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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 08時55分)

エドゥアルト・ファン・ベイヌム (Eduard van Beinum, 1901年9月3日 - 1959年4月13日) はオランダの指揮者。



目次  [非表示] 
1 生涯
2 演奏について
3 録音 3.1 デッカへの録音
3.2 フィリップスへの録音

4 その他


生涯[編集]

オランダ東部の町アルンヘムの音楽一家のもとで生まれ、幼少の頃から兄についてヴァイオリンとピアノの手ほどきを受け、16歳でアルンヘム管弦楽団のヴァイオリニストとして入団し、その傍ら指揮の勉強を始め、翌年にはアムステルダム音楽院に入学し、ピアノ、ヴィオラ、作曲を学ぶ。

1920年にはまずピアニストとしてデビューしたが、同時に各地のアマチュアの合唱団やオーケストラで指揮をとり始め、まもなく指揮者に転向した。1927年にプロの指揮者としてデビューし、同時期にハールレム交響楽団の音楽監督に就任。1929年の6月に、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団へのデビューが大成功を収め、1931年にピエール・モントゥーの推薦とウィレム・メンゲルベルクの招きで同楽団の次席指揮者となった後、1938年からはメンゲルベルクとともに首席指揮者として活躍した。

戦後の1945年、メンゲルベルクがナチスへの協力の廉でスイスに追放されると、ベイヌムはメンゲルベルクの後をついで、コンセルトヘボウ管弦楽団の音楽監督兼終身指揮者に就任した。またコンセルトヘボウ管弦楽団とのロンドン公演が大成功を収め、1949年から1951年にかけてロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任。1954年にはフィラデルフィア管弦楽団を指揮してアメリカへのデビューを果たして大成功を収めている。1956年から1958年にかけて、ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者として迎えられた。
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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 08時54分)

ハンス・シュミット=イッセルシュテット(Hans Schmidt-Isserstedt、1900年5月5日 ベルリン - 1973年5月28日)は、ドイツの指揮者。



目次  [非表示] 
1 来歴 1.1 生い立ち
1.2 指揮者として
1.3 北ドイツ放送交響楽団の創立者として
1.4 海外に於ける公演活動
1.5 死去

2 音楽
3 主な録音と映像 3.1 録音 3.1.1 戦前の商業録音
3.1.2 戦後の商業録音
3.1.3 主な放送録音

3.2 映像

4 私生活
5 日本との関わり
6 脚注
7 外部リンク
8 参考文献


来歴[編集]

生い立ち[編集]

ベルリン東部で200年続いていた旧家であるビール醸造所の息子として生まれる。”イッセルシュテット”の名は母の旧姓であり、1928年にベルリンに在る多くのシュミット家と差別化するために改名したもの。 7歳の頃、実家の営むカフェに訪れた楽団に強く影響を受けバイオリニストを目指す。 音楽に造詣の深かった両親はバイオリンを買い与え、9歳の時に家族でカール・ムックの指揮するワーグナーのローエングリンをベルリン王立歌劇場で観覧し、以降次第に音楽に魅せられていった。中でも、家族コンサートで演奏したモーツァルトのクラリネット協奏曲からは生涯における音楽的な影響を受けたと語っている。

また、指揮者となったきっかけには、アルトゥール・ニキシュの指揮する振舞とその音楽の創造性に感銘したことが決定的だと語っている。[1]

指揮者として[編集]

1918年にベルリンでアビトゥーアを取得、ベルリン・ミュンスター・ハイデルベルクに学ぶ。1922年3月には、ハインツ・ティーセン率いるベルリン大学楽団連盟のスェーデンツアー公演にコンサートマスターとして参加した。1923年からベルリン高等音楽学校において院長のフランツ・シュレーカーに作曲を師事、『イタリアがモーツァルト初期の歌劇作品の楽器構成に与えた影響』(原題:"Die Einflüsse der Italiener auf die Instrumentation der Mozartschen Jugendopern")の論文で博士号を取得する。 1923年にバルメン(現在のヴッパータール)の歌劇場でコレペティートルを務め、1928年には自作『ハッサンの勝利』(原題:Hassan gewinnt)を演奏するにいたった。その後ロストック・ダルムシュタットで研鑽を積み、1935年にハンブルク国立歌劇場の首席指揮者となった。1942年にはベルリン・ドイツ・オペラの歌劇監督に就任。 1944年8月には芸術家としての保護恩赦Gottbegnadeten-Listeを受け、戦線に向かうことは無かったが、ナチス党員にはならなかった。
【102】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 08時53分)

ペーター・マーク(Peter Maag, 1919年5月10日 - 2001年4月16日)はスイス出身の指揮者。

スイス東北部ザンクトガレン出身。モーツァルトとメンデルスゾーンのスペシャリストとして知られる。バーゼル大学とチューリッヒ大学で哲学と神学を修め、アルフレッド・コルトーにピアノを、また指揮をエルネスト・アンセルメとヴィルヘルム・フルトヴェングラーに師事。2001年イタリア北部ヴェローナ没、享年81。
1947年 スイス・ビールゾロトゥルン歌劇場音楽監督に就任。ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの推薦で、1952年にデュッセルドルフ市立歌劇場第1指揮者。
1955年 ボン市音楽監督就任。
1964年 ウィーン・フォルクスオーパー音楽監督就任。
1974年 トリノ・レージョ劇場音楽監督就任。
1983年 パドヴァ・ヴェネト管弦楽団首席指揮者就任。
1984年 ベルン交響楽団専任指揮者就任。

禅に傾倒し、1962年から2年間香港で禅僧として修行したという、指揮者としては異色の経歴の持ち主。
【101】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 08時53分)

ルドルフ・バウムガルトナー(Rudolf Baumgartner、1917年9月14日 - 2002年3月22日)は、スイスの指揮者、ヴァイオリニストである。[1][2]

1917年、チューリッヒで生まれた。初めはヴァイオリンを学び、チューリヒ音楽院、ウィーンでヴォルフガング・シュナイダーハンに、パリでカール・フレッシュに師事した。ソリストとして活動するとともに、室内楽の分野でもゲイヤー四重奏団などで活動していた。

1950年、ルツェルン音楽院の教授となり、1956年、シュナイダーハンとともにルツェルン音楽祭弦楽合奏団を組織して指揮者に就任した。1960年、ルツェルン音楽院院長に就任し、1968年から1980年までルツェルン音楽祭の音楽監督を務めた。

2002年3月、シエーナで没。
【100】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 08時52分)

アルヴィド・ヤンソンス(Arvid Jansons, 1914年10月24日 - 1984年11月21日)は、ラトヴィアの指揮者。

略歴[編集]

ロシア帝国領クールラントのリバウ(現在のラトヴィア共和国リエパーヤ)の生まれ。リガ音楽院に学び、1946年、全ソ指揮者コンクールに優勝、1952年よりエフゲニー・ムラヴィンスキー音楽監督のもとレニングラード・フィルハーモニー交響楽団の指揮者として、またレニングラード音楽院の教授として活躍した。しばしばレニングラード・フィルハーモニー交響楽団とともに、あるいは単身来日し、在京オーケストラを頻繁に指揮するなど日本におけるクラシック音楽の普及に尽力し、東京交響楽団から永久名誉指揮者の称号を贈られる。マンチェスターに没する。指揮者マリス・ヤンソンスは息子である。
【99】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 08時51分)

ブリテン男爵、エドワード・ベンジャミン・ブリテン(Edward Benjamin Britten, Baron Britten OM CH, 1913年11月22日 - 1976年12月4日 )は、イギリスの作曲家・指揮者・ピアニスト。姓はブリトン、ブリトゥンと表記されることがあるが、実際の発音はブリトゥンの表記が原音に一番近い。

代表作としては オペラ『ピーター・グライムズ』や『シンプル・シンフォニー』、『戦争レクイエム』、バロック期の作曲家ヘンリー・パーセルの劇音楽『アブデラザール』(Abdelazar) からの主題を引用した 『青少年のための管弦楽入門』 が知られている。



目次  [非表示] 
1 生涯 1.1 出生と幼少期
1.2 青年期と作曲家としての活動
1.3 中期の活動と戦後
1.4 晩年

2 人物 2.1 作風
2.2 演奏家としてのブリテン
2.3 日本との関係

3 主な作品 3.1 オペラ
3.2 バレエ
3.3 合唱曲
3.4 管弦楽曲
3.5 室内楽曲
3.6 器楽曲
3.7 ピアノ曲
3.8 歌曲
3.9 声楽曲
3.10 劇付随音楽
3.11 映画音楽
3.12 編曲

4 参考資料
5 外部リンク


生涯[編集]

出生と幼少期[編集]

1913年11月22日、イングランドのサフォーク州にある海港ローストフト(英語版)にて、歯科医の父ロバート・ビクター・ブリテン(Robert Victor Britten, 1878年 - 1934年)とアマチュアのソプラノ歌手の母イーディス・ローダ(Edith Rhoda, 1874年 - 1937年)との間に生まれる。

幼少期のブリテンは、2歳になる頃にピアノに対して興味を抱き、ピアノを7歳から習い始めている。また母の勧めでヴィオラも習っている。わずか5歳で歌曲、7歳でピアノ曲を作曲、そして9歳の時には最初の弦楽四重奏曲を完成させるなど、この時期から音楽の才能を示していた。彼が持っていた音楽的素質は母方から受け継いだものと言えるが、母は地元の合唱団の幹事も務めていたほどの音楽好きであったという。

1924年10月、ノーフォークとノーウィッチで開催されていた音楽祭において、当時10歳のブリテンはこの音楽祭で演奏されていたフランク・ブリッジの交響組曲『海』(1911年作)を聴いて感銘を受け、演奏後にブリッジ本人と初めて対面した。ブリッジは少年ブリテンの音楽的才能を認め、自ら本格的な指導を買って出たという。指導は数年後の1928年にロンドンにあるブリッジの自宅まで、時には休暇を利用しながら通い、彼の許で音楽の基礎となる理論や和声法・対位法を厳しく学んだ。この厳格な個人指導は本人にとって大きな影響を与えたといわれる。

後に1937年に作曲され、出世作となった『フランク・ブリッジの主題による変奏曲』で師に対する感謝の念を表している
【98】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 08時50分)

ルネ・レイボヴィッツ(René Leibowitz, 1913年2月17日 ワルシャワ - 1972年8月29日 パリ)はポーランド出身のユダヤ系作曲家・指揮者・音楽理論家。ウィーンに留学し、亡命先のフランスを拠点に、西欧全土に新ウィーン楽派の作曲技法を伝播する上で貢献した。解釈の正当性をめぐって議論は多いが、卓越した指揮者としても活躍、伝統的なレパートリーをステレオ録音で残した。

仏語読みに準じる姓の表記はレボヴィツないしはレボヴィス、独語読みではライボヴィッツ、英語読みではリーボウィツのようになる。イスラエルの化学者イェシャヤフ・レイボヴィツ Yeshayahu Leibowitz はいとこ。






目次  [非表示] 
1 略歴
2 作品 2.1 交響曲
2.2 管弦楽曲
2.3 協奏曲
2.4 舞台作品
2.5 室内楽曲
2.6 ピアノ曲
2.7 声楽曲
2.8 未分類



略歴

1930年代初頭にシェーンベルクとヴェーベルン、ラヴェルに作曲と管弦楽法を師事。1947年にパリで国際室内楽フェスティバルを開催し、新ウィーン楽派の作品のほとんどを上演する。これらの作曲家の評価を確立するにあたって、音楽家や教育者として影響力を発揮した。主要な門人にピエール・ブーレーズ、ジャック=ルイ・モノ、セルジュ・ニグ、ヴィンコ・グロボカール、ミキス・テオドラキス、アンドレ・カザノヴァ、アントワーヌ・デュアメル、ハンス・ウェルナー・ヘンツェ、ジャネ・マギール、ピエール・アンリ、キース・ハンブル、アラン・ペッテション、ハンス・ウルリヒ・エンゲルマン、指揮者ディエゴ・マッソン、打楽器奏者ジャン=ピエール・ドゥルー、ピアニストのクロード・エルフェがいる。

知的な人柄に惹かれて周囲に集まった文人や哲学者・芸術家が多く、ジョルジュ・バタイユ、トリスタン・ツァラ、レイモン・クノー、ミシェル・レリス、ジョルジュ・ランブール、ダニエル=アンリ・カーンヴェレール、アンドレ・マッソン、モーリス・メルロー=ポンティ、クロード・レヴィ=ストロース、テオドール・アドルノらと親しく、そのうち何人かはレイボヴィッツから作品を献呈され、また文学者の場合はそのテクストに曲付けされている。
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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 08時50分)

ユーディ・メニューイン(Yehudi Menuhin, 1916年4月22日ニューヨーク - 1999年3月12日ベルリン)はアメリカ合衆国出身のユダヤ系ヴァイオリン・ヴィオラ奏者、指揮者、音楽教師。年少の頃は演奏界における神童の象徴的な存在でもあった。

イギリスに帰化し、長年の多方面にわたる国際的な音楽活動に対してサーの勲位を授与され、さらに貴族の称号であるロードも授与された。爵位名は、メニューイン男爵(Baron Menuhin of Stoke d'Abernon。なお、音楽家でロードの称号を授与されたのは、ほかにベンジャミン・ブリテンや、アンドリュー・ロイド・ウェバーなどがいる)。

日本では慣習的に「ユーディ」と呼んでいるが、これはメニューインのレコードが最初に発売された頃に日本ビクター蓄音器が制定した呼び方で、『ウェブスターの人名辞典』、『リーダース英和辞典』など著名な事典では「イェフディ」としている。Yehudiとはヘブライ語で「ユダヤ人」を意味する普通名詞の男性単数形である。また、姓はヘブライ語では「メヌーヒン」と発音するが、日本では「メニューヒン」と表記されることもある。

愛器は1742年製のグァルネリ・デル・ジェス(愛称「ロード・ウィルトン」)。
【96】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 08時49分)

カール・ミュンヒンガー(Karl Münchinger, 1915年5月29日 - 1990年3月13日)は、ドイツの指揮者。

シュトゥットガルトに生まれ、シュトゥットガルト音楽院を経て、ライプツィヒでヘルマン・アーベントロートに指揮を学ぶ。

シュトゥットガルトでオルガニスト兼合唱指揮者としてキャリアをスタートし、1941年にハノーファーのニーダーザクセン国立管弦楽団の指揮者となった。1945年にシュトゥットガルト室内管弦楽団を結成、バッハなどのバロック音楽の清新な演奏で世界的名声を得た。1961年にはこの室内管弦楽団を45名編成のオーケストラに拡大したシュトゥットガルト・クラシック・フィルハーモニーを組織するが、こちらの試みは成功しなかった。晩年はシュトゥットガルト室内管弦楽団からも離れ、不遇であった。

いわゆるバロック音楽の演奏家としてその普及に努めた。ヴィヴァルディの『四季』などポピュラーなもので大変成功したが、その録音をたどる限りバッハ演奏に力をいれていたと言うことができる。特に4大宗教曲(マタイ受難曲、ヨハネ受難曲、ロ短調ミサ、クリスマス・オラトリオ)は全てエリー・アメリンクをソプラノ独唱に採用して録音し、成功を収めた。また『フーガの技法』、『音楽の捧げもの』など晩年の作品を弦楽合奏を中心として演奏し、現在でも典型的な解釈のひとつとされている
【95】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 08時48分)

ラファエル・イェロニーム・クーベリック(Rafael Jeroným Kubelík チェコ語発音, 1914年6月29日 ボヘミア - 1996年8月11日 スイス・ルツェルン)は、チェコ出身で、ドイツを中心に国際的に活躍した指揮者、作曲家。ラファエル・クベリークとも表記される。



目次  [非表示] 
1 生涯 1.1 出自
1.2 指揮者としてデビュー、そして亡命
1.3 苦難のシカゴ時代
1.4 バイエルン放送交響楽団との全盛期
1.5 思わぬ不運
1.6 奇跡のカムバック

2 録音・活躍 2.1 主な録音
2.2 作曲活動

3 脚注
4 関連項目
5 参考文献
6 外部リンク


生涯[編集]

出自[編集]

世界的ヴァイオリニスト、ヤン・クーベリック (1880-1940) の長男としてチェコのビーホリー (Býchory) に生まれる。母はハンガリーの伯爵の夫人であったマリアンナ・ツァーキー=セル(マリアンナの父母は医師とオペラ歌手であったが、本人がハンガリー貴族と結婚し伯爵夫人の称号を得ていた)。夫妻は5人の娘、3人の息子をもうけ、指揮者となったラファエル以外に、娘アニータ(1904年生まれ)もヴァイオリニストとなった。音楽的に非常に恵まれた環境の下、読み書きができるようになるよりも先に楽譜が読めるようになり、やがて両親にねだってベートーヴェンの全交響曲のスコアを買ってもらい、学校の授業中や夜寝る前のベッドの中で読む、といった少年時代を過ごす[1]。13歳でオタカール・ジンに師事して作曲を学び始め、16歳でいくつかの曲を試作するに至る。指揮者として本格的に活動する前には、父の伴奏ピアニストとして各地への演奏旅行に同行した[2]。

指揮者としてデビュー、そして亡命[編集]

14歳のときヴィルヘルム・フルトヴェングラーの指揮するチャイコフスキーの交響曲第4番、ブルーノ・ワルターの指揮するマーラーの交響曲第1番に感銘を受け、指揮者を志す。プラハ音楽院でヴァイオリン、作曲、指揮を学び、1934年に自作の「ヴァイオリンとオーケストラのための幻想曲」を完成させて作曲科を、ドヴォルザークの「オテロ」序曲を指揮して指揮科を、パガニーニの楽曲を演奏してヴァイオリン科を、それぞれ卒業[3]すると、同年チェコ・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してデビュー。1936年にチェコ・フィルの常任指揮者、1939年にブルノの国立歌劇場 (Národní divadlo Brno) の音楽監督に就任。そして1942年、指揮者ヴァーツラフ・ターリッヒがナチス政権に反抗して解任された後をうけ、チェコ・フィルの首席指揮者に就任。同年チェコ人ヴァイオリニスト、ラーラ・ベルトロヴァーと結婚。しかし大戦終結後の1948年にチェコスロバキアでチェコスロバキア共産党を中心とした政権が成立する(1948年のチェコスロバキア政変)と、チェコの共産化に反対したクーベリックは、同年のエディンバラ音楽祭へ参加するために渡英、そのままイギリスへと亡命した。
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