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【4】

雪国の抗争に散った二人の侠【前編】花田章  評価

のほSEIL☆ (2022年10月04日 16時21分)



昭和六十年八月一日午前十時を回っていた。

一和会加茂田組北海道支部の花田組・花田章組長は
夫人と組員一人を伴い自宅から五百メートルほど離れた
北見市高栄町のスーパーマーケットでショッピングを楽しんでいた。

花田夫妻は果物や衣類を買い、
店の正面に駐車していた
車の中に荷物を置き、再び店内に戻った。

花田組長は軽食コーナーで好物の「おやき」が
焼きあがるのを待っていた。

「おやき」とは関東でいう「今川焼」
関西の「タイコ焼」である。

焼きあがった「おやき」を組員に持たせて
花田組長が自動ドアから店を出ようとしたそのときだった。

二人の男が花田に近づくや「パーン!パーン!」という
乾いた発砲音が店内に響き渡った。

男たちは二メートルの至近距離から銃弾五発を発射、
花田はもんどりうって床に倒れた。

「待てぇ――!」

花田のお供の組員は右腕に被弾しながら
襲撃班を追いかける。

夫人の悲鳴があがり、
店内は騒然となった。

フロアに鮮血が散り、自動ドアのガラスも
粉々に割れていた。

花田は直ちに救急車で北見中央病院に運ばれたが
三日後の八月四日午後五時半、脳挫傷で死亡した。


花田を撃った二人のヒットマンは
店の正面駐車場に待機していた乗用車で
逃走したが、五十分後北見市と隣接する津別町の
検問を突破したことからパトカー二台の
追跡を受け逮捕された。

二人は北見市に本拠を置く稲川会・星川組の幹部で
タイタン25口径拳銃二丁を持ち
「ワシらがやりました」と花田組長狙撃を認めた。

この事件がのちに花田組と星川組による
二次、三次にわたる抗争に発展、
双方の組長同士を含む五人の死者と
八人の重軽傷者を出した「北見抗争」の発端であった。


花田章が狙撃される引き金となったのは
北見市内のスナックでの口論だったと言われている。

七月三十日夜、北見市の繁華街、山下町のスナックで
花田と星川組・星川濠希組長が鉢合わせした。

このとき五十七歳の花田章が四十歳の星川濠希に対し

「ヤクザのやることじゃない」

と激しく罵った。

これは星川組組員がその月に北見職安を舞台に起こした
雇用保険金詐取事件を指したものだと言われている。

双方の組員がにらみあいとなったが
その夜、銃口が火を噴くことはなかった。

しかし、二日後「なじられた報復」として星川組は
花田組長襲撃を実行したのだ。

花田組、星川組の抗争の背景には
両者の勢力争いが絡んでいた。

前年の七月二日には星川組は花田組系事務所に
散弾銃を撃ち込む事件を起こしている。

人口十万の北見の街は二つの広域組織が
住み分けるには狭すぎたのかもしれない。



八月八日、北見市は朝からジリジリと太陽が照り付け
北の大地の最高気温は三十四度を記録。

その猛暑の中、花田組長の葬儀が
市内、天恵寺で執り行われた。

境内には一和会・山本広会長、
加茂田重政副会長はじめ
一和会系組長の花輪が並んだ。

加茂田組からは加茂田重政こそ保釈中の身で
出席できなかったものの、名代の若頭や
舎弟頭が顔を揃え一和会からも
松本勝美本部長ら幹部が出席。
十一時の出棺時、境内は四百人の
ヤクザたちで埋め尽くされた。


花田章は昭和三年、青森の生まれで
北見に居を構えたのは終戦後、
海軍から復員してからのことであった。

北見で愚連隊の一派を築き、
テキヤ鬼沢広洋の若い衆となって稼業人となった。

鬼沢は明治時代から根を張る老舗、金子一家の
ノレンから分派したテキヤで、その後四代目を
継承したのが花田章だった。

だが、花田は昭和五十年、三代目山口組の
加茂田重政の舎弟となることでテキヤから本格的な
極道社会に足を踏み入れる。

五十九年六月、山口組の分裂に伴い
加茂田に従って一和会に移った。

その矢先の惨事だった。

(了)
【3】

寂しすぎた「山一抗争」主役の死  山本広  評価

のほSEIL☆ (2022年09月24日 14時41分)



山口組から分派、独立した
旧一和会の山本広元会長が
入院中の神戸市立中央病院で
この世を去ったのは
平成五年八月二十七日、早暁のことだった。

死因は全身に転移した内蔵ガン、
享年六十八。

臨終に立ち会ったのは夫人と親族、
一和会時代の側近などごく少人数で
波乱の人生の末のひっそりとした最期だった。

その死に先立つ三時間前、
山本広は病室を訪れた旧知の友人に

「懲役から帰ってくる者たちのことが心配や
 誰がどのようにして迎えてやるのか、
 そのことだけが気がかりや」

と、か細い声をふり絞るようにして
繰り返していた、という。

山口組との大抗争の果てに一和会を解散、
自身も引退したのは四年前、
平成元年三月のことだったが
そのときから

「ワシの残された人生はツトメから帰ってきたものに
 たとえ、味噌汁の一杯でも飲ませて、
 労をねぎらってやることや」

と心境を吐露していた。

だが引退間もないころから、
病魔は山本広の体を蝕んでいた。

平成三年、大腸手術で一か月入院。
すでにガンの転移がみられ、
その後も入退院を繰り返した。

平成五年六月腸閉塞で入院、
十日後に退院したが八月十六日、再入院。
ガンは肝臓、すい臓、肺にと広がり
十一日後に息を引きとった。

通夜、葬儀は阪急電鉄六甲駅近くの
梅仙寺で営まれたが通夜に集まったのは
親族や足を洗った元一和会関係者
二十人ほどが集まっただけ。

葬儀もあの元一和会会長を送るものとは
思えない静かなものだった。

これは死期を悟った山本広が、かねがね親族に

「ワシに万一のことがあったら
葬儀は身内だけで簡素にやってくれ」

と言い残していたのを未亡人が守った結果だった。
三代目山口組田岡一雄組長亡き後、
一時は四代目の座に最も近い、
とされ、分派、独立してからも一和会トップとして
六千人の傘下組員を率いた男の最期としては
あまりにも寂しいものだった。

(↓)
【2】

寂しすぎた「山一抗争」主役の死  山本広  評価

のほSEIL☆ (2022年09月24日 14時42分)

山本広は大正十四年二月十五日、
兵庫県淡路島の生まれ。

地元の高等小学校を卒業後、
電機会社の工員となったが
昭和十七年、徴兵で海軍入隊、
終戦を下士官で迎えた。

復員後、尼崎市内の土建業「白石組」に入ったのが
ヤクザ渡世の振りだしとなった。

白石組組長が山口組三代目を襲名した
田岡一雄の舎弟であったことから
山口組との親交が始まり、
昭和三十一年、白石組から独立して
田岡三代目から親子盃を受ける。

四年後、山広組を結成。
以後、山口組の全国制覇に向け、
武闘派、イケイケで知られた
ヤマケン、山本健一と並び、
頭脳派、ヤマヒロの名で
三代目山口組を牽引する。

昭和五十六年七月、田岡三代目が死去、
翌年四代目候補だった山本健一若頭が
急死したことで山本広は組長代行となり
一躍、四代目の最有力候補となる。

五十八年七月、四代目立候補を宣言したが
旧山健派の竹中正久若頭を推す
竹中派と激しい対立を生じた。

翌年六月、竹中四代目が誕生すると
山広派の直系組員たちは山本広をトップとした
新組織「一和会」を旗上げ、山口組は分裂した。

当時、一和会は直系二十二団体を中核に
総勢六千人の軍団を誇り一時的には
竹中・山口組をしのぎ、日本最大組織となった。

だが、四代目の激しい切り崩し工作による
組員の離脱によって次第に勢力は衰えてゆく。


その危機感から決行されたのが
昭和六十一年一月の一和会ヒットマンによる
衝撃の竹中四代目射殺事件であった。

かくて警察庁をして
「ヤクザ抗争史上、最大にして最悪」
と言わしめた、山一抗争が勃発。

この大抗争は四年にわたり、双方で死者二十五人、
重軽傷者六十六人、逮捕者は四百人を超えた。

結果、一和会は山口組の猛攻の前についえ、
組織の解散と山本広会長の引退で終結を迎える。

山本広は山口組本家を訪ね、故・田岡三代目
竹中四代目の仏壇に、ぬかづいて謝罪。

このけじめの焼香によって山口組分裂から
繰り広げられた骨肉の争いに
完全なピリオドが打たれたのだった。


以来四年余り、山本広元会長の消息は明らかにされず
ヤクザ社会からは「過去の人」となる。

「引退後は家族と共に神戸市内の自宅に住んでいた」

とも

「神戸の地を離れ、大半は京都周辺にいたといわれるが
 時に九州、四国、中国などで過ごすこともあった」

との話も伝わっている。


平成三年夏には山梨県にある日蓮宗総本山の寺院で
作務衣姿で庭掃除をしていた、との目撃談も残っている。


日本最大組織、山口組を分裂させてまで
ヤクザ社会の頂点に立とうとした男は
かつての栄光と引き換えに
ひっそりと流れ星のように消えたのである。


(了)
【1】

銀座警察 その突然の終焉   高橋輝男  評価

のほSEIL☆ (2022年09月14日 16時22分)


住吉一家・大日本興業初代会長、高橋輝男が
三十四年の生涯を閉じたのは
昭和三十一年三月六日のことだった。

因縁とは不思議なもので、戦後に光と影を落とした
高橋の「銀座警察」が新聞の見出しとなり、
初登場したのも六年前のこの日、である。


昭和二十五年三月六日付け
毎日新聞朝刊社会面。


――― 銀座私設警察 一斉検挙
      署長 浦上信之、逃走中
       司法主任 高橋輝男ら検挙


「銀座警察」とは高橋らが法律で
解決しない経済事件の処理を
被害者の依頼によって暴力を背景に
解決するビジネスを新聞社がネーミングした。


高橋らは債権取り立て、会社乗っ取りなどの
経済事犯にあたり「聞き込み」などの情報収集、
「捜査」「張り込み」「逮捕」「取り調べ」「留置」に至る
刑事警察の全過程を銀座のど真ん中でやってのけていた。


高橋輝男は銀座を地盤に近代ヤクザの先駆けとして
いち早く植木のリース業、ボクシング興行、
映画製作、硫黄鉱山や東京青果市場の経営に
乗り出す一方政財界人や右翼との人脈も広く、
東南アジアへの進出も計画していた。

そんな絶頂期、高橋輝男はその命を散らしたのであった。


高橋が射殺された翌三月七日付け
毎日新聞記事にはこうある。


―――― 六日午後二時ごろ、台東区北清島町、妙清寺で
大日本興行株式会社、高橋輝男社長(34)らが、
博徒仲間の葬儀執行中、同社幹部 向俊平(40)が
子分数名を引き連れて乱入。

正面席の高橋社長と桑原正昭専務(29)を狙撃、
参列者側も応戦、銃撃戦となった。

高橋社長は心臓に一発、桑原専務は腹部などに五発、
向も数発を被弾し、病院に運ばれたが、
三人ともまもなく死亡した。

        ―――――――――


つまり、この事件は浅草・妙清寺で
執り行われていた住吉一家大日本興行系幹部の
葬儀の席上、同じ一家の幹部同士が
二派に分かれて撃ちあい、ともに凶弾に倒れる、
というセンセーショナルなものだった。


その日の朝、高橋輝男は浅草へ行く前に
車を目黒区の祐天寺へと向かわせた。

祐天寺は高橋が子供時代を過ごした街で
幼なじみの石材店店主と歓談、花輪が並ぶ
妙清寺に着いたのは午前十一時ごろだった。

出迎えの大勢の若衆のあいさつを受けて
高橋は境内に入ってゆく。

「兄貴、いよいよマズいですね。
 今朝もちょっと若い者がもめましてね」

舎弟の一人が同門の向一派とのトラブルを告げたが
高橋はさして気にとめるでもなかった。

あらゆる事に用意周到でケンカをするにも
徹底的に相手の情報を収集していた
高橋にしては命とりになってしまった。

運命を決めたのはたった五分の差だった。

向らがやってきたのは葬儀も終わって会葬者も
ほとんど帰った午後二時すぎのことだった。

若い衆ら十数人とともに高橋がまだ、
斎場に残っていたのは
自分の車を知人に貸したためだった。

その車が寺に戻ってきたのと
向ら襲撃班が乗った車が到着したのがほぼ同時だった。

高橋らが見守る中、向が焼香台へ歩を進める。

直後「パン、パン、パン!」と
激しい拳銃の炸裂音が境内に響いた。

高橋には事の事態がのみこめなかった。

大勢の人間が錯綜し、二手に分かれて銃撃戦はなお続く。

桑原が倒れ、向が倒れるのを視界にとらえた気がした。

瞬間、高橋は胸に強い衝撃を受けた。

「だ、誰だ! 俺を撃ったのは …」

理解しがたい事実を確認するように高橋は叫んだ。

やがて、高橋の体はゆっくりと崩れ落ちていったのだ。


(了)
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