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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 12時28分)

アレクサーンドル・ワシーリエヴィチ・ガーウク(ロシア語: Алекса&#769;ндр Васи&#769;льевич Га&#769;ук / Aleksandr Vassilievich Gauk, 1893年8月15日 オデッサ - 1963年3月30日 モスクワ)は、ウクライナ出身のソ連邦の指揮者・作曲家。エフゲニー・ムラヴィンスキーやアレクサンドル・メリク=パシャーエフ、コンスタンチン・シメオノフ、エドゥアルド・グリクロフ、ニコライ・ラビノヴィチ、エフゲニー・スヴェトラーノフ、ゲンナジー・プロヴァトロフらとともに、戦後のソ連楽壇において指導的役割を果たした。チャイコフスキーやムソルグスキーの管弦楽曲を得意としたが、アレンスキーやプロコフィエフ、ハチャトゥリアン、ショスタコーヴィチなどの作品も演奏・録音した。厖大な数の録音を遺したにもかかわらず、現在のところ入手できる音源は限られている。 


目次  [非表示] 
1 略歴
2 註釈
3 外部リンク 3.1 音源



略歴[編集]

本人の回想によると最初の音楽体験は、軍楽隊や、母親がピアノで伴奏しながら歌っているのを聞いたことであるという。7歳でピアノを始める。17歳でペテルブルク音楽院に進学し、アレクサンドル・グラズノフやワシーリー・カラファーティ、ヤーセプス・ヴィートリス、ニコライ・チェレプニンならびにフェリックス・ブルーメンフェリトに師事した。在学中に教師に連れられ、クロード・ドビュッシーやリヒャルト・シュトラウス、アルトゥール・ニキシュが指揮する様子を見学したという[1]。1912年に学生オーケストラを指揮して初めて指揮を経験し、1917年10月1日にペトログラード音楽演劇劇場において、ピョートル・チャイコフスキーの歌劇《チェレヴィチキ》の公演により、職業指揮者として初舞台を踏んだ。1920年代は大半をマリインスキー劇場バレエ団の指揮者として過ごし、バレリーナのエレーナ・ゲルトと結婚した[1]。

1930年から1934年までレニングラード・フィルハーモニー交響楽団の首席指揮者を務め、その間1931年11月6日に、同楽団を指揮して、ショスタコーヴィチの《交響曲第3番「メーデー」》作品20を初演した。1932年よりモスクワで活動し、1936年から1941年まで、新設された放送管弦楽団(後のソヴィエト国立交響楽団)の首席指揮者に迎えられた。1941年から1943年までの2年間は、トビリシ音楽院で教鞭を執り、グルジア国立交響楽団を再生させた[1]。1943年にモスクワ音楽院の資料室において、ラフマニノフの《交響曲第1番ニ短調》のパート譜を発見し、散逸した総譜を再構成することに成功した。1953年から1961年までモスクワ放送交響楽団の音楽監督に就任している。1958年来日。

作曲も手懸け、交響曲や室内楽曲、ピアノ曲を遺した。未完に終わったが、自叙伝も執筆していた[1]。
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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 12時27分)

パウル・ファン・ケンペン(Paul van Kempen, 1893年5月16日 - 1955年12月8日)は、オランダ出身のドイツの指揮者。

略歴[編集]

オランダの南ホラント州ズーテルヴァウデに生まれる。アムステルダム音楽院でユリウス・レントヘン(レントゲン)、ベルナルド・ズヴェールスに作曲および指揮を、ルイ・ジマーマンにヴァイオリンを学び、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の第2ヴァイオリニストとして音楽キャリアをスタートさせた。1932年にドイツ国籍を取得、1933年に指揮者としてデビューする。1934年にドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任し、1942年から1944年までヘルベルト・フォン・カラヤンの後任としてアーヘン市立歌劇場の音楽監督を務めた。第二次大戦後、活動の場を故国に移したが、ドイツ国防軍の慰問演奏会を行うなどといった戦時中のナチス政権とのかかわりが問題視され、物議を醸した。1955年、アムステルダムにて没。
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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 12時27分)

ヴィクトル・デ・サバタ(Victor De Sabata, 1892年4月10日 - 1967年12月11日)はイタリアの指揮者・作曲家。



目次  [非表示] 
1 略歴 1.1 作曲家として
1.2 指揮者として
1.3 ミラノ・スカラ座
1.4 晩年

2 文献


略歴[編集]

作曲家として[編集]

サバタは、ミラノ・スカラ座の合唱指揮者でカトリックの父とユダヤ人の母の息子として、当時はオーストリア=ハンガリー帝国領だったトリエステに生まれた。1902年から1910年までミラノのジュゼッペ・ヴェルディ音楽院で作曲を学び、卒業後作曲活動に入ったサバタの作品はセラフィンやトスカニーニによって採り上げられ、ドイツではリヒャルト・シュトラウスがサバタの作品を指揮、1917年にはサバタが作曲した歌劇『岩石』がスカラ座の舞台にかかり、大成功をおさめている。

指揮者として[編集]

1918年、サバタはモンテカルロ歌劇場の指揮者として指揮者デビュー。1921年にはローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団を指揮して管弦楽の世界にも足を踏み入れている。1925年、ラヴェルの歌劇『子供と魔法』の世界初演を成功に導き、初演の翌日サバタは作曲者からの賞賛の手紙を受け取ったという。1929年、サバタはプッチーニの歌劇『西部の娘』でスカラ座にデビュー(厳密に言うとサバタはスカラ座管弦楽団のコンサートという形で1926年にデビューしている)を果たす。その同じ年にはアメリカのシンシナティ交響楽団にも客演している。
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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 09時00分)

アルトゥール・ロジンスキ (Artur Rodzi&#324;ski, 1892年1月1日 - 1958年11月27日)は、オーストリア出身の、アメリカ合衆国で活躍した指揮者。[1][2][3][4]



目次  [非表示] 
1 生涯
2 レコーディング 2.1 主な録音

3 逸話


生涯[編集]

ポーランド人を両親に、オーストリア=ハンガリー帝国領スパラト[5]に生まれる。現在はウクライナ領のリヴォフで育ち、同地の大学で法学を学んだ。1914年に、オーストリア・ハンガリー帝国の軍医だった父親の転勤により、家族とともにウィーンに行き、引き続き法学を研究。そのかたわらでウィーン音楽アカデミー(旧名ウィーン音楽院)に進学する。1916年に法学博士の学位を取得。第一次世界大戦後、1918年に、当時ポーランド領だったリヴォフに戻り、歌劇「エルナーニ」を指揮して指揮者としてデビューする。その後は渡米し、1925年から1929年までレオポルド・ストコフスキー率いるフィラデルフィア管弦楽団のもとで勤める。1929年からはカリフォルニア州に移動し、4年間にわたってロサンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団を指揮。1933年から1943年まで、クリーヴランド管弦楽団の音楽監督に就任し(1933年にアメリカ国籍を取得している)、在任期間中に数度のオペラ上演にも携わった。1936年にはザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮。その際に知り合ったアルトゥーロ・トスカニーニの依頼で、NBC交響楽団の練習指揮者に就任。トスカニーニ着任までの間にオーケストラをトスカニーニ好みに合うよう徹底的に鍛え上げた(ただし、訓練があまりにも峻烈すぎたためか、オーバーヒートを恐れたNBC側は、タイプの異なるピエール・モントゥーも訓練指揮者として招聘した)。
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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 09時00分)

ヘルマン・シェルヘン(Hermann Scherchen、1891年6月21日 - 1966年6月12日)は、ドイツ出身の指揮者[1]、作曲家。現代音楽の推進者として知られた。「ヘルマン・シェルヒェン」とも呼ばれる。

生涯[編集]

ベルリンの酒場の息子として生まれ、ヴィオラを学ぶ。家計が苦しく、1907年からブリュートナー管弦楽団、ベルリン・フィル、クロール・オペラなどでヴィオラ奏者として活動する一方、ナイトクラブなどでも演奏した。

1912年にはシェーンベルクとそのグループに出会い、11月5日、ミュンヘンでシェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』を演奏し、指揮者としてデビューした。リガ交響楽団の指揮者としてロシアに滞在中、第一次世界大戦が勃発し、捕虜として抑留されたが、音楽活動は継続、弦楽四重奏曲などの作曲を行った。

1918年にベルリンに戻り、以後、ドイツを中心としたヨーロッパ各地のオーケストラで指揮活動を行った。ヒンデミットやクルシェネク、オネゲルなど現代音楽の初演も数多い。一方で、音楽教育や、労働者合唱団の指導にも力が注がれ、さらに新音楽擁護のための雑誌を発刊するなど、精力的に活動した。

シェルヘン自身はアシュケナジム・ユダヤ系ではなかったが、1933年にナチス政権が成立すると、これに反対してスイスに移住、第二次世界大戦が始まるまでは、ドイツを除く欧州諸国のほか、パレスチナや中国にまで足を伸ばした。1936年には、本番直前に指揮をキャンセルしたヴェーベルンの代役として、ベルクのヴァイオリン協奏曲をルイス・クラスナーとともにバルセロナで初演している。しかし、開戦後はほぼスイス国内のみに活動範囲が制約された。
【109】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 08時59分)

シモン・ゴールドベルク(Szymon Goldberg[1] 、1909年6月1日 ポーランド/ヴウォツワヴェク - 1993年7月19日 日本/富山県大山町(現富山市))は、ポーランド出身のユダヤ系のアメリカのヴァイオリン奏者・指揮者。最後の夫人は山根銀二の姪でピアニストの山根美代子。

少年時代にワルシャワでヴァイオリンを学び、1917年よりベルリンでカール・フレッシュに入門。12歳でワルシャワでデビューし、センセーションを呼ぶ。1925年にわずか16歳でドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターに就任するが、1929年に退団。同年、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの招きで、弱冠20歳でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターに就任。1930年には、パウル・ヒンデミットやエマヌエル・フォイアーマンと弦楽三重奏団を結成して室内楽演奏を、またピアニストのリリー・クラウスとはデュオを組んでソリストとしての演奏を精力的に続ける。

しかしナチスによる政権奪取の後、1934年に国籍と民族を理由にベルリン・フィルより退団を余儀なくされる。1938年にソリストとしてニューヨークにデビューした後、1942年からアジア楽旅を行なった折、日本軍により、1945年までジャワ島での抑留生活を強いられる。ようやく戦後に再渡米し、1953年にアメリカに帰化した。

1951年から1965年までの15年間にわたって、アスペン音楽学校で教鞭を執るかたわら、指揮活動にも着手。1955年にアムステルダムにてトーマス・マジャールらと共にネーデルラント室内管弦楽団(オランダ室内管弦楽団)を結成し、以後22年間にわたって同楽団を指導し、ともに演奏旅行も行なった。1977年から1979年までマンチェスター・カメラータの指揮者に転ずる。
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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 08時58分)

ダヴィート・フョードロヴィチ・オイストラフ(あるいはオイストラッフとも、Давид Фёдорович Ойстрах, David Fiodorovich Oistrakh、1908年9月30日 - 1974年10月24日)は、ソ連(現在はウクライナ)のオデッサ出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。息子イーゴリ・オイストラフもヴァイオリニストである。



目次  [非表示] 
1 概要
2 使用楽器
3 関連項目
4 外部リンク


概要[編集]

数多くの録音と、数々の献呈されたヴァイオリン作品を誇る。とりわけショスタコーヴィチやハチャトゥリアン、ヒンデミットの協奏曲の録音で著名だが、ブラームスやチャイコフスキー、ブルッフなど、より古典的なレパートリーにも通じていた。ロシア内外のオーケストラとの共演も数多く、ロストロポーヴィチやリヒテル、カラヤン指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とともに演奏したベートーヴェンの『三重協奏曲』、コンヴィチュニー(右側の写真中央)指揮のシュターツカペレ・ドレスデンとともに演奏したチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲およびブラームスのヴァイオリン協奏曲の録音が知られている。

オイストラフは学生時代はヴィオラを演奏しており、生まれついてのヴァイオリニストではなかった。1935年のヴィエニアフスキ国際ヴァイオリン・コンクールでは、15歳のジネット・ヌヴーに敗れて、第2位に甘んじている。名ヴァイオリニストとの評価が広められたきっかけは、1937年、ブリュッセルのウジェーヌ・イザイ・コンクール(現:エリザベート王妃国際音楽コンクール)で首位をかち取り、世界の檜舞台にその名を轟かせたからだった。その後はモスクワ音楽院で教鞭を執るかたわら演奏活動を続けたが、ソ連が第二次世界大戦に参戦すると、最前線に出て慰問演奏を行なった。

教師としても声望に恵まれ、ギドン・クレーメル等が門人にいる。息子のイーゴリ(1931年4月27日 - )も指揮者、ヴァイオリニストとして著名で、しばしば親子で共演し、録音を残した。

1974年にアムステルダムで演奏旅行中に客死、遺体はモスクワに送られ、同地で埋葬された。
【107】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 08時57分)

ヴァーツラフ・スメターチェク(Václav Smetá&#269;ek, 1906年9月30日 - 1986年2月18日)は、チェコの指揮者・オーボエ奏者・作曲家。

経歴[編集]

プラハで指揮法をメトド・ドレジルとパヴェル・ジェデチェクに師事するかたわら、プラハ大学で音楽学・美学・哲学を修める。プラハ木管五重奏団の創設メンバーであり、その演奏活動のために編曲や新作の提供もこなした。1930年から1933年までチェコ・フィルハーモニー管弦楽団に入団し、1934年から1943年までチェコ放送局の指揮者ならびに編集者を務めた。1945年からプラハ大学やプラハ芸術アカデミーの教員となる。

プラハ交響楽団の指揮者として、いくつかの改革に着手した。古い時代の作品と、20世紀音楽の両方にレパートリーを押し広げたことはその一つであり、モーツァルトやケルビーニ、レイハ、ドヴォルジャーク、フェルステル、マルティヌー、オルフのほかに、ミロスラフ・カベラーツやルーボス・フィシェルの管弦楽曲がプラハ交響楽団のレパートリーに採用された。1938年からは国外でも演奏し、ヨーロッパや海外の音楽の中心地からも招待を受けるようになった。もっぱらコンサートの指揮者であったといえるが、オペラについても熟知していた。その幅広い活躍から「チェコのカラヤン」と称されたとの記載がCD解説にある。
【106】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 08時56分)

アンドレ・クリュイタンス(André Cluytens, 1905年3月26日 - 1967年6月3日)は、ベルギーのアントウェルペン出身の指揮者である。

生涯[編集]

アンドレ・クリュイタンスは1905年3月26日、アントウェルペンで代々音楽家の家系に生まれた。父も音楽家で、幼少時より音楽教育を受けて育った。9歳からアントウェルペン王立音楽院でピアノ・和声・対位法を学び(同窓に作曲家のジェフ・マースがいた)、同時に王立劇場の指揮者であった父からも教えを受けた。多言語国家ベルギーは、フランス語、フラマン語(オランダ語の近縁言語)、ドイツ語を公用語としているものの、話者の割合は前二者が圧倒的で、ドイツ語は王室の言語でありながら1%程度しか使用人口がない。しかし、クリュイタンスの父は「フラマン語のオペラなどないのだから、そんなものを学んでもどうにもならない」と言って息子にドイツ語を教えたという。このようにしてフランスのラテン系文化とドイツのゲルマン系文化を幼少時より身につけ、この教養は、クリュイタンスがドイツ音楽とフランス音楽という、一般には相反すると考えられるジャンルの音楽を自在に演奏することに繋がっている。ドイツ音楽も得意とするフランス語圏出身の指揮者としては、ピエール・モントゥーと双璧的存在と評価されている(他にドイツ系アルザス人のミュンシュもいる)。

アントウェルペン王立音楽院を卒業し、1922年に王立歌劇場の合唱指揮者となる。1927年には同歌劇場第一指揮者に任命され、ビゼーの歌劇『真珠採り』をヨーゼフ・クリップスの代役として指揮し、高く評価される。1932年からフランスの歌劇場でも活動を始める。その後もキャリアを重ね、1944年にパリ・オペラ座の指揮者となり、1949年にはミュンシュの後任としてパリ音楽院管弦楽団の首席指揮者に就任する。以降1967年にクリュイタンスが逝去するまでこのコンビは黄金時代を築くことになる。それと並行してフランス国立放送管弦楽団、ベルギー国立管弦楽団の指揮も兼任した。
【105】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 08時55分)

エフゲニー・アレクサンドロヴィチ・ムラヴィンスキー(エヴゲーニイ・アレクサーンドロヴィチ・ムラヴィーンスキイ;ロシア語:Евгений Александрович Мравинский, イヴギェーニイ・アリクサーンダラヴィチュ・ムラヴィーンスキイ;ラテン文字転写の例:Evgeny Aleksandrovich Mravinsky、1903年6月4日[1] - 1988年1月19日)は、ロシアの指揮者。20世紀におけるソ連・ロシア・東側諸国指揮界の第一人者、世界でも有数の指揮者の一人に挙げられる。

若い頃は作曲家を志しピアノ曲を中心に作曲もしたが、作曲家への道は断念した。ムラヴィンスキーは自身が貴族階級出身であった為、革命後の共産主義国家で作曲家になることは難しいと考えたのではないかとアレクサンドラ夫人は述べている(毎日新聞)が、断念した実際の理由は不明である。



目次  [非表示] 
1 略歴
2 レニングラード・フィルの常任指揮者として
3 芸格とエピソード 3.1 人物像
3.2 リハーサル

4 日本との関係
5 代表的なレパートリー 5.1 ショスタコーヴィチ
5.2 チャイコフスキー
5.3 その他

6 映像
7 作品
8 脚注
9 参考文献(日本語:出版年順)


略歴[編集]
1903年 - 帝政期サンクトペテルブルクにて、非常に高い地位を有する貴族であり法律家の父と、歌手であり音楽に対し造詣の深い母との間に誕生。また、父方の伯母も有名な歌手であった。
1909年 - 6歳の時からピアノを学びはじめる。
1917年 - ロシア革命により一家は財産を没収され、アパート一室の雑居生活を強いられる。
1920年 - ペトログラード大学に入学し、生物学を専攻する。同年に父親が亡くなる(父親はこのアパート一室の生活に耐えられず、心労のあまり倒れた)。生活費捻出のためにマリインスキー劇場のパントマイムの端役を務める。
1924年 - レニングラード音楽院に入り直し、作曲と指揮を学ぶ。指揮法をアレクサンドル・ガウクとニコライ・マルコに学んだ。
1931年 - レニングラード音楽院を卒業。マリインスキー劇場(当時の名称はレニングラード・バレエ・アカデミー・オペラ劇場)で指揮者デビューを果たし、以後1938年までこの職にとどまる。また、初めてレニングラード・フィルハーモニー交響楽団に招待され指揮をする。
1934年 - レニングラード・フィルハーモニー交響楽団で定期的な客演を開始する。
1937年 - ショスタコーヴィチの第5交響曲を初演する。
1938年 - 全ソ指揮者コンクールに優勝。このときの審査員に「彼は我々の文化の中で最高の天才のひとり」と賞される。この優勝により、すぐにレニングラード・フィルハーモニー交響楽団の常任指揮者に就任。以後、50年間にわたってこの地位に君臨する。
1946年 - スターリン賞受賞。
1954年 - 人民芸術家の称号を授与される。
1961年 - レーニン賞受賞。後にレーニン勲章も受章した。
1973年 - 社会主義労働英雄の称号を授与される。
1973年 初来日。以後1975年、1977年、1979年と合計4回の来日を果たす。
1988年 - レニングラードにて死去。
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