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【14】

今日は夕刊太郎だよ!あぽけん!  評価

あぽけん(甘) (2022年11月07日 17時16分)

からあげ番長より立呑み、のほ幹さん、読者の皆さん、物語の最中に失礼致します。

からあげ番長より早番長の、あぽけんです。

墓場から墓標に変わりましたが、またゴエ姉さんが来て、滑り散らかさない事を願っております(笑)

遅めの夕刊にて、ご挨拶に代えさせていただきます。



それでは、引き続き物語をお楽しみくださいませ。
【13】

RE:THE  LAST  OF ...  評価

のほSEIL☆ (2022年11月06日 16時43分)


【博徒の歴史】

やくざ、の始祖は幡随院 長兵衛(ばんずいいん ちょうべえ)
というのが定説になっている。

十六世紀、室町幕府の衰退によって
世は群雄割拠の戦国時代となる。

あっちでドンパチ、こっちでドンパチ
本能寺の変など「仁義なき戦い」の元祖といえる。

秀吉亡きあと、満を持していた
家康の登場で戦国時代は終わる。

それまで戦場を疾駆してきた武士たちも
官僚に転進せねばならない。

剣の時代は去り、法律と
そろばんの時代がやってきたのだ。

この時代にあぶれたのが
徳川譜代の臣である旗本と諸国浪人である。

豊臣方の落ち武者、宮本武蔵はもちろん、
徳川家の戦闘部隊として
強兵ぶりを誇った旗本も
大半は邪魔者扱いとなった。

安い禄に甘んじて無為徒食の
道に追い込まれてしまう。

主家を失った浪人に至っては
いっそう、惨めである。


自暴自棄になった一部の旗本は
新興都市・江戸で乱暴狼藉を働き
「旗本奴」を名乗った。


「将軍(うえさま)をとりまく老臣どもは
大名に機嫌をとられ、
武士(もののふ)の心をわすれておる」


彼らの欲求不満は異装束となった。

月代(さかやき⇒ちょんまげの地肌)を剃らず、
蓬髪となった。


髭で顔を埋め、浅黄木綿に
派手な動物の絵を染め抜いた
小袖の上に真紅の袴を着けるという
異様ないでたちで、街を練り歩いた。

これがやくざの「彫り物」の原点と観るむきもある。


ちなみにやくざの世界では
褒め言葉としての「刺青」(いれずみ)
という表現は使わない。


「刺青」は刑罰の一種であるから、
誉めるときは「いい傷ですねぇ♪」という。


「旗本奴」は刀の柄に白いシュロを巻きつけた
「白柄組(しろつかぐみ)」や
「神宜組(しんぎぐみ)」などと名乗り
徒党を組み、うっぷん晴らしに町人をいじめ、
無理難題をふっかけ喧嘩を生き甲斐にした。


こうした「旗本奴」に対抗して
町人の保護を自ら買ってでたのが「町奴」である。

「強きをくじき、弱きを助ける」という
古典ヤクザの話にでてくる
任侠道精神はこれが原点である。


(↓)
【12】

RE:THE  LAST  OF ...  評価

のほSEIL☆ (2022年11月06日 16時42分)

その「町奴」の頭領が幡随院 長兵衛であった。

長兵衛は肥前・唐津(佐賀県)の浪人の子で
本名は塚本伊太郎。

江戸・浅草で口入れ業(土木工事の周旋)をしていた
山脇惣左衛門の娘を女房として跡目を継いだ。

戦国時代の戦闘部隊として活躍した旗本も
泰平の時代となると家来を飼うのも無駄となる。

しかし、幕府は江戸の土木工事に
戦時の出兵と同じように
郎党を差し出すように旗本に命じた。

そこで長兵衛のような口入れ業が栄えたのであった。

長兵衛は周旋手数料をとるだけでなく
郎党を長屋に詰め込み、賄いをし、
労働賃金のアタマをはね、
博打を打たせて「テラ銭」をとった。


これが、博徒、つまり
「やくざ」の始まりである。

では、なぜ博徒が江戸で力をつけたか。

日本では江戸・徳川三百年の鎖国時代に
商品経済〜貨幣経済が発達したからである。


博徒は金が動き、労働者が集まる都市に発生した。

こうした江戸経済の落し子は各地に広がってゆく。

国定忠治を生んだ上州は蚕糸の生産地であり、
清水次郎長を生んだ駿河の名物はお茶であり
清水港の廻船業が盛んだった。

つまり、地方でも貨幣経済を
促進する名物があれば、博徒は必ず発生した。


幕末になると、いよいよ
博徒の勢力は強くなった。

貨幣経済が発達してくると
実質的な権力を握るのは商人である。

商人への富の集中は汚職政治を産み、
領主の搾取によって全国で百姓一揆が広まった。

そうした悪政時代に博徒は
着々と勢力を蓄えていった。

貨幣経済の発達は働かなくても
食える人種を作り出したのである。

明治維新後、賭博が厳しく取り締まれるように
なってからしばらくは博徒は自らを
「無職渡世人(ぶしょくとせいにん)」と名乗った。


関東大震災〜世界恐慌を経て
世情が閉塞した昭和の初めになって

「俺たちゃ、しょせん、やくざもんだ」

と名乗りだした。

つまり「やくざ」という言葉が普及したのは
まだ、百年ほどに過ぎない。

(↓)
【11】

RE:THE  LAST  OF ...  評価

のほSEIL☆ (2022年11月06日 16時41分)


【親農道】

一方、神農道(テキヤ)の始祖は
大阪・夏の陣の前、豊臣方の浪人たちが
資金稼ぎに香具などを売って歩いたのが始まり、
と言われている。

それで香具師(やし)と呼ぶのだという。

やがて豊臣方の敗色が濃厚となると
敗残兵たちは味方の刀、
槍すらも収奪して売り歩いた。

こうした「野ぶせり」と呼ばれる人々の源は
日本古来の「やまたか」と呼ばれる
移動民族か朝鮮半島の渡来人であった、という。


神農は「商い」を業としているので
その戒律は博徒より厳しい。

三戒律というのがある。

「売(バイ)うるな」

「タレこむな」

「バシタとるな」である。

「売うるな」とは商品だけを仕入れて
持ち逃げ、横流しを禁じるもの

「タレこむな」は仲間内のトラブルは
官憲に訴えず、解決すること


「バシタとるな」は、
テキヤはしょっちゅう、
タビして歩いているので
他人の女房に手をだすな、
という意味である。

この戒律があるため、盃事においても
博徒より神農の方が重厚なものとなる。

「天照大神」「八幡大菩薩」
「春日大明神」の三神の軸を飾り
伝来の日本刀などを相続するのは、
儀式を宗教的に昇華させることにより
契りを深める、という狙いがあるが、
現代ではテキヤは露天商組合という
堅気の正業であり、そうした神事を
見ることはほとんどない。


博徒とテキヤの結びつきは
主にテキヤが方々を旅して
各地の賭場に客として
金を落してゆくことから、始まっている。


また、縁日や露店の縄張り争いでは
ふだん、肉体労働をしているテキヤの方が強かった。


そのテキヤたちも漁港町の荒くれ漁師との
ケンカになると一目散に逃げだした、という。から面白い。


終戦直後になると闇市などの運営はテキヤが行い、
その治安を守るのが博徒として結びつきが強まり、
合併して現在の暴力団という組織化した例も少なくない。


(↓)
【10】

RE:THE  LAST  OF ...  評価

のほSEIL☆ (2022年11月06日 16時40分)


【愚連隊】

博徒、テキヤが武家社会を祖としているのに対し
愚連隊なるものが誕生したのは、近代、である。


博徒の項で紹介した「旗本奴」自体を
愚連隊と位置づけることもできるが、
大正12年(1923年)の関東大震災後の
混乱に乗じて横浜から流れ込んできた、
不良少年の一党が始まりとされている。


彼らは、壊滅した首都の繁華街、
新宿、渋谷、池袋下町の浅草などで
強盗や略奪を行いそれまで博徒、テキヤが
仕切っていた縄張りを荒らしまわった。


流言飛語で朝鮮人の虐殺事件が起きると
集落の用心棒を名乗り、みかじめ料をまきあげた。


上下関係もルーズで、とにかく暴れるだけの
「愚」な連中として、組織の暖簾を守ってきた
博徒やテキヤからはボンクラやクスボリ、と呼ばれた。


ボンクラとは「盆」いわゆる「賭場」での
コマ(賭金)の配分計算もできない頭の悪いことから
「盆に暗い」が転じてボンクラと呼んだ。


クスボリは博徒の組から正式な客として扱われず
賭場で「くすぶっている」連中のことをさしている。

かの山口組三代目、田岡一雄も自伝の中で

「昭和四年当時、わたしはまだ、
神戸、新開地のクスボリだった」

と書いている。

震災の影響で東京の映画撮影所が灰燼となり
興行の中心は大阪、神戸に移っていた。

関西では、このほかに
バラケツという呼び名もあった。


「ばらける」「ほどける」からきたもので
くずれた人間の意味である。

喧嘩を売り物にした硬派の不良学生をこう呼んだ。

こうしたクスボリとバラケツは、しばしば衝突し、
腕っぷし、の良さを買われた男が
土建業者や興行主の用心棒を経て、組織の盃を受けた。

田岡一雄は相手の両目を指でえぐる、という必殺技で
クスボリ仲間からは「クマ」の名で怖れられ、
やがて、二代目山口組・山口登の盃を受けている。


愚連隊のピークは太平洋戦争の終戦直後から
昭和三十年代初めにかけてであった。


関東大震災当時と同様、
世情が混乱し、人心が
荒廃した時代の必然でもあった。


戦後の愚連隊は
朝鮮、台湾、中国人などが
警察権力が及ばない「戦勝国特権」を
ふりかざした「民族系」と戦場から戻ってきた
元、兵士の「復員系」

さらに体育会系学生による
「セイガク系」の三派に分かれた。


「セイガク系」の典型が渋谷で名を売った
安藤昇率いる「東興行」である。


終戦直後の治安は戦前からの
博徒の組織やテキヤに委ねられることが多かったが
やがて、復興事業のための土建業を表看板とした
戦後ヤクザが誕生するとこうした愚連隊を吸収して
現在の暴力団が誕生した。


昭和四十年代、高度経済成長時代に入ると暴力団も
三代目山口組を頂点にした「山口組系」と
「反山口組系」に系列化され、
愚連隊は下部組織の予備軍となった。


暴走族や、そのOBで組織された「●●連合」
盛り場を徘徊する「チーマー」などが
現代でいうところの「愚連隊」である。
【9】

とある一弟子の宣伝文  評価

五右衛門座衛門 (2022年11月05日 00時25分)

エコーチェンバー現象とは?

エコーチェンバー現象(エコーチャンバー現象、Echo chamber)とは、自分と同じ意見があらゆる方向から返ってくる「反響室」のような狭いコミュニティで、同じような意見を見聞きし続けることによって、自分の意見が増幅・強化されることを指す。ツイッターなどのSNSや、インターネット掲示板など「同じ趣味・思想の人とつながることができる」場で起こりやすい現象だ。





お部屋の皆さま、こんばんは
(え?!いま!?)

ふと気付いたら再びの仁義部屋との事で

何やら本当にこれがラスト?!との事で

おめでたいですね!

おめでとうございます(果てなきペコリ)

ところで

上記にあるエコロジックチェンバレン現象(なんやそれ)に意味はありません

ただ、
「意識を共有できる」
「皆んなと共有したい」
という目線で、このSNS時代の末端とも思われるピワド談話室も成り立っているのは間違いないだろうと…

つまり

仁義とは何か?!
墓標に刻まれる名前は誰なのか!?
僕らの中にある仁義は何?!
そもそも仁義って何さ??

「ラストオブ〜」という事で、
今を生きる若者達にも
仁義とは何か?という永遠の果てなきテーマ
その答えをご提示くださると信じております
(ハードル上げすぎw)




さておき

パチンコ掲示板において、
ヤ◯ザをテーマとする物語でエコーチェンバーもヘッタクレもない気がしますがw
(そろそろ◯されそう)

ROM専の貴方も
そうでない初見の貴方も

心ゆくまで
我が師匠の結物語をお楽しみくださいませ

なお、物語をぶった斬るレスは随時募集中の御様子なので、何か書き残したい方はお気軽にどうぞ!




こんな宣伝文をご挨拶の言葉と変えさせていただきますm(._.)m
【8】

焼け跡の風雲児の光芒  松田義一  評価

のほSEIL☆ (2022年10月26日 19時52分)


関東松田組初代組長、松田義一は
終戦直後の東京・新橋駅前に広がった
膨大な闇市の利権を一代で
つかみとり、焼け跡の風雲児と呼ばれた。


松田は旧制の神田中学時代に番長を張り、
新橋駅前を根城とする学生愚連隊のリーダーとなる。

日中戦争が勃発すると
大陸ブームに刺激され
単身、満州に渡った。

大陸での消息は明らかでないが、
北満を流れ歩いて大連に落ち着き、
大陸ゴロのボスに納まって
関東軍に協力していたようだ、
との話が伝わっている。

帰国後の昭和十六年十月、
太平洋戦争開戦直前に
上野で傷害事件を起こし、
千葉刑務所に約一年服役。

出所後は浅草のテキヤに
身を寄せていたが、やがて敗戦となり、
松田は本格的に売り出してゆく。


古巣の新橋に舞い戻った松田は芝西久保、
桜川町に事務所を開き「関東松田組」を結成。

当時、新橋はテキヤ組織が乱立し、
愚連隊や在日朝鮮人らの進出で
複雑に利権が入り組み、
闘争が絶えなかったが、
松田は力によって二か月あまりで
そのほとんどを勢力下に収め
新橋駅前の闇市、露店市場を一手に抑える。

闇市露店からのカスリやショバ代は一日、
一升マス百杯に達し、組の金庫は
札束でうなっていた、という。

同時に組織もふくれに、ふくれあがった。
直系組員だけで百人、配下二千人ともいわれる
一大勢力になる。

昭和二十年暮れ、名門テキヤ・松坂屋五代目を継承。

一介の愚連隊からテキヤ社会の頂点に駆け上がる。

だが、松田はテキヤの旧態依然とした露店スタイルに
それほど希望を持っていなかった。

かねがね「露店の繁栄は商店街やデパートが息を吹き返すまでのせいぜい二、三年だ」と考えていたのである。

先見の明にたけていた松田は新橋駅西口に広がる
二千八百坪の強制疎開地域広場に目をつける。

マーケットを建設し、散在している露店を収容し、
ゆくゆくはデパート化、商事会社を起こし
興行、土建業などの多角経営に乗り出す青写真を描く。


松田にこうした近代化経営を授けたのは
ニューヨーク・ポスト紙の
東京特派員・ダレル・ベリガン
であった、と言われる。

べリガンは民主化建設に取り組むニッポン ―― という
取材の中で知り合い、親しくなった松田に関東松田組を
商事会社に改変して近代化を目指すべきだ、と説いた。

ベリガンは日本の民主化を妨げているものは
封建的家父長制という認識を持っていて
ヤクザ社会にその病理的構造を見ていた。

(↓)
【7】

焼け跡の風雲児の光芒  松田義一  評価

のほSEIL☆ (2022年10月26日 19時48分)

ベリガンと松田との間にどんな利害関係があったかは
不明だが、松田が本気でテキヤ稼業の近代化に
取り組んだのは確かなことだった。

計画通り、総工費一千万円を投じてマーケットの
建設に着手したのは昭和二十一年三月であった。

工事は予想以上に順調に進み、三か月後には
完成目前、というところまで来ていた。

そんな折り、六月十日夜十時ごろ、松田組事務所に
約束もなしに尋ねてきた男がいた。

松田のかつての舎弟で不始末から破門された男である。

「オヤジに会いたい」

応対に出た女中は気を利かせて
「出かけています」と答えた。

どう見ても歓迎すべき客とは思えなかったからだ。

「話がある。読んできてくれ」

男は松田の在宅を知っていたのだ。

この夜、松田は麻布のホテルで
べリガンと会う約束をしていて
その支度にとりかかっている最中だった。

訪問客がかつての舎弟と知り、松田は
「用件はなんだ」と着流し姿で応対に出た。

それから二人は二十分ぐらい話し合った。


ヒロポン中毒だった男がクスリをせぴりに来た、とも
破門を解いてくれ、という話だったとも
また、中国人の意を受けたマーケットの話だったとも
いわれるが、その真偽は不明である。

ときおり意見がぶつかる中、二人の声が
高く、荒くなってゆくのを女中は聞いていた。

やがて男は「じゃあ、帰るぜ」と席を立った。

男を送ろうとして、松田がドアの方へ
一歩、踏み出したとき、惨劇は起きた。

男が隠し持っていた拳銃を取り出すや、
ふりむきざまにぶっ放したのだった。

銃弾は松田の肩に命中したが、松田はひるまず
「待て!」と追おうとして五、六歩、
男に迫ったが、思わずよろけた。

そこを男は狙い撃ちして、三発目が
まともに松田の心臓をぶち抜いた。

銃声に驚いた松田の妻が短銃片手に
駆け付けたときにはもう、遅かった。

松田は血の海に沈んでいたのである。

着流しの胸がはだけ、松田の胸に彫られた
女の刺青が妻の目に鮮やかに映えた。

そして、その匕首をくわえた
ザンバラ髪の女の首筋あたりから
鮮血が脈を打って噴き出していた。


急を聞いて先代親分、後見人や舎弟ら
数十人が病院に駆け付けたが、もはや
医者の打つ手はなく、松田の命運は尽きかけていた。

死線をさまよいながら、松田は辞世の句を
こう、詠んだという。


   「松虫よ 美人の袖に 落ちて果て」


焼け跡の風雲児、松田義一は
三十六年の波瀾の人生に幕を降ろした。

(了)
【6】

雪国の抗争に散った二人の侠・星川濠希   評価

のほSEIL☆ (2022年10月15日 08時13分)

昭和六十年十一月十九日深夜、
稲川会星川組、星川濠希組長ら
一行七人は北見市の繁華街、
山下町のキャバレーで飲んでいた。

百人を超す客を収容できる大規模キャバレーも
閉店間際となった午後十一時三十五分、
店内はホステス十二人に対し、客はわずかに十八人だった。

花田組との「北見抗争」の手打ちを
三か月前に済ませ
星川濠希は上機嫌だった。

午前零時前、店内に蛍の光が流れ出した。

星川一行七人が陣取るテーブルは
店内の一番奥まったステージ脇であった。

「そろそろ引き揚げるか」

星川が手にした水割りのグラスをテーブルに置いた
そのときだった。

どこのテーブルからか、長身の男たちが近づいてきたか、
と思うと、一人がいきなり星川らのテーブルに飛び乗った。

次の瞬間、乾いた拳銃の発砲音が店内に響いた。

星川と隣にいた組員の二人がソファから崩れ落ち
鮮血が飛び散った。

拳銃を握りしめた男はテーブルの上に
仁王立ちになったままだ。

すぐ傍らにもサングラスの男が拳銃を構え
もう一人がステージ横の非常口前に立っていた。

ヒットマンは三人だった。

「キャ―ッ!」

というホステスの悲鳴があがり

「ピストルだ! 伏せろ!」の声が飛び交い
店内は騒然となった。

三人組は風のように姿を消した。


撃たれた星川は頭、胸、肩に計六発、
隣の組員も頭部に一発を受け、二人ともすぐに
救急搬送されたが、すでに死亡していた。

翌二十日午後、隣町で北見署捜査員が
不審な三人組を発見し職務質問。

それぞれコルト45口径、S&W38口径、コルト38口径
拳銃三丁を持っていたので緊急逮捕した。

三人はいずれも一和会加茂田組内花田組組員で
まもなく星川組長射殺を自供した。

三か月前、上層部の政治的判断で手打ちとなったものの
星川組によって組長を殺された花田組組員には
不満と怒りがくすぶり続け、ついにその夜
報復の銃弾が星川濠希に向けられたのだった。

(↓)
【5】

雪国の抗争に散った二人の侠・星川濠希  評価

のほSEIL☆ (2022年10月15日 08時08分)

射殺された星川濠希の葬儀は十一月二十三日、
北見署員二百人が警戒にあたるなか、
市内の組長宅で執り行われた。

小雪が舞う中、参列者は前日の
通夜に続いて六百人に及んだ。

星川は生前、花田組長射殺事件が勃発し
抗争の渦中にあったとき

「若い衆が長いツトメから帰ってくるまで
 オレは死ぬわけにはいかん」と口にしていた。

また、自身の心情を人に問われると

「好きで入ったこの稼業。
 死ぬときは同じ渡世の人間に一人で多く
 送ってもらえるような生き方をしたい」

との言葉を残している。

葬儀は盛大なものとなり、星川は大勢のヤクザに見送られ
死出の旅へと赴いたが、一家のために体を張った
若い衆の帰りを生きて迎えてやるという願いは
ついに叶えられなかったのである。

享年 四十。
極道としての男盛りだった。

北海道の炭鉱町、赤平で生まれた星川は
中学生時代からケンカ三昧に明け暮れ
数度の少年院生活を経て、十九歳のとき、
北見のテキヤの親分の盃をうけた。

以後、順調にテキヤ社会の幹部として
階段を上ってゆくが、昭和五十六年、
不始末から組織を破門され一匹狼となる。

その時期に出会ったのが千葉県館山市で一家を張る
稲川会幹部、岸本組・岸本卓也組長だった。

岸本組長の人望に魅了された星川はその盃を受け
北見市に稲川一家・星川組を旗上げする。

星川組結成、四年目にして起きたのが
花田組との血で血を洗う「北見抗争」であった。

この抗争にピリオドが打たれたのは星川濠の死から
二か月後の昭和六十一年一月。

双方にとって二度目の手打ち式には稲川会、一和会
双方の幹部六名が出席、実りなき戦争を終結させた。

この抗争によって星川、花田、両組が
失ったものは大きかった。

花田組は組長以下、五人の死傷者
星川組も組長と幹部組員二人を失った。

双方の逮捕されたヒットマンは計八人。
その量刑の合計は百三十八年であった。

(了)
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