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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 22時07分)

シャルル・ミュンシュ(Charles Munch, 1891年9月26日 - 1968年11月6日)は、当時ドイツ領であったアルザス・ストラスブールに生まれ、のちフランスに帰化した指揮者である。



目次  [非表示] 
1 生涯
2 人物
3 主要な録音
4 参考文献
5 外部リンク
6 脚注


生涯[編集]

ルーテル教会のオルガニストで合唱指揮者のエルンスト・ミュンヒの息子として生まれる。一族には音楽家が多く、おじのオイゲン・ミュンヒ、従弟のハンス・ミュンヒ、兄のフリッツ・ミュンヒは共に指揮者である。またシャルルの姉のエマはアルバート・シュヴァイツァーの弟のパウル・シュヴァイツァーと結婚した。

家はドイツ系のアルザス人であり、第一次世界大戦後アルザスがフランス領に戻った際、いったんはドイツ国籍を選択するが、のちナチスの台頭を嫌ってフランスに帰化し、その際にフランス風の名前に改めた[要出典]。出生名の綴りはCharles Münchで、1940年初頭からウムラウトを外してMunchと綴るようになったという通説もあるが、実際には1940年代を通じてウムラウトを付けたり付けなかったりで一定せず、1946年の署名でもウムラウトを付けていたことが指摘されている[1]。

ヴァイオリンを学び、1926年にはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の奏者となった。ゲヴァントハウス管弦楽団で1932年まで楽長のフルトヴェングラーやワルターの下でコンサートマスターを務める。ゲヴァントハウスではドイツ語でカール・ミュンヒ(Carl Münch)と呼ばれていた[1]。

1929年にパリで指揮者としてデビュー、後にネスレの創業者の孫娘と結婚する。1937年にパリ音楽院管弦楽団の指揮者となって、1946年まで在任した。1949年にボストン交響楽団の常任指揮者に就任、1962年までその座にあって、数々の演奏を行った。1960年にボストン交響楽団、1966年にフランス国立放送管弦楽団と来日、単身では1962年に日本フィルハーモニー交響楽団を指揮するために来日している。1970年にも来日する予定であったが、死去により叶わなかった。1967年にパリ管弦楽団が組織された際には初代の音楽監督に就任したが、翌年同団とともに演奏旅行中、アメリカのリッチモンドで急逝した。
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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 22時06分)

ピエール・モントゥー(フランス語: Pierre Monteux, 1875年4月4日 - 1964年7月1日)は、フランス・パリ生まれの指揮者。



目次  [非表示] 
1 略歴
2 その音楽
3 後進の育成
4 参考文献
5 外部リンク


略歴[編集]

靴のセールスマンのギュスターヴ・エリ・モントゥーとクレマンス・レベッカ(旧姓ブリザック)の息子、6人きょうだいの3男としてパリに生まれる。モントゥー家は南フランスに定住したセファルディムの出で、祖先には少なくとも1名のラビがいたが、モントゥーの両親は宗教的ではなかった。ピエールの兄弟には俳優のアンリ・モントゥー、軽音楽の指揮者のポール・モントゥー=ブリザックがいる。父は音楽に興味がなかったが、母はマルセイユのコンセルヴァトワールの卒業生で、ピアノの教師をしていた。

パリ音楽院でヴァイオリンを学び、在学中から指揮活動をしていたという。パリ音楽院卒業後はパリ・オペラ=コミック座(ここではドビュッシーの歌劇『ペレアスとメリザンド』の初演にも楽員として立ち会っている)やコロンヌ管弦楽団の楽員だったが、1906年にコロンヌ管を指揮してデビューを飾る。

1911年からはディアギレフのロシア・バレエ団で指揮を担当、ストラヴィンスキーの『春の祭典』、『ペトルーシュカ』、ラヴェルの『ダフニスとクロエ』、ドビュッシーの『遊戯』など、20世紀の名作バレエ音楽の初演を多く振った。ロシア・バレエ団の指揮者就任と同じ年、自らコンセール・ベルリオーズを設立している。

第一次世界大戦中はモントゥーも兵役に服し、除隊後の1916年、アメリカに渡り、翌年からはメトロポリタン歌劇場の指揮者に就任、主としてフランス系のレパートリーを多く指揮したが、リムスキー=コルサコフの『金鶏』のアメリカ初演も振っている。戦後はアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、ボストン交響楽団(1919年から1924年まで音楽監督)の指揮者を歴任、その後、1929年にはパリ交響楽団の創立時の常任指揮者を務め、パリ響常任時代にはプロコフィエフの第3交響曲の世界初演を手がけている。1935年からはサンフランシスコ交響楽団の常任となり、同楽団の黄金時代を築いた。1953年に、同交響楽団の常任を退任。フリーとなり、客演活動が中心となる。
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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 22時05分)

アンタル・ドラティ(Antal Doráti, ハンガリー語表記:Doráti Antal, 1906年4月9日 - 1988年11月13日)は、ハンガリー出身の指揮者・作曲家。アメリカや北欧での活躍が長く、またイギリス女王エリザベス2世からナイトに叙任されている。妻はピアニストとして著名なイルゼ・フォン・アルペンハイムである。



目次  [非表示] 
1 生涯
2 レコーディング
3 作曲家として
4 手腕
5 外部リンク


生涯[編集]

父アレクサンダーはブダペスト・フィルハーモニー管弦楽団のヴァイオリニスト、母マルギトはピアノの教師という家庭環境でブダペストに生まれた。

フランツ・リスト音楽院でコダーイとヴェイネル・レオーに作曲を、バルトークにピアノを学ぶ。1924年にハンガリー国立歌劇場で指揮者としてデビューを果たす。その後、フリッツ・ブッシュのアシスタントとしてドレスデンに行き、次に現在のドイツ連邦共和国ヘッセン州ダルムシュタット=ディーブルク郡ミュンスターのオペラ・ハウスの指揮者として契約し、1933年まで滞在した。

ドラティのアメリカでのオーケストラ指揮者としてのデビューは1937年、ワシントン・ナショナル交響楽団との共演であった。1947年にアメリカ合衆国に帰化した。1949年にミネアポリス交響楽団(現ミネソタ管弦楽団)を指揮して、バルトークのヴィオラ協奏曲(ティボール・シェルイによる補筆完成版)の世界初演を行なった。1950年代以降、マーキュリー・レコードにたくさんの録音を残し、代表的な録音としては序曲『1812年』をはじめとする高音質録音を数多く残した。また、ハンガリー動乱後の亡命者を中心に西ドイツで結成されたフィルハーモニア・フンガリカの音楽監督を長く務め、ハイドンの交響曲全集、コダーイの管弦楽曲集などを録音している。1975年に自叙伝(Notes of Seven Decades)を上梓した。1983年にイギリス女王エリザベス2世よりナイトの称号を授与される。1988年に、癌のためスイスのゲルツェンゼーの自宅にて他界。

なお、1963年にはピエール・モントゥー、ゲオルク・ショルティと共にロンドン交響楽団の3人の指揮者の一人として初来日、1982年には読売日本交響楽団に客演した。
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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 22時04分)

ジョン・バルビローリ(Sir John Barbirolli, 1899年12月2日 - 1970年7月29日)はイギリスの指揮者。「サー・ジョン」(Sir John)の愛称で知られる。本名はジョヴァンニ・バッティスタ・バルビロッリ(Giovanni Battista Barbirolli)。



目次  [非表示] 
1 略歴
2 録音
3 初演
4 脚注


略歴[編集]

イタリア人の父とフランス人の母の間にロンドンで生まれる。1916年、ヘンリー・ウッド率いるクイーンズ・ホール管弦楽団に入団、最年少のチェリストとして音楽活動を始める。1921年にはエルガーの『チェロ協奏曲』を演奏し、弦楽四重奏などの活動も行った。1925年、室内管弦楽団を組織して指揮者に転向、1936年ニューヨーク・フィルハーモニックの首席指揮者(1936年 - 1943年)に30代の若さで抜擢される。1943年イギリスのハレ管弦楽団の音楽監督(1943年 - 1958年)となり低迷していたオーケストラを鍛え上げて名声を博する。また、ヒューストン交響楽団の常任指揮者(1961年-1967年)を歴任した。エドワード・エルガー、レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ、フレデリック・ディーリアスなどのイギリス音楽、ヨハネス・ブラームス、グスタフ・マーラー、ジャン・シベリウスなどの後期ロマン派を得意とした。

1970年、フィルハーモニア管弦楽団との初来日を目前にして心臓発作により死去。日本公演はサー・ジョン・プリッチャードの指揮で行なわれた。
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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 22時03分)

第2代準男爵、サー・トーマス・ビーチャム(Sir Thomas Beecham, 2nd Baronet, CH, 1879年4月27日:セント・ヘレンズ(ランカシャー州) - 1961年3月8日:ロンドン)は、イギリスの指揮者。



目次  [非表示] 
1 生涯
2 レパートリー 2.1 主要レパートリーとレコーディング
2.2 3大退屈男

3 人物
4 日本における評価
5 参考文献
6 脚注


生涯[編集]

ビーチャム製薬(現:グラクソ・スミスクライン)の御曹司として裕福な家庭に生まる。ピアノを学んだり家に来た音楽家から各種楽器や作曲を学び、また父に連れられて国内外のコンサートやオペラ上演を鑑賞したりもしたが、結局学校での音楽の専門的教育は受けなかった(後年、モーリッツ・モシュコフスキらから学びなおしている)。オックスフォード大学に短期間在籍(中退)後、アマチュア・オーケストラの指揮者などを経て、1899年にハンス・リヒターの代役でハレ管弦楽団を指揮し、プロの指揮者としてデビューを飾った。一説には適当な代役がいなかったため、楽員が冗談半分で推薦したところ、本当に指揮台に上がったということである[要出典]。

突然のプロ・デビューののち、ビーチャムは莫大な財産を惜しげも無く投じ、まずは巡業オペラ団を結成し、これは数年続いた。次にいくつかの自前のオーケストラを創設。また、この頃にディーリアスと知り合う。1910年からはロイヤル・オペラ・ハウスを自腹で借り切って、自分の思うとおりのオペラ上演を開始した。半分以上はロンドン初演で当たり外れも大きく、決して充実した実入りにはならなかったものの、足らずと損失補填分は父に借財してどうにか凌いだ。1915年にはイギリス・オペラ・カンパニーを創設、しばらくはオペラ指揮者として活動したが、1932年にロンドン・フィルハーモニー管弦楽団を創設。また同年にロイヤル・オペラ・ハウスの音楽監督に就任し、再び自分の望みどおりのオペラ上演に専念できることとなった。この頃から国外での指揮活動も始め、ニューヨーク・フィルハーモニックやザルツブルク音楽祭(1931年)の指揮台に立った。
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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 22時02分)

エサ=ペッカ・サロネン(Esa-Pekka Salonen, 1958年6月30日 - )は、フィンランドの作曲家・指揮者。2008年から、フィルハーモニア管弦楽団の首席指揮者・芸術顧問を務める。またロサンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団の名誉指揮者である。



目次  [非表示] 
1 略歴
2 来日
3 出演 3.1 CM

4 外部リンク


略歴[編集]

ヘルシンキ・シベリウス音楽院でホルン演奏と作曲を学ぶ。同級生の作曲家マグヌス・リンドベルイやサーリアホと実験音楽合奏団「トイミー」(Toimii、フィンランド語で「それは作用する」の意)を結成。その後、フランコ・ドナトーニとニコロ・カスティリオーニのもとで作曲の研鑽を積む。当初は作曲活動に専念したが、1983年に急遽ロンドンでマイケル・ティルソン・トーマスの代役としてフィルハーモニア管弦楽団のマーラー作曲交響曲第3番の公演を引き受けることとなり、指揮者としての経歴が開始された。その後も1985年から1994年までフィルハーモニア管弦楽団の首席客演指揮者を務めてきた。

1985年からスウェーデン放送交響楽団の首席指揮者に、また1984年にアメリカ合衆国デビューを果たして以来、1991年からロサンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任(首席指揮者と兼任)し、現代音楽の演奏と録音に献身してきた。ヴィトルド・ルトスワフスキの交響曲第3番の世界初録音は、1985年度グラモフォン賞(英語版)現代音楽部門最優秀録音に選ばれた。

サロネンの作品には、フランツ・カフカの『判決』から題名をとったサクソフォーン協奏曲『…一瞥して何も気付かず…』(...auf den ersten Blick und ohne zu wissen..., 1980年)や、スタニスワフ・レムのテクストによるソプラノのためのFloof(1982年)、管弦楽曲『ロサンジェルス変奏曲』(L.A. Variations, 1996年)がある。作曲活動に没頭できるように2000年に1年間の休息をとり、その間にホルン独奏曲『演奏会用練習曲』(Concert Étude )や、アンシ・カルトゥネンとロンドン・シンフォニエッタのためのチェロ作品や管弦楽曲を作曲した。

サロネンは現代音楽だけでなく、シベリウスやニールセン、ラーションなどの20世紀前半から中頃に活躍した北欧の作曲家の紹介にも取り組んでいる。
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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 22時01分)

オッコ・カム(Okko Kamu, 1946年5月7日 - )は、フィンランド、ヘルシンキ生まれの指揮者、ヴァイオリニスト、芸術監督。

1965年にヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団の第2ヴァイオリン首席奏者として入団。続いて1966年にフィンランド国立歌劇場のコンサートマスターとなる。

指揮はまったくの独学であったが、1969年の第1回カラヤン国際指揮者コンクールで優勝して指揮者としての道を開いた。カラヤンのアシスタントを務めた後、フィンランド国立歌劇場やストックホルム王立歌劇場の指揮者を務めた。1970年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団に客演。1971年から1977年までフィンランド放送交響楽団、1981年から1986年までオスロ・フィルハーモニー管弦楽団、1981年から1988年までヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団、1983年から1986年までオランダ放送交響楽団、1996年から2000年までフィンランド国立歌劇場の音楽監督や首席指揮者を務めた。

現在までの30年間にたびたび来日し、日本フィルハーモニー交響楽団、読売日本交響楽団、東京フィルハーモニー交響楽団、札幌交響楽団などを指揮している。

1982年にヘルシンキ・フィルと来日してFM東京で放送(TDKオリジナル・コンサート)された演奏は、2008年3月にCDとしてTDKコアより発売された。

2011年秋よりラハティ交響楽団の芸術監督兼首席指揮者に就任することが発表された(2009年4月28日)。
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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 22時00分)

ルイ・フレモー(Louis Frémaux, 1921年8月13日 エール=シュ=ラ=リス - )はフランスの指揮者。レーニエ3世の依頼でモンテカルロ歌劇場管弦楽団(モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団)の首席指揮者を務めた後、バーミンガム市交響楽団の音楽監督に就任。同交響楽団の名声が高まるのを見届けた後、サイモン・ラトルに役目を引き継がせた。その後はシドニー交響楽団の首席指揮者に転任した。
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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 21時59分)

サー・アラン・チャールズ・マクローリン・マッケラス(Sir Alan Charles Maclaurin Mackerras 1925年11月17日 - 2010年7月14日)はオーストラリアの指揮者。幅広いレパートリーを持つが、特にヤナーチェクのオペラ、管弦楽曲で優れた録音を行っている。1979年にナイトの称号を得ている。

来歴[編集]

1925年11月17日、オーストラリア人の両親のもとにニューヨーク州スケネクタディで生まれた。「オーストラリア音楽の父」と呼ばれるユダヤ系作曲家アイザック・ネイサンの子孫にあたる。2歳の時に両親とともにオーストラリアのシドニーへ移った。ニュー・サウスウェールズ音楽院でオーボエを学び、1943年からシドニー交響楽団の首席オーボエ奏者を務めるが、指揮に興味を持ち、1946年にイギリスに渡り、翌1947年から1年間プラハに留学してヴァーツラフ・ターリヒに指揮を学んだ。

1948年にイギリスに戻り、サドラーズ・ウェルズ・オペラでヨハン・シュトラウス2世の「こうもり」を指揮し、指揮者としてデビューしている。1953年まで7年間、このオペラを指揮した。この間の1951年4月10日にヤナーチェクの「カーチャ・カバノヴァー」のイギリス初演を行い注目を集めた。これは同時にヤナーチェクのオペラのイギリス初演でもあった。1954年から1956年にはBBCコンサート管弦楽団の首席指揮者を務めている。1963年に、ショスタコーヴィチの「カテリーナ・イズマイロヴァ」でコヴェント・ガーデン王立歌劇場にデビューを果たしている。

1966年から1970年、ハンブルク国立歌劇場の第1指揮者、1970年から1977年にサドラーズ・ウェルズ・オペラ(1974年以降はイングリッシュ・ナショナル・オペラと改名)の音楽監督を歴任した。1978年にヤナーチェク賞、1979年にナイトの称号を受けている。1979年からBBC交響楽団の首席客演指揮者、1981年からはシドニー交響楽団の首席指揮者にもなっている。1986年から1992年までウェールズ・ナショナル・オペラの音楽監督を務める。1992年以後はスコティッシュ室内管弦楽団の、1993年からはロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団およびサンフランシスコ・オペラの首席客演指揮者も務めている。この間、1996年から1997年のシーズンにはチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の首席客演指揮者を務めた。イギリスのフィルハーモニア管弦楽団の首席客演指揮者でもあった。彼は、ヨーク大学やブルノのマサリク大学をはじめとする多くの大学から名誉博士号を授与されている。

マッケラスのレパートリーはバッハからエリオット・カーターまでをカバーする大変幅広いものであるが、彼の名を一躍有名にしたのが1976年から始まるヤナーチェクのオペラ録音である。それまでにも彼は1951年に「カーチャ・カバノヴァー」、1964年「マクロプロス事件」、1965年「死者の家から」のイギリス初演をそれぞれ行っており、ヤナーチェクのエキスパートであった。
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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 21時59分)

フェレンツ・フリッチャイ(Ferenc Fricsay, 1914年8月9日 - 1963年2月20日)は、ドイツを中心にヨーロッパやアメリカで活躍したハンガリー出身の指揮者。

生涯[編集]

1914年、ブダペストに生まれる。幼少の頃からハンガリーで著名な指揮者であった父リヒャルトから音楽教育を受け、6歳でブダペスト音楽院に入学し、ピアノを学び始め、続いてヴァイオリン、クラリネット、トロンボーン、打楽器なども習得する。コダーイ、バルトークらに指揮と作曲を学ぶ。卒業時に自作の『「シラノ・ド・ベルジュラク」序曲』を指揮。卒業と同時にセゲドの軍楽隊の指揮者に就任。その後、セゲド・フィルハーモニーやブダペスト国立歌劇場、ハンガリー国立交響楽団(現ハンガリー国立フィルハーモニー管弦楽団)の音楽監督を歴任する。

1946年12月にはウィーン国立歌劇場の客演指揮者として招かれ、ビゼーの『カルメン』などを指揮した。

1947年、オットー・クレンペラーの代役としてザルツブルク音楽祭でアイネム作曲の歌劇『ダントンの死』を世界初演し、脚光を浴びる。

1948年11月、ベルリンにデビューする。ベルリン市立歌劇場(現ベルリン・ドイツ・オペラ)でヴェルディの『ドン・カルロ』を上演、当時音楽学生だったバリトンのフィッシャー=ディースカウを見出す。12月にはベルリンのRIAS交響楽団(後のベルリン放送交響楽団、現ベルリン・ドイツ交響楽団)、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に客演(これはベルリン封鎖のために身動きが取れなくなったオイゲン・ヨッフムの代理としての仕事であった)。

1949年からはベルリン市立歌劇場の音楽監督(1952年まで)、RIAS交響楽団の首席指揮者(1954年10月に辞任)に就任する。

1953年、ボストン交響楽団を指揮してアメリカ・デビューを果たす。

1954年10月、アメリカのヒューストン交響楽団の常任指揮者に就任するも、楽員の入れ替えなど運営方針をめぐり対立、翌年1月に辞任する。

1956年、バイエルン国立歌劇場の音楽監督に就任(1958年まで)。

1958年秋ごろより、白血病の症状が現れ、長期の休養を余儀なくされるも、1959年夏ごろに指揮活動を再開、ベルリン放送交響楽団(RIAS交響楽団から1956年に名称変更)の首席指揮者に復帰する。

1960年春、ベルリン市立歌劇場から再編されるベルリン・ドイツ・オペラの初代音楽総監督就任の契約を交わすが、健康状態を理由に数週間後に辞退する。

1961年のザルツブルク音楽祭で、モーツァルトの『イドメネオ』を指揮、その演奏の評判によりウィーン・フィルハーモニー管弦楽団による追加コンサートが開催された。

1961年9月、ベルリン・ドイツ・オペラの&#26478;落とし公演でモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』を指揮し、その後、コダーイの『ハーリ・ヤーノシュ』などを録音した。12月にはロンドン・フィルハーモニー管弦楽団に客演し、ベートーヴェンの交響曲第7番ほかを指揮した。これが生涯最後の指揮となった。
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