督を歴任する。

1946年12月にはウィーン国立歌劇場の客演指揮者として招かれ、ビゼーの『カルメン』などを指揮した。

1947年、オットー・クレンペラーの代役としてザルツブルク音楽祭でアイネム作曲の歌劇『ダントンの死』を世界初演し、脚光を浴びる。

1948年11月、ベルリンにデビューする。ベルリン市立歌劇場(現ベルリン・ドイツ・オペラ)でヴェルディの『ドン・カルロ』を上演、当時音楽学生だったバリトンのフィッシャー=ディースカウを見出す。12月にはベルリンのRIAS交響楽団(後のベルリン放送交響楽団、現ベルリン・ドイツ交響楽団)、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に客演(これはベルリン封鎖のために身動きが取れなくなったオイゲン・ヨッフムの代理としての仕事であった)。

1949年からはベルリン市立歌劇場の音楽監督(1952年まで)、RIAS交響楽団の首席指揮者(1954年10月に辞任)に就任する。

1953年、ボストン交響楽団を指揮してアメリカ・デビューを果たす。

1954年10月、アメリカのヒューストン交響楽団の常任指揮者に就任するも、楽員の入れ替えなど運営方針をめぐり対立、翌年1月に辞任する。

1956年、バイエルン国立歌劇場の音楽監督に就任(1958年まで)。

1958年秋ごろより、白血病の症状が現れ、長期の休養を余儀なくされるも、1959年夏ごろに指揮活動を再開、ベルリン放送交響楽団(RIAS交響楽団から1956年に名称変更)の首席指揮者に復帰する。

1960年春、ベルリン市立歌劇場から再編されるベルリン・ドイツ・オペラの初代音楽総監督就任の契約を交わすが、健康状態を理由に数週間後に辞退する。

1961年のザルツブルク音楽祭で、モーツァルトの『イドメネオ』を指揮、その演奏の評判によりウィーン・フィルハーモニー管弦楽団による追加コンサートが開催された。

1961年9月、ベルリン・ドイツ・オペラの杮落とし公演でモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』を指揮し、その後、コダーイの『ハーリ・ヤーノシュ』などを録音した。12月にはロンドン・フィルハーモニー管弦楽団に客演し、ベートーヴェンの交響曲第7番ほかを指揮した。これが生涯最後の指揮となった。
【64】

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カンパチ (2015年04月25日 21時58分)

クルト・ザンデルリング(Kurt Sanderling, 1912年9月19日 - 2011年9月18日)は、ドイツの指揮者である。息子のトーマス、シュテファンはともに指揮者、ミヒャエルはチェリストである。



目次  [非表示] 
1 略歴
2 音楽
3 表記について
4 脚注
5 参考文献


略歴[編集]

東プロイセンのアリス(現在のポーランド・ヴァルミア=マズールィ県オジシュ(英語版))に生まれた。幼い頃から音楽に興味を示し、10歳でケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)のギムナジウムに通い、音楽を学び始めた。

1931年にベルリン市立歌劇場のコレペティートルとして音楽家としてのキャリアをスタートさせた。しかしナチスが勢力を拡大すると、母親がユダヤ人であった彼はドイツ国籍を剥奪され、1935年におじが在住していたソビエト連邦に亡命した。同国ではモスクワ放送交響楽団でジョルジュ・セバスティアンのアシスタントとして研鑚を積んだ。

1937年にモスクワでモーツァルトのオペラ『後宮からの誘拐』を指揮してデビューした。1939年にはハリコフ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任した。1941年にレニングラート・フィルハーモニー交響楽団の第一指揮者に就任し、エフゲニー・ムラヴィンスキーの下でさらに研鑚を積んだ。このソ連滞在中にドミートリイ・ショスタコーヴィチと知り合い、親交を結んだ。1958年のレニングラート・フィルの初訪日公演では指揮者の一人として日本を訪れた。

その後、1960年に東ドイツ政府に請われて帰国し、ベルリン交響楽団の芸術監督、首席指揮者に就任、短期間のうちにこの歴史の浅いオーケストラを同国屈指のレベルにまで鍛え上げた。1964年から1967年まではシュターツカペレ・ドレスデンの首席指揮者も兼務した。

1965年にザルツブルク音楽祭にデビューし、西側でも広くその名を知られるようになった。1972年には健康の衰えの見られたオットー・クレンペラーを補佐する要請を受け、フィルハーモニア管弦楽団の首席客演指揮者に就任した。後に同楽団からは名誉指揮者に任命された。

1973年のシュターツカペレ・ドレスデンの来日公演では、すでに首席の座を離れていたにもかかわらず、メインの指揮者として帯同した。その後もたびたび来日し、1976年、1978年、1980年、1990年には読売日本交響楽団を客演指揮し、同楽団から名誉指揮者に任じられた。

1977年にはベルリン響のポストを退いたが、同楽団とは以後も終身客演指揮者、名誉指揮者として緊密な関係を保った。その後はフリーの立場で精力的な活動を続けた。

2002年に高齢を理由に指揮活動からの引退を表明、5月19日の引退演奏会でベルリン響を指揮してブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」、モーツァルトのピアノ協奏曲第24番(共演は内田光子)、シューマンの交響曲第4番を演奏し、自らの指揮活動に幕を降ろした。

2011年9月18日、ベルリンで死去した。98歳没。死因は老衰とみられる[1]。
【63】

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カンパチ (2015年04月25日 21時57分)

フランツ・コンヴィチュニー(Franz Konwitschny, *1901年8月14日、フルネク(英語版、ドイツ語版、チェコ語版) - †1962年7月28日 ベオグラード)は、オーストリア=ハンガリー帝国支配下時代のモラヴィア北部のフルネクに生まれ、ドイツ(ザクセン、バーデン)、冷戦開始後は東ドイツを中心に東側諸国で活動した指揮者。著名なオペラ演出家ペーター・コンヴィチュニー(ドイツ語版)は息子である。

略歴[編集]

音楽家の一家に生まれる。チェコスロバキア共和国時代の1920年から1923年までブルノの楽友協会音楽院でヴァイオリンのレッスンを受け、1923年から1925年までライプツィヒ音楽院に在学した。この時代、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー時代のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団でヴィオラ奏者として活動を開始した。

フルトヴェングラーの他にもブルーノ・ワルターやオットー・クレンペラーなどがゲヴァントハウス管弦楽団の客演指揮者を行っていたためか、コンヴィチュニーはいつしか自らも指揮者になることを決意する。1927年にシュトゥットガルト歌劇場に加わり、練習指揮者を始める。3年後には首席指揮者となる。その後、ヴロツワフやフランクフルトなどの各地の歌劇場を歴任する。

戦後、1949年から没年まで、ゲヴァントハウス管弦楽団に戻って首席指揮者を務めた。1953年から1955年までシュターツカペレ・ドレスデンの首席指揮者も兼務し、1955年以降はベルリン国立歌劇場の首席指揮者も務めた。

1961年4月にゲヴァントハウス管弦楽団が初来日した時の指揮者でもある。大阪市のフェスティバルホール(大阪国際フェスティバルに参加)、東京都の日比谷公会堂のそれぞれでベートーヴェン交響曲全曲演奏(チクルス)そのほかの演奏を行っている。二大都市ばかりでなく福岡県八幡市(現北九州市八幡東区)の八幡市民会館、愛知県名古屋市の名古屋市公会堂、福島県郡山市の郡山市民会館でベートーヴェンの交響曲第5番、第6番などの演奏を行っている。

1962年7月28日に演奏旅行先であるユーゴスラヴィアのベオグラードでベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』のリハーサル中に心臓発作により死去した。

コンヴィチュニーは、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の楽長(カペルマイスター)として長期にわたり終生、楽団とともに活動を行った。戦争によって深い傷を負った同オーケストラの復興に、コンヴィチュニーは相当な努力を行った。10年以上にもわたって楽団と苦楽を共にしたためか、その演奏は明晰さを湛えた緻密なものであった。
【62】

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カンパチ (2015年04月25日 20時16分)

ギュンター・ヴァント (Günter Wand, 1912年1月7日 - 2002年2月14日)はドイツ・ラインラント地方のエルバーフェルト(現在、エルバーフェルトはバルメンと合併してヴッパータールと改称し、その一部となっている)に生まれたドイツ人指揮者。ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、ブルックナーといったドイツ音楽を得意とする一方、ストラヴィンスキーやメシアンのような現代音楽作品も積極的に演奏した。






目次  [非表示] 
1 生涯
2 日本とのかかわり
3 ヴァントのブルックナー演奏
4 彼のテンポについて
5 参考文献


生涯[編集]

ギュンター・ヴァントはミュンヘン音楽院とケルン音楽大学に学んだ。後年における彼の演奏活動を考える上で興味深いのは、当時ミュンヘン音楽院の院長を務めていたジークムント・フォン・ハウゼッガーに会い、強い印象を受けていることである。ハウゼッガーはブルックナーの交響曲を原典版で演奏した初めての指揮者であり、一つの演奏会の中でレーヴェによる改訂版と原典版の両方を指揮するという試み(演奏されたのはブルックナーの交響曲第9番)も行ったことがあるという。

1932年、ヴァントはヴッパータール歌劇場のコレペティトール(オペラなどの独唱者にピアノで下稽古をつける役職)となった。その後、1934年にはアレンシュタイン(現ポーランドのオルシュティン)歌劇場でカペルマイスターとなる。この環境は彼にとって満足のいくものではなかったが、ナチ党員ではなかった彼にはなかなか良いポストが見つからなかった。しかし、1938年のデトモルト州立歌劇場への転出が彼に転機をもたらす。この劇場は規模などの点では前の任地とさほど変わらなかったが、当地はラインラントであり、ケルンに近かった。ある日の晩、ヴァントが指揮する「魔笛」を聴いたケルンのエージェントが彼のもとを訪れ、ケルン歌劇場の第一カペルマイスターになるよう要請した。こうして彼は遂にメジャーな地位を獲得し、1974年のケルン市音楽総監督辞任に至るまでこの街を拠点として活動することになるのである。1946年、彼は同市の音楽総監督に就任し、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団、ケルン放送交響楽団等を指揮して多くの録音を残した。中でも、後者と録音したブルックナー交響曲第5番のレコードはドイツ・レコード賞を獲得し、この後続いて録音されたブルックナーの交響曲全集によって、彼はケルンの外にも広く知られるようになる。

ケルンを去った後は北ドイツ放送交響楽団の首席指揮者に招聘され(1982年)、同楽団にハンス・シュミット=イッセルシュテット以来の黄金期をもたらした。同時に、ここでの活動が彼の楽壇に於ける地位を決定的なものにしたのである。 彼は1991年に首席指揮者の地位を退いた後も同楽団への客演を続け、終生、同楽団とは親密な関係にあった。

彼は、1つの楽団に集中しない現代の指揮者の在り方に対して批判的であって客演は多くなかったが、最晩年にはベルリン・フィル、ミュンヘン・フィル、ベルリン・ドイツ交響楽団等に客演して見事な演奏を披露した。
【61】

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カンパチ (2015年04月25日 20時15分)

カール・リヒター(Karl Richter, 1926年10月15日 - 1981年2月15日)は、ドイツの指揮者、オルガン・チェンバロ奏者。



目次  [非表示] 
1 略歴
2 代表的な録音 2.1 アルヒーフ
2.2 英デッカ=ロンドン
2.3 テレフンケン(現テルデック)

3 リヒターへの言及
4 関連人物
5 書籍
6 外部リンク


略歴[編集]
1926年10月15日 - ドイツ・ザクセン州のプラウエンに牧師の子として生まれる。
1937年 - 11歳のときドレスデン聖十字架教会付属学校に入り同聖歌隊のメンバーになる。ここで最初の音楽教育を受け、バッハやシュッツの合唱曲に親しむ。
1946年 - 戦後ドレスデンからライプツィヒに移り、ライプツィヒ音楽大学に入学、聖トーマス教会のカントルであったカール・シュトラウベとギュンター・ラミンについて学ぶ。
1949年 - 教会音楽の国家試験に合格して聖トーマス教会のオルガニストに就任。
1950年 - ライプツィヒ・バッハ・コンクールのオルガン部門で、首席をアマデウス・ウェーバージンケと分け合う。
1951年 - 聖マルコ教会(ミュンヘン)のオルガニストに就任。これに伴いミュンヘンに移住。バッハ・コンクールの成績が契機となってミュンヘン国立音楽大学のオルガンとルター派教会音楽の講師に迎えられる。リヒターは当初東ドイツで活動し、伝統の後継者と目されていたが、社会主義統一党の支配に対して自由な活動の場を求め、次第に西ドイツのミュンヘンで活動するようになる。
1951年〜1953年の間 - 戦後設立されたハインリヒ・シュッツ合唱団の指揮を任され、主にJ.S.バッハ作曲のカンタータを演奏する目的で訓練、これをミュンヘン・バッハ合唱団と改称。
1953年 - ソリストを募集し、ミュンヘン・バッハ管弦楽団を設立。
1954年 - シュッツの Musikalische Exequien「音楽による葬送」を録音(レコード・デビュー)。
1954年10月 - スイスのジュネーブにあるヴィクトリア・ホールにて、英デッカ=ロンドンレーベルへ、J.S.バッハとリストのオルガン作品を録音(リヒター最初のステレオ録音)。
1956年 - ラミンの没後、トーマス教会からのカントル就任要請を断り、完全に西ドイツに活動の本拠を移す。ミュンヘン国立音楽大学のオルガン科教授に就任。ミュンヘン・バッハ管弦楽団、同合唱団を率いてアメリカへの演奏旅行。
1958年 - アルヒーフに、バッハの「マタイ受難曲」を録音。これは今日まで最もよく知られる彼の代表的作品となった。さらに同レーベルへのカンタータ録音を開始。ドイツ・グラモフォンがアルヒーフレーベルによる音楽史を構想した当初、バッハのカンタータはフリッツ・レーマンらによって担当されていたが、レーマンが1956年に演奏中に急死したため、数人の指揮者による分担を経て、結果的にリヒターがその後任となった。自らライフワークとしていたカンタータ録音は、20年以上をかけて約70曲を残している。
【60】

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カンパチ (2015年04月25日 20時14分)

カール・ベーム(Karl Böhm, 1894年8月28日 - 1981年8月14日)はオーストリアの指揮者。学位は法学博士(グラーツ大学)。称号はオーストリア音楽総監督、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団名誉指揮者。息子は俳優のカールハインツ・ベーム。孫のカタリナ・ベームも女優として活躍している。



目次  [非表示] 
1 生涯
2 欧州楽壇のマエストロ
3 ベームの演奏
4 ベーム・ファミリー 4.1 男性歌手
4.2 女性歌手

5 主な録音
6 ベームと日本 6.1 初来日
6.2 70年代
6.3 最後の来日

7 ポスト


生涯[編集]

グラーツ生まれ。弁護士である父親の意向により、グラーツ大学で法律を学び、法学博士の学位を得た。しかし同時に父親がグラーツ市立歌劇場の法律顧問をつとめていた関係で音楽界に仲間が多く、父親の友人であったフランツ・シャルクの紹介で、ブラームスの親友であったオイゼビウス・マンディチェフスキ(ウィーン楽友協会司書でブラームス全集の編者)の個人教授で音楽を学んだ。

1917年 - グラーツ市立歌劇場でデビュー。リヒャルト・ワーグナーの友人であったカール・ムックがベームの「ローエングリン」を聴いた際に感激し、当時バイエルン国立歌劇場音楽監督だったブルーノ・ワルターにベームを紹介した。グラーツ市立歌劇場では首席指揮者に予定されていたが、ワルターの招きにより、1921年 よりバイエルン国立歌劇場の第4指揮者に転任。ワルターはベームに多大なる影響を与え、特にモーツァルトの素晴らしさを教えた。そしてまたベームもモーツァルトの権威として知られることになる。ワルターとの交遊関係は戦中戦後を通じて続くこととなるが、1922年からはワルターに代わり、クナッパーツブッシュが音楽監督になった。しかしクナッパーツブッシュも、モーツァルトに関してはほとんどベームに任せている。

1927年 - ダルムシュタット市立歌劇場音楽監督に就任(1931年まで)。この時の総監督は、後年メトロポロタン歌劇場の名物総支配人となるルドルフ・ビングであり、彼らの友情は終生続くこととなる。ダルムシュタットでは現代オペラの上演に力を注いだが、特にアルバン・ベルクの「ヴォツェック」を指揮して絶賛され、ベルク本人との友情も芽生え、ベルク作品の世界的普及に尽力した。
【59】

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カンパチ (2015年04月25日 20時13分)

サー・コリン・レックス・デイヴィス(Sir Colin Rex Davis, CH, CBE, 1927年9月25日 - 2013年4月14日)は、英国の指揮者。



目次  [非表示] 
1 略歴
2 脚注
3 参考文献
4 外部リンク


略歴[編集]

イングランドのサリー州出身。生家が貧しく、ピアノを買うほどの金がなく、まず一番安い楽器のクラリネットから始める。王立音楽大学でさらにクラリネットを学ぶが、ピアノの演奏能力の欠如を理由に指揮法の履修は禁じられた。しかし同級生とカルマー管弦楽団(the Kalmar Orchestra)を結成し、しばしば指揮を執っていた。

1952年にロイヤル・フェスティバル・ホールに勤め、1950年代後半からBBCスコティッシュ交響楽団を指揮する。1959年に病身のオットー・クレンペラーの代理でモーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』を指揮して一躍名声を馳せる。翌年にはグラインドボーン音楽祭で、モーツァルトの『魔笛』を指揮してトーマス・ビーチャムの代役を果たした。

1960年代にサドラーズ・ウェルズ・オペラやロンドン交響楽団、BBC交響楽団を指揮する。1971年にゲオルク・ショルティの後任としてコヴェント・ガーデン王立歌劇場の首席指揮者に就任、1986年までそのポストを務める。マイケル・ティペットの擁護者として名を馳せ、『ノット・ガーデン』(The Knot Garden, 1970年)や《The Ice Break 》(1977年)、『時の仮面』(The Mask of Time, 1984年)を初演した。ボストン交響楽団の首席客演指揮者も務め、シベリウスの交響曲全集・管弦楽曲選集を録音した。1977年にはイギリス人指揮者として初めてバイロイト音楽祭に出演し、『タンホイザー』を指揮した。

1980年にナイトに叙される。その後は、バイエルン放送交響楽団首席指揮者、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団名誉指揮者などを歴任し、1995年に母国イギリスのロンドン交響楽団首席指揮者に就任した。得意とするレパートリーは、モーツァルト、ブリテンのオペラのほか、ベルリオーズの管弦楽曲やマーラー、シベリウスの交響曲などである。

2013年4月14日、病気のため死去した[1][2]。85歳没。

息子に指揮者のジョゼフ・ウォルフがいる。
【58】

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カンパチ (2015年04月25日 20時12分)

サー・ネヴィル・マリナー (Sir Neville Marriner、 1924年4月15日 - )は、イギリスの指揮者、ヴァイオリニスト。

人物・来歴等[編集]

イングランドのリンカン出身。クラリネット奏者アンドリュー・マリナーの父である。王立音楽大学に学んだ後、パリ音楽院に留学した。フィルハーモニア管弦楽団やロンドン交響楽団でヴァイオリニストを務め、サーストン・ダートとジャコビアン・アンサンブルを結成するが、その後メイン州ハンコックに留学してピエール・モントゥーの音楽学校にて指揮法を学ぶ。1959年にアカデミー室内管弦楽団 (Academy of St. Martin-in-the-Fields) を結成し、長年その指揮者を務めてきた。1969年から1979年までロサンジェルス室内管弦楽団を指揮し、1979年から1986年までミネソタ管弦楽団の、1983年から1989年までシュトゥットガルト放送交響楽団の音楽監督を務めた。1985年にはナイト号を授与された。1992年より、カダケス管弦楽団の首席客演指揮者の任に就いている。1972年、アカデミーと初来日している。

上記以外にも、NHK交響楽団の定期演奏会への客演(1979年、2007年、2010年、2014年)、ロンドン交響楽団、フィルハーモニア管弦楽団、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、シュターツカペレ・ドレスデン等との録音がある。

レパートリーは幅広く、バロック音楽から古典派音楽を経て、現在ではチャイコフスキーのほか、レスピーギやバルトークも指揮・録音している。映画「アマデウス」の音楽を担当し、そのサウンドトラックには、マリナー指揮のアカデミー室内管弦楽団による演奏が用いられている。

弦楽合奏曲に特に強い思い入れがあるようで、イギリスや北欧の弦楽作品は、バロックやモーツァルトと並んで、マリナーとアカデミーの主要なレパートリーの一つとなっている。
【57】

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カンパチ (2015年04月25日 20時10分)

ゲオルク・ショルティ(Sir Georg Solti、 1912年10月21日 - 1997年9月5日)は、ハンガリー出身で、ドイツ、のちイギリスの国籍で活躍した指揮者、ピアニストである。ゲオルグ・ショルティとも書かれる。ユダヤ系。ハンガリー語の発音に基づく表記はショルティ・ジェルジュ(Solti György [ˈʃolti ˌɟørɟ])。



目次  [非表示] 
1 生涯
2 演奏スタイル
3 レパートリー
4 平和への祈り
5 エピソードなど
6 代表的な録音
7 称号
8 参考文献
9 脚注
10 関連項目


生涯[編集]

ハンガリーのブダペスト生まれ。シュテルン家の次男として生まれ、生まれた時の姓名はシュテルン・ジェルジュ(Stern György [ˈʃtern ˌɟørɟ])。父親はシュテルン・モーリツ (Stern Móric [ˈʃtern ˌmoːriʦ])、母親はローゼンバウム・テレーズ (Rosenbaum Teréz [ˈroːzenbɒum ˌtɛrɛːz])。写真家のモホリ=ナジ・ラースローは再従兄弟にあたる。また作曲家のジョゼフ・コズマ(コズマ・ヨージェフ)も親戚である。父親はハンガリーで民族主義が高まるのを感じて、子供らの将来のためにユダヤ的なシュテルンという姓をハンガリー風のショルティに改姓した。
6歳でピアノを習い始める。その後1924年に、リスト音楽院でヴェイネル、バルトーク、コダーイ、ドホナーニらに指導を受け、ピアノ、作曲、指揮なども学んでいる。13歳の時、コンサートで聞いたエーリヒ・クライバー指揮のベートーヴェン・交響曲第5番の演奏に感動して指揮者を目指すこととなる。
1930年 - リスト音楽院を卒業するとブダペストの国立歌劇場でコレペティトール(歌手の練習のためのピアニスト)に採用され、チェレスタやチェンバロなどの楽器の演奏も手がけるなど、努力の日々を送りながらオペラを学ぶ。
1936年 - コレペティトールとしてザルツブルクを訪れた時、ザルツブルク音楽祭のリハーサルのためのピアニストに欠員が出たためショルティに声がかかったが、これがトスカニーニの目にとまり、同年と翌年のザルツブルク音楽祭のトスカニーニの助手を務めることとなる。1937年には「魔笛」の公演でグロッケンシュピールを担当した。
1938年3月11日−ブダペスト歌劇場の「フィガロの結婚」で指揮者デビュー。ぶっつけ本番であった(同日、ナチス・ドイツによるオーストリア併合)。この年、ヘトヴィヒ・エークスリ(ヘディ)と結婚。
1942年 - ジュネーブ国際コンクールのピアノ部門で優勝し(審査員にはヴィルヘルム・バックハウスやフランク・マルタンがいた)、その後ピアニストとしてデビューする。それまで仕事にありつけずにいたショルティだが、この成功によって音楽家として名声を博していくことになる。
年に音楽監督に就任( - 1971年)。
【56】

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カンパチ (2015年04月25日 20時07分)

ロリン・マゼール(Lorin Maazel, 1930年3月6日 - 2014年7月13日)はフランス・パリ近郊、ヌイイ=シュル=セーヌ(Neuilly-sur-Seine)生まれ、アメリカ出身の指揮者・ヴァイオリニスト・作曲家。ピッツバーグ大学卒業。



目次  [非表示] 
1 経歴 1.1 早年期
1.2 青年期、そしてデビューへ
1.3 挫折、そして復帰へ
1.4 ニューヨーク・フィル音楽監督時代とその後

2 日本との関わり
3 主な作品
4 脚注
5 外部リンク
6 参考文献


経歴[編集]

早年期[編集]

ユダヤ系ロシア人の父とハンガリーとロシアのハーフである母の家庭に生まれる。ユダヤ・ロシア・ハンガリーの血を引いている。生後ほどなくしてアメリカに一家で移住し、5歳の頃からヴァイオリンを7歳の頃から指揮の勉強を始めるが、天才振りを発揮したのは主に指揮の方面であった。8歳の時にニューヨーク・フィルハーモニックを指揮して指揮者デビューを飾り、以後9歳でレオポルド・ストコフスキーの招きでフィラデルフィア管弦楽団を指揮、11歳でアルトゥーロ・トスカニーニに認められNBC交響楽団の夏季のコンサートを指揮した。10代半ばまでには全米のほとんどのメジャー・オーケストラの指揮台に上がっている。

青年期、そしてデビューへ[編集]

ピッツバーグ大学在学中はピッツバーグ交響楽団の一員として活躍する一方、弦楽四重奏団を結成したりもした。1952年、フルブライト奨学金の試験に合格したマゼールはイタリアに渡り、バロック音楽を研究する日々を送る事になる。その翌年カターニアでヨーロッパデビューを飾り、1960年にはバイロイト音楽祭に史上最年少でデビュー、フェルディナント・ライトナーと交代で「ローエングリン」を指揮した。1963年にはザルツブルク音楽祭にデビュー、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団とのコンサートでは、ヴァイオリンを弾きながら指揮をする「弾き振り」で話題となった(モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番)。

1965年にはベルリン・ドイツ・オペラとベルリン放送交響楽団(旧西ベルリン、現在はベルリン・ドイツ交響楽団)の音楽監督(どちらも早世したフェレンツ・フリッチャイの後任)に就任。1972年にはジョージ・セル死去後空席となっていたクリーヴランド管弦楽団の音楽監督に就任した。1982年にはウィーン国立歌劇場の総監督に昇りつめ、また1980年からボスコフスキーの後を次いでニューイヤーコンサートの指揮者を務めるなど(1980年から1986年までの毎年。それ以後もたびたび出演して、生涯登場回数10回は、ボスコフスキー、クラウスに次ぐ史上第3位)順調な指揮者人生を極めつつあった。ニューイヤーコンサートは現在年ごとに指揮者を選任するスタイルとなっており、レギュラー指揮者は今のところマゼールが最後であるが、前任のボスコフスキー、クレメンス・クラウス、ヨゼフ・クリップスがいずれも生粋のウィーン生まれでウィンナワルツを得意としていたのに比べ、外国人でこうした曲種から縁遠いイメージがあったマゼールがこの座に迎えられたことは意外性をもって受け止められた。しかし、あえてこの人選に踏み切ったウィーンフィルからの強い信頼にこたえ、同コンサートをいっそう国際的に飛躍させるために貢献した。
【55】

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カンパチ (2015年04月25日 16時41分)

ニキシュ・アルトゥール、アルトゥル・ニキシュ(Nikisch Artúr, Arthur Nikisch, 1855年10月12日 モション郡(英語版、ハンガリー語版)レーベーニ(英語版、ハンガリー語版)近郊レーベーニ・セントミクローシュ(Lébényi Szent-Miklós)(現在のジェール・モション・ショプロン県モションセントミクローシュ(英語版、ハンガリー語版)) - 1922年1月23日)は、現在のハンガリー出身で主にドイツで活躍した20世紀初期の大指揮者の一人。



目次  [非表示] 
1 略歴
2 逸話
3 録音
4 係累
5 参考文献
6 外部リンク


略歴[編集]

1855年、ハンガリー西部、レーベーニ近郊にハンガリー出身の父とモラヴィア出身の母のもと生まれる。ウィーン音楽アカデミーでヴァイオリンと作曲を学び、ウィーン宮廷歌劇場のヴァイオリン奏者として音楽活動をはじめる。1878年、指揮に転じ、ライプツィヒ歌劇場指揮者。1885年、12月30日、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を指揮してブルックナーの交響曲第7番の初演を行う。1895年ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団とベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任、亡くなるまで両楽団を指導する。リヒャルト・シュトラウスやマーラー等、同時代の作品の演奏も積極的に行った。また、チャイコフスキーの曲がドイツ・オーストリア系の作曲家の作品と同等の扱いで演奏されているのは、ニキシュの貢献によるものだと言われている。
【54】

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カンパチ (2015年04月25日 16時39分)

リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti, 1941年7月28日 ナポリ - )はイタリア人の指揮者である。シカゴ交響楽団音楽監督、ウィーン・フィル名誉団員。現代を代表する巨匠として知られる。



目次  [非表示] 
1 略歴・人物
2 レパートリー
3 幼少-青年時代〜ロンドン時代
4 フィラデルフィア時代
5 ミラノ・スカラ座時代
6 フリー(客演)の期間
7 シカゴ交響楽団の音楽監督へ
8 ウィーン・フィルとの信頼関係
9 ミュンヘンとの関係
10 ニューヨーク・フィルとの関係
11 クラウディオ・アバドとの関係
12 エピソード 
13 受賞歴
14 参考文献
15 外部リンク


略歴・人物[編集]

1967年に若手指揮者のためのグィード・カンテッリ賞を受賞。1972年からフィルハーモニア管弦楽団を定期的に指揮し、オットー・クレンペラー以来の首席指揮者に任命される。1980年から1992年までフィラデルフィア管弦楽団の音楽監督に就任し、しばしば同楽団を率いて世界的な演奏旅行を行った。フィラデルフィア管と制作したレスピーギ作品やロシア作品(ストラヴィンスキー、チャイコフスキー、スクリャービン)、ブラームスの交響曲の録音は、現在でも評価が高い。

1986年から2005年までミラノ・スカラ座の芸術監督を務める。1987年にミラノ・スカラ座管弦楽団の首席指揮者に任命され、1988年には同楽団とともにヴィオッティ・ドーロ賞(Viotti d'Oro)を獲得。同楽団を率いてイタリア国内から欧州各地まで演奏活動を続けた。スカラ座辞任後は特定の監督ポストには就任せず、客演指揮者として活躍。

2010年5月、シカゴ交響楽団音楽監督に就任。

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やウィーン・フィルハーモニー管弦楽団にも定期的に客演している。 1971年以来ザルツブルク音楽祭にも定期的に参加し、オペラや演奏会を指揮しているが、とりわけ同地ではモーツァルトの歌劇の指揮で有名である。スカラ座のほかにも、フィラデルフィアやロンドン、ミュンヘン、ウィーン、ラヴェンナ音楽祭などでオペラ公演を指揮してきた。

交友は大物が並ぶ。小澤征爾、ダニエル・バレンボイム、ズービン・メータ、マウリツィオ・ポリーニ、バルバラ・フリットリ、レナート・ブルゾン等。またカルロス・クライバーの数少ない親友でもあった
【53】

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カンパチ (2015年04月25日 16時38分)

リッカルド・シャイー(Riccardo Chailly, 1953年2月20日 - )は、イタリア出身の指揮者。 


目次  [非表示] 
1 人物・来歴
2 レコーディング
3 ディスコグラフィ 3.1 デッカ・レーベルへの録音

4 外部リンク


人物・来歴[編集]

パウル・ヒンデミット門下の音楽学者・作曲家であるルチアーノ・シャイーの息子としてミラノに生まれる。ローマの音楽院を卒業した後、父親の勤めるペルージャ、次いでミラノの各音楽院で学び、シエナのキジアーナ音楽院ではフランコ・フェラーラに師事する。ペルージャ時代にはイ・ソリスティ・ヴェネティに招かれ、14歳で指揮者としてデビューする。1972年から2年間、クラウディオ・アバドの元でミラノ・スカラ座管弦楽団の副指揮者を務める一方で、同1972年にはミラノのテアトロ・ヌオーヴォでマスネのオペラ『ウェルテル』を指揮してオペラ指揮者としてのデビューを飾る。

1974年にシカゴ・リリック・オペラでプッチーニの『蝶々夫人』を指揮してアメリカでのデビューを果たす。また1977年サンフランシスコ歌劇場で『トゥーランドット』(パヴァロッティとカバリエとの共演)を指揮して大成功を収めている。1978年にはミラノ・スカラ座でヴェルディの『群盗』を指揮してスカラ座でデビューをすると同時に国際的な注目を集める。以降はロイヤル・オペラ・ハウス、バイエルン国立歌劇場、ウィーン国立歌劇場、メトロポリタン歌劇場など世界の主要な歌劇場に客演している。

1982年から1989年までベルリン放送交響楽団(現在のベルリン・ドイツ交響楽団)の首席指揮者を、また1982年から1985年までロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の首席客演指揮者を務める。1986年から1993年までボローニャのテアトロ・コムナーレの音楽監督も務める
【52】

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カンパチ (2015年04月25日 16時37分)

クリストフ・エッシェンバッハ(Christoph Eschenbach, 1940年2月20日 - )は、ドイツのピアニスト、指揮者。



目次  [非表示] 
1 経歴 1.1 生い立ち
1.2 音楽キャリア

2 脚注 2.1 出典
2.2 参考文献

3 外部リンク


経歴[編集]

生い立ち[編集]

ドイツ・シレジア地方の都市ブレスラウ(現ポーランド・ヴロツワフ)に生まれる。母マルガレーテ(旧姓ヤロス)は、出産と引き換えに亡くなった。ブレスラウ大学(現ヴロツワフ大学)の音楽学者だった父ヘルベルト・リングマンは、第二次世界大戦中にナチスの懲罰部隊に入れられ戦闘で命を落とした。孤児となったクリストフは、1946年、母のいとこであるヴァリドール・エッシェンバッハ(旧姓ヤロス)に引き取られる。本人は次のように述べている。「悲惨な過去の生活のせいで口をきくこともできなくなっていたのである。ヴァリドール・エッシェンバッハはピアニストにして歌手、そして音楽教師で、夜遅くまでベートーヴェンやシューベルト、ショパン、ラフマニノフやバッハを弾いていた。私がまた口をきくことができるようになったのは、自分でも音楽を演奏したいか、と尋ねられて『はい』という言葉を発したときだった。」[1][2][3][4] 養母ヴァリドールにより音楽教育を受け、ピアノを学んだ。1950年、ハンブルグに移り、スタンウェイ・コンクールで第1位。オイゲン・ヨッフムの推薦によりエリツァ・ハンゼン(Eliza Hansen)に師事した。11才のとき、キールに公演に来たベルリン・フィルを指揮するフルトヴェングラーの演奏に感動し、「その日から」指揮者を志す。指揮者になるためには他の楽器も、とヴァリドールはヴァイオリンを買い与え、ピアニストとしてのかたわらその後15年間ヴァイオリンも習い続けた。[5] 1955年、ケルンの上級音楽学校 (現ケルン音楽大学)に入学し、ハンス‐オットー・シュミット‐ノイハウスにピアノを学ぶ。1959年、ハンブルクに戻り再びエリツァ・ハンゼンに師事、ウィルヘルム・ブリュックナー‐リューゲベルク (Wilhelm Brückner-Rüggeberg)のもとで指揮を学び始めた。[6][7][8][9]
【51】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 16時36分)

フリッツ・ライナーは1888年ハンガリーに生まれ1963年にアメリカで没した指揮者です。古くはドレスデン宮廷歌劇場などヨーロッパで活躍していましたが1920年代アメリカに渡り、ピッツバーグ交響楽団(1938-46)、メトロポリタン歌劇場(1948-53)、シカゴ交響楽団(1953-63)などの常任指揮者を歴任し、特に1953年から約10年間その常任指揮者の座を置いたシカゴ交響楽団と輝かしい演奏の記録はRCAレーベルに多くのレコードとして残されています。得意とされているレパートリーはお国もののバルトークやそしてリヒャルト・シュトラウス、ワーグナーなどと言われていますが、小生はバッハ、ハイドン、ベートーベン、ブラームスなどのドイツ音楽もまず挙げられると思います。また、スタジオ録音はほんのわずかしか残されていませんが、オペラ指揮者としても数々の作品を指揮しました。
【50】

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カンパチ (2015年04月25日 16時34分)

セルゲイ・クーセヴィツキー(Serge Koussevitzky, 実名はSergei Aleksandrovich Koussevitzky, 1874年7月26日 - 1951年6月4日)はアメリカ合衆国で活躍したユダヤ系ロシア人指揮者、作曲家。クセヴィツキーの表記が用いられることもある。1924年から1949年まで、ボストン交響楽団の実質的な終身常任指揮者を務め、就任期間の記録的な長さを誇っている。

経歴[編集]

モスクワで音楽を学んだ後、名コントラバス奏者として活動を始める。1902年には『コントラバス協奏曲 嬰ヘ短調 作品3』を作曲。1908年にベルリンで指揮者デビューを果たし、翌年には自前のオーケストラを創設。この間に正教に改宗して富裕なロシア人女性ナターリヤと結婚し、夫人の援助によって楽譜出版社を設立、スクリャービンやラフマニノフ、メトネル、ストラヴィンスキーなどの作曲家の版権を得るなど、ロシア革命まで自由な音楽活動を謳歌した。

1920年にボリシェヴィキ政権を嫌ってパリに脱出、1924年にボストン交響楽団常任指揮者に任命され、アメリカに移住(1941年にアメリカ合衆国市民権を取得)。それから24年にわたって、ボストン交響楽団を、単にアメリカ合衆国の一流オーケストラとしてだけではなく、世界的水準を持ったオーケストラに育て上げ、同楽団はアメリカ5大オーケストラの一つに数えられるようになる。サマー・コンサートやタングルウッド音楽祭における教育プログラムも、クーセヴィツキーの発案による。録音も数多く残しており、しばしばCDにも復刻されている。録音のほとんどは評論家から好意をもって迎えられてきた。クーセヴィツキーの著名な門人にレナード・バーンスタインがいる。
【49】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 14時35分)

ユージン・オーマンディ(オルマーンディ・イェネー)(Eugene Ormandy(Ormándy Jenő), 1899年11月18日 - 1985年3月12日)はハンガリー出身のユダヤ系アメリカ人指揮者。本名ブラウ・イェネー(Blau Jenő)。ユージーン・オルマンディとも表記される。



目次  [非表示] 
1 生涯
2 レパートリー・録音
3 外部リンク
4 脚注


生涯[編集]


 


シベリウス(左)と会話するオーマンディ(右)(1951年)
ブダペストにユダヤ人の血を引く家庭に生まれる。幼年時代からヴァイオリンの才能を現す。1905年にブダペスト王立音楽院に入学。08年から名ヴァイオリニスト・イェネー・フバイ(フーバイとも。名奏者ヨーゼフ・ヨアヒムの弟子)に師事、17年にヴァイオリン教授の資格を得て音楽院卒業後、ヴァイオリニストとして本格的な演奏活動を開始。19年には師の後任として王立音楽院ヴァイオリン科主任教授に就任する。しかし21年、アメリカ演奏旅行の際、一説ではマネージャーに騙されたとも言われ、無一文で見知らぬ土地に放り出される苦難に見舞われる。

糧を得るために1921年、ニューヨーク・キャピトル劇場オーケストラのヴァイオリン奏者となるが、腕を買われて同年中にコンサートマスターに就任。1923年から数年間にわたりヴァイオリニストとして幾らかの独奏録音を行なっている。

1924年9月、指揮者が急病で倒れてしまい、代役としてキャピトル劇場オーケストラを指揮することになって指揮者デビュー。以後、指揮者に転向し、26年にキャピトル劇場準指揮者。27年にはアメリカ国籍を取得。また同年からキャピトル劇場を離れてCBSラジオの放送コンサート指揮者になる。

1931年、病気のトスカニーニの代役として、フィラデルフィア管弦楽団定期公演を指揮。この代演を成功させて評判を高め、同年、ミネアポリス交響楽団(現・ミネソタ管弦楽団)の常任指揮者に就任。36年、レオポルド・ストコフスキーと共にフィラデルフィア管弦楽団の共同指揮者となる。
【48】

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カンパチ (2015年04月25日 14時32分)

ズービン・メータ(Zubin Mehta, 1936年4月29日 - )は、インド出身の指揮者。



目次  [非表示] 
1 経歴
2 現代の巨匠
3 ウィーン・フィルとの関係
4 イスラエル・フィルとの関係
5 日本との関係
6 レコーディング
7 私生活
8 外部リンク


経歴[編集]

ボンベイのゾロアスター教徒の家庭に生まれる。ペルシア系の祖先を持つ。父メーリ・メータも指揮者であり、地元のボンベイ交響楽団の指揮者として活躍。

1954年にウィーン国立音楽大学に留学し、指揮法の名教師として名高いハンス・スワロフスキーに指揮を学ぶ。

1958年にリヴァプールで行われた指揮者の国際コンクールで優勝し、一躍注目される。

1959年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してデビューし、大成功を収める。

1961年からモントリオール交響楽団の音楽監督、1962年からロサンジェルス・フィルハーモニックの音楽監督に就任し、それぞれ1967年と1978年まで在任した。ロサンジェルス辞任後、ニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督に就任し、1991年まで在任した。

1985年にはフィレンツェ五月音楽祭管弦楽団の首席指揮者に就任し、1996年には同歌劇場と日本公演を行った。

2004年1月よりミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団名誉指揮者。2006年6月までミュンヘンのバイエルン州立歌劇場音楽総監督。

2006年10月にバレンシアに開館されたソフィア王妃芸術館(Palau de les Arts Reina Sofia)にて毎年開催される地中海音楽祭の総裁を務めている。
【47】

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カンパチ (2015年04月25日 14時31分)

クルト・マズア(Kurt Masur, 1927年7月18日 - )は、旧東ドイツ出身の指揮者。

来歴[編集]

ドイツ東部シュレージエン地方のブリーク(現在のポーランド・オポーレ県ブジェク(ポーランド語版、英語版))に生まれ、ライプツィヒでピアノ・作曲・指揮法を学ぶ。1960年〜1964年ベルリン・コーミッシェ・オーパー、1955年〜1958年および1967年〜1972年ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者を務める。1970年にライプツィヒ市の楽長とライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者(1970-1996)に就任。同時期、西ヨーロッパ・アメリカ・旧ソ連の主要オーケストラへ客演指揮も活発に行い、日本でもNHK-FM放送で頻繁に放送された。

ベルリンの壁崩壊につながったとされる1989年10月9日のライプツィヒの月曜デモにおいて、民主化を要求するデモ参加者が7万人に達し、秘密警察と軍隊の銃口が市民に向けられた際は、4ヶ月前に起きた天安門事件の二の舞になることを恐れたマズアは、東ドイツ当局に対して市民への武力行使を避け、平和的解決を要望するメッセージを発表した。この行動は当時国際的にも注目を集めた。

1991年から2002年まで、ズービン・メータの後を受ける形でニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督を務めた。2000年にロンドン・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者に就任(2000-2007)、2002年4月からはフランス国立管弦楽団の音楽監督(2002-2008)も務めた。
【46】

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カンパチ (2015年04月25日 14時29分)

ウラディーミル・ダヴィドヴィチ・アシュケナージ(ロシア語: Влади́мир Дави́дович Ашкена́зи、ラテン文字転写例: Vladimir Davidovich Ashkenazy、1937年7月6日 - )は、ソヴィエト連邦出身のピアニスト、指揮者である。ヘブライ語の姓「アシュケナージ」が示す通り、父方はユダヤ系であるが、母は非ユダヤ系のロシア人である。現在は妻の故国であるアイスランドの国籍を持ち、スイスに在住している。



目次  [非表示] 
1 略歴
2 音楽 2.1 ピアニストとして
2.2 指揮者として
2.3 編曲

3 人物 3.1 家族・交友関係
3.2 日本との関わり

4 書籍
5 脚注
6 外部リンク


略歴[編集]

1937年にソヴィエト連邦のゴーリキー(現在のニジニ・ノヴゴロド)の音楽家の家庭に生まれた。父親はソ連軽音楽界で活躍したダヴィッド・アシュケナージ。6歳でピアノを始め、2年後にはモスクワでデビュー演奏会を開いた。9歳の時にモスクワ音楽院附属中央音楽学校に入学し、アナイダ・スンバティアンに師事した。

1955年にはワルシャワで開催されたショパン国際ピアノコンクールに出場し、2位に輝いた(優勝はアダム・ハラシェヴィチ)。この時にアシュケナージが優勝を逃したことに納得できなかったアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリが審査員を降板する騒動を起こしたことはよく知られている[1]。

同じ年にモスクワ音楽院に入学、レフ・オボーリンやボリス・ゼムリャンスキーに師事した。翌1956年にはエリザベート王妃国際音楽コンクールに出場して優勝を果たし、これを機にヨーロッパ各国や北米を演奏旅行してセンセーショナルな成功を収めた。EMIやメロディアからレコードも発売され、音楽院在学中から国際的な名声を確立した。

1960年にモスクワ音楽院を卒業、翌年にはモスクワ音楽院に留学していたアイスランド出身のピアニストの女性と結婚した。1962年にはチャイコフスキー国際コンクールに出場しジョン・オグドンと優勝を分け合った。

1963年にソヴィエト連邦を出国しロンドンへ移住、以後ソ連のあらゆる公式記録からその名を抹消された[2]。1968年には妻の故国アイスランドのレイキャヴィークに居を移し、1972年にはアイスランド国籍を取得した。

1970年頃からは指揮活動にも取り組み始め、1974年には指揮者として初の録音を行った。指揮活動の初期に共演したオーケストラにはロンドン交響楽団、フィルハーモニア管弦楽団、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、クリーヴランド管弦楽団などがある。

1987年にはロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任し、1994年までその座にあった。1989年11月にはロイヤル・フィルを引き連れて改革の進むソヴィエト連邦に26年振りの帰郷を果たし、モスクワ音楽院大ホールでコンサートを行った[2]。そのほかこれまでにベルリン・ドイツ交響楽団、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団、NHK交響楽団の音楽監督、首席指揮者のポストを歴任している。
【45】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 14時28分)

ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan, 1908年4月5日 - 1989年7月16日)は、オーストリアの指揮者。1955年より1989年までベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者・芸術監督を務め、一時期それと同時にウィーン国立歌劇場の総監督やザルツブルク音楽祭の芸術監督などのクラシック音楽界の主要ポストを独占して、圧倒的な権力を誇った。20世紀のクラシック音楽界において最も著名な人物のひとりであり、日本では「楽壇の帝王」と称されていた。



目次  [非表示] 
1 人物・来歴
2 音楽
3 ライフスタイル
4 日本とカラヤン 4.1 来日公演 4.1.1 NHK交響楽団
4.1.2 ベルリン・フィル
4.1.3 ウィーン・フィル


5 CDとカラヤン
6 エピソード
7 脚注
8 関連文献
9 外部リンク


人物・来歴[編集]


 


指揮をするカラヤン(1941年)
カラヤンは1908年にザルツブルク州のザルツブルクで、貴族の子として生まれた。兄のヴォルフガング(1906年-1987年)も後に音楽家になっている。ザルツブルクのモーツァルテウム音楽院とウィーン音楽院で学んだ後、親の買い上げたオーケストラによりザルツブルクでデビュー。ドイツのウルム市立歌劇場の総監督から誘いが来て、1929年に『フィガロの結婚』でオペラ指揮者として脚光を浴び、1934年には同国アーヘン市立歌劇場で音楽監督に就任した。1938年のベルリン国立歌劇場におけるヴァーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の指揮で国際的にも認められ、これにより、翌1939年にはベルリン国立歌劇場およびベルリン国立管弦楽団の指揮者の地位を得るとともに、イタリアのミラノ・スカラ座でオペラを指揮することとなった。

1946年、ウィーン・フィルとの第二次世界大戦後初の演奏会を前に、戦時中ナチスの党員であった[1]ことを理由に、ソ連の占領軍によって公開演奏停止処分を受けた。しかし、翌1947年には再び処分保留となった。

1948年にウィーン交響楽団の首席指揮者、翌1949年にウィーン楽友協会の音楽監督に就任。また、イギリスのレコード会社EMIの録音プロデューサーのウォルター・レッグの元で、フィルハーモニア管弦楽団との演奏活動およびレコード録音も盛んに行うようになった。1951年、戦後再開したバイロイト音楽祭の主要な指揮者として抜擢される。しかし、翌年には音楽祭を主催するヴィーラント・ワーグナーと演出を巡って対立。この後、ヴィーラントの死後もバイロイトに戻ることはなかった。
【44】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 14時28分)

ダニエル・バレンボイム(Daniel Barenboim, 1942年11月15日 ブエノスアイレス - )はアルゼンチン出身のユダヤ人ピアニスト・指揮者。現在の国籍はイスラエル。



目次  [非表示] 
1 経歴
2 レパートリー
3 レコーディング
4 イスラエルの良心的文化人として・パレスチナ問題
5 受賞歴
6 外部リンク
7 参考文献


経歴[編集]

ロシア出身のユダヤ系移民を両親として生まれる。5歳のとき母親にピアノの手ほどきを受け、その後は父エンリケに師事。両親のほかにピアノの指導を受けてはいない。少年時代から音楽の才能を表し、1950年8月まだ7歳のうちにブエノスアイレスで最初の公開演奏会を開いてピアニストとしてデビュー。

1952年に家族を挙げてイスラエルに移住。2年後の1954年夏、両親に連れられ、ザルツブルクでイーゴリ・マルケヴィチの指揮法のマスタークラスに出席。同年夏、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーを訪ねる。(フルトヴェングラーが「これは天才だ!」と紹介している映画のワン・シーンがある。)その他イタリアで当時無名で友人のクラウディオ・アバドと一緒に、フランコ・フェラーラの指揮クラスにも出席している。1955年にパリで和声と作曲をナディア・ブーランジェに師事。

1952年にウィーンとローマにおいて、ピアニストとしてのヨーロッパ・デビューを果たす。1955年にはパリ、1956年にはロンドンにデビューしており、1957年にはレオポルド・ストコフスキーの指揮で、ニューヨークにおいてオーケストラ・デビューを果たす。その後は、欧州、米国、南米、豪州、極東の各地で定期的に演奏会を行う。彼は既に21歳でベートーヴェンのピアノソナタ全32曲を公開演奏している。
【43】

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カンパチ (2015年04月25日 14時27分)

フェルディナント・ライトナー(Ferdinand Leitner, 1912年3月4日 - 1996年6月3日)[1][2]はドイツの指揮者。

ベルリンに生まれ、1926年にベルリン音楽大学に入学し、フランツ・シュレーカーに作曲を、ユリウス・プリューヴァーに指揮法を習う。1931年に大学を卒業後は、ゲオルク・クーレンカンプやハンス・ホッターなどの伴奏者をしていた。1935年に、イギリスのグラインドボーン音楽祭でフリッツ・ブッシュのアシスタントをつとめ、実地経験を磨いた。

1943年にノレンドルフ・プラッツ劇場の指揮者となり、指揮者としてのキャリアを本格的にスタートさせた。1947年にはシュトゥットガルト国立歌劇場のオペラ監督になり、1950年からは音楽監督に昇格した。1956年にはエーリッヒ・クライバーの後任としてテアトロ・コロンの常任指揮者になっている。1969年から1979年までチューリッヒ歌劇場の音楽監督を務め、1977年から1980年までハーグ・レジデンティ管弦楽団の首席指揮者を歴任した。

ドイツ音楽のスペシャリストで、モーツァルト、ヘンデルの古典派やリヒャルト・シュトラウス、ブラームスやブルックナーなどロマン派の作品を得意とし、玄人受けする正統派の音作りで評価された。

1996年にチューリヒで没。
【42】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 14時26分)

ヨーゼフ・カイルベルト(Joseph Keilberth、1908年4月19日 - 1968年7月20日)は西ドイツの指揮者である。



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1 生涯
2 解釈
3 録音
4 外部リンク


生涯[編集]

カールスルーエでオーバープファルツの音楽家の家庭に生まれ、祖父はミュンヘンの軍楽隊員、父親はカールスルーエのバーデン公国宮廷楽団のチェロ奏者であった。

1925年にカールスルーエ国立劇場(現・バーデン州立劇場)のコレペティトールに、1935年より音楽監督に就任。1940年にプラハにドイツ・フィルハーモニー管弦楽団(バンベルク交響楽団の前身)の指揮者として転任。終戦までにドレスデン・シュターツカペレの首席指揮者となり、1949年(または1950年)に「ベネシュ布告」により戦後のチェコスロヴァキアを脱出したドイツ人演奏家が主体となって結成されたバンベルク交響楽団の首席指揮者に就任し亡くなるまでその育成に努めた。

1950年にはベルリン国立歌劇場に、1951年にはハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団に客演指揮者として訪れている。1952年か1956年までバイロイト音楽祭においても活躍し、そのほかにザルツブルク音楽祭にも客演している。1959年よりバイエルン国立歌劇場の音楽総監督に任命された。そのバイエルン国立歌劇場においてフェリックス・モットルと同じく、『トリスタンとイゾルデ』を指揮している最中に心臓発作をおこして急死した。

最晩年の1965年と1966年、1968年に来日しNHK交響楽団に客演した。
【41】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 13時29分)

カール・アドルフ・シューリヒト(Carl Adolph Schuricht, 1880年7月3日 - 1967年1月7日)は、ドイツの指揮者。



目次  [非表示] 
1 略歴
2 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との関係
3 レパートリー
4 レコーディング
5 脚注
6 参考文献


略歴[編集]

ダンツィヒ生まれ。父親カール・コンラート・シューリヒトは代々受け継がれてきたオルガン製作者であったが、息子カールが生まれる3週間前に、ダンツィヒの海岸で溺れた雇い人を助けようとして命を落とした。カールは母親がオラトリオ歌手であったこともあり、幼少から音楽に囲まれた環境に育った。

1901年からマインツ市立歌劇場のコレペティトール(声楽練習の伴奏者)を務め、音楽家のキャリアをスタートさせる。1902年からはベルリン音楽高等学院に入学する。1912年から1944年まで長くヴィースバーデン市の音楽総監督の地位にあった。

1944年にエルネスト・アンセルメの求めに応じて、スイス・ロマンド管弦楽団に客演した際に、スイスに亡命し、そのまま終戦を迎えた。また戦前戦後を通じてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(戦前にはポリドールに多数のSP録音を行う)などのヨーロッパ各地のオーケストラに客演した。

1956年、ウィーン・フィルと米国演奏旅行を行う。12のコンサートを開き、大成功を収めた。2年後の1958年には、ウィーン・フィルと大規模なヨーロッパツアーを行った。

1957年にラヴィニア音楽祭でシカゴ交響楽団に、タングルウッド音楽祭でボストン交響楽団に客演する。1963年には渡英し、ロンドン交響楽団を指揮した。

1965年にザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを指揮したのが最後の演奏会となり、1967年1月7日にスイスで死去した。86歳没。
【40】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 13時28分)

朝比奈 隆(あさひな たかし、1908年(明治41年)7月9日 - 2001年(平成13年)12月29日)は大阪フィルハーモニー交響楽団(大阪フィル)の音楽総監督を務めた日本の指揮者。指揮者の朝比奈千足は長男。左利き(指揮棒は右だが包丁は左(木之下晃の写真集より))。朝比奈の出生には謎があり、中丸美繪著『オーケストラ、それは我なりー朝比奈隆 四つの試練』が詳しい。



目次  [非表示] 
1 生涯 1.1 誕生から満州時代
1.2 大阪フィル設立
1.3 ブルックナーの巨匠
1.4 1980年代から晩年
1.5 没後

2 受賞歴
3 「弟子」
4 演奏活動(レパートリー)
5 演奏活動(演奏団体)
6 レコーディング
7 逸話等
8 関連項目
9 著書
10 テレビドラマ出演
11 脚注
12 参考文献


生涯[編集]

誕生から満州時代[編集]

東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)市谷砂土原町の小島家に生まれ、生後まもなく鉄道院技師朝比奈林之助[1]の養子となり朝比奈姓となる。

虚弱児だったため乳母と共に神奈川県国府津の漁村に預けられ、国府津小学校を経て小田原町立第三小学校に学ぶ。小学校3年の3学期から東京に呼び戻され、麻布尋常小学校(現在の港区立麻布小学校)に転入学。まもなく東京府青山師範学校附属小学校(現在の東京学芸大学附属世田谷小学校)に転じたが、東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)や府立・市立の有名校に不合格となり、私立高千穂中学校に進む。1922年(大正11年)3月、旧制東京高等学校(現在の東京大学)尋常科2年の編入試験を受けて同校に転入学。

1923年(大正12年)に養父が1925年(大正14年)に養母が相次いで病死したため朝比奈姓のまま生家の小島家に戻る。この養父母の死によって、朝比奈は実父が渡辺嘉一[2]と知る。また、実母に関しても朝比奈の長男朝比奈千足は、朝比奈隆伝の著者・中丸美繪に「父が、嘉一と小島里との間の子供であること、父が里の三男であることに関しては確証がありません」と証言している[3]。同年9月の関東大震災で焼け出されて朝比奈家で同居していた父方の親戚の岡部左久司(当時、早稲田高等学院在学中。のち内務省技官)の影響でヴァイオリンの魅力に惹かれ、朝比奈家の祖母からヴァイオリンの焼け残りの中古品を買い与えられたことがきっかけで音楽に興味を示すようになった。当初は東京高等学校尋常科の音楽教師田中敬一にヴァイオリンを習っていたが、やがて田中の紹介で橋本国彦に師事するに至る。ヴァイオリンの練習の傍ら、サッカーや登山、スキー、乗馬、陸上競技などのスポーツにも熱中していた。当時の同級生かつヴァイオリン仲間に篠島秀雄がいる。
【39】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 13時27分)

イーゴリ・ボリソヴィチ・マルケヴィチ(И́горь Бори́сович Марке́вич, 1912年7月27日 - 1983年3月7日)は、ロシア帝国(現・ウクライナ)生まれ、スイス育ちの作曲家・ピアニスト・指揮者。マルケヴィッチとも表記。弟のドミートリ・マルケヴィチは音楽学者・チェリスト、息子のオレグ・カエターニは指揮者。

略歴[編集]

キエフ生まれだが、1914年に家族に連れられスイスに移る。楽才をアルフレッド・コルトーに注目され、1926年にコルトーに連れられパリに行き、ナディア・ブーランジェのもとで作曲家やピアニストとして薫陶を受ける。1928年にセルゲイ・ディアギレフの知遇を得るが、若い頃のレオニード・マシーンに似ていた当時のマルケヴィチはディアギレフの最後の恋人となったといわれる。1929年に《コンチェルト・グロッソ》がパリで初演されたことにより、作曲家として認知されるようになる。バルトークはマルケヴィチのことを「現代音楽では最も驚異的な人物」であると評し、自身の創作に感化を受けたと言ったという[1]。ストラヴィンスキーと名前が同じだったことから、『イーゴリ2世』の異名を取る。1936年、ヴァーツラフ・ニジンスキーの娘キュラと結婚するが、1947年に離婚。

マルケヴィチは18歳でアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮して、指揮者としてのデビューを果たしている。指揮者としてのマルケヴィチは、世界的にフランス音楽やロシア音楽のレパートリーで非常に尊敬されており、とりわけチャイコフスキーやムソルグスキーの解釈は評価が高い。また、ストラヴィンスキーや新ウィーン楽派のような20世紀音楽の演奏でも知られている。ベートーヴェンの交響曲全曲も得意のレパートリーだった。
【38】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 13時26分)

オトマール・スウィトナー(Otmar Suitner [ˈɔtmaɐ ˈsviːtnɐ], 1922年5月16日 - 2010年1月8日)は、オーストリアの指揮者。名はオットマール、姓はスイトナーとも書く。



目次  [非表示] 
1 生涯
2 主な活動歴
3 演奏スタイル
4 脚注


生涯[編集]

ドイツ系の父とイタリア系の母の間に、インスブルックに生まれる。指揮を地元の音楽大学でクレメンス・クラウスに師事。1941年からやはり地元インスブルックの歌劇場で副指揮者を務め、第二次世界大戦後はカイザースラウテルンの音楽総監督を皮切りに、初めは西ドイツ各地の歌劇場で活躍する。1960年にドレスデン国立歌劇場(現・ザクセン州立歌劇場)の、1964年からはベルリン国立歌劇場の音楽監督に就任した頃から東ドイツに活動の軸足を移し、この国の二大国立歌劇場でオペラとコンサートの両面で活躍する。ベルリンのポストを得た1964年から1967年にはバイロイト音楽祭に初出演し、「タンホイザー」、「さまよえるオランダ人」、「ニーベルングの指環」を指揮した。

初来日は1971年で、NHK交響楽団を指揮した。当時の日本ではスウィトナーの知名度はほとんどなかったが、客演を重ねるたびにファンを増やしていった。1973年にN響の名誉指揮者に就任する。日本へはN響への他に手兵のベルリン国立歌劇場やその管弦楽団(シュターツカペレ・ベルリン)との来日公演、国立音楽大学のオーケストラを指揮している。同時にウィーン国立音楽大学指揮科の教授として、同僚のカール・エスターライヒャーと共にベアト・フューラーなどの後進を育てていった。他に西欧諸国への客演を活発に行ったが、東側諸国の民主化が活発化する1980年代末期から体調を崩すようになり、奇しくも1990年に東西ドイツの統一が成されるのと入れ替わるように、ベルリンのポストを辞任した。同年の来日公演を病気でキャンセルして以降は、声明や宣言こそ出していないものの、事実上の引退生活に入った。

事実上の引退後は公に姿を見せることはほとんどなかったが、80歳を迎えた2002年に、ベルリン国立歌劇場音楽監督のダニエル・バレンボイム主催によるスウィトナーの80歳を祝うパーティーが開かれた際に姿を見せている(その模様は『N響アワー』でも紹介された)。
【37】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 13時25分)

ロヴロ・フォン・マタチッチ(Lovro von Matačić クロアチア語発音, 1899年2月14日 – 1985年1月4日)、ユーゴスラビア出身の指揮者。日本で特に親しまれた指揮者の一人である。



目次  [非表示] 
1 生涯 1.1 第1回来日(1965年)
1.2 第2回来日(1966年-1967年1月)
1.3 第3回来日(1967年11月-12月)
1.4 第4回来日(1968年9月)
1.5 第5回来日(1969年4月-5月)
1.6 第6回来日(1971年9月 第6次イタリア歌劇団)
1.7 第7回来日(1973年12月)
1.8 第8回来日(1975年11月-12月)
1.9 第9回来日(1984年3月)

2 参考文献
3 脚註


生涯[編集]

クロアチア北西部の港町スシャク(Sušak。当時はクロアチア・スラボニア王国(ハンガリー王国)モドルシュ・フィウメ県(Modrus-Fiume)、のちにハンガリー王国の重要な海港であるリエカ市の一部[1])に生まれる。

17世紀初頭に貴族に叙された家系で、軍人や役人を輩出してきた。9歳の時、ウィーン少年合唱団に入団、その後、ウィーン音楽アカデミーとウィーン市立音楽院で学ぶ。1918年、ケルン歌劇場の副指揮者を皮切りに1933年にはザグレブ歌劇場の第1指揮者、1938年にはベオグラード歌劇場の音楽総監督を歴任し、ヨーロッパ各地のオーケストラ、歌劇場に客演した。その間の1936年には初めてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮する。しかし、第二次世界大戦中はヨシップ・ブロズ・チトー率いるパルチザンに反抗し、親独・親ナチ主義者として活動、大戦後もチトーに反対し続ける態度を取ったため、投獄され死刑を宣告される。その死刑当日に収容所所長にピアノを弾くことを命令され、それを聴いた所長が「芸術家を死刑にするのは忍びない」と処刑だけは免れた(ちなみに、マタチッチ夫人はこの所長の愛娘であるが、他に3人いたと言われている)。ただ、「ナチ協力者」のレッテルは剥がし難く、しばらく活動停止を余儀なくされた。1954年ごろから活動を再開、1956年にドレスデン国立歌劇場、1961年にはフランクフルト市立歌劇場音楽総監督に就任した。1959年にはバイロイト音楽祭で「ローエングリン」を振る。また、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団との結びつきや後述する日本との縁も深くなる。1970年には故郷ザグレブ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者(1982年まで。後に終身名誉指揮者)、1974年から5年間はモンテカルロ歌劇場音楽総監督に就任。この頃から体調を崩し始め、また巨躯がたたって歩行困難となる。1984年にNHK交響楽団とプラハの春国際音楽祭に出演後実質活動を停止し、1985年1月4日にザグレブで亡くなった。
【36】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 13時24分)

レナード・バーンスタイン (Leonard Bernstein, 1918年8月25日 - 1990年10月14日)は、ユダヤ系アメリカ人の作曲家、指揮者である。またピアノの演奏家としても知られている。アメリカが生んだ最初の国際的レベルの指揮者になり、ヘルベルト・フォン・カラヤンやゲオルク・ショルティと並んで、20世紀後半のクラシック音楽界をリードしてきたスター音楽家だった。愛称はレニー。夫人のフェリシア・モンテアレグレはチリ出身の女優・ピアニスト。



目次  [非表示] 
1 生涯
2 エピソード 2.1 ヘビースモーカー
2.2 カラヤン
2.3 トスカニーニ
2.4 フルトヴェングラー
2.5 チェリビダッケ
2.6 カルロス・クライバー
2.7 同性愛と共産主義への傾倒
2.8 最後のコンサート

3 指揮活動
4 主要作品 4.1 バーンスタインの作品の特徴

5 受賞歴 5.1 アカデミー賞

6 参考文献
7 外部リンク


生涯[編集]

バーンスタインは、ウクライナ系ユダヤ人移民の2世として、マサチューセッツ州ローレンスに生まれる。生まれた当初の名前はルイス(後にレナードに改名する)。父親サミュエルは敬虔なユダヤ教徒であった。家族には音楽的な環境は全くなかったが、母親ジェニーが持っていた蓄音機の音楽に耳を傾けるのが大好きな赤ん坊だったという。理髪店を経営した父親の強い反対を押し切って、プロの音楽家の道を志した。

ボストン・ラテン・スクールを経て、ハーバード大学・カーティス音楽院で学ぶ。彼が指揮者を志したのはディミトリ・ミトロプーロスの刺激だった。指揮ではフリッツ・ライナーやセルゲイ・クーセヴィツキーに師事し、作曲はウォルター・ピストンに師事した。ピアノはイサベラ・ヴェンゲーロワに師事している。カーティス音楽院を卒業後、しばらく仕事を得られない時期があったが、1943年夏にアルトゥール・ロジンスキーの指名によりニューヨーク・フィルハーモニックの「副指揮者」(Assistant Conductor)に就任した。

1943年11月14日、病気のため指揮できなくなった大指揮者ブルーノ・ワルターの代役としてニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団(現・ニューヨーク・フィルハーモニック)を指揮、この日のコンサートはラジオでも放送されていたこともあり一大センセーションを巻き起こす。この時の曲目は以下の通りである。
ロベルト・シューマン『マンフレッド序曲』
ミクロス・ローザ(ハンガリー出身の作曲家、映画「ベン・ハー」の音楽などが代表作)『主題、変奏曲と終曲 Op.13a』
リヒャルト・シュトラウス『ドン・キホーテ』(チェロ:ジョゼフ・シュスター、ヴィオラ:ウィリアム・リンサー)
リヒャルト・ワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕前奏曲

1958年、アメリカ生まれの指揮者として史上初めてニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の音楽監督に就任する。バーンスタインとニューヨーク・フィルのコンビは大成功を収め、同フィルの黄金時代をもたらした。作り出す音楽の魅力、気さくでおおらかな性格、指揮者としての情熱的な指揮ぶり(興に乗ると指揮台上でジャンプすることもあった)などでファンを魅了し、スター性も備えていた。CBSレコードと録音契約を交わした際には「彼の録音に際しては、録音曲目の決定をほぼ彼に一任する」待遇を受け、当時としては画期的なレパートリーも数多く録音した。
【35】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 13時23分)

今年の後半は更新頻度もかなり減ってしまい、心から反省しています。


自分のメンタルのアップダウンで精一杯な下半期でした。
本当にゴメンね。


私個人の2014年を少し振り返ってみてもいいですか?
今年はね…とにかく“迷いの一年”でありました。


仕事に悩み、人間関係に悩み、結婚に悩み、恋愛に悩み、重なる齢に悩み、いのちに悩み、病気に悩み…とことん人生に悩み尽くした一年になりました。


…正直苦しかったです。


心身共に、決して楽は出来ない一年間でした。
【34】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 13時22分)

こういうのに頼ってちゃ…って聞くわね(笑)
だけどさ、真面目な話…私15歳から摂食障害と共に生きて来て、多分今までの人生で一度もないんだ。


キチッと、“ダイエット”というものと向き合った事が。


つい数日前…とあるキッカケで数年ぶりに(?)自分の裸を鏡で見ました。
【33】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 13時20分)

…ずっと、ずっと、ずっと泣いてる。

…昨日の夜も、今朝も、今この瞬間も。

自分の居場所は何処なのか。

泣く事だけが私の人生なのか。

心を決めては、一瞬で砕かれ…不安にしがみ付いては、引き剥がされ…地獄の底に堕とされる。

病気の自分が憎い。

どこまでも自信が無く、毎日朝から晩まで怯えている自分が憎い。

…自分を責めちゃいけない。

分かってる、ちゃんと分かってる。

…だけど、自分以外に誰を責められる?

出来ないよ…どうしたら他者に怒りをぶつけられる?
【32】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 13時18分)

一昨日からワタクシ、とある島にて生活しております…今回はだいぶハードなロケです映画カチンコ


日々、体力とメンタルの闘いです。


他人とコミュニケーションを取ることを何よりも不得意としている私は、現場でも確実に浮いている事でしょう。


つくづく自分の醒め方と協調性の無さを痛感致します。


正直今回は不安しかない。


でも、頑張ろう。


いつもいつも、同じことやってたってしょうがない。


チャンスは活かさなきゃ。


チャレンジしなきゃ。


爪痕残さなきゃ。


皆んなー。


東京から遠く離れた場所で私も頑張ってるよー。


一緒に頑張ろう。


1ミリずつでいいんだ、今日が無理なら明日でも明後日でもいいんだ。


ゆっくり、でも着実に。


一緒に進んで行こう
【31】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 12時52分)

ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler, 1886年1月25日ベルリン - 1954年11月30日バーデン=バーデン)はドイツの指揮者。作曲活動、ピアノ演奏活動も行った。



目次  [非表示] 
1 概要
2 略年譜
3 主な録音
4 映像
5 主な初演作品
6 作品 6.1 交響曲
6.2 その他の作品

7 ピアニスト
8 主要な著作
9 脚注
10 関連項目
11 参考文献 11.1 文献資料
11.2 報道資料

12 外部リンク


概要

カラヤンの前にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者を務め、20世紀前半を代表する指揮者のひとりとされている。ベートーヴェン、ブラームス、ワーグナー等のドイツ音楽の本流を得意とした。一般には後期ドイツ・ロマン派のスタイルを継承した演奏とされ[1]、作曲家としても後期ドイツ・ロマン派のスタイルを継承したことから、ライバルのトスカニーニと対極に位置づけられることもあるが、「堅固な構築性をそなえた演奏を『ロマン主義的演奏』というだけで片付けてしまうのは軽率」とする見解もあり[2]、またフルトヴェングラー自身は「後期ロマン主義者」と看做されることを極度に嫌い、「私はロマン主義者でも古典主義者でもない」と語ったともいわれる[3]。主な称号はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団名誉団員[4]。

音楽評論家の吉田秀和は、フルトヴェングラーについて、「濃厚な官能性と、高い精神性と、その両方が一つに溶け合った魅力でもって、聴き手を強烈な陶酔にまきこんだ」[5]「(ベートーヴェンが)これらの音楽に封じ込めていた観念と情念が生き返ってくるのがきこえる」[6]と評している。

現在でもCDが続々と発売され、放送録音、海賊録音の発掘も多く、真偽論争となったレコードも少なくない。

妹メーリットは、哲学者マックス・シェーラーの妻。甥ベルンハルトと妻エリーザベトの連れ子カトリーンの間の娘のマリア・フルトヴェングラーは女優で医師。

音が出る前から指揮棒の先が細かく震え始め、アインザッツが非常にわかりにくいその独特の指揮法[7]から、日本ではフルトヴェングラーをもじって「振ると面食らう」などと評され、「フルヴェン」の愛称で親しまれている。

略年譜
1886年 ベルリンにて誕生。正式な洗礼名はグスタフ・ハインリヒ・エルンスト・マルティン・ヴィルヘルム(Gustav Heinrich Ernst Martin Wilhelm)。父は考古学者アドルフ。
1906年 カイム管弦楽団(現在のミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団)を指揮しデビュー。
1920年 音楽学者ハインリヒ・シェンカーと親しく交わる。
1922年 同年死去したアルトゥール・ニキシュの後任として、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団およびベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任。
1927年 フェーリクス・ヴァインガルトナーの後継としてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任。
1933年 ベルリン国立歌劇場でワーグナーの「マイスタージンガー」を指揮した際、首相ヒトラーと握手している写真を撮影される。9月15日、ヘルマン・ゲーリングの指令により、プロイセン枢密顧問官に就任。同年11月15日には帝国音楽院副総裁に就任。
1934年 ヒンデミット事件によりナチス政府と対立。12月5日、プロイセン枢密顧問官および帝国音楽院副総裁を辞任。
1936年 ニューヨーク・フィルの次期音楽監督にトスカニーニから指名されるが、ナチスの妨害により破談。
1938年 ドイツのオーストリア併合後、ナチスによるウィーン・フィル解散を阻止。
1939年 第二次世界大戦が勃発するがドイツに残る。国内のユダヤ人音楽家を庇護。
1945年 2月 ウィーン・フィルの定期演奏会後にスイスへ亡命(彼を嫌うナチス高官ハインリヒ・ヒムラーに逮捕命令を出されていた)。
5月 戦時中のナチ協力を疑われ、演奏禁止処分を受ける。
【30】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 12時52分)

ブルーノ・ワルター(Bruno Walter, 1876年9月15日-1962年2月17日)は、ドイツ出身の指揮者・ピアニスト・作曲家。より正確なドイツ語読みはヴァルターであり、そのように表記される場合もある。また、本来の苗字はシュレージンガーであり、これは彼がブレスラウの歌劇場の指揮者になったとき、ブレスラウにはシュレージンガー姓のものが多いので、ヴァルターに改めたという。そのため、ヴァルター・シュレージンガーと表記されることも稀にある。

20世紀を代表する偉大な指揮者の1人で、モーツァルトやマーラーを得意とした。戦前や戦後間もなくの日本では、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、アルトゥーロ・トスカニーニとブルーノ・ワルターを「三大巨匠」と呼ぶことが多かった。

作曲家として2曲の交響曲、室内楽曲、歌曲などを残している。



目次  [非表示] 
1 ワルターの生涯 1.1 生誕から指揮者となるまで
1.2 マーラーとの出会い
1.3 人気指揮者へ
1.4 ナチスの台頭とアメリカ移住
1.5 戦後

2 ワルターの名演奏(録音) 2.1 レパートリーと演奏スタイル
2.2 マーラーとモーツァルト
2.3 その他 2.3.1 モノラル録音
2.3.2 ステレオ録音


3 他の指揮者との関係 3.1 マーラー
3.2 トスカニーニ
3.3 フルトヴェングラー
3.4 クレンペラー
3.5 ベーム
3.6 クナッパーツブッシュ

4 作曲した作品
5 著書
6 映像作品
7 脚注
8 外部リンク
9 ポスト


ワルターの生涯[編集]

生誕から指揮者となるまで[編集]

ドイツ系ユダヤ人の父親とキリスト教徒に改宗した東欧から移住したユダヤ系の母親の間の子として、ベルリンに生まれる(ブルーノ本人はキリスト教徒)。本名は、ブルーノ・ヴァルター・シュレージンガー (Bruno Walter Schlesinger)。

ベルリンのシュテルン音楽院を卒業後、ピアニストとしてデビューしたが、ハンス・フォン・ビューローの実演を目の当たりにして指揮者になることを決意し、1894年にケルン市立歌劇場でデビューした。

マーラーとの出会い[編集]

1896年にはハンブルク歌劇場へ移った。そこで当時音楽監督(1891年ー1897年) 、すなわち上司であったグスタフ・マーラーに認められ、マーラーの部下、弟子、そして親友として交流を深めていった。その後マーラーとともにウィーンへ転任し、ウィーン音楽院(現ウィーン国立音楽大学)で教鞭をとる。また、名前からユダヤ系を示す「シュレージンガー」という姓を除き「ブルーノ・ワルター(ヴァルター)」と名乗ったのもこの頃からである。 [1]
【29】

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カンパチ (2015年04月25日 12時51分)

アルトゥーロ・トスカニーニ(Arturo Toscanini, 1867年3月25日 - 1957年1月16日)は、イタリア出身の指揮者。



目次  [非表示] 
1 略歴[1]
2 人物
3 逸話
4 主要な録音
5 映像記録
6 関連図書
7 トスカニーニ財団
8 関連項目
9 脚注
10 参考文献
11 外部リンク


略歴[1][編集]
1867年 3月25日、イタリア北部の町パルマのオルトレトレンテ(労働者階級が住む地域)ボルゴ・サン・ジャコモ(現ボルゴ・ロドルフォ・タンツィ)13番で生まれる。父クラウディオは仕立屋。母パオラ(パオリーナ、旧姓はモンターニ)は裁縫師。アルトゥーロは第1子で、唯一の男児。(子供は計4名。)
1871年 初めて歌劇場に連れて行かれ「仮面舞踏会」を聴く。
1876年 パルマ王立音楽学校に入学。当初は通学生。後に寮生となる。
1885年 9年間の厳しい教育の後、チェロと作曲で最高の栄誉を得て首席で卒業。(ピアノも最高点。)巡業歌劇団と首席チェロ奏者・副合唱指揮者の契約を結ぶ。18歳の若者にとってこれは名誉な事であった。
1886年 6月30日、歌劇団のブラジル リオ・デ・ジャネイロ公演において、ヴェルディの「アイーダ」の指揮者として突然デビューすることとなる。帰国後の11月4日、トリノのカリニャーノ劇場でカタラーニの「エドメア」でプロ指揮者としてデビュー。
1887年 2月5日、ミラノ・スカラ座におけるヴェルディの「オテロ」初演で第2チェロ奏者を務める。以降10年間、地方歌劇場を回って指揮をする。
1892年 ミラノ ダル・ヴェルメ劇場でレオンカヴァッロの「道化師」を初演。ジェノアのカルロ・フェリーチェ劇場でフランケッティの「クリストフォロ・コロンボ」を指揮。(なおこれはヴェルディがトスカニーニの指揮を聴いた唯一の機会であった。)
1895年 トリノ レージョ劇場の首席指揮者に就任。ヴァーグナーの「神々の黄昏」をイタリア初演。
1896年 2月1日、レージョ劇場でプッチーニの「ラ・ボエーム」初演。3月20日、トリノで自身初の管弦楽演奏会を行う。
1897年 6月21日、ミラノでカルラ・デ・マルティーニと結婚。
1898年 3月21日、トリノで第1子となる息子ヴァルテル誕生。ヴェルディの「聖歌四編」のうち3つをイタリア初演。31歳の若さでスカラ座芸術監督に任命され、12月26日、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」でシーズン初日を飾る。
1899年 スカラ座でヴァーグナーの「ジークフリート」をイタリア初演。
1900年 1月16日、長女ヴァッリ誕生。スカラ座でチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」をイタリア初演。ミラノ リリコ劇場でレオンカヴァッロの「ザザ」を初演。プリマドンナ ロズィーナ・ストルキオと恋に落ちる。
1901年 1月、ミラノでヴェルディが死去。トスカニーニはその後の追悼演奏会などで指揮。9月28日、次男ジョルジョ誕生。この年以降1906年まで4回にわたり、アルゼンチン ブエノス・アイレスのオペラ座で指揮。(ベルリオーズ「ファウストの劫罰」、プッチーニ「蝶々夫人」、チレア「アドリアーナ・ルクヴルール」など)
1903年 4月を以てスカラ座芸術監督を辞任。原因は聴衆や新しい運営委員会との不和。
1906年 父クラウディオ、死去。6月10日、次男ジョルジョがジフテリアのため死去。スカラ座に復帰。リヒャルト・シュトラウスの「サロメ」イタリア初演をめぐり作曲者といざこざ。
1907年 トスカニーニの主張に従った新しいオーケストラピットが完成し、「神々の黄昏」で披露となる。12月5日、次女ヴァンダ誕生。
【28】

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カンパチ (2015年04月25日 11時46分)

エルネスト・アレクサンドル・アンセルメ(Ernest Alexandre Ansermet, 1883年11月11日 - 1969年2月20日)は、スイスの指揮者・数学者。



目次  [非表示] 
1 人物・来歴
2 演奏会
3 録音
4 参考文献
5 脚注


人物・来歴

アンセルメは、スイス西部のフランス語圏にあるレマン湖畔の町ヴヴェイに生まれた。父は幾何学の学者であったこともあり、彼もパリのソルボンヌ大学とパリ大学で数学を学んだ後、数学者としてローザンヌの大学の数学の教授になった。

しかし、音楽好きの母親の影響から、ローザンヌで3歳年上の新進作曲家であったエルネスト・ブロッホについて音楽の勉強をはじめた。作曲家としてもいくつかの作品を残している他、 ドビュッシーの『6つの古代碑銘』をオーケストラ編曲し、譜面はデュラン社から出版されている。

数学者として生きるべきか音楽に進むべきか一時は迷い、1909年にベルリンを訪れて、指揮者のニキシュとワインガルトナーに助言を求め、ようやくアンセルメは指揮者としてたつ決心を固めた。

1910年、アンセルメはモントルーで指揮者としてデビューした。この時のプログラムは、ベートーヴェンの『運命』を中心としたものであった。このコンサートがきっかけとなり、アンセルメはモントルーのクア・ザールの指揮者となる。

指揮者となったアンセルメは、モントルーのカフェでストラヴィンスキーと運命的な出会いをして意気投合した。ストラヴィンスキーは当時まだスイスのローカルな指揮者に過ぎないアンセルメを、第一次世界大戦のためスイスに疎開していたディアギレフに紹介した。モントゥーの後任を探していたディアギレフにとってはまさに渡りに舟で、彼は1915年のロシア・バレエ団(バレエ・リュス)によるジュネーヴ公演の指揮者としてアンセルメを指名した。ディアギレフは、アンセルメをアメリカ公演の指揮者としても指名し、ついに専属指揮者とした。

彼がバレエ・リュスで初演を担当した作品にはプロコフィエフの『道化師』、ファリャの『三角帽子』、サティの『パラード』などある。

他にストラヴィンスキーの数多くのスイス時代の作品を初演し、マルタンやオネゲルなどスイスの作曲家たちの作品を頻繁に取り上げた。なおこれらの活動の多くは、1918年にジュネーヴに創設したスイス・ロマンド管弦楽団によってなされた。

スイス・ロマンド管弦楽団は、設立当初は財政的に不安定であった。1930年代はじめには一時活動休止にまで追い込まれている。しかし、1938年にローザンヌのスイス・ロマンド放送のオーケストラを吸収合併し、当時成長をはじめた放送局のオーケストラとして財政的にも安定すると、一気に活動も活発となり、多くの名指揮者を客演として招聘するようになる。ブルーノ・ワルターやフルトヴェングラー、カール・シューリヒト(ヴヴェイに住んでいた)などが積極的に招かれている。フルトヴェングラーは、1944年1月17日ローザンヌ、1月19日ジュネーヴで客演した(後にスイスに亡命)。カール・シューリヒトとは、第2次世界大戦前から親交があったが、アンセルメが終戦の前年に彼をスイス・ロマンド管弦楽団に客演を依頼して、ドイツから亡命する手助けをした。終戦後数年にわたって、このオーケストラへの客演がシューリヒトの主な活動となった。

戦後、イギリスのレコード会社英デッカと専属契約を結んだアンセルメとスイス・ロマンド管弦楽団は、かつてディアギレフの元で演奏したバレエ音楽、親交のあったラヴェルやルーセルなどの作品をはじめ、ストラヴィンスキーの作品など、網羅的に録音をする機会を得た。それらは、アンセルメのホームグラウンドとなったジュネーヴのヴィクトリア・ホールで行われた。但しこのホールは録音のための部屋がなく、レストランの厨房をコントロール・ルームとして行うなど、難しい面もあったようだ[独自研究?]。
【27】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 11時44分)

カルロ・マリア・ジュリーニ(Carlo Maria Giulini, 1914年5月9日 - 2005年6月14日)は、イタリア出身の指揮者。世界的な名声と比べて、特定のポストに就いていた期間が短く、孤高の巨匠として知られる。少年時代を北イタリアのドイツ語圏ボルツァーノ(ジュリーニ誕生の時点ではオーストリア領で1919年に正式にイタリア領に編入)で過ごしたこともあって完全にネイティブなドイツ語を話し、イタリアオペラ以上にドイツ系レパートリーを得意としていた。

略歴[編集]

プッリャ州北部のバルレッタに生まれる。サンタ・チェチーリア国立アカデミアに学び、ヴィオラ奏者として出発している。さらにサンタ・チェチーリア音楽院のアレッサンドロ・ブスティーニ(Alessandro Bustini)に作曲を学んだ[2][3]。ヴィオラ奏者時代には、客演したブルーノ・ワルターなどの当時の大指揮者の指揮に触れる機会を得る。
1946年 - ローマRAI交響楽団首席指揮者。
1950年 - ミラノRAI交響楽団首席指揮者。
1953年 - ミラノ・スカラ座の音楽監督となるも、1956年に辞任。
1969年 - シカゴ交響楽団の首席客演指揮者。
1973年 - ウィーン交響楽団の首席指揮者。
1978年 - ロサンジェルス・フィルハーモニックの音楽監督。このときチョン・ミュンフンがアシスタントを勤め、副指揮者となっている。
1984年 - 夫人の病気のためロサンジェルス・フィルハーモニックの音楽監督を辞任。これ以降演奏旅行の範囲をヨーロッパに限定したため、晩年来日が待ち望まれながらも実現しなかった。

以後、フリーの指揮者としてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団などヨーロッパの名門オーケストラに客演する。

1998年に指揮活動から引退。ミラノに在住していた。墓所は北イタリアのボルツァーノにある。

ジュリーニは39歳で名門ミラノ・スカラ座の音楽監督に就任し、EMIと契約してフィルハーモニア管弦楽団と多数の録音を残すなど早くから活躍しているが、日本において名声を確立したのは、シカゴ交響楽団と録音したシューベルト、ドヴォルザーク、ブルックナー、マーラーの各交響曲第9番のいわゆる「第九」シリーズが発売され、ロサンジェルス・フィルハーモニックの音楽監督に就任した1970年代後半になってからである。また、ウィーン・フィルと完成させたブラームス交響曲全集、ロサンジェルス・フィルとのベートーヴェンの交響曲、ベルリン・フィルとのモーツァルトの交響曲でも高い評価を受けた。最晩年にはミラノ・スカラ座フィルハーモニー管弦楽団とともにベートーヴェンの交響曲全集のレコーディングに取り組んだが「第九」を録音せずに死去し、プロジェクトは未完に終わった。

ジュリーニの録音は、フィルハーモニア管弦楽団やウィーン交響楽団、客演時代のシカゴ交響楽団など比較的初期のものがEMIレーベルに、シカゴ交響楽団やロサンジェルス・フィルハーモニック、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団などとの演奏がドイツ・グラモフォンレーベル、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、バイエルン放送交響楽団などとの演奏がソニー・クラシカルレーベルに残されている。また、BBCレジェンド・レーベルよりイギリスでのライヴ録音が発掘されている。その演奏スタイルはきわめて精緻なスコアの読みから導き出されたもので、一音たりともおろそかにしない姿勢から紡ぎだされる音楽は、ドイツ的な構築性とイタリア的な流麗さを両立させた独自のスタイルであった。
【26】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 11時43分)

ウラディミール・サモイロヴィチ・ホロヴィッツ(Vladimir Samoilovich Horowitz[1]、1903年10月1日 - 1989年11月5日)は、ウクライナ生まれのアメリカのピアニストである。義父(妻の父)は名指揮者として知られるアルトゥーロ・トスカニーニ。



目次  [非表示] 
1 生涯
2 主な受賞歴
3 主なレパートリー
4 ピアノ演奏技法
5 来日
6 脚注
7 参考文献


生涯


 


ホロヴィッツ(1931年・28歳)
ホロヴィッツ自身は、ウクライナのキエフで生まれたと主張していたが、隣のジトームィル州の小都市ベルディーチウで生まれたとする説が有力である。彼は1903年に生まれている。しかし、軍隊で彼の手が傷つくことを恐れたユダヤ系の父は、徴兵から逃れられるように生まれ年を1年遅い1904年として申告した。1904年を生まれ年とする文献が散在するが、権威筋は1903年が彼の正しい生まれ年であるとしている。

幼少の頃よりアマチュアピアニストであった母から手ほどきを受け、1912年にキエフ音楽院に入学し、1919年に卒業。卒業時にはラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を演奏している。翌1920年には、初のピアノ リサイタルを開催、ソ連(現ロシア)において国内ツアーを開始し、しばしばヴァイオリニストのナタン・ミルシテインとも共演した。1926年には初の国外コンサートをベルリンで開催、このとき舞台名をロシア語名のGorovitzから西欧風のHorowitzに改めた[2]。続いて、パリ、ロンドンで演奏を行った。

アメリカデビューは1928年。同じくアメリカデビューを飾ることになっていたトーマス・ビーチャムの指揮でチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を演奏した。テンポの件で指揮者と意見が異なったまま演奏会が始まったが、聴衆の反応から第1楽章の途中で「このまま指揮者に従っていてはこの演奏会を失敗してしまう」と判断したホロヴィッツは次第にテンポを上げ、オーケストラをリードし始めた。最終楽章でのコーダは圧倒的な加速で弾ききり、同曲の演奏を終了した。演奏後割れんばかりの喝采を浴び、翌日の新聞では奇跡的なピアニストの登場が大々的に報じられた。

同年、アメリカでRCAと契約しレコーディングを開始した。世界恐慌の影響でRCAは企業成績が悪化し、契約下のアーティストのヨーロッパレコーディングをHMVに許可したため、最初期の録音の多くは現在EMIが保管している。リストのロ短調ソナタ、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番など、当時としては非常に珍しいレパートリーを録音しており、音質の限界はあるが、今なおこれらの曲の最高の演奏と評価する声も多い。
【25】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 11時42分)

アルトゥール・ルービンシュタイン(Arthur Rubinstein, 1887年1月28日 - 1982年12月20日)は、ポーランド出身のピアニスト。様々な作曲家の作品の演奏で国際的な名声を博し、特にショパンの演奏では同時代の最も優れたピアニストであるとみなされている.[1][2]。また、20世紀の代表的なピアニストの1人である[1] 。ルービンシュタインの演奏家としてのキャリアは80年にも及んだ[3]。

前半生はヨーロッパで、後半生はアメリカ合衆国で活躍した。ショパン以外では、ブラームスやスペインのピアノ音楽も得意とした。



目次  [非表示] 
1 経歴
2 ルービンシュタインと室内楽
3 ルービンシュタインと現代音楽
4 ルービンシュタインと録音
5 脚注


経歴


 


ウッチの街角にあるルービンシュタインの彫刻
出生名Artur Rubinstein(Arthurではない)としてウッチのユダヤ人の家庭に生まれる。8人きょうだいの末子で、父は富裕な工場主であった[4]。2歳の時、姉のピアノのレッスンを聴いて、即座にその演奏を魅惑的に再現してみせ、絶対音感とともにピアニストとしても並ならぬ才能の持ち主であることを証明した。ルービンシュタインも4歳の頃までには、既に自らが神童であることを自覚していた。ハンガリーの著名なヴァイオリニストであったヨーゼフ・ヨアヒムは、4歳のルービンシュタインの演奏を聴いて強い印象を受け、家族に次のように話したという。「この少年はとても偉大な音楽家になるかも知れない ― 確かに彼には才能がある・・・本格的に勉強する年齢になったら私の所に連れて来なさい。私は彼の音楽教育を監督することに喜びを感じることになるだろう」。1894年12月14日、7歳のルービンシュタインは、モーツァルト、シューベルト、メンデルスゾーンの作品でデビューを飾る[5][6]。

10歳の時、ベルリンに移って音楽の勉強を続け、1900年、13歳の時に、初めてベルリン交響楽団と共演を果たす[1]。ヨアヒムはルービンシュタインのピアノの師として、カール・ハインリヒ・バルトを推薦した。

1904年にパリに行き、フランス人作曲家のサン=サーンスやポール・デュカス、ラヴェルらや、ヴァイオリニストのジャック・ティボーと面会する。ルービンシュタインはサン=サーンスの前で、《ピアノ協奏曲第2番》を演奏した。さらにユリウシュ・ヴェルトハイメル一家を通して、ヴァイオリニストのパウル・コハンスキ、作曲家のカロル・シマノフスキと親交を結んだ[7]。

1906年にニューヨークのカーネギー・ホールで行なったリサイタルは聴衆に支持されたようだが、評論家から批判が相次いだため4年間、演奏活動を中止して自らの技巧・表現に磨きをかけた。その後、アメリカ合衆国やオーストリア、イタリア、ロシアで演奏旅行を行なった。1908年、困窮と絶望と借金取りの厳しい取立てに加え、ベルリンのホテルの部屋の立退きも迫られたルービンシュタインは、首吊り自殺を図るが失敗する。だがその直後、自らが生まれ変わり、人生の無限の愛が授けられたように感じた、とルービンシュタインは後に語っている。1910年、第5回アントン・ルービンシュタイン国際ピアノコンクールで優勝するが、ユダヤ人だったために審査員や聴衆から人種差別を受けたという[6]。1912年にはロンドンデビューを果たし、その後同市南西部のチェルシーに定住する。同地のドレイパー兄弟のサロンで、コハンスキ、イーゴリ・ストラヴィンスキー、ジャック・ティボー、パブロ・カザルス、ピエール・モントゥー、などと親しく交わった[7]。

第一次世界大戦中は主にロンドンに暮らし、ウジェーヌ・イザイの伴奏者を務めた。1916年から1917年まで、スペインや南米を旅行し、同地で熱烈な歓迎を受ける。
【24】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 11時38分)

ジュゼッペ・シノーポリ(Giuseppe Sinopoli、1946年11月2日 - 2001年4月20日)は、ユダヤ系イタリア人の指揮者・作曲家。

人物・来歴[編集]

イタリアのヴェネツィアで生まれ、パドヴァ大学で心理学と脳外科を学ぶと同時にマルチェルロ音楽院で作曲を専攻する。

その後、ダルムシュタットでシュトックハウゼンやマデルナのクラスに在籍。ウィーン音楽院ではハンス・スワロフスキーやカール・エスターライヒャーについて指揮法を師事。

1975年、現代音楽の演奏を目的として師の名を冠したブルーノ・マデルナ・アンサンブルを設立、指揮者としてのデビューを飾る。 1981年、バイエルン国立歌劇場で初演された歌劇「ルー・ザロメ」(Lou Salomé)などの作品によって現代音楽の作曲家としても名をなしていた。

以上のような経歴(死の直前には考古学の博士号も取得)からインテリ指揮者としての側面がクローズアップされ、衒学的で音楽解釈に精神医学的観点の援用を示唆する言動や彼の異色の音楽解釈は、熱烈な崇拝と批判を同時に呼び起こした。マーラー、ワーグナー、リヒャルト・シュトラウス、プッチーニら、独伊の後期ロマン派の管弦楽曲及びオペラでの解釈が、特に知られていた。ドイツ・グラモフォン、フィリップス、テルデックなど、クラシックの一流レーベルから数多くのCDを発売していた、スター指揮者であった。ドイツ語をほぼ母国語同様に操り、「ルー・ザロメ」などのドイツ語オペラを残したほか、来日時のNHKインタビューにもドイツ語で応じた。

1987年、フィルハーモニア管弦楽団と共に来日した折に、桐朋学園オーケストラで非公開授業を行い(ヴェルディ:「運命の力」序曲)、この録音は、当時発売されたシノーポリの「運命の力」全曲盤に初回プレス限定で添付され、この授業は、現在でも桐朋学園大学で「伝説」として語り継がれている。シノーポリが日本のオーケストラを指揮したのは、後にも先にも、この時だけである。

2001年4月20日、ベルリン・ドイツ・オペラでヴェルディの歌劇「アイーダ」を指揮中、第3幕の所で心筋梗塞で倒れ急逝する。

1984年、フィルハーモニア管弦楽団、そして1992年にシュターツカペレ・ドレスデンの常任指揮者になり、後者のポストは最後まで在任していた。オペラ指揮者としては1990年にベルリン・ドイツ・オペラの音楽監督に就任予定だったが、直前に辞退。また2002年よりザクセン州立歌劇場の音楽総監督に就任予定だったが、死去により果たせなかった。
【23】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 10時40分)

アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(Arturo Benedetti Michelangeli[1], 1920年1月5日 – 1995年6月12日)は、イタリアのピアニスト。単にミケランジェリと呼ばれることが多いが(本項でも以下これを用いる)、本来は「ベネデッティ・ミケランジェリ」が姓である。



目次  [非表示] 
1 略歴
2 業績
3 奏法
4 エピソード
5 その他
6 参考文献


略歴[編集]

ブレーシャ地方の出身。アッシジの聖フランチェスコの末裔と自称していた。3歳から音楽教育を受け、最初はヴァイオリンを学んだが、間もなくピアノに切り替えた。10歳でミラノ音楽院に入学。父親の主張により、一時期医学を学んだこともある。1938年、18歳で国際イザイ音楽祭に参加。一次予選の演奏から早くも注目を集めるが、初見が苦手であったことが災いし、第7位の入選にとどまった。翌1939年、ジュネーヴ国際音楽コンクールで優勝し、審査員長のアルフレッド・コルトーから「リストの再来」と賞賛された。

第二次世界大戦中はファシズムに対するレジスタンス運動の闘士としても活躍した。

戦後間もなく楽壇に復帰したが、1950年代に入ってから重病を患って一時は復帰が危ぶまれた時期もあった。しかし、1955年にショパンコンクールの審査員及び公式ピアニストに選ばれたことを機に復活。以後、世界中でコンサートを開き、その圧倒的なテクニックと比類のない美しいピアノの音色で瞬く間に名声を確立した。

一方で、非常に強い完璧主義からコンサートのキャンセルを頻発するいわゆるキャンセル魔としても有名になり、次第に年間に「実際に」とり行われた演奏会が10回に満たないという例も珍しくなくなっていった。しかし、その貴重な演奏会が更に評判を呼び、一層ミケランジェリというピアニストを伝説に押し上げて行った。

録音嫌いとしても知られていたが、1970年代以降、ドイツ・グラモフォンからショパン、ドビュッシー、ベートーヴェンなどの録音を多数リリースした。

1988年に演奏会の途中で心臓発作で倒れる。翌年には復帰したが、病の後遺症からか完璧な演奏は陰りを見せ、しかし一方で伸びやかな演奏スタイルになる。

初来日は1965年。日本の音楽界に衝撃を与える。以降も数度来日しているが、予定通り日程をこなしたのはこの初来日の時だけで、後はキャンセル魔の評判に違わぬ騒動を引き起こすこととなる。1973年に2度目の来日を果たした際は、コンディションを理由に演奏会の日程・会場を変更したり、中止となった公演もあった。翌1974年は前年の代替公演のために来日した。1980年の来日の際は盟友チェリビダッケとの共演も予定されていたが[要出典]、日本に持ち込んだ2台のピアノ双方のコンディションに満足できず、やむなくヤマハのピアノを使用したがNHKホールでの1公演だけであり他の公演は全てキャンセルした。開催されたその公演も暖房不使用のためコート着用、また後半にプログラムされていたベートーヴェンの作品101は弾かれなかった(尚ミケランジェリは生涯この曲を公開演奏していない)。結果、怒った日本の招聘元である松岡企画がミケランジェリの持ち込んだ二台のスタインウェイを差し押さえるなどして、日本との関係が悪化、しばらく来日が途絶える結果となる。1992年が最後の来日となった。チェリビダッケとの2度の共演、3度のリサイタルが予定されていた。チェリビダッケとの共演及び最初のリサイタルは予定通りこなすものの、次のリサイタルは会場・日程を変更して開催し、3回目のリサイタルはキャンセルとなった。翌1993年にも来日計画があったが、持病の心臓病の悪化からドクター・ストップがかかり、幻に終わった。

最後の演奏会は1993年5月7日、ハンブルクにおいて行われた。1995年、病気の亢進によりルガーノにて他界した。
【22】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 10時39分)

ムスティスラフ・レオポリドヴィチ・ロストロポーヴィチ(ロシア語: Мстислав Леопольдович Ростропович, Mstislav Leopol'dovich Rostropovich, 1927年3月27日 - 2007年4月27日 )はアゼルバイジャン(旧ソビエト連邦)出身のチェリスト・指揮者。特にチェリストとしては20世紀後半を代表する巨匠として名高い。愛称は名前の一部と「光栄」を意味するロシア語の単語に由来するスラヴァ。声楽家のガリーナ・ヴィシネフスカヤは妻。



目次  [非表示] 
1 略歴
2 チェリストとしての活動
3 指揮者としての活動
4 ピアニストとしての活動
5 その他
6 参考文献
7 外部リンク


略歴[編集]
1927年 バクー生まれ。チェリストの父、ピアニストの母から音楽の手ほどきを受けた。4歳でピアノ、7歳でチェロを始め、10歳でカミーユ・サン=サーンスのチェロ協奏曲第1番を弾いたという。第二次世界大戦が勃発すると父母の故郷であるオレンブルクに移住。
1943年 モスクワ音楽院入学。チェロはセミヨン・コゾルポフに師事した。作曲の師はドミートリイ・ショスタコーヴィチだった。
1945年 全ソビエト音楽コンクール金賞受賞。
1949年 ブダペスト国際コンクール優勝
1950年 プラハ国際チェロ・コンクール第1位。
1951年 ヨハン・ゼバスティアン・バッハの無伴奏チェロ組曲の演奏でスターリン賞受賞。1953年にも同賞を受賞。
1955年 歌手ガリーナ・ヴィシネフスカヤと結婚。
1956年 モスクワ音楽院教授(-1974年)。
1961年 ゴーリキーで指揮者デビュー。
1963年 レーニン賞受賞。
1966年 ソビエト連邦「人民芸術家」の称号を受ける。
1968年 オペラ「エウゲニー・オネーギン」の指揮で大成功を収める。
1970年 社会主義を批判した作家アレクサンドル・ソルジェニーツィンを擁護したことによりソビエト当局から「反体制」とみなされ、以降、国内演奏活動を停止させられ、外国での出演契約も一方的に破棄される。
1974年 2年間のビザを取得して出国し、そのまま亡命。
1977年 アメリカ合衆国へ渡り、ワシントン・ナショナル交響楽団音楽監督兼首席常任指揮者。
1978年 ソビエト当局により国籍剥奪。
1990年 ワシントン・ナショナル交響楽団を率いてゴルバチョフ体制のソ連で16年ぶりに凱旋公演。国籍を回復。
1995年 阪神淡路大震災の追悼で小澤征爾共に追想演奏を行った。
2005年5月22日、神戸で、NPO国際チェロアンサンブル協会主催の「1000人のチェロ・コンサート」を指揮する。
2007年 3月27日、ロシア政府より勲1等祖国功労章を授与。4月27日、モスクワにて死去。80歳だった。

チェリストとしての活動[編集]

チェリストとしてのロストロポーヴィチは、圧倒的な技巧と豊かな音量に裏付けられた、スケールの大きな表現性で広く知られた。レパートリーはバロック音楽から現代音楽まで幅広い。

プロコフィエフの交響的協奏曲(チェロ協奏曲第1番の改作、1952年)、ショスタコーヴィチの2つのチェロ協奏曲(第1番 1959年、第2番 1966年)、ブリテンのチェロ交響曲(1964年)、ブリスのチェロ協奏曲(1970年)をそれぞれ初演した。このほか、カバレフスキー、ハチャトゥリアン、ルトスワフスキ、ジョリヴェ、デュティユー、シュニトケ、バーンスタイン、外山雄三ら、20世紀の代表的な作曲家が競ってロストロポーヴィチのために作曲しており、ロストロポーヴィチに捧げられた現代作品は170を超すといわれる。このように、ロストロポーヴィチの存在がチェロの現代レパートリーを大きく拡大したといえる。主としてEMIクラシックスに数多くの録音がある。1995年にはバッハの無伴奏チェロ組曲の録音がリリースされた。

室内楽では、ホロヴィッツ、リヒテル、ギレリス、アルゲリッチ、コーガン、オイストラフら世界的演奏家と共演した。
【21】

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カンパチ (2015年04月25日 10時38分)

カルロス・クライバー(Carlos Kleiber、出生名:カール・ルートヴィヒ・クライバー (Karl Ludwig Kleiber)、1930年7月3日 ベルリン- 2004年7月13日 コニシツァ)は、ドイツ出身の指揮者。第二次世界大戦期にアルゼンチンに亡命し、後にオーストリア国籍を取得した。父は世界的な指揮者であったエーリヒ・クライバー。



目次  [非表示] 
1 生涯 1.1 出生
1.2 デビュー
1.3 世界的指揮者へ
1.4 晩年

2 逸話 2.1 ウィーン・フィル
2.2 リハーサル

3 評価
4 来日 4.1 来日演奏会

5 ディスコグラフィー
6 ドキュメンタリー
7 注釈・エピソード


生涯[編集]

出生[編集]

彼は名指揮者で当時ベルリン国立歌劇場音楽監督を務めていたエーリヒを父として生まれる。母はユダヤ系アメリカ人のルース・グッドリッジ、生まれた時にはカール(Karl)と名乗っていた。父親がナチスと衝突、一家でアルゼンチンに亡命するとともに、スペイン語風にカルロスと改名する。

デビュー[編集]

カルロスは1950年、ブエノスアイレスで音楽を学び始めるが、父の勧めで1952年からスイスはチューリッヒの連邦工科大学に一旦は入学する。しかし、その翌年にはミュンヘン・ゲルトナープラッツ劇場の無給練習指揮者になり、父の手助けで1954年にはポツダムの劇場でミレッカーのオペレッタ『ガスパローネ』を振って指揮者デビューを飾る。この時彼は有名指揮者である父の七光りで判断される事を嫌ったのか、あるいは指揮者になる事を反対していた父エーリッヒへの配慮か「カール・ケラー」という芸名を用いている(カルロスのデビューに際し、エーリッヒは『幸運を祈る 老ケラーより』と打電したという)。父は指揮者志望の息子に助言を与え、劇場関係者に紹介の労をとる一方、公の場で息子の音楽活動を手厳しく批判したこともあったようだ。偉大な指揮者である父との関係は息子の指揮者人生に複雑で深い影を投げかける事になる。

世界的指揮者へ[編集]

その後、デュッセルドルフ、チューリッヒ、シュトゥットガルトなどの歌劇場で第1指揮者を務め、1968年にはバイエルン国立歌劇場の指揮者となり名声を確立する。1973年、ウィーン国立歌劇場に「トリスタンとイゾルデ」でデビューし、翌年6月にはロンドンのロイヤル・オペラに「ばらの騎士」で、7月にはバイロイト音楽祭に「トリスタンとイゾルデ」でデビューを果たす。1978年にはシカゴ交響楽団を指揮してアメリカデビュー。その後も世界の著名な歌劇場やオーケストラの指揮台に立つが、一度も音楽監督のポストに就任せずにフリーランスの立場に徹している。
【20】

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カンパチ (2015年04月25日 10時36分)

マリア・マルタ・アルゲリッチ(Maria[1] Martha Argerich[2][3], 1941年6月5日 - )はアルゼンチンのブエノスアイレス出身のピアニスト。現在、世界のクラシック音楽界で最も高い評価を受けているピアニストの一人である。



目次  [非表示] 
1 経歴
2 演奏スタイル
3 レパートリー
4 人物像
5 日本とのつながり
6 脚注
7 外部リンク


経歴[編集]

ブエノスアイレスの中産階級に生まれた。父フワン・マヌエル・アルゲリッチは経済学教授や会計士を務めた[4]。母フワニータ(旧姓ヘラー)はベラルーシからのユダヤ系移民の二世だが、ユダヤ教からプロテスタントに改宗していた[5]。

保育園時代に同じ組の男の子から「どうせピアノは弾けないよね」と挑発された時やすやすと弾きこなした[6]ことがきっかけで才能を見出され、2歳8ヶ月からピアノを弾き始める。5歳の時にアルゼンチンの名教師ヴィンチェンツォ・スカラムッツァにピアノを学び始める。

1949年(8歳)、公開の場でベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番ハ長調作品15を演奏した。翌1950年(9歳)にはモーツァルトのピアノ協奏曲ニ短調K466とバッハのフランス組曲ト長調BWV816を演奏した。

ブエノスアイレス知事のサベテという人物がマルタの熱烈なファンだったため[7]、1954年8月13日、サベテの仲立ちにより大統領府でアルゲリッチ親子と会ったフアン・ペロン大統領は、マルタに留学希望の有無を尋ね、「フリードリヒ・グルダに習いたい」との申し出に従って、彼女の父を外交官に、母を大使館職員にそれぞれ任命し[8]、1955年初頭から一家でウィーンに赴任させた[9]。これに伴って家族とともにオーストリアに移住した彼女は、ウィーンとザルツブルクで2年間グルダに師事した後[10]、ジュネーヴでマガロフ、マドレーヌ・リパッティ(ディヌ・リパッティ夫人)、イタリアでミケランジェリ、ブリュッセルでアスケナーゼに師事した。ウィーン時代、プエルトリコ出身の「最高にハンサムな男の子」を相手に処女を喪失したと自ら発言している[11]。

1957年、ブゾーニ国際ピアノコンクール優勝。またジュネーブ国際音楽コンクールの女性ピアニストの部門においても優勝し、第一線のピアニストとして認められるものの、更にその後も研鑽を続ける。1959年には、ブルーノ・ザイドルフォーファーのマスタークラスを数回受講している。なお、絶対音感の持ち主ではなく、調性を正しく認識していないこともあり、聴衆の一人から「ト長調の前奏曲」の演奏を褒められても自分が弾いた曲のどれを褒められたのか判らず、考え込んだことがある[12]。

1960年、ドイツ・グラモフォンからデビューレコードをリリースする。22歳のとき作曲家で指揮者のロバート・チェンと最初の結婚をするが、1964年、長女リダの出産前に破婚。

1965年、ショパン国際ピアノコンクールで優勝し、最優秀マズルカ演奏者に贈られるポーランド放送局賞(マズルカ賞)も受賞した[13]。

1969年、1957年に出会った指揮者のシャルル・デュトワと結婚し(2度目)、娘をもうけるが、来日の際に夫婦喧嘩となり、アルゲリッチだけが帰国し離婚。後にピアニストのスティーヴン・コヴァセヴィチと3度目の結婚。

ソロやピアノ協奏曲の演奏を数多くこなすが、1983年頃からソロ・リサイタルを行わないようになり室内楽に傾倒していく。ヴァイオリニストのクレーメル、イヴリー・ギトリス、ルッジェーロ・リッチ、チェリストのロストロポーヴィチ、マイスキーなど世界第一級の弦楽奏者との演奏も歴史的価値を認められている。
【19】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 10時26分)

梅雨が明けると『梅雨明け10日』といって

晴れの日が続き、いよいよ真夏に突入する。

海水浴シーズンの到来だ。


日本人は昔から海水浴をしていただろうか。

「古事記」には海水で穢れを清めたと書いてあるが、

もちろんこれは海水浴ではない。

沐浴だ。


海水浴は1881年(明治14年)に、

居留していたアメリカ人に誘われて江ノ島で泳いだ人が最初。
【18】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 10時17分)

富士山は、静岡県と山梨県にまたがり、山頂が県境となっているので

持ち主はこの2県かそのどちらか、

あるいは、富士箱根伊豆国立公園に指定されているので国か、

あるいは、この三者の共有のどれかと思うだろうが、

そのどれでもない。


持ち主は、静岡県富士宮市にある浅間(せんげん)神社(正式には富士山本宮浅間大社)である。

では、住所表記はどうなっているかというと、それは無い。

ただ、夏の間だけ富士山頂郵便局が開かれるので郵便番号はある。

≪418−0011≫だ。
【17】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 10時06分)

1907年、アメリカのある少女が、

亡くなった母をしのんで、

命日にあたる5月12日(5月の第2日曜日)に教会で追悼の会を開き、

参加者に白いカーネーションを渡した。

花言葉が、「母の愛情」だったからである。


これがきっかけとなり、

その少女は友人たちと「母の日」を作って国を挙げて祝福することを提案した。

そして、1914年に「母の日」はアメリカの祝日に制定された。

亡くなった母親には白、元気な母親には赤の花を贈ることとした。
【16】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 09時59分)

「611年6月10日、天智天皇が水時計を使い、その時計が、時を告げる鐘を打った」

という内容の記述が『日本書紀』にある。

それを記念して、1920年(大正9年)、東京天文台が、

「時間を大切にしよう」と呼びかけ、この日を時の記念日とした。

明治まで、時刻は十二支の呼び名が当てられた。

例えば、午前11時から午後1時までは、午の刻と言った。

だから、その真ん中の12時は正午、また、午の刻の前と後だから、

午前・午後という。
【15】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 08時14分)

あのさ、このトピ、明らかに「釣り」だよな。


もう、その手には乗らんよ。





先の大戦は、「植民地支配と侵略」の戦争だったのか、


「アジア解放と自存自衛のためのやむを得ない戦争」だったのか。
【14】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

井上陽水 (2015年04月24日 22時41分)

雨にも風にも負けないでね

暑さや寒さに勝ちつづけて

一日 すこしのパンとミルクだけで

カヤブキ屋根まで届く

電波を受けながら暮らせるかい?



南に貧しい子供が居る

東に病気の大人が泣く

今すぐそこまで行って夢を与え

未来の事ならなにも

心配するなと言えそうかい?



※君の言葉は誰にもワカンナイ

君の静かな願いもワカンナイ

望むかたちが決まればつまんない

君の時代が今ではワカンナイ※



日照りの都会を哀れんでも

流れる涙でうるおしても

誰にもほめられもせず 苦にもされず

まわりの人からいつも

デクノボウと呼ばれても笑えるかい?



君の言葉は誰にもワカンナイ

慎み深い願いもワカンナイ

明日の答えがわかればつまんない

君の時代のことまでワカンナイ



(※くり返し)
【10】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月24日 18時39分)

やっと、冷静に考えられるようになってきた。


『続カンパチ・ベルガーX』の【374】。



これは、一体、何が目的だったんだ?。


客観的に見て、本人からの抗議は無い、揉め事が発生していたわけでもない。


つまり、すーさんが口出しする余地は全くなかった。




ということは、【374】という辛辣なレスは、単に、僕を貶(おとし)めることが目的であり、僕に対する、スーさんの個人的恨み、ということになる。


僕は、スーさんに恨まれるようなことを、どっかで言った?。
【9】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

井上陽水 (2015年04月21日 21時00分)

CDのケースだけで50枚1000円

CDが50枚900円

昔人間には納得できないな

昔で言えばカセットとケースがほぼ同じ値段てことやろ

ありえない

てか

音楽用CDはケース付きで20枚1000円

大した違いはない

これなら

音楽用のCDの方がええやん

気分的に

グッドやね

てか

音楽用のCDもあかんのあるな

こないだ3枚ほど同じとこでダメ

て、事は最初からの不良やろ

メーカーに言えば保証してくれるのかな

こないだインクのトラブルでメーカに電話したら

即送ってきたけど

ダメもとで電話してみよかな
【8】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

井上陽水 (2015年04月21日 20時20分)

やるせない 思いを胸に

友だちは 去りました

今日という 日のくることは

さけられぬ ことだったのでしょう



友だちは 遥かな旅路に

今いちど たたないかと

手をとって ふるえる声で

言ったけど あきらめたのでしょう



果てしなく 広がる夢と

自由とが ほしかった

あてのない 長い道でも

何かしら 信じてたのでしょう



今日の日は私にとっては

届かない 彼でした

ふりかえる ことすら忘れて

友だちが こわかったのでしょう



汽車に乗る 後姿が

友だちを 語ってた

いくたびか こみあげてくる

悲しみも こらえてたのでしょう



傷つけることはしたくない

優しさがわかりすぎて

バカヤロウ って言ってほしかった

それだけを 言い忘れたのでしょう
【7】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

ゆっき☆ (2015年04月21日 01時58分)

すーさん おっつ〜

カンちゃんのトピかとオモタ^^;


あたし、カンちゃんが板落とした経緯よく知らんのやけど、、、


戻って来て、また書いてくれるといいなぁ


ちょっといきなりすぎて寂しいやんね
【6】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

井上陽水 (2015年04月20日 22時12分)

こないだ靴買いに行った

55才以上は安くなるシニアデーとか

一割も安くなるらしい

知ってはいたけど

まさかその日とは

ラッキーやね

けど

免許書見せてくださいと言われた

なんでやねんw

けど

嬉しいのかな…

オレ何歳に見えたのかな…

55よりは上やろ

店長?さんは45くらいの綺麗すぎる人でした

いいのがあればサイズが合わずで

気にかけてくれてました

ありがとう

靴流通センターの店長さん

おやすみなさい

かんちゃん、まんまちゃん

ピワドの皆さん

お休みなさい

永久に

(-_-)゜zzz…
【5】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

井上陽水 (2015年04月20日 21時17分)

昨日も今日も雨でウォーキングに行けず

行こうと思えば行けたのかな

坂道はクセになるな登りたくなる

近所にお城のあとがある

最近そこにハマってる

凄い坂道クセになる



頂上から後戻りせず

雑木林の中を反対側に

なんだかんだでやっとたどり着いたと

おもたら

登った側やった

しかも

1キロ位手前

オレがあるきだした地点

まさかまさかやね

山は怖いw

てか

単なる丘やで

そこだけは急やけど

しかし

山は怖いな

まだ

18時前やっから

まっすぐ歩いてたつもりが真横に歩いてたんやね

近所の丘で遭難するとこやったw
【4】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

井上陽水 (2015年04月20日 20時44分)

こないだ

子供が友達からCDもらってた



今度は子供がCD買って

オレがジャケットまで作ってお返し

そこまでやるのかと子供は思ったやろな

俺にしたら普通のこと

たんまに友達にやることもある

器用やねと言われるけど

器用ではない

誰でもできる

やる気があるかないかの

違い

けど

コピーは

コピーやね

写真紙なら完璧なのかな?

今度やってみよ
【3】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

井上陽水 (2015年04月20日 20時28分)

オレって真面目やから

今まで音楽CDオンリーやったんよね

昨日初めてデータ用のCD買った

50枚で1000円弱w

やっぱり品質悪いのか?

そんなことないよな?

けどいつもと同じ倍速でダビングしたら没ありw

やっぱり音楽用CD買うことにしょ

たった20円で海賊版(ジャケット含めて)つくろうなんて甘すぎるな

子供は買ってきてるのにお父さんは図書館のCDの海賊版やで

たった20円で海賊版の出来上がり

ええな

映画音楽

やっぱり音楽は昭和やな…
【2】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

井上陽水 (2015年04月20日 20時15分)

なんかいえ

アホ
【1】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

井上陽水 (2015年04月20日 20時14分)

>お世話になりました。 

怒るでしかし

ションベンばぁチビリますたい!

アッポw
16  15  14  13  12  11  10  9  8  7  6  5  4  3  2  1 
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