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【134】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

井上陽水 (2015年04月27日 20時52分)

今日、久しぶりに

居酒屋兆治、観た

健ちゃんて大根だよね

オレの目が肥えたのかな

あの頃はオレが20した

今はオレが10うえ

健ちゃん若すぎる

かっこええな

立ち姿がええ

セリフが少なっくなったの理解できる

やっぱり

ケンちゃんは

死んでもらいます が ええな
【133】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

井上陽水 (2015年04月27日 20時22分)

僕を忘れた頃に

君を忘れられない

そんな僕の手紙がつく



くもりガラスの窓をたたいて

君の時計をとめてみたい

あゝ僕の時計はあの時のまま

風に吹きあげられたほこりの中

二人の声も消えてしまった

あゝ あれは春だったね



僕が思い出になる頃に

君を思い出にできない

そんな僕の手紙がつく



風に揺れるタンポポをそえて

君の涙をふいてあげたい

あゝ僕の涙はあの時のまま

広い河原の土手の上を

ふり返りながら走った

あゝ あれは春だったね



僕を忘れた頃に

君を忘れられない

そんな僕の手紙がつく



くもりガラスの窓をたたいて

君の時計をとめてみたい

あゝ僕の時計はあの時のまま

風に吹きあげられたほこりの中

二人の声も消えてしまった

あゝ あれは春だったんだね
【132】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

井上陽水 (2015年04月26日 21時01分)

>すーさん、

なんやねん?

>あんた、友達いないのか。

(^^;

かもしれない

>オレにもいないけどね。

ふ〜ん

>このくらいにしとく。 

なんでやねん

もっとやれ

レスが増えるのは楽しいこと

ありがとう

かんちゃん

キミは分かりやすくて

実にいい

正直者は好きです

キミも

不器用なのかもね…
【131】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 20時19分)

すーさん、


あんた、友達いないのか。



オレにもいないけどね。



このくらいにしとく。
【130】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 12時41分)

グスタフ・レオンハルト(Gustav Leonhardt オランダ語発音, 1928年5月30日 - 2012年1月16日)は、オランダの鍵盤楽器奏者・指揮者・教育者・音楽学者。ピリオド楽器による古楽演奏運動のパイオニアにして中心人物であった[1]。各種の鍵盤楽器によって録音を残しているが、とりわけチェンバロ奏者・オルガン奏者として名高い。現在の主要なチェンバロ奏者の多くはレオンハルトの弟子または孫弟子である。



目次  [非表示] 
1 経歴
2 エピソード
3 脚注
4 参考文献


経歴[編集]

オランダ北部のス・フラーフェラント('s-Graveland)でプロテスタントの家庭に生まれた。両親はともに室内楽を演奏し、実業家である父は地元のバッハ協会に所属していた。第二次世界大戦中は家族にとって困難な時代で、電気も水もなく食料もわずかだった[1]。1947年から1950年までバーゼル・スコラ・カントルムにてチェンバロをエドゥアルト・ミュラー(Eduard Müller)に師事。1950年ウィーンにおいてバッハの「フーガの技法」を演奏してチェンバロ奏者としてデビュー。同地でハンス・スワロフスキーに指揮法を学ぶ[2]。1952年から1955年までウィーン音楽アカデミーにて、また1954年よりアムステルダム音楽院にてチェンバロ教授に就任。教会オルガニストも兼務している。

残した録音は膨大で、1950年代初頭にバッハのゴルトベルク変奏曲とフーガの技法を録音[3]。1954年にレオンハルト・バロック・アンサンブルを率いて、イギリスのカウンターテノールのアルフレッド・デラーと共演し、バッハのカンタータ2曲の先駆的な録音を行った。このアンサンブルには夫人のマリー・レオンハルトと、ニコラウス・アーノンクール(チェロ)が参加している。

レオンハルトはバロックから古典派に至るさまざまな楽曲を演奏・録音してきたが、1971年から1990年まで20年がかりでアーノンクールと分担で録音した、バッハのカンタータ全集がとりわけ有名である。

チェンバロ奏者としては、バッハの作品のほかに、フランス・クラヴサン楽派やフレスコバルディの作品の録音でも知られている。
【129】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 12時40分)

ホルスト・シュタイン(Horst Stein, 1928年5月2日 - 2008年7月27日)は、ドイツの指揮者。バンベルク交響楽団終身名誉指揮者。

略歴[編集]

ラインラント地方の都市エルバーフェルト(現在はヴッパータール市の一部)生まれ。親は機械工。同郷の指揮者に、ハンス・クナッパーツブッシュ、ギュンター・ヴァントがいる。フランクフルト音楽大学やケルン音楽大学でヴァイオリン・ピアノ・作曲・指揮などを学ぶ。1949年、ヴッパータール市立劇場合唱指揮者。

1951年、ハンブルク国立歌劇場指揮者。その後ベルリン国立歌劇場を経て1963年にマンハイム国立劇場音楽監督。1952年 - 1955年、バイロイト音楽祭で、クナッパーツブッシュ、ヨーゼフ・カイルベルト、ヘルベルト・フォン・カラヤンらの助手を務める。1962年、バイロイト音楽祭でワーグナーの「パルジファル」を指揮。1970年、バイロイト音楽祭でワーグナーの「ニーベルングの指環」全曲を指揮。ワーグナー指揮者としての名声を高めた。

1970年、ウィーン国立歌劇場第一指揮者。1972年、ハンブルク国立歌劇場音楽総監督。 1973年、来日してNHK交響楽団の定期演奏会を指揮。1975年、NHK交響楽団名誉指揮者。このころから活動の中心を歌劇場から演奏会に移す。1980年、スイス・ロマンド管弦楽団音楽監督。1985年 - 1989年、ザルツブルク音楽祭に出演。1985年、バンベルク交響楽団首席指揮者。同楽団を率いて各地を演奏旅行し、来日公演も果たした。1996年、病気のためバンベルク響を離任、終身名誉指揮者の地位を贈られる。
【128】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 12時40分)

ジャン=フランソワ・パイヤール(Jean-François Paillard, 1928年4月12日 - 2013年4月15日[1][2])はフランスの指揮者。

マルヌ県ヴィトリ=ル=フランソワの出身。ソルボンヌ大学で数学を専攻した後、パリ音楽院でノルベール・デュフルクに音楽学を、ザルツブルクのモーツァルテウム音楽大学にてイーゴリ・マルケヴィチに指揮を師事するなどの音楽教育を受ける。

1953年にジャン=マリー・ルクレール器楽アンサンブルを創立。これが母体となって1959年にパイヤール室内管弦楽団が結成された。同楽団はバロック音楽や古典派音楽を専門としていたが、チャイコフスキーやドヴォルザークの弦楽セレナーデのようなロマン派音楽を稀に録音することもあった。パイヤールは後者を通じてエラート・レーベルに数々のバロック音楽を録音し、また欧米の各地で演奏旅行を行なった。

パイヤール室内管弦楽団と共演して音源を残したソリストに、モーリス・アンドレ、ジャン=ピエール・ランパル、ジェラール・ジャリ、リリー・ラスキーヌ、ピエール・ピエルロらがいる。

パイヤールはしばしばその他のアンサンブルにも客演指揮者として活躍し、また著述家としても活躍した。叢書『 Archives de la Musique Instrumentale 』の校訂者であり、また1960年には『フランス古典音楽 La musique française classique 』(渡部和夫訳・白水社クセジュ文庫)を出版している。近年では2001年に来日し、水戸室内管弦楽団を指揮してドビュッシーやファリャ、オネゲルの作品を指揮した。
【127】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 12時39分)

ズデニェク・コシュラー (Zden&#283;k Ko&#353;ler, 1928年3月25日 - 1995年7月2日)[1][2][3]は、チェコの指揮者。カリスマ的なスター指揮者ではないものの堅実でバランスの良い演奏で知られていた。東京都交響楽団の客演指揮者としてたびたび来日しており、日本でも親しまれた指揮者である。

1928年、プラハ生まれ。プラハ音楽院で作曲、ピアノ、指揮を学び、そのかたわらチェコ合唱団の指揮を執り活躍した。1948年、プラハ国民劇場の練習指揮者となり、1951年の音楽院卒業と同時に「セヴィリアの理髪師」を指揮して正式に指揮者に就任した。同年、プラハ交響楽団を指揮し、コンサート指揮者としてもデビューしている。1955年のプラハ国民劇場のモスクワ公演での「売られた花嫁」で注目を集めた。1956年にブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。1958年にオロモウツ歌劇場の音楽監督に就任。1962年にはオストラヴァのヤナーチェク歌劇場の指揮者としても活躍した(1966年まで)。1963年、ミトロプーロス国際指揮者コンクールで、クラウディオ・アッバードと同時優勝し、ニューヨークへ渡ってニューヨーク・フィルハーモニックのレナード・バーンスタインのアシスタントとして研鑽を積んだ。1966年から67年にはプラハ交響楽団の首席指揮者、1966年から68年にベルリン・コーミッシェ・オーパーの首席指揮者兼音楽監督を務めている。この間にウィーン国立歌劇場やウィーン・フィルハーモニー管弦楽団にも客演している。1971年、ブラチスラヴァのスロヴァキア国立歌劇場の音楽監督に就任。1976年からはチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者も兼ねた。1978年には東京都交響楽団の首席客演指揮者となり、1983年以降は定期招聘指揮者として、ほぼ毎年来日している。1980年プラハ国民劇場の音楽監督に就任。1985年に一旦辞任したものの、1989年に再任された。その後、1993年からはチェコ・ナショナル交響楽団を指揮してドヴォルザークやスメタナの作品を録音するといった活動も行ったが、1995年、プラハで67歳で急逝した。
【126】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 12時38分)

ヘルベルト・ブロムシュテット(Herbert Blomstedt, 1927年7月11日 - )は、アメリカ生まれのスウェーデン人指揮者。ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、バンベルク交響楽団、NHK交響楽団の名誉指揮者。スウェーデン語では [&#716;hæ&#633;&#720;b&#601;&#648; &#712;bl&#650;m&#720;st&#603;t] ヘッルベト・ブルンムステット (発音を聞く)と発音するが、日本ではドイツ語読みのブロムシュテットで知られる。



目次  [非表示] 
1 人物・来歴
2 音楽的特質
3 代表的な録音
4 エピソード
5 脚注
6 外部リンク


人物・来歴[編集]

仕事で渡米していたスウェーデン人の両親の元、マサチューセッツ州スプリングフィールドに生まれる。2歳の時に一家は帰国し、その後ブロムシュテットはストックホルム音楽大学やウプサラ大学に学んだ後、イーゴリ・マルケヴィッチに師事。さらにアメリカ合衆国に留学してジュリアード音楽学校でジャン・モレルに、タングルウッドのバークシャー音楽センターでレナード・バーンスタインに師事した。1953年にクーセヴィツキー賞を獲得し、1955年にザルツブルク指揮者コンクールで優勝する。

1954年2月にロイヤル・ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団でベートーヴェン、ヒンデミットなどの作品を指揮して指揮者として本格的にデビューする。その後、ノールショピング交響楽団、オスロ・フィルハーモニー管弦楽団、デンマーク放送交響楽団、スウェーデン放送交響楽団の首席指揮者を歴任した後、シュターツカペレ・ドレスデンの首席指揮者に就任。ドレスデンを去った後はサンフランシスコ交響楽団(1985年 - 1995年、現在は桂冠指揮者)、北ドイツ放送交響楽団(1995年 - 1998年)を経て、1998年から2005年までライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の首席指揮者を務めた(現在は名誉指揮者)。また、バンベルク交響楽団とNHK交響楽団の名誉指揮者でもある。N響との共演により、日本国内でよく知られた指揮者の一人である。

2009年11月、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団との客演指揮者としての来日公演において、東京・大阪をはじめ全国数ヶ所で、ブルックナーの交響曲第8番やドヴォルザークの交響曲第8番や第9番「新世界より」などを指揮した。特にサントリーホールで演奏されたブルックナーの「8番」は、大きな話題を呼んだ。

2011年1月、急遽静養することになったニコラウス・アーノンクールの代役として、ウィーンのモーツァルト週間に登場し、1月26日にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートを指揮した。巨匠ピエール・モントゥーと同じく、高齢でのウィーン・フィル初登壇となった。また同年6月には、ライプツィヒ市からバッハメダル賞を[1]、2014年にはスウェーデン王立科学アカデミーからショック賞音楽芸術部門を授与されている。
【125】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 12時37分)

ピエール・ブーレーズ(ブレーズ、ブゥレーズとも表記される。前の長音は後ろの長音の半分の長さであると本人は語っている Pierre Boulezの発音例)(Pierre Boulez, 1925年3月26日 - )は、フランスの作曲家および指揮者。



目次  [非表示] 
1 人物
2 作品について
3 指揮活動
4 主要作品
5 著作
6 脚注


人物

パリ国立高等音楽院でアンドレ・ヴォラブール(アルテュール・オネゲルの妻)とオリヴィエ・メシアンに対位法や作曲を師事するが中退し、ルネ・レイボヴィッツ(レボヴィツ、レボヴィス)にセリアリスムを学ぶ。作曲の弟子にはバーゼルの音楽大学で教えたハインツ・ホリガーがいる。ダルムシュタット夏季現代音楽講習会でその初期から活躍し注目される。シュトックハウゼンと共鳴するが、ノーノとは鋭く対立している。

初期にはヴェーベルンの極小セリー形式から出発。シェーンベルクの音楽に対しては次第に批判的となる[1]。また、後にはドビュッシーやストラヴィンスキーの再評価に務めた。詩人では最初にルネ・シャールを取り上げるが、後にはステファヌ・マラルメによる作品を書き、指揮活動としても徐々に前の時代の作曲家へと遡って評価する姿勢が見られる。

ジョン・ケージと往復書簡を交わすほかダルムシュタットなどで交流し、偶然性を導入する。ただしケージなどアメリカ作曲界は偶然性を不確定性(チャンス・オペレーション)として導入したのに対し、ブーレーズをはじめヨーロッパ作曲界は「管理された偶然性」とし、偶然性の結果によってどんなに音楽が異なる解釈をされようとも、全体としては作曲者の意図の範囲で統率されるべきとした。この考えに基づく作品としては「ピアノソナタ第3番」、『プリ・スロン・プリ - マラルメの肖像』などが挙げられる。
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