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RE:私の「姿」  評価

縄文人 (2013年09月09日 00時08分)

ベンガルさん こんばんは。

私はただ、あなたに少し声をかけたにすぎません。
自分自身に向かい合っている人に声をかけずには居られなかっただけです。

今は自分自身の事だけを考えて下さい。

レスをしなければ、とかも負担になるので考えず、本当に心の余裕が有る時にして下さいね。
【109】

私の「姿」  評価

ベンガル (2013年09月08日 01時28分)


 縄文人さん、こんばんは。レスは後日必ずします。今は少しだけ独り言を書かせてください。




 若い頃はずっと、「明日できることは明日やる」、「明日もできるんだから無理して今日やる必要はない」というスタンスで生きてきた。


 何でも先延ばしにしてきた。夏休みの宿題がその典型だ。8月31日以外に宿題をやったことがない。そして、一度たりともまともに終えたことがない。とりあえず、「やった」という姿勢を見せるだけ。それでいいと思っていた。


 でもいつの頃からだろう。そのスタンスが変わってきた。意識して変わった訳ではない。「無意識の自覚」とでも言えばいいだろうか。


 若い頃は考えもしなかった、誰にでも訪れるあの現実が、その前提が、心のどこかに芽生えるのだろうか、潜在意識に訴えるのだろうか。


 そして、明確に自覚している今は、「今しかできないかもしれない」と思うことが多い。でも、それを実行するか否かはまた別物。


 人は決断を迫られたとき、必ずそこにバイパスを作る。と、思う。昔は弱いからだと思っていた。弱いからこそ、一見すると逃げ道みたいな他案や方策を案出しているのだと思った。


 でもそれは違う。心のどこかでその必要があると判断しているからこそ、人はそこにバイパスを作るのだ。


 そしてそこに「間違い」はない。自分自身のことを自分で決断しているのだ。判断を誤ったと思うこともあるだろう。でもそれは決して「間違い」ではないのだ。


 後悔してもいい。反省の連続でも構わない。最良の選択でなかったとしても、命ある限り、それは必ず自己の成長に繋がる。


 一歩ずつでいい。ときには後退したって構わない。人間とは、その繰り返しで大きくなっていくのだ。


 経験は財産。そして、その財産によってその人の人生観というものが構築されていくのだと思う。


 そして、その人生観とは、その人の「考え」や「思い」そのもの。人は、その人の考えや思いを、どのようにして理解するだろうか。


 やはり一番手軽で確実なのは「言葉」だろう。言葉は生き物。そして、ものすごい力を持っていると思う。でも、完全ではない。


 『言葉は心を越えない。とても伝えたがるけど、心に勝てない』


 この詩のように、私も心には勝てないのだと思う。そして、その心とは、つくられたものではなく、自然とその人からにじみ出る、あふれ出る「姿」であり、「態度」なんだと思う。



 娘は私の「姿」を感じ取ってくれるだろうか。


 いや、違う。娘ではない。その如何は全て私にあるのだ。


 
【108】

RE:ありふれた日々  評価

縄文人 (2013年09月07日 22時54分)

ベンガルさん こんばんは。

べんがるさん、今のあなたは人間として、とても正常な精神状態だと思います。

私もあなたも、何時か必ず死を迎えます。もしかしたら明日かもしれないし、数十年後かもしれないし。

正常な自立した精神と云うのは、常に自分のあゆむ道を自分で決定し、生きて行く事だと思います。

殆どの人が(自分も含め)、この先どのように生きて行くか?、本当は皆判らず、探しながら生きているのではないでしょうか?。

ただ、多くの人はただ状況に流され、自分の意思自体を喪失してしまい、
どのように生きて行くか?、と云う問いかけを忘れて生きているのではないでしょうか?。

自分は、自分自身の苦しみ、生きる事の意味を問いかけず、違う事で忘れてしまおうとする精神の方が、異常な精神状態だと思います。

仏陀(釈迦)が悟りを開くまで、ずーと自己への問いかけで苦しみ続けていた様に、
真剣に生きる事は、苦しみを伴う困難な道だと自分は思います。
【107】

感動に感謝  評価

ベンガル (2013年09月07日 01時54分)



 人は人生に何を求めるだろうか。そして、人の心を動かすものは何だろうか。


 私は以前、課の部下たちの前で、以下のような内容の話をしたことがある。




 人には様々な欲求がある。そして、その大半は生きていくため、健全であるために不可欠なもの。


 食欲、睡眠欲、性欲等々。そんな中、私は常日頃から人には必ずあると思っている欲求がある。


 それは「感動したい」と思う欲求だ。


 こんな詩がある。


 『ねぇ、神さま、誰にも教わらないのに、誰かを好きになるこの気持ちをどうして僕らにくれたの?』


 誰に教わった訳でもないのに、なぜ人は感動するのだろうか。なぜ、嬉しい、悲しいといった感情を持っているのだろうか。なぜ、涙があふれ出るのだろうか。


 その理由を考えたとき、それは欲求と同じで、生きていくため、健全であるために生まれ持っているのだろうと思う。


 つまり、「怒」という感情も含め、人間の持っている感情の全てが欲求なのだろうと思う。・・・以下略・・・




 そして、冒頭の問いかけに対する私の答え。


 当然それが全てではないが、その一つに「感動」があると思っている。


 そのことを常に意識して、これからも強く生きていきたい。


 
【106】

RE:ありふれた日々  評価

ベンガル (2013年09月07日 01時29分)

 縄文人さん、こんばんは。


 私は今、「死」というものに対して、不安なのか、おびえているのか、それすらもよくわかりません。


 ただ、残された時間の中で何をすべきかということに対して、明確な答えを出せないでいる自分に焦っていることは確かです。


 でも、これまで色々と考えてきた中で徐々に自覚し始めていることは、「その答えは最後まで出ないかもしれない」ということ。


 その部分の整理がつけば、もっと前向きに、もっと強く生きられるのだと思っています。


 停滞している余裕はない。でも、焦っても意味がない。


 私が受け止めなければならないのは、残された家族のほうが私より何倍も不安だという事実。


 そう思っています。
【105】

RE:ありふれた日々  評価

縄文人 (2013年09月05日 22時53分)

ベンガルさん こんばんは^^。

うちは隣が森で、静かな田舎の一軒家です。
季節ごとに色々な虫の音、鳥の鳴き声、獣の声など聞こえてきます。

人間以外の生きとし生ける物は、あたりまえの様に自然に生きて、死んで行きます。

昨日、家に帰って来たら、リビングでオニヤンマが死んでいました。
多分、昼間家に入って外に出れなくなり、そのまま倒れていたと思います。

子供の時なら喜んで手に取ってみるのですが、今では生と死の無常を感じながら手に取りました。
すると、まだ、バタバタと少し動いたのでベランダに出してあげました。
ただ、羽根が少し傷ついていたので長くはないと思います。
それでも彼は、最後の力を振り絞り何処かに飛んで行った様です。

実際の所、死への不安、恐怖を強く感じるのは人間ばかりじゃないでしょうか?。

『精一杯生きて、安やかに死ぬ』、自分の理想です。

ただ、一番大変な事かもしれませんね。 『生、死』
【104】

RE:ありふれた日々  評価

ベンガル (2013年09月04日 23時57分)

  縄文人さん、こんばんは。はじめまして。


 寝苦しかった夜が過ぎ、本当にもう秋を感じるようになりましたね。


>一番うるさいのは、自分の頭の中の雑音で有り

 本当にそうですね。今は、昼と夜の自分の心情の違いがはっきりと自覚できます。今は夜が嫌いです。家族が起きてるうちはまだいいのですが、みんな寝てしまうとすごく不安に陥ることがあります。

 特に布団に入ってからは頭の中は雑念でいっぱいです。「もしこのまま目が覚めなかったら・・・」そんなことを考えてしまいます。

 でも、娘と過ごしているときは全てを忘れることができます。なので一人のときに思いっきり頭をかき回していたほうがいいのかもしれません。


 今は少しだけ弱気になっています。もうちょっとだけ時間をください。


 必ず以前の私を取り戻します。そしたら私も「静かな夜」を過ごせることでしょう。


 そう、あの当たり前の有難みを・・・

 

 
【103】

ありふれた日々よ永遠に  評価

ベンガル (2013年09月02日 23時15分)

 『淡々と、でも、内に秘めたるものは・・・』



 結局8月はたった一日しか出勤しなかった。


 その間、色々なことを考え、そして、これまでずっと知ろうとしなかった、怖くて知ることを避けてきた「自分自身」というものをある程度理解した。


 多分私は、娘の成人した姿を見ることはできないだろう。このトピが落ちたとき、それは、私の命が落ちたときと理解してもらえればいい。


 さよならは言わない。『ベンガル』という物書き好きが居たというだけ。それ以上でもそれ以下でもない。それでいい。





 ・・・おっと、これではまるで、余命半年とでも宣告されたかのような書きっぷりだ(汗)


 心配ご無用。いつか急に、そして宣言する暇もなく来るであろう「トピが落ちる日」のために、前もって書いているだけのこと。


 そして、愚痴を言っている訳でも、悲観している訳でもない。世界中には、もっと悲しい、悲惨な状況にある人が星の数ほどいる。私は恵まれている。そしてなにより幸せだ。




 私は諦めた訳ではない。まだまだしぶとく生き抜いてみせるさ。



 
【102】

RE:ありふれた日々  評価

縄文人 (2013年09月02日 01時25分)

今晩は^ ^。 はじめまして。

夜、静かに目を瞑れば、秋の気配がかなり近づいて来ましたね。

静けさの中、様々な虫達がそれぞれの唄を奏でています。

一番うるさいのは、自分の頭の中の雑音で有り、どうでも良い、ネットからの情報、と云う騒音かな?。

言葉で遊ぶのも楽しいけど、
   言葉の無いのも楽しいかな、
       自分の中の雑音が止まった時、
          やっと感受性の出番とも思うよ。

ありふれた日々の中でも、今と同じ時は無いからね。

                静かな夜を.....。
【101】

いつになれば・・・  評価

ベンガル (2013年09月02日 01時19分)



 天井さん、こんばんは。


 実は今日、とんでもないことをしてしまいました。今の私を一言でいうと最低、最悪。これ以外に形容する言葉はありません。


 先ほどまで情熱大陸を観て泣いていました。


 「家族が宝物」


 私にとってもそうであるはずなのに・・・


 今日はそのことを書こうと思ってここを開いたのですが、天井さんの書き込みを見て、それを書くのはやめました。


 反面教師というか、私の失態を他山の石として皆さんにも何かを感じてもらえればと思ったのですが、天井さんの書き込みを読んで、「これは私の胸の中だけにしまっておくべきもの」だということがわかりました。




 なので今日はパチ呟きにします。


 平成15年から20年まで5年ちょっとの間、北海道の岩見沢に住んでいた。


 当時のホームグラウンドは「ニュー銀座会館」と「ポルタ」、どちらもまだ現金機が豊富にあった。


 当時は、「本当に厳しい世界になったな」と思っていたものだが、今にして思えばまだまだ全然恵まれていた。


 本当に懐かしい。そしてもっと堪能しとけばよかった。


 先ほどピワドで検索をしたら、どちらもなかった。ポルタは当時からピワドには登録なかったが、銀座会館のほうは登録してあったので、もうなくなってしまったんだろう・・・残念


 でも銀座会館は、苦い思い出というか、最後はすごく後味の悪い結末となった。


 銀座会館とポルタは300mくらいしか離れてなかった。銀座会館とポルタは、ほぼ交互に通っていたが、ポルタには駐車場がないため、車はいつも銀座会館の駐車場に止めていた。


 ある日、ポルタでの遊戯を終え、銀座会館に止めていた車に戻ると、「無断駐車お断り」と運転席側の窓に貼られていた。しかもシャレになんないくらい強力なテープでとめてあった。定規とかでこすっても取れず、シールはがしを2本使ってやっと取った。


 この車は私の車だとわかっているはず。・・・そうか、もう来てほしくないってことだな。


 あのときは本当に後味が悪かったが、今となってはこれもいい思い出の一つかな。あっ、でもこれは「出禁」行為にはカウントしてない(笑)


 そういえば当時は、札幌とかは月に1〜2回くらい深夜1時まで営業していたが、今でもまだ「ロング営業」やっているのだろうか。


 
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