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生と死と、そして家族と(その1)  評価

ベンガル (2013年07月02日 22時16分)

 人間、渦中にいると「なぜ自分だけ・・・」と思ってしまう。それが長い期間続くと、本当に挫けてしまいそうになる。


 でもその大半は、それを乗り越えたとき、「いい経験をした」と思えるような気がする。


 でも人間とは弱いもの。いや、決して弱くはないのだろう。でもそれには個人差がある。限界がある。


 私はこれまで、何人もの友人の「死」を眼前で目の当たりにしてきた。


 十代の頃は「死」というものを意識したことはほとんどなかったが、悲しいことに今の私にはありふれた現実。


 「死」を意識して生きているからこそ、「生」が価値あるものになるとまさごちゃんが言っていたが、本当に私もそう思う。


 だが当然、「死」を意識しないで生きてきた「日々」が無駄である訳がない。


 それまで過ごしてきた日々、経験の全てが財産。


 人間、予期せぬ不幸が訪れない限り、必ず末期には「死」というものを意識するときが来ると思う。その時に、それまで経験してきたことの全てが、更に価値あるものになって自分に返ってくる。そう信じている。


 前にも書いたが、私の「生」に対する望みは二つだけ。そして、その前提にあるのが、必ずいつかは訪れる「死」


 だからこそ、それまでに何をすべきか、何を遺していくべきかということを真剣に考える。当然そこには、「志半ば」という状況も視野に入れておかなければならない。


 それを踏まえた上で、短期的なものから長期的なものまで、しっかりと考えた上で行動していかなければならないのだろう。


 さはさりながら、私は今でも、自己が充実して幸せを感じていないと、本当の意味で周りの人たちを幸せにすることはできないと思っている。


 しかし、自己充実ばかりを追い求めてはいけない。それを我慢したり、自己を犠牲にしてまでもやらなければならないことがある。当時の自己の心情とよく相談しながら、自己の思える最良の行動をとっていこうと思う。


 またいつもの如く、取り留めのない暗い書き込みで申し訳ない。こんなことを書くに至った背景には、出張中のあの「一件」がある。あの「一件」の初日、昔の「ある事」を思い出していた。
【9】

生と死と、そして家族と(その2)  評価

ベンガル (2013年07月02日 22時15分)

 あれは6年半前、部署が変わり、初心に戻って頑張ろうと思っていた矢先のこと。ある理不尽な二人の上司の間に入り、完全に板挟み状態になっていた。


 二人が「意見が合わない」ということは前々から耳にしていた。「犬猿の仲」と言われ、二人が直接意見を交わすことはなく、そして、二人とも「自分が一番正しい」と考えを絶対に曲げないので非常に始末が悪かった。


 案件をぶつけても、お互いの主張が真逆なので、二人の間を行ったり来たりで仕事が全く前に進まない。


 そして指導受けに行くたび、二人から私の人格をも否定するような罵声を何度も浴びせられた。自己の主張を言っても、状況が悪化するだけだった。


 当時の私には、どうしても打開策が見いだせなかった。「はい、すみませんでした」「はい、わかりました、訂正致します」


 ただただ謝るしかなかった。ただただ耐えるしかなかった。そんな日々がずっと続いた。


 案件が片付かないため、「仕事ができない男」のレッテルを張られる。何度も何度も二人を殴る夢をみた。そして、私の我慢も、もう限界に達していた。


 そして、「もうこの会社ではやっていけない」との結論に達する。罪を問われても、お金を払ってでも、最後は気のすむまで二人を殴ろうと思っていた。本当にそう思っていた。


 娘が生まれて間もない頃だった。「これ以上妻にストレスを与えてはいけない」とずっと黙っていた。


 でもいきなり「クビ」になったことを知ったときの衝撃は計り知れない。私は意を決して妻に打ち明けることにした。


 妻は当然、「仕事辞めてどうすんの?これからどうやって暮らしていくの?」とすごい剣幕で怒るものと思っていた。逆の立場だったら、私はそう言うと思ったからだ。


 でも妻の反応は、あまりにも、あまりにも意外だった。


 「そんなに我慢してまで仕事続けることないよ。みんなで頑張れば何も問題ないよ」と。


 妻はこれまで何も言わなかったが、多分気づいていたのだと思う。そして、育児で大変な最中、私が仕事を辞めたときのことまで考えていたのかもしれない。


 どんなに逆立ちしても、やっぱり妻にはかなわない。


 この妻の一言で全てが変わった。私の中から「怒」という感情が消えた。




 ・・・長くなったので、「その後の詳細」については、機会があったらまたそのときにでも書こうと思う。


 そして改めて思う。


 私が家族に遺していくべきもの、それは、


 「父としての、夫としての『姿』に他ならない」と。
【8】

!!  評価

ジャグSEN (2013年07月02日 21時48分)

ベンガルさん! お帰りなさい。

 …お元気そうで何よりです。
【7】

いつもと違う一日  評価

ベンガル (2013年07月02日 14時33分)

 高校を中退してから4年くらいは何もせずブラブラしていたので、ほぼ毎日「笑っていいとも」を観ていた。


 当時、聞かれたことはなかったが「好きな芸能人は?」と聞かれれば迷わず「タモリ」と答えていただろう。今でも大好きだし尊敬している。


 今日、超久しぶりに「笑っていいとも」を観た。私が20数年前、毎日見ていたタモリとちっとも変らない。本当にすごい人だ。


 タモリはほとんど旅行とか行かないらしいが、行ったとしてもお土産を買わないらしい。年賀状も一切書いていないと言っていた。


 私と考え方が同じというか、私の理想としているところだ。


 私も会社勤めを辞めたら、一切年賀状は書かなくなると思う。前トピでも書いたが年賀状は増える一方でキリがない。


 私は仕事柄、仕方なく書いているが、多分彼は会社員であったとしても年賀状は書いていないと思う。


 そこが彼と私の決定的な違いというか、すごい所だと思う。ちょっと大げさかもしれないが、そこに彼の信念というか「生き様」を感じる。


 本当に共感できる部分が多い。私もかくありたいと思う。


 そして引き続き「ごきげんよう」を観た。こちらも「いただきます」以来、本当に久しぶりだ。


 そしてまた共感できた「言葉」


 「I MISS YOU」は「会いたい」という意味ではない。
 「I LOVE YOU」は「愛してる」という意味ではない。


 日本ではあまり使う人はいないと思うが、もし仮にこんなことを言われたら重く受け取ってしまうだろう。


 直訳するとそうなってしまうので仕方のないことだが、直訳することに無理がある英語なんていくらでもある。


 こういうものは「感覚」で覚えるしかない。実際に触れて「感じる」のが一番手っ取り早い。


 久しぶりにテレビを観たが、やっぱりテレビっていいな。


 たまには家でゆっくりテレビを観るのもいいもんだ。
【6】

ジャパニーズ?  評価

ベンガル (2013年07月02日 00時54分)

 今回の出張では、買い物や食事に行くとよく「ジャパニーズ?」と聞かれた。


 「イエス」と答えるたび、みんな、日本の友人の話や思い出話を聞かせてくれた。


 買い物レジでは長話はしなかったが、飲食店では10分以上話し込むこともざらだった。


 私が「日本人」だからという訳ではなく、色んな人に気さくに声を掛けていた。まぁそれが「接客業」の本当の姿なのかもしれない。


 翻って、日本ではどうだろうか?タクシーや床屋(といっても20年くらい行ってないが・・・)ではよく話しかけられるイメージがあるが、飲食店ではあまりそのようなイメージがない。


 「接客業」と「サービス業」の切り分けというか、日本におけるサービスの重点はもっと違うところに向けられているのだろう。


 まぁもっとも、コンビニのレジとかで、会計の都度話しかけられても、それはそれですごく鬱陶しい気もするが(笑)


 つまりはその各々で、需要と供給がうまく釣り合っているということか。


 でもまぁその、あれだ。実は私もタクシーとかで話し掛けられるのはあまり好きではない。静かなほうが落ち着く。


 パチンコも然り。というより長年パチンコやってきた弊害だろうか?それとも私が「日本人」だからだろうか?


 おっと、今回書きたかったのはこんなことではない。


 たくさん「ジャパニーズ?」と聞かれた。全て「ジャパニーズ?」だ。


 そう、そのことがすごく嬉しかったのだ。
【5】

国境に立ち・・・  評価

ベンガル (2013年07月01日 05時20分)

 ロスから車を飛ばして5時間。所要でメキシコ国境までやってきた。


 ここにくるのは9年ぶり2回目。ここはある意味思い出の地。


 国境を境に、こちら側とあちら側の風景がガラリと変わる。以前来たときもそうだったかはよく覚えていない。


 ただ、一つだけはっきり覚えていることがある。


 好奇心でメキシコに行った。メキシコに行くのは非常に簡単だった。入国審査も検査もなかった。でもアメリカに戻るときの入国審査が非常に厳しかった。


 パスポートをホテルに置いていた私は、結局入国するまでに6時間を要した。海外では常にパスポートを携行したほうがいいとこのとき思った。(まぁパスポートを持っていたとしても、かなり時間を要したとは思うが・・・)


 待たされてる間、すごくイライラした記憶があるが、今となってはいい思い出。島国では経験できない貴重なものだったと今は思える。


 そして多分、あのときもそうだったと思うが、ここに立つと不思議な感覚を覚える。国境沿いにあるアウトレットモールへ向かう歩道橋の上から、メキシコ国旗がいくつも視界に入る。日本では味わうことのできない感覚。


 やはり国境は、ただの「境」ではなく、すごく重いものなのだろう。


 国境に立ち、ふとそんなことを考えていた・・・
【4】

全ての事象に感謝  評価

ベンガル (2013年07月01日 04時46分)

 仕事というものは、気心の知れた仲間とやるほうがうまくいくというか効率がいい。


 初めての土地で、ほとんど面識のない人たちと仕事をすると、思わぬところで齟齬が生じてしまっていることがままある。


 それは、それぞれの職場、部課での常識が、他社や他の部署でも当然「常識」だという先入観があるからだろう。


 いざ相手方と調整を始めると、「いや、それは違う」と仲間内から横やりが入る。


 相手方にしてみれば、「何だ、あなた方は自分たちの意見もまとまっていないのに調整をしているのか?」となってしまう訳だ。


 なので、調整をする前の仲間内での見解のすり合わせが非常に大事だ。


 当然必ずやっている。でもこの「常識の先入観」が非常にやっかいなのだ。


 それぞれが「みんなそう思っている」という先入観や固定観念があるため、その相違の全てを事前に把握することは難しい。


 で、結局、大事な調整や商談中に「えっ?それも違うのか?」となってしまうのだ。


 同じ職場の仲間や、一つの職場で完結する仕事ならまずあり得ないのだが、他社との合同での調整ではこういうところにも配慮しなければならない。


 本当に仕事というものは難しい。


 実はこの海外出張中にも、大事な調整時に調整内容が180度ひっくり返るほどの大きな「認識の相違」が発覚した。


 当然、調整はその場で中止。


 正直、「もうダメだ」と思った。


 誰もがみな「私たちのミスです」と自責の念を口にした。でも、結局それは「言い訳」でしかなかった。


 かくいう私も、「本件については調整がつきませんでした」と報告せざるを得ないと思っていた。


 落胆し、重い足取りでホテルに帰ってきた。そして色々なことをずっと考えていた。「どう説明すれば納得してもらえるだろうか・・・」


 ・・・そうなのだ。どんなに説明しても、どんなに言葉を取り繕っても、結局全て「言い訳」なのだ。


 そう思ったとき、気持ちを切り替えることができた。「我々は選ばれてここにきたのだ。やれるだけのことをやらなければならない」


 どんなに見苦しくても、もし結果が出なかったとしても最後まであがき続けなければならないのだ。


 次の日、資料を一から作り直していることをみんなに告げた。みんなも同じ思いだったようだ。


 私はホテルに戻ってからも資料を作成する日々が続き、みんなは「再調整」のために奔走した。そして4日間かけて資料が完成、また、みんなの努力で「再調整」にこぎつけることができた。


 そして、資料のプレゼン後、相手方が口にした「Wonderful」は、我々にとって最高の褒め言葉であった。


 ものすごく遠回りをしたが、本件によって更に深い信頼関係が構築できたものと自負している。


 「有終の美」、「終わり良ければ総て良し」そして、経験の全てが財産。


 本当にいい経験をした。「人間、諦めなければそうそう簡単に活路が閉ざされることはないのだ」


 そう思えた。


 そうそう、余談ではあるが、この時は丸4日間で6時間しか寝れなかった。でも何とか踏ん張れた。私の体力もまだまだ捨てたもんでもないな(笑)
【3】

お土産は・・・  評価

ベンガル (2013年07月01日 04時10分)

 ハワイでの仕事を一通り終えた私たちは、午後から時間が空いたので、会社借用のレンタカーを使ってアラモアナのショッピングモールにみんなでお土産を買いに行った。


 バブル時、ダイエーの中内元オーナーが買収していたモールだ。


 まずは腹ごしらえとのこと。まぁ仕方ない、付き合ってやるか。


 フードコートに行く。目移りするくらいたくさんのお店が並んでいる。席を確保し交代で買いに行く。


 「さて何にしようか・・・」


 一通り見て周ったあと、一番おいしそうだったステーキ丼にする。海外での食事でいい思いをした記憶がほとんどなかったので正直あまり期待していなかったのだが、食べてみるとこれがすごく美味しい。ボリュームもあり、これで9ドル20セントなのでそんなに割高感もない。ただ年寄りにはちょっと肉が多すぎるか(笑)


 みんなは「イマイチ」だったようで、「○○さんのが一番当たりだな。さすがですね」


 「いやいや、たまたまですよ」


 そしてここから、機械音痴の私と、柔らかい頭の若いみんなとの行動の差が出てくる。みんな食べながらスマホだかiPhoneだかを片手にそちらに夢中。


 「ここ、Wi-Fiが繋がるスポットなんですよ」と。「へぇ〜、そうなんだ」と返しつつも何のこっちゃようわからんが(汗)


 画面を覗くと(失礼)、ヤフーで日本のニュースとかが普通にみれてる。本当に便利な世の中になったもんだ。まぁ、私のようにその知識すらないと、ただの宝の持ち腐れになってしまうが・・・


 で、今回のオチ。


 結局このモールではそれらしいお土産を見つけることができず、みんな近くのドン・キホーテでお土産を買いましたとさ。
【2】

「もののふ」シリーズ  評価

ベンガル (2013年07月01日 03時44分)

 「海外で出会った『武士』たち」


 私がハワイのホノルルに降り立った5月17日の夜(日本時間18日)、パールハーバーに停泊中の海上自衛隊の護衛艦「ひゅうが」で行われた艦上レセプションに、ある知人の計らいで参加させて頂くことができた。


 米国の太平洋軍司令官を始め、ジェネラルが四人以上も招待されて行われた本レセプションは、かなり盛大なものであった。


 私が最初に驚いたのは、このレセプションには陸上と海上の自衛官が併せて100人以上参加していたが、そのほとんどが英語が話せるということ。


 当然その程度の違いはあれど、みんなちゃんと意思の疎通がなされていた。


 海自の第2護衛隊群司令官も、流暢とはいかないまでも、はっきりと聞き取れる英語でハワイメディアのインタビューに答えておられた。


 ついつい私は、「英語の話せる人たちを集めたのか?」と聞いてしまったが、当然そんなことはない。「組織」で行動する自衛隊において、部隊編成を大きく崩して訓練することはないのだ。


 そして2つ目というか一番驚いたこと。本レセプションでは、すし、そば、天ぷら、焼き鳥などの日本食をはじめ、物凄い数のオードブルが並べられていたが、何とその全てを海上自衛官が作ったというのだ。


 種類豊富なオードブルは、金を払って業者に頼むそれと比較しても何ら見劣りしない。逆に美味しいくらいだ。


 すしもネタからさばいて一つ一つ握ったとのこと。こちらも回転ずしと変わらない。


 「素晴らしい」


 また少し自己の見聞を広めることができた。


 勘のいい人は、何故この護衛艦がこの時期にここに停泊していたのかお分かりかと思うが、日本でも多くのテレビや新聞でも報道されたみたいなので、あえて艦名と役職名も載せた。


 少しでも多くの方に、我々の「自衛隊」に関心をもって頂けたら幸いだ。
【1】

お久です。  評価

ベンガル (2013年07月01日 04時59分)

 先ほど帰宅すると、何やらメモ書きが・・・


 「ごめんなさい」


 
 あらあら、1回こっきりでもう忘れちゃったのね・・・


 まぁ、妻らしいというところか(笑)


 では、帰国一発目。


 『色んな人に支えられ』


 「ある一件」以外、仕事はすこぶる順調で、予定より10日ほど早く帰国することができた。


 所望の仕事を終えた我々は、その旨を会社に報告した。すると思いがけない返答が。


 「予定の期日までそっちでゆっくりしてこい」とのこと。このことをみんなに告げると、当然のごとく大はしゃぎ。でも私の心境は複雑だった。


 この出張間、休みは4日しか取れなかったが、その「休日」にすることがないのだ。2日は所要で潰せたが、あとの2日はすることがないというか何もする気にならない。ただ時間を持て余すだけ。


 改めて思い知った。今の私には「家族の存在」と「パチンコ」がなければ、休みなどいらないのだ。


 みんなはもうすでにディズニーランド、ユニバーサルスタジオ、グランドキャニオン、ラスベガスと、日々の予定を立てている。「川下りもいいねぇ〜」と本当に楽しそうだ。


 私も若ければ、みんなと同じように「ワクワク」できただろうか。


 かなり悩んだが、やっぱり私は帰国することにした。まぁ悩んだというより「私の行動など彼らには関係ない」と思っていた。


 帰国する旨を告げると、みんなが思いもよらぬ反応を示す。「絶対ダメです」と。


 「私と一緒に行きたい」と言うのだ。


 決して彼らが嘘を言っているとは思わないが、もし仮にそれが嘘であったとしても、私にはすごく有難い言葉だった。嬉しかった。


 でもよくよく考えてみれば、食事のときもいつもみんな一緒だった。私が抜け駆け(汗)して一人で先に行こうとしても、「待ってくださいよ〜」と言ってみんな付いてきた。


 たった2日だけの休みも彼らは誘ってくれた。なのに私は「疲れた」ことを理由に断ってしまった。


 彼らの厚意、やさしさに今になって初めて気づく。またしても思いが至らなかった。


 このことに気づいたとき、「今度はちゃんと応えなければならない」と思った。でも・・・


 多分私は、心からは楽しめないだろう。そして彼らもそういう「私」を望んではいない。何より早く娘に会いたい。私は思いのたけを彼らに話し、そして納得してもらった。


 彼らが心から楽しめるように、彼らが帰国するまでには「報告レポートを全て書き終える」ということを約束して。


 今の若者というか、彼らから学びとることは非常に多い。


 予定でいくと、彼らは今頃ラスベガス入りしたころだろうか。
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