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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 07時39分)

ルドルフ・ケンペ (Rudolf Kempe,1910年6月14日 - 1976年5月12日)はドイツ人の指揮者。



目次  [非表示] 
1 生涯
2 指揮の特徴と評価の変遷
3 客演指揮者として
4 ケンペの代表的な録音
5 外部リンク


生涯[編集]

宿屋の息子としてドレスデン近郊ニーダーポイリッツで生まれた。ドレスデン音大でオーボエを学び卒業。
1929年、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のオーボエ奏者となる。当時、同楽団はブルーノ・ワルターが指揮者、シャルル・ミュンシュがコンサートマスター、フランツ・コンヴィチュニーが首席ヴィオラ奏者だった。
1935年、ケムニッツとヴァイマルの歌劇場指揮者。
1950年、ドレスデン国立歌劇場の音楽監督。
1952-1954年、ショルティの後任としてバイエルン国立歌劇場の音楽監督。
1954年、渡米してニューヨーク・メトロポリタン歌劇場の指揮者。
1956年、病気のため一時活動を中断。
1960年、バイロイト音楽祭に初登場、1963年まで4年間『ニーベルングの指輪』を指揮。
1961年、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者。トーマス・ビーチャムの遺志により、残されたオーケストラを支えるも、楽団が「ロイヤル」の称号返上を余儀なくされ、運営困難となって1963年に退任。しかし、オーケストラは1966年に再び「ロイヤル」の称号を得てケンペを迎え入れた。ケンペは1975年にBBC交響楽団に招かれるまでこの地位にあった。
1965年-1972年、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団首席指揮者。
1967年、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者。任期中の1972年、ミュンヘン・オリンピックでのテロ事件による犠牲者を悼む集会が会期中にスタジアムで行なわれ、ケンペ指揮のミュンヘン・フィルが「英雄」第二楽章を演奏し、映像が世界に中継された。
1975年、BBC交響楽団の常任指揮者を兼任。
1976年、チューリッヒにて急逝(肝臓癌)。
【83】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 07時38分)

ジェームズ・ローレンス・レヴァイン(James Lawrence Levine, 1943年6月23日 - )はアメリカ合衆国の指揮者・ピアニスト。愛称はジミー。オハイオ州シンシナティのユダヤ系音楽家の家庭に生まれる。祖父はシナゴーグの楽長、父親ラリー・レヴァイン(芸名ラリー・リー)はダンス・バンドのリーダー兼ヴァイオリニスト、母親ヘレン・レヴァインは女優。



目次  [非表示] 
1 概要 1.1 デビュー
1.2 メトロポリタン歌劇場
1.3 ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
1.4 ボストン交響楽団
1.5 客演活動

2 健康問題
3 出典
4 外部リンク


概要[編集]

デビュー[編集]

幼児期からピアノを始め、10歳でシンシナティ交響楽団のユース・コンサートでデビュー。1956年にマールボロ音楽院でルドルフ・ゼルキンにピアノを師事。その翌年にはアスペン音楽院でヨゼフ・レヴィーンにも薫陶を受ける。1961年にジュリアード音楽院に入学、ジャン・モレルに指揮を学ぶ。ジュリアードを卒業後、ボルティモア交響楽団のプロジェクトに参加後、クリーヴランド管弦楽団でジョージ・セルの指揮見習いと助手を1970年まで務める。1970年にフィラデルフィア管弦楽団の客演指揮者として指揮者デビュー。同年オペラ指揮者としてもデビュー。アメリカのオケではシカゴ交響楽団と関係が深く、これまでラヴィニア音楽祭、シンシナティ五月音楽祭の音楽監督を務めた。

メトロポリタン歌劇場[編集]

メトロポリタン歌劇場と関係が非常に深い。ドナルド・キーンは、



「私のようにMETを70年以上みてきた人間にとって、レヴァインの登場は絶対に無視できない現象であった。…かつて名歌手たちが綺羅星のごとく舞台に立っていた時代でさえ、オーケストラのレベルはひどいものであった。レヴァインがMETの監督になってからというものの、オケの響きが格段に精妙になった。これは実に驚くべきことで、今やコンサートオーケストラとしても一流と言っても過言ではないだろう。」

と語っている[1]。

彼は1971年6月の『トスカ』の記念公演で初めてこの劇場の指揮台に立ち、大成功をおさめた。その後も同劇場に出演を重ねる事となり、首席指揮者に任命される。1975年より音楽監督、1986年からは(同劇場で史上初の)芸術監督に就任。世界の大歌劇場、コンサートオーケストラとしても類をみない長期政権が現在まで続いている。

メトロポリタン歌劇場管弦楽団およびそのメンバーで編成された室内オーケストラは、忙しいオペラ公演の合間を縫って定期公演にも力をいれている。また、国際的な演奏旅行も行なっており、2002年には還暦記念公演として、メトロポリタン歌劇場管弦楽団・合唱団とワールド・ツアーを行い、日本では東京文化会館で公演している。メトロポリタン歌劇場においてレヴァインが取り組んできたレパートリーは非常に広範かつ多彩な演目である。同歌劇場におけるデビュー25周年記念事業では、この機会のために特別に委嘱されたジョン・ハービソンのオペラ『華麗なるギャツビー』が上演された。
【82】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 07時37分)

パウル・クレツキ(Paul Kletzki, 1900年3月21日 - 1973年3月5日)はポーランドの指揮者・作曲家。

ウッジ出身。

略歴[編集]

地元のオーケストラに15歳で加わる。第一次世界大戦後にワルシャワ大学で哲学を学んでから、1921年にベルリンに留学した。クレツキの作品は1920年代にトスカニーニやフルトヴェングラーによって擁護された。1925年にフルトヴェングラーに招かれ、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮する。

ナチスが政権を掌握するとユダヤ系のためにヴァイマル共和国から離れざるを得なくなり、1933年にイタリアに行くが、ファシスト政権の反ユダヤ主義政策のためにソ連に逃れる。しかし今度は1936年にスターリンの大粛清を逃れて、スイスへの亡命を余儀なくされた。

クレツキの最も有名な作品《交響曲第3番「イン・メモリアム」》は、1939年10月に作曲され、ナチスの犠牲者のための墓碑として、哀調を帯びた作品にまとめられている。1942年以降は作曲を辞めた。ナチスによって精神を破壊され、作曲の意志を損なわれたと本人が認めているように、両親や姉妹を含む肉親を、ホロコーストによって殺害されていたのである。

第二次世界大戦後は指揮者として、とりわけベートーヴェンとマーラーの解釈で著名であった。1958年から1961年までダラス交響楽団の首席指揮者を務め、1966年から没年の1973年まで、スイス・ロマンド管弦楽団音楽監督を務めた。日本では日本フィルハーモニー交響楽団を指揮した。
【81】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 07時35分)

クレメンス・ハインリヒ・クラウス(Clemens Heinrich Krauss, 1893年3月31日 - 1954年5月16日)はウィーン出身の名指揮者。



目次  [非表示] 
1 生涯
2 演奏スタイル
3 レパートリー
4 レコード録音
5 ニューイヤーコンサート
6 ポスト


生涯[編集]

母親はウィーン宮廷歌劇場(後のウィーン国立歌劇場)のソロ・バレリーナで、当時まだ17歳にもならないクレメンティーネ・クラウスであり、私生児だったクラウスは外交官だった祖父の下で育った。クラウスの持つそのエレガントな美貌から、父親はハプスブルク家の人間ではないかという噂が絶えず、バルタッツィ侯爵(ルドルフ皇太子と心中したマリー・ヴェッツェラの叔父で当時稀代のプレイボーイ)、ヨハン・サルヴァトール大公、あるいは皇帝フランツ・ヨーゼフ1世などと言われている。

10歳でウィーン少年合唱団に入団し、その後ウィーン音楽院で作曲家リヒャルト・ホイベルガーに学ぶ。リガ、ニュルンベルク、シュテッティン、グラーツ、フランクフルトなど各地の歌劇場で研鑽を積んだ後、1929年にフランツ・シャルクの後任としてウィーン国立歌劇場の音楽監督に、また翌年ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの後任としてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任する(クラウスが辞任後ウィーン・フィルは常任指揮者制そのものを廃止し、70年を経た現在もなお復活の予定はない)。クラウスはまさにウィーンを掌中に収めたかに見えたが、折りしも1928年に始まった世界恐慌で演奏会やオペラへの客足が鈍り(ウィーン・フィルの演奏会のチケットなど楽員が内輪で捌かねばならないほどだった)、またクラウスは当時前衛的だった作品をプログラムに盛んに取り上げたため各方面から強い反発を受けた。

1934年に国立歌劇場を失脚してウィーンを離れた後、1935年にナチスと衝突して辞任したエーリッヒ・クライバーの後任として、ベルリン国立歌劇場の音楽監督に就任する。また1937年にはナチスによって辞任に追いやられたハンス・クナッパーツブッシュの後任としてバイエルン国立歌劇場の音楽監督に就任する。1941年からはやはりナチスによりザルツブルク音楽祭の総監督に任命されている(これが災いし、戦後は1952年まで音楽祭から締め出されてしまう)。この戦前、戦中のナチスとの協力関係が後に指弾されることになるが、クラウスはフルトヴェングラー同様に最後までナチス党員ではなく、ナチスの下で要職に就く一方、ナチスの手からユダヤ人音楽家を少なからず救ったとも言われている。戦後クラウスは、彼自身のナチスに対する日和見的な態度を強く恥じ、反省したという。
【80】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 07時34分)

ハンス・クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch, 1888年3月12日 - 1965年10月25日)は、ドイツの指揮者。ミュンヘンやウィーンで活躍し、第二次世界大戦後に再開されたバイロイト音楽祭を支えた指揮者でもあった。リヒャルト・ワーグナーやアントン・ブルックナーの演奏で有名だった。

193センチの長身でいかつい顔の指揮者で、ドイツや日本では「クナ」(Kna) の愛称で親しまれた。



目次  [非表示] 
1 生涯
2 人物
3 演奏解釈・スタイル・レパートリー 3.1 ワーグナー
3.2 ブルックナーのスコア選択
3.3 レパートリー

4 関連項目
5 参考文献
6 脚注
7 ポスト


生涯[編集]

 この節は言葉を濁した曖昧な記述になっています。
Wikipedia:言葉を濁さないを参考に修正してください。(2010年10月) 

Edit-find-replace.svg この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2010年3月) 

ラインラント地方の都市エルバーフェルト(現在はヴッパータール市の一部)にあるアルコール蒸留会社を経営していたグスタフの次男として生まれる。ギュンター・ヴァント、ホルスト・シュタインと同郷である。子供の頃から音楽家に憧れていたが、家族、特に母と兄(後に会社を継ぐ)の反対もあり、ボン大学に進み哲学を学んだ。後にミュンヘンでも哲学を学び、卒業論文は『パルジファルにおけるクンドリー」であったと言われる。音楽の勉強もケルン音楽大学で行っており、ブラームス演奏で有名なフリッツ・シュタインバッハに指揮法を学ぶ。

1909年から1912年にはバイロイト音楽祭に、ハンス・リヒターの助手として潜り込むことに成功。それ以後、故郷のエルバーフェルトやライプツィヒ、デッサウ、ミュールハイム・アン・デア・ルール(1910年に、ここでデビューしたと伝えられる)など各地の歌劇場やオーケストラで修行に入り、34歳の時の1922年には、ブルーノ・ワルターの後任としてミュンヘンのバイエルン州立歌劇場の音楽監督に就任する。翌1923年にはウィーンに初めて進出し、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とも1929年のザルツブルク音楽祭で初顔合わせを果たしている。しかし、客演先のオランダのハーグで、ヒトラーをからかうような発言をしたことがナチス高官の耳に入りヒトラーを激怒させ[要出典]、1935年にバイエルン州での演奏活動を禁止され、同時にバイエルン州立歌劇場からも追い出された(後任は当時ナチ寄りとされたクレメンス・クラウス)。追放後はウィーンとベルリン、ザルツブルク音楽祭などに定期的に来演した。1936年からはウィーン国立歌劇場を根城に、1944年6月30日の『神々の黄昏』上演(爆撃で破壊される前の最後の上演)まで同劇場で精力的な演奏活動を繰り広げた。『黄昏』上演後は、終戦まで息を潜めていた。
【79】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 07時32分)

ゲオルク・ティントナー(Georg Tintner, 1917年5月22日 - 1999年10月2日)は、オーストリア・ウィーン生まれの指揮者。最晩年にナクソス・レーベルに録音したブルックナーの交響曲全集録音で知られている。



目次  [非表示] 
1 経歴
2 ブルックナー交響曲全集 2.1 ナクソスとの出会い
2.2 交響曲全集の特徴

3 晩年
4 作曲
5 参考文献


経歴[編集]

ゲオルク・ティントナーは6歳からピアノを習い始め、10歳だった1927年にウィーン少年合唱団で名指揮者フランツ・シャルクのオーディションに合格した。シャルクはブルックナーの弟子として高名であり、ティントナーはシャルクの指揮棒の下でブルックナーのミサ曲などを歌っている。1931年に合唱団を離れ、ウィーン国立音楽アカデミーでピアノと作曲を学ぶ。しかし彼はユダヤ人であったため、1938年にヒトラーの軍隊がオーストリアに進駐したことでウィーン・フォルクスオーパーの仕事を失い、国外脱出を余儀なくされる。それからは仕事を求めて世界各国に移転する生活が長期間続いた。1940年にニュージーランドのオークランドに到着し、それから14年後の1954年にオーストラリアへ移った。ニュージーランドで結婚した最初の妻はオーストラリアでの生活に馴染めず、1961年に離婚してしまう。やがて1967年に南アフリカでケープタウン市立管弦楽団の常任指揮者に就任するが、アパルトヘイトの現実に接して1年で辞任し、それからイギリスへ渡ってサドラーズ・ウェルズ・オペラ(現在のイングリッシュ・ナショナル・オペラ)の補助指揮者として短期間働いた。間もなくオーストラリアに戻り、パース市に新しく創設されたウェスト・オーストラリア・オペラを指揮する。そこで2番目の妻とも別れ、シドニー市でオーストラリア・オペラの上級常任指揮者を務めていた時期に、ターニャ夫人と出会う。1978年に3番目の妻となった彼女は、最後までゲオルク・ティントナーと連れ添う伴侶となった。
【78】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 07時31分)

オイゲン・ヨッフム(Eugen Jochum、1902年11月1日 - 1987年3月26日) は、ドイツの指揮者。バイエルン王国バーベンハウゼン(ドイツ語版)(現在はバイエルン州・シュヴァーベン行政管区)生まれ、ミュンヘン郊外トゥッツィングで死去。弟のゲオルク・ルートヴィヒ・ヨッフムも指揮者であり、娘ヴェロニカはピアニストになった。NHKで演奏が紹介される際にはオイゲン・ヨーフムと表記されていた。



目次  [非表示] 
1 年譜
2 レパートリー
3 業績
4 ポスト


年譜[編集]
1926年 ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してデビュー
1927-1929年 キール歌劇場音楽監督
1929-1930年 マンハイム国立歌劇場音楽総監督
1930-1932年 デュースブルク市音楽総監督
1932-1934年 ベルリン放送交響楽団首席指揮者
1934-1949年 ハンブルク国立歌劇場音楽総監督(ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団常任指揮者と兼任)
1949-1960年 バイエルン放送交響楽団首席指揮者
1961-1964年 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団首席指揮者(ベルナルト・ハイティンクと共同)
1968-1971年 バンベルク交響楽団芸術顧問
1971-1973年 バンベルク交響楽団首席指揮者
1977年 ロンドン交響楽団桂冠指揮者
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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 07時30分)

ベルナルト・ヨハン・ヘルマン・ハイティンク(Bernard Johan Herman Haitink, 1929年3月4日 - )はオランダの指揮者である。



目次  [非表示] 
1 略歴
2 音楽
3 脚注
4 関連項目


略歴[編集]

アムステルダム出身で同地の音楽学校に学ぶ。1954年から1955年までフェルディナント・ライトナーに指揮を師事するまでは、地元のオーケストラでヴァイオリンを弾いていた。1955年にオランダ放送フィルハーモニー管弦楽団の次席指揮者(1957年より首席指揮者)に就任。1961年から1988年までアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の、1967年から1979年までロンドン・フィルハーモニー管弦楽団のそれぞれ首席指揮者に就任。1978年から1988年までグラインドボーン音楽祭の、1987年から2002年までロイヤル・オペラ・ハウスの音楽監督を務める。1991年にエラスムス賞を受賞。1995年からボストン交響楽団の首席客演指揮者となり、2004年に名誉指揮者となっている。

2002年にドレスデン国立管弦楽団の首席指揮者に就任したが、これは音楽監督就任を要請されたものを辞退した結果であり、同時に次期音楽監督の選任への協力を託された。しかし2004年、楽団とザクセン州は、彼に相談なしにファビオ・ルイージを2007年からの次期音楽監督(ドレスデン国立歌劇場の同ポストと兼務)に指名。ハイティンクはこの事に対し、「オペラはともかく、オーケストラレパートリーの経験が少な過ぎる」として反対したが、聞き容れられなかったため、同年5月に辞任を発表、11月のロンドンでの演奏会を最後に辞任した。[1] 以後は同楽団には客演していない。2004年5月には、同楽団と最初でそして恐らく最後の来日をした。2006年からシカゴ交響楽団の首席指揮者に就任。2009年2月にはシカゴ交響楽団とともに再来日を果たしている。

日本には、1962年のコンセルトヘボウ(オイゲン・ヨッフムが同行)との来日を皮切りに、1968年に再度コンセルトヘボウ(ヨッフムも同行)、1969年はロンドンフィル(ジョン・プリッチャードが同行)、1974年はコンセルトヘボウと初の単独来日、1977年はコンセルトヘボウと首席指揮者在任中最後の来日、1992年はロイヤルオペラ(テイトが同行)と初のオペラ公演、1997年はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、2003年はPMFとスーパーワールドオーケストラ(チョン・キョンファと共演)、2004年はドレスデン国立管弦楽団、2009年はシカゴ交響楽団、2013年はロンドン交響楽団(共演はマリア・ジョアン・ピレシュ)と来日。
【76】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 07時29分)

シャルル・エドゥアール・デュトワ(Charles Édouard Dutoit、1936年10月7日 - )は、スイス出身の指揮者。「音の魔術師」との異名をとる。



目次  [非表示] 
1 経歴
2 演奏
3 シャルル・デュトワと日本 3.1 NHK交響楽団音楽監督

4 受賞歴
5 脚注
6 外部リンク


経歴[編集]

ローザンヌ生まれ。青年期にエルネスト・アンセルメと交流を深めるかたわら、同地とジュネーヴの音楽院で指揮、ヴァイオリン、ヴィオラ、打楽器、作曲を学ぶ。指揮科を首席で卒業後、シエナのキジアーナ音楽院でアルチェオ・ガリエラに師事。その後、アメリカ合衆国のタングルウッド音楽祭でシャルル・ミュンシュに師事。また、ルツェルン音楽祭ではオーケストラの奏者としてヘルベルト・フォン・カラヤンと共演し影響を受けている。

学生時代からヴィオラ奏者として、欧州や南米のさまざまなオーケストラに在籍する一方で、1958年から1963年までローザンヌ大学合唱団の指揮者を務める。1959年1月、既に親交のあったマルタ・アルゲリッチをソリストに迎え、ローザンヌ放送所属のオーケストラを指揮して指揮者としてプロデビューする。以降、スイス・ロマンド管弦楽団やローザンヌ室内管弦楽団の客演指揮者を務める他、チューリヒ放送所属のオーケストラの指揮者となる。1964年にカラヤンの招きでウィーン国立歌劇場に登場し、以降2シーズン、同劇場のバレエを担当する。1967年にパウル・クレツキからベルン交響楽団を引き継ぎ1978年まで首席指揮者を務める一方、ベルンに在任中の1967年から1971年までチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団でルドルフ・ケンペを補佐している。1973年から1975年にメキシコ国立交響楽団を、1975年から1978年までイェーテボリ交響楽団の指揮者も兼務した。

1977年にモントリオール交響楽団の音楽監督に就任。短期間で同楽団をカナダ随一の世界的なオーケストラに育て上げ、「フランスのオーケストラよりもフランス的」と評された。以後2002年に辞任するまでの25年もの間、精力的に海外公演や録音活動を行い、世界中から数々の賞も受賞した。
【75】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 07時28分)

ジェフリー・テイト(Jeffrey Tate CBE, 1943年4月28日 ソールズベリー - )は、イギリスの指揮者。生まれつき二分脊椎症を患っており、1989年より英国ASBAH(二分脊椎症と水頭症の患者と家族のための慈善団体)の総裁に就任している。

略歴[編集]

1961年から1964年までケンブリッジ大学クライスト・カレッジにて医学を専攻し、ロンドンのセント・トーマス病院で研修を積むが、間もなく1970年に医療の道を断念して、ロンドン・オペラ・センターに学ぶ。その後はもっぱら現場で地道な経験を積み重ね、ゲオルグ・ショルティ、ピエール・ブーレーズ、ヘルベルト・フォン・カラヤン、ジェームズ・レヴァイン、ルドルフ・ケンペ、カルロス・クライバー、コリン・デイヴィスらの助手を務めつつ、それぞれから実践的な助言を受ける。

1979年にニューヨークのメトロポリタン歌劇場にデビューし、国際的な活躍を始める。1985年にイギリス室内管弦楽団の初代首席指揮者に任命され、同年よりロイヤル・オペラ・ハウスの首席指揮者も務めた。2005年にはナポリのサン・カルロ劇場の音楽監督に任命され、2008年からはハンブルク交響楽団の首席指揮者に就任した。

モーツァルトからシェーンベルクに至る18世紀から20世紀初頭のドイツ音楽を得意としており、協奏曲の伴奏や器楽曲、オペラのいずれにおいても、自然な表現と緻密な構成力により、数々の演奏を残してきた。録音も数多い。
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