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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 21時58分)

クルト・ザンデルリング(Kurt Sanderling, 1912年9月19日 - 2011年9月18日)は、ドイツの指揮者である。息子のトーマス、シュテファンはともに指揮者、ミヒャエルはチェリストである。



目次  [非表示] 
1 略歴
2 音楽
3 表記について
4 脚注
5 参考文献


略歴[編集]

東プロイセンのアリス(現在のポーランド・ヴァルミア=マズールィ県オジシュ(英語版))に生まれた。幼い頃から音楽に興味を示し、10歳でケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)のギムナジウムに通い、音楽を学び始めた。

1931年にベルリン市立歌劇場のコレペティートルとして音楽家としてのキャリアをスタートさせた。しかしナチスが勢力を拡大すると、母親がユダヤ人であった彼はドイツ国籍を剥奪され、1935年におじが在住していたソビエト連邦に亡命した。同国ではモスクワ放送交響楽団でジョルジュ・セバスティアンのアシスタントとして研鑚を積んだ。

1937年にモスクワでモーツァルトのオペラ『後宮からの誘拐』を指揮してデビューした。1939年にはハリコフ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任した。1941年にレニングラート・フィルハーモニー交響楽団の第一指揮者に就任し、エフゲニー・ムラヴィンスキーの下でさらに研鑚を積んだ。このソ連滞在中にドミートリイ・ショスタコーヴィチと知り合い、親交を結んだ。1958年のレニングラート・フィルの初訪日公演では指揮者の一人として日本を訪れた。

その後、1960年に東ドイツ政府に請われて帰国し、ベルリン交響楽団の芸術監督、首席指揮者に就任、短期間のうちにこの歴史の浅いオーケストラを同国屈指のレベルにまで鍛え上げた。1964年から1967年まではシュターツカペレ・ドレスデンの首席指揮者も兼務した。

1965年にザルツブルク音楽祭にデビューし、西側でも広くその名を知られるようになった。1972年には健康の衰えの見られたオットー・クレンペラーを補佐する要請を受け、フィルハーモニア管弦楽団の首席客演指揮者に就任した。後に同楽団からは名誉指揮者に任命された。

1973年のシュターツカペレ・ドレスデンの来日公演では、すでに首席の座を離れていたにもかかわらず、メインの指揮者として帯同した。その後もたびたび来日し、1976年、1978年、1980年、1990年には読売日本交響楽団を客演指揮し、同楽団から名誉指揮者に任じられた。

1977年にはベルリン響のポストを退いたが、同楽団とは以後も終身客演指揮者、名誉指揮者として緊密な関係を保った。その後はフリーの立場で精力的な活動を続けた。

2002年に高齢を理由に指揮活動からの引退を表明、5月19日の引退演奏会でベルリン響を指揮してブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」、モーツァルトのピアノ協奏曲第24番(共演は内田光子)、シューマンの交響曲第4番を演奏し、自らの指揮活動に幕を降ろした。

2011年9月18日、ベルリンで死去した。98歳没。死因は老衰とみられる[1]。
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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 21時57分)

フランツ・コンヴィチュニー(Franz Konwitschny, *1901年8月14日、フルネク(英語版、ドイツ語版、チェコ語版) - †1962年7月28日 ベオグラード)は、オーストリア=ハンガリー帝国支配下時代のモラヴィア北部のフルネクに生まれ、ドイツ(ザクセン、バーデン)、冷戦開始後は東ドイツを中心に東側諸国で活動した指揮者。著名なオペラ演出家ペーター・コンヴィチュニー(ドイツ語版)は息子である。

略歴[編集]

音楽家の一家に生まれる。チェコスロバキア共和国時代の1920年から1923年までブルノの楽友協会音楽院でヴァイオリンのレッスンを受け、1923年から1925年までライプツィヒ音楽院に在学した。この時代、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー時代のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団でヴィオラ奏者として活動を開始した。

フルトヴェングラーの他にもブルーノ・ワルターやオットー・クレンペラーなどがゲヴァントハウス管弦楽団の客演指揮者を行っていたためか、コンヴィチュニーはいつしか自らも指揮者になることを決意する。1927年にシュトゥットガルト歌劇場に加わり、練習指揮者を始める。3年後には首席指揮者となる。その後、ヴロツワフやフランクフルトなどの各地の歌劇場を歴任する。

戦後、1949年から没年まで、ゲヴァントハウス管弦楽団に戻って首席指揮者を務めた。1953年から1955年までシュターツカペレ・ドレスデンの首席指揮者も兼務し、1955年以降はベルリン国立歌劇場の首席指揮者も務めた。

1961年4月にゲヴァントハウス管弦楽団が初来日した時の指揮者でもある。大阪市のフェスティバルホール(大阪国際フェスティバルに参加)、東京都の日比谷公会堂のそれぞれでベートーヴェン交響曲全曲演奏(チクルス)そのほかの演奏を行っている。二大都市ばかりでなく福岡県八幡市(現北九州市八幡東区)の八幡市民会館、愛知県名古屋市の名古屋市公会堂、福島県郡山市の郡山市民会館でベートーヴェンの交響曲第5番、第6番などの演奏を行っている。

1962年7月28日に演奏旅行先であるユーゴスラヴィアのベオグラードでベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』のリハーサル中に心臓発作により死去した。

コンヴィチュニーは、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の楽長(カペルマイスター)として長期にわたり終生、楽団とともに活動を行った。戦争によって深い傷を負った同オーケストラの復興に、コンヴィチュニーは相当な努力を行った。10年以上にもわたって楽団と苦楽を共にしたためか、その演奏は明晰さを湛えた緻密なものであった。
【62】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 20時16分)

ギュンター・ヴァント (Günter Wand, 1912年1月7日 - 2002年2月14日)はドイツ・ラインラント地方のエルバーフェルト(現在、エルバーフェルトはバルメンと合併してヴッパータールと改称し、その一部となっている)に生まれたドイツ人指揮者。ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、ブルックナーといったドイツ音楽を得意とする一方、ストラヴィンスキーやメシアンのような現代音楽作品も積極的に演奏した。






目次  [非表示] 
1 生涯
2 日本とのかかわり
3 ヴァントのブルックナー演奏
4 彼のテンポについて
5 参考文献


生涯[編集]

ギュンター・ヴァントはミュンヘン音楽院とケルン音楽大学に学んだ。後年における彼の演奏活動を考える上で興味深いのは、当時ミュンヘン音楽院の院長を務めていたジークムント・フォン・ハウゼッガーに会い、強い印象を受けていることである。ハウゼッガーはブルックナーの交響曲を原典版で演奏した初めての指揮者であり、一つの演奏会の中でレーヴェによる改訂版と原典版の両方を指揮するという試み(演奏されたのはブルックナーの交響曲第9番)も行ったことがあるという。

1932年、ヴァントはヴッパータール歌劇場のコレペティトール(オペラなどの独唱者にピアノで下稽古をつける役職)となった。その後、1934年にはアレンシュタイン(現ポーランドのオルシュティン)歌劇場でカペルマイスターとなる。この環境は彼にとって満足のいくものではなかったが、ナチ党員ではなかった彼にはなかなか良いポストが見つからなかった。しかし、1938年のデトモルト州立歌劇場への転出が彼に転機をもたらす。この劇場は規模などの点では前の任地とさほど変わらなかったが、当地はラインラントであり、ケルンに近かった。ある日の晩、ヴァントが指揮する「魔笛」を聴いたケルンのエージェントが彼のもとを訪れ、ケルン歌劇場の第一カペルマイスターになるよう要請した。こうして彼は遂にメジャーな地位を獲得し、1974年のケルン市音楽総監督辞任に至るまでこの街を拠点として活動することになるのである。1946年、彼は同市の音楽総監督に就任し、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団、ケルン放送交響楽団等を指揮して多くの録音を残した。中でも、後者と録音したブルックナー交響曲第5番のレコードはドイツ・レコード賞を獲得し、この後続いて録音されたブルックナーの交響曲全集によって、彼はケルンの外にも広く知られるようになる。

ケルンを去った後は北ドイツ放送交響楽団の首席指揮者に招聘され(1982年)、同楽団にハンス・シュミット=イッセルシュテット以来の黄金期をもたらした。同時に、ここでの活動が彼の楽壇に於ける地位を決定的なものにしたのである。 彼は1991年に首席指揮者の地位を退いた後も同楽団への客演を続け、終生、同楽団とは親密な関係にあった。

彼は、1つの楽団に集中しない現代の指揮者の在り方に対して批判的であって客演は多くなかったが、最晩年にはベルリン・フィル、ミュンヘン・フィル、ベルリン・ドイツ交響楽団等に客演して見事な演奏を披露した。
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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 20時15分)

カール・リヒター(Karl Richter, 1926年10月15日 - 1981年2月15日)は、ドイツの指揮者、オルガン・チェンバロ奏者。



目次  [非表示] 
1 略歴
2 代表的な録音 2.1 アルヒーフ
2.2 英デッカ=ロンドン
2.3 テレフンケン(現テルデック)

3 リヒターへの言及
4 関連人物
5 書籍
6 外部リンク


略歴[編集]
1926年10月15日 - ドイツ・ザクセン州のプラウエンに牧師の子として生まれる。
1937年 - 11歳のときドレスデン聖十字架教会付属学校に入り同聖歌隊のメンバーになる。ここで最初の音楽教育を受け、バッハやシュッツの合唱曲に親しむ。
1946年 - 戦後ドレスデンからライプツィヒに移り、ライプツィヒ音楽大学に入学、聖トーマス教会のカントルであったカール・シュトラウベとギュンター・ラミンについて学ぶ。
1949年 - 教会音楽の国家試験に合格して聖トーマス教会のオルガニストに就任。
1950年 - ライプツィヒ・バッハ・コンクールのオルガン部門で、首席をアマデウス・ウェーバージンケと分け合う。
1951年 - 聖マルコ教会(ミュンヘン)のオルガニストに就任。これに伴いミュンヘンに移住。バッハ・コンクールの成績が契機となってミュンヘン国立音楽大学のオルガンとルター派教会音楽の講師に迎えられる。リヒターは当初東ドイツで活動し、伝統の後継者と目されていたが、社会主義統一党の支配に対して自由な活動の場を求め、次第に西ドイツのミュンヘンで活動するようになる。
1951年〜1953年の間 - 戦後設立されたハインリヒ・シュッツ合唱団の指揮を任され、主にJ.S.バッハ作曲のカンタータを演奏する目的で訓練、これをミュンヘン・バッハ合唱団と改称。
1953年 - ソリストを募集し、ミュンヘン・バッハ管弦楽団を設立。
1954年 - シュッツの Musikalische Exequien「音楽による葬送」を録音(レコード・デビュー)。
1954年10月 - スイスのジュネーブにあるヴィクトリア・ホールにて、英デッカ=ロンドンレーベルへ、J.S.バッハとリストのオルガン作品を録音(リヒター最初のステレオ録音)。
1956年 - ラミンの没後、トーマス教会からのカントル就任要請を断り、完全に西ドイツに活動の本拠を移す。ミュンヘン国立音楽大学のオルガン科教授に就任。ミュンヘン・バッハ管弦楽団、同合唱団を率いてアメリカへの演奏旅行。
1958年 - アルヒーフに、バッハの「マタイ受難曲」を録音。これは今日まで最もよく知られる彼の代表的作品となった。さらに同レーベルへのカンタータ録音を開始。ドイツ・グラモフォンがアルヒーフレーベルによる音楽史を構想した当初、バッハのカンタータはフリッツ・レーマンらによって担当されていたが、レーマンが1956年に演奏中に急死したため、数人の指揮者による分担を経て、結果的にリヒターがその後任となった。自らライフワークとしていたカンタータ録音は、20年以上をかけて約70曲を残している。
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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 20時14分)

カール・ベーム(Karl Böhm, 1894年8月28日 - 1981年8月14日)はオーストリアの指揮者。学位は法学博士(グラーツ大学)。称号はオーストリア音楽総監督、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団名誉指揮者。息子は俳優のカールハインツ・ベーム。孫のカタリナ・ベームも女優として活躍している。



目次  [非表示] 
1 生涯
2 欧州楽壇のマエストロ
3 ベームの演奏
4 ベーム・ファミリー 4.1 男性歌手
4.2 女性歌手

5 主な録音
6 ベームと日本 6.1 初来日
6.2 70年代
6.3 最後の来日

7 ポスト


生涯[編集]

グラーツ生まれ。弁護士である父親の意向により、グラーツ大学で法律を学び、法学博士の学位を得た。しかし同時に父親がグラーツ市立歌劇場の法律顧問をつとめていた関係で音楽界に仲間が多く、父親の友人であったフランツ・シャルクの紹介で、ブラームスの親友であったオイゼビウス・マンディチェフスキ(ウィーン楽友協会司書でブラームス全集の編者)の個人教授で音楽を学んだ。

1917年 - グラーツ市立歌劇場でデビュー。リヒャルト・ワーグナーの友人であったカール・ムックがベームの「ローエングリン」を聴いた際に感激し、当時バイエルン国立歌劇場音楽監督だったブルーノ・ワルターにベームを紹介した。グラーツ市立歌劇場では首席指揮者に予定されていたが、ワルターの招きにより、1921年 よりバイエルン国立歌劇場の第4指揮者に転任。ワルターはベームに多大なる影響を与え、特にモーツァルトの素晴らしさを教えた。そしてまたベームもモーツァルトの権威として知られることになる。ワルターとの交遊関係は戦中戦後を通じて続くこととなるが、1922年からはワルターに代わり、クナッパーツブッシュが音楽監督になった。しかしクナッパーツブッシュも、モーツァルトに関してはほとんどベームに任せている。

1927年 - ダルムシュタット市立歌劇場音楽監督に就任(1931年まで)。この時の総監督は、後年メトロポロタン歌劇場の名物総支配人となるルドルフ・ビングであり、彼らの友情は終生続くこととなる。ダルムシュタットでは現代オペラの上演に力を注いだが、特にアルバン・ベルクの「ヴォツェック」を指揮して絶賛され、ベルク本人との友情も芽生え、ベルク作品の世界的普及に尽力した。
【59】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 20時13分)

サー・コリン・レックス・デイヴィス(Sir Colin Rex Davis, CH, CBE, 1927年9月25日 - 2013年4月14日)は、英国の指揮者。



目次  [非表示] 
1 略歴
2 脚注
3 参考文献
4 外部リンク


略歴[編集]

イングランドのサリー州出身。生家が貧しく、ピアノを買うほどの金がなく、まず一番安い楽器のクラリネットから始める。王立音楽大学でさらにクラリネットを学ぶが、ピアノの演奏能力の欠如を理由に指揮法の履修は禁じられた。しかし同級生とカルマー管弦楽団(the Kalmar Orchestra)を結成し、しばしば指揮を執っていた。

1952年にロイヤル・フェスティバル・ホールに勤め、1950年代後半からBBCスコティッシュ交響楽団を指揮する。1959年に病身のオットー・クレンペラーの代理でモーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』を指揮して一躍名声を馳せる。翌年にはグラインドボーン音楽祭で、モーツァルトの『魔笛』を指揮してトーマス・ビーチャムの代役を果たした。

1960年代にサドラーズ・ウェルズ・オペラやロンドン交響楽団、BBC交響楽団を指揮する。1971年にゲオルク・ショルティの後任としてコヴェント・ガーデン王立歌劇場の首席指揮者に就任、1986年までそのポストを務める。マイケル・ティペットの擁護者として名を馳せ、『ノット・ガーデン』(The Knot Garden, 1970年)や《The Ice Break 》(1977年)、『時の仮面』(The Mask of Time, 1984年)を初演した。ボストン交響楽団の首席客演指揮者も務め、シベリウスの交響曲全集・管弦楽曲選集を録音した。1977年にはイギリス人指揮者として初めてバイロイト音楽祭に出演し、『タンホイザー』を指揮した。

1980年にナイトに叙される。その後は、バイエルン放送交響楽団首席指揮者、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団名誉指揮者などを歴任し、1995年に母国イギリスのロンドン交響楽団首席指揮者に就任した。得意とするレパートリーは、モーツァルト、ブリテンのオペラのほか、ベルリオーズの管弦楽曲やマーラー、シベリウスの交響曲などである。

2013年4月14日、病気のため死去した[1][2]。85歳没。

息子に指揮者のジョゼフ・ウォルフがいる。
【58】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 20時12分)

サー・ネヴィル・マリナー (Sir Neville Marriner、 1924年4月15日 - )は、イギリスの指揮者、ヴァイオリニスト。

人物・来歴等[編集]

イングランドのリンカン出身。クラリネット奏者アンドリュー・マリナーの父である。王立音楽大学に学んだ後、パリ音楽院に留学した。フィルハーモニア管弦楽団やロンドン交響楽団でヴァイオリニストを務め、サーストン・ダートとジャコビアン・アンサンブルを結成するが、その後メイン州ハンコックに留学してピエール・モントゥーの音楽学校にて指揮法を学ぶ。1959年にアカデミー室内管弦楽団 (Academy of St. Martin-in-the-Fields) を結成し、長年その指揮者を務めてきた。1969年から1979年までロサンジェルス室内管弦楽団を指揮し、1979年から1986年までミネソタ管弦楽団の、1983年から1989年までシュトゥットガルト放送交響楽団の音楽監督を務めた。1985年にはナイト号を授与された。1992年より、カダケス管弦楽団の首席客演指揮者の任に就いている。1972年、アカデミーと初来日している。

上記以外にも、NHK交響楽団の定期演奏会への客演(1979年、2007年、2010年、2014年)、ロンドン交響楽団、フィルハーモニア管弦楽団、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、シュターツカペレ・ドレスデン等との録音がある。

レパートリーは幅広く、バロック音楽から古典派音楽を経て、現在ではチャイコフスキーのほか、レスピーギやバルトークも指揮・録音している。映画「アマデウス」の音楽を担当し、そのサウンドトラックには、マリナー指揮のアカデミー室内管弦楽団による演奏が用いられている。

弦楽合奏曲に特に強い思い入れがあるようで、イギリスや北欧の弦楽作品は、バロックやモーツァルトと並んで、マリナーとアカデミーの主要なレパートリーの一つとなっている。
【57】

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カンパチ (2015年04月25日 20時10分)

ゲオルク・ショルティ(Sir Georg Solti、 1912年10月21日 - 1997年9月5日)は、ハンガリー出身で、ドイツ、のちイギリスの国籍で活躍した指揮者、ピアニストである。ゲオルグ・ショルティとも書かれる。ユダヤ系。ハンガリー語の発音に基づく表記はショルティ・ジェルジュ(Solti György [&#712;&#643;olti &#716;&#607;ør&#607;])。



目次  [非表示] 
1 生涯
2 演奏スタイル
3 レパートリー
4 平和への祈り
5 エピソードなど
6 代表的な録音
7 称号
8 参考文献
9 脚注
10 関連項目


生涯[編集]

ハンガリーのブダペスト生まれ。シュテルン家の次男として生まれ、生まれた時の姓名はシュテルン・ジェルジュ(Stern György [&#712;&#643;tern &#716;&#607;ør&#607;])。父親はシュテルン・モーリツ (Stern Móric [&#712;&#643;tern &#716;mo&#720;ri&#678;])、母親はローゼンバウム・テレーズ (Rosenbaum Teréz [&#712;ro&#720;zenb&#594;um &#716;t&#603;r&#603;&#720;z])。写真家のモホリ=ナジ・ラースローは再従兄弟にあたる。また作曲家のジョゼフ・コズマ(コズマ・ヨージェフ)も親戚である。父親はハンガリーで民族主義が高まるのを感じて、子供らの将来のためにユダヤ的なシュテルンという姓をハンガリー風のショルティに改姓した。
6歳でピアノを習い始める。その後1924年に、リスト音楽院でヴェイネル、バルトーク、コダーイ、ドホナーニらに指導を受け、ピアノ、作曲、指揮なども学んでいる。13歳の時、コンサートで聞いたエーリヒ・クライバー指揮のベートーヴェン・交響曲第5番の演奏に感動して指揮者を目指すこととなる。
1930年 - リスト音楽院を卒業するとブダペストの国立歌劇場でコレペティトール(歌手の練習のためのピアニスト)に採用され、チェレスタやチェンバロなどの楽器の演奏も手がけるなど、努力の日々を送りながらオペラを学ぶ。
1936年 - コレペティトールとしてザルツブルクを訪れた時、ザルツブルク音楽祭のリハーサルのためのピアニストに欠員が出たためショルティに声がかかったが、これがトスカニーニの目にとまり、同年と翌年のザルツブルク音楽祭のトスカニーニの助手を務めることとなる。1937年には「魔笛」の公演でグロッケンシュピールを担当した。
1938年3月11日−ブダペスト歌劇場の「フィガロの結婚」で指揮者デビュー。ぶっつけ本番であった(同日、ナチス・ドイツによるオーストリア併合)。この年、ヘトヴィヒ・エークスリ(ヘディ)と結婚。
1942年 - ジュネーブ国際コンクールのピアノ部門で優勝し(審査員にはヴィルヘルム・バックハウスやフランク・マルタンがいた)、その後ピアニストとしてデビューする。それまで仕事にありつけずにいたショルティだが、この成功によって音楽家として名声を博していくことになる。
年に音楽監督に就任( - 1971年)。
【56】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 20時07分)

ロリン・マゼール(Lorin Maazel, 1930年3月6日 - 2014年7月13日)はフランス・パリ近郊、ヌイイ=シュル=セーヌ(Neuilly-sur-Seine)生まれ、アメリカ出身の指揮者・ヴァイオリニスト・作曲家。ピッツバーグ大学卒業。



目次  [非表示] 
1 経歴 1.1 早年期
1.2 青年期、そしてデビューへ
1.3 挫折、そして復帰へ
1.4 ニューヨーク・フィル音楽監督時代とその後

2 日本との関わり
3 主な作品
4 脚注
5 外部リンク
6 参考文献


経歴[編集]

早年期[編集]

ユダヤ系ロシア人の父とハンガリーとロシアのハーフである母の家庭に生まれる。ユダヤ・ロシア・ハンガリーの血を引いている。生後ほどなくしてアメリカに一家で移住し、5歳の頃からヴァイオリンを7歳の頃から指揮の勉強を始めるが、天才振りを発揮したのは主に指揮の方面であった。8歳の時にニューヨーク・フィルハーモニックを指揮して指揮者デビューを飾り、以後9歳でレオポルド・ストコフスキーの招きでフィラデルフィア管弦楽団を指揮、11歳でアルトゥーロ・トスカニーニに認められNBC交響楽団の夏季のコンサートを指揮した。10代半ばまでには全米のほとんどのメジャー・オーケストラの指揮台に上がっている。

青年期、そしてデビューへ[編集]

ピッツバーグ大学在学中はピッツバーグ交響楽団の一員として活躍する一方、弦楽四重奏団を結成したりもした。1952年、フルブライト奨学金の試験に合格したマゼールはイタリアに渡り、バロック音楽を研究する日々を送る事になる。その翌年カターニアでヨーロッパデビューを飾り、1960年にはバイロイト音楽祭に史上最年少でデビュー、フェルディナント・ライトナーと交代で「ローエングリン」を指揮した。1963年にはザルツブルク音楽祭にデビュー、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団とのコンサートでは、ヴァイオリンを弾きながら指揮をする「弾き振り」で話題となった(モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番)。

1965年にはベルリン・ドイツ・オペラとベルリン放送交響楽団(旧西ベルリン、現在はベルリン・ドイツ交響楽団)の音楽監督(どちらも早世したフェレンツ・フリッチャイの後任)に就任。1972年にはジョージ・セル死去後空席となっていたクリーヴランド管弦楽団の音楽監督に就任した。1982年にはウィーン国立歌劇場の総監督に昇りつめ、また1980年からボスコフスキーの後を次いでニューイヤーコンサートの指揮者を務めるなど(1980年から1986年までの毎年。それ以後もたびたび出演して、生涯登場回数10回は、ボスコフスキー、クラウスに次ぐ史上第3位)順調な指揮者人生を極めつつあった。ニューイヤーコンサートは現在年ごとに指揮者を選任するスタイルとなっており、レギュラー指揮者は今のところマゼールが最後であるが、前任のボスコフスキー、クレメンス・クラウス、ヨゼフ・クリップスがいずれも生粋のウィーン生まれでウィンナワルツを得意としていたのに比べ、外国人でこうした曲種から縁遠いイメージがあったマゼールがこの座に迎えられたことは意外性をもって受け止められた。しかし、あえてこの人選に踏み切ったウィーンフィルからの強い信頼にこたえ、同コンサートをいっそう国際的に飛躍させるために貢献した。
【55】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月25日 16時41分)

ニキシュ・アルトゥール、アルトゥル・ニキシュ(Nikisch Artúr, Arthur Nikisch, 1855年10月12日 モション郡(英語版、ハンガリー語版)レーベーニ(英語版、ハンガリー語版)近郊レーベーニ・セントミクローシュ(Lébényi Szent-Miklós)(現在のジェール・モション・ショプロン県モションセントミクローシュ(英語版、ハンガリー語版)) - 1922年1月23日)は、現在のハンガリー出身で主にドイツで活躍した20世紀初期の大指揮者の一人。



目次  [非表示] 
1 略歴
2 逸話
3 録音
4 係累
5 参考文献
6 外部リンク


略歴[編集]

1855年、ハンガリー西部、レーベーニ近郊にハンガリー出身の父とモラヴィア出身の母のもと生まれる。ウィーン音楽アカデミーでヴァイオリンと作曲を学び、ウィーン宮廷歌劇場のヴァイオリン奏者として音楽活動をはじめる。1878年、指揮に転じ、ライプツィヒ歌劇場指揮者。1885年、12月30日、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を指揮してブルックナーの交響曲第7番の初演を行う。1895年ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団とベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任、亡くなるまで両楽団を指導する。リヒャルト・シュトラウスやマーラー等、同時代の作品の演奏も積極的に行った。また、チャイコフスキーの曲がドイツ・オーストリア系の作曲家の作品と同等の扱いで演奏されているのは、ニキシュの貢献によるものだと言われている。
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