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【44】

血染めの黙字録  評価

のほSEIL☆ (2023年06月03日 09時07分)

(四)

昭和十年 祖母、サヤが他界すると
福山で再婚していたすずよは
再び二人の息子をひきとった。

政寛は尋常小学校高等科に進んでいた。

兄、隆寛は学業優秀だったが、
政寛は異常な成長を遂げていた。

文字というものを何ひとつ
覚えようとしなかったのである。

授業中、教科書のページをクレヨンで
極彩色に塗りたくり、教師の言うことに
なにひとつ耳を傾けなかった。

大西は生涯、文盲に近かったという。

しかし、その色彩感覚には優れたものがあったのか、
小学校対抗の絵画コンクールでは
毎回上位入選する才能を発揮した。

しかし、読み書きのできないコンプレックスは
政寛に狂気を芽生えさせた。

その日、高等科へ進んでも相変わらず教室で
絵ばかりを描いている政寛へ担任の教師が
嘲笑まじりに話しかけた。

「大西、お前はペンキ屋にでもなるんじゃろうが」

「うん」

大西は邪魔されたくないのか
クレヨンを持つ手を動かしながら生返事をした。

教師は笑いながら続けた。

「ほいじゃが、ペンキ屋は字も書かにゃならんけん
 おまえには、おえんじゃろう
 脳病院で絵の先生にでもなるか」

おそらく、この時が政寛の
「眉間が縦に立った」最初であろう

脳病という言葉が政寛の屈折した心の闇に
鋭利な刃物となつて突き刺さった。

小さいときから、侮辱に対しては怒りを露に
体でぶつかってきた大西である

「なにぃ」

顔をあげて教師をにらみつけるや、
文鎮に手に足払いをかけ床へ押し倒した。

「この、どべくそ! おちょくるな!」

大西は教師に馬乗りになると
文鎮で力いっぱい殴りつけた。

教師は必死に防戦したがキューピー人形のような
大西の顔に凶相が現れたのに射すくめられて
逃げるのに必死になった。

やっと大西を跳ね返したとき、
教師の額はパックリと割れ
床は血塗れとなっていた。

学校から呼び出された母すずよの顔を見たとき、
ようやく大西の眉間の縦ジワは消えていた。
【43】

血染めの黙字録  評価

のほSEIL☆ (2023年06月03日 09時08分)

(三)

海軍御用達の雑貨商「よろずや」を営む
父、万之助と母、すずよの間に
大西政寛が生まれてまもなく、
万之助は大陸航路の船員たちを通じて
麻薬、モルヒネに手を染めた。

五グラム五円ほどのモルヒネを常用、
やがて禁断症状が現れるとすずよ、の知るところとなる。

「すずよ 後生じゃ、たのむけん、打ってくれ」

看護婦見習いの経験があることを知っての懇願だった。

すずよは断り切れなかった。

注射一本で人が変ったように明るく
元気になる夫を見ていればその場しのぎと
分かっていても手際よく注射ダコの上に針を刺した。

しかし、万之助の中毒症状が進み
五グラム瓶を12時間おきに使いだすようになると、
もはや「よろずや」の経営も傾きだす。

息子のモルヒネ中毒を知った母、サヤは激怒した。

万之助の非を棚にあげ全ては注射を手助けした
嫁の責任だとして、すずよをなじった。

さらにすずよの出自である
「ほいと谷」を持ち出し、
とうとう離縁を迫る。

すずよは四歳と二歳の可愛い盛りの
息子二人に後ろ髪をひかれながら大西家を追われる。

大正十四年、すずよが去って一年足らずで
万之助はモルヒネ中毒の末期症状のまま、この世を去った。

残された幼い息子は祖母のサタが
育てることになったが、両親のいない兄弟は
町内の悪童どもの恰好の餌食となった。

万之助の禁断症状は近所でも
知れ渡っていたからだった。

やせ細ってもつれた千鳥足で震えながら
歩くさまを知る子どもたちは大西兄弟をからかった。

「わりゃあ、ヨイヨイ、の子じゃけんのう
 ヨイヨイ、ヨッコラショ、踊ってみい」

言わば猿踊りの強要であり、最初はわけも分からず
真似をしていた政寛だったが、五歳にもなると
からかいの意味を知り、石をつかむと
猛然と殴りかかっていった。

政寛は育ての祖母、サヤに聞いた

「ヨイヨイってなんない」

狼狽したサヤは諭した

「脳病じゃけん、あがいに悪く言うもんとは違うんじゃ」

父親が脳病なら自分も脳病になるんじゃろうか

幼い政寛の疑心はやがて
歪んだ自我を形成してゆく。
【42】

血染めの黙字録  評価

のほSEIL☆ (2023年05月27日 09時23分)


(二)

昭和二十五年一月四日

敗戦から五年。
ようやく晴れ着姿の女性たちも
目立ち始めた穏やかな松の内だった。

初もうで客でにぎわう呉市本通りを連れ歩いていた
山村組客分、大西政寛と妻の初子は
酔った土木作業員数人とすれ違った。

初子は華奢で色白の和服美人、大西も男前。

似合いのカップルへの嫉妬心からか、
酔った男たちはヒョ、ヒョと
卑しい口笛で二人をからかった。

さらにその中の一人が

「このおなごは進駐軍のパンパンじゃろが」

と初子をからかった。

日ごろから女房だけは大事にしていた大西だった。

知る人が「眉間が立つ」と言ったように
眼光が鋭くなり、寄せた眉根の間から
額にスッと縦ジワが走った。

「なにぃ」

短いが腹の底から絞り出す声を聞いて、
まともに受け答えができた男は呉にはいなかったが、
彼らは大西の顔を知らずとも名前だけは
耳にしていたから不孝は倍化することになる。

二人に従っていた山村組の若者が
大西の顔色をうかがうまでもなく
前へ出て彼らをにらみつけた。

「わりゃあ、誰にもの、言うとるんない」

しかし、彼らは大西をなめきっていた。

「ほいじゃけん、言うとるんじゃ
 わしゃ、山村組の大西じゃ、
名前聞いて風邪ひくな」

一人が前に出てさらに啖呵をきった。

実際、彼は大西輝吉という二十二歳の青年で
同姓ということもあり偶然にも本人の前で
「悪魔のキューピー」の名をかたってしまったのである。

仲間たちも同じだった。
その啖呵を耳にすると同時に
下駄を手に大西らを威嚇した。

初子は握りしめた大西の袖を離さなかった。
離せば大西がどうなるか、わかっている。

「こらえて、ウチと逃げて」

すでに見物人の輪もでき始めていた。
大西は初子に引きずられるように
その中に消えたが、縦に立った眉間は元に戻らなかった。

大西政寛は山村組の客分だったが、事実上の若頭だった。

山村組組員はすぐに四方に散って
政寛の名をかたった作業員を割り出した。

その日の夕方五時半ごろ、冬の夕闇があたりを包む
神社の境内に大西輝吉は立っていた。

彼は次第に自分がどのような立場に
置かれているのがわかっていた。
彼を連れてきた山村組組員たちの
態度と物言いから、自分がかたった男が
今、目の前にいる大西政寛だと察しがついたからだった。

しかし、彼は虚勢と愛想をないまぜにして
ニヤニヤと笑いながら言った。

「さっきのことはこらえてつかぁさい。
 悪いことした、思うちょるけんね」

「なにぃ」

大西の眉間がさらに深く縦に立った。
呉の極道の誰もが怖れた表情だった。

大西輝吉は夕闇のなかで愛想笑いをこわばらせ、
土下座もいとわぬほど頭を下げようとしたが
反射的に体をひねって逃げようとした。

大西が腹巻から拳銃をとりだすのが
視線の端に入ったからだった。

しかし、その行動はさらに不幸を招くことになった。

大西はかつて何度か拳銃を抜きながら
撃たずに元に収めたことがある。
相手が平身低頭して謝ったからで、
そういう時、大西は拳銃を器用にクルリと回して
銃把でガツンと相手の頭を一撃して許していたのだ。

しかし、その時大西輝吉がそうしていたら
どうだったか、は分からない。

「クサリ外道 !」

大西政寛は虎のように底光りする眼で
愛用のコルト45口径の引き金を冷たく引いた。

境内に轟音が響き、男の後頭部は
脳漿を噴き出し砕け散った。
【41】

血染めの黙字録  評価

のほSEIL☆ (2023年05月21日 10時59分)

(一)

明治二十年(一八八七年)広島県一円が
凶作による大飢饉に見舞われた。

なかんずく広島市の北西部にあたる
山縣郡西部地域は太田川上流が豪雨で氾濫し、
農民たちの命の綱だったわずかな田畑は
すべて泥海と化して流された。

農民たちは家も村も捨て、
新たな土地を求めて南へ南へと
流浪した末に、一部の人たちは
呉市の山ひとつ東側の入江に面した
津久茂の集落にたどりついた。

呉では海軍の一大拠点となる
軍港建設工事が進んでいた。

群青の穏やかな海照りの浜は
長い流浪に疲れた人々の心を慰めた。

しかし、津久茂の農民たちもまた、飢えていた。

すでに畑の麦はまだ青い穂を
むしり炒って食べ尽くし、入江に沿って広がる
螺山(にしやま)に自生する犬酸葉(いぬすいば)など、
およそ口に入る野草もことごとく採り尽くしていた。

流れ込んできた難民たちは海に出て
カニ、エビ、貝などを漁る術を知らなかった。

飢えた人々は螺山に入って津久茂の者なら
絶対手を出さない毒草や毒茸を採って食べた。

土地の者はそれを見て見ぬふりをした。

貧しい半農半漁の集落にとって、
新しい移住者は生活を脅かす
侵入者だったからである。

農民たちはたちまち毒にあたって
バタバタと悶絶し冷たくなっていった。

家族や縁者のそうした死を眼のあたりにしながら
難民たちは毒草を採ることをやめなかった。

飢えの恐怖が死の恐怖より優っていたのである。

そうして墓所を持たぬ難民たちの亡骸は
螺山の奥深くに埋められ、墓石代わりの小石が積まれた。

そこを土着の人々はひそかに
「ほいと谷」と呼ぶようになった。

ようやく危機を脱して生き残った難民たちは
必死になって入江の干潟に南風を防ぐ
石塁を築いて耕し、螺山に段々畑を切り拓いた。

ささやかな水田とわずかな麦、芋が採れる
親子二代の汗水が結晶した矢先の大正六年、
隣町に海軍の水上基地が開設され、
次いで海軍工廠敷地として
津久茂一帯に白羽の矢が立った。

住民たちは立ち退き命令を突き付けられ、
自作農には涙金の補償が出たが、
小作人や借家人には一銭も与えられなかった。

補償金を手にした人々は新しい土地や
稼業を求めて津久茂を離れていったが、
金を手にできなかった者たちは
螺山の山腹に牡蛎のようにへばりついて、
また一から出直すしかなかった。

  すずよ の生家はそうした貧しい農民の一軒だった。

すずよ はふっくらとした色白で
貧しくとも快活な娘だった。

八人姉弟の三番目ということで、
口減らしのため幼くして看護婦を目指して
大阪の病院に住み込み奉公していた。

津久茂一帯が立ち退き騒動にあったころ、
帰郷して姉の嫁ぎ先である町ひとつ隔てた
小坪の港を訪ねたとき、そこで海軍御用達の雑貨商
「よろずや」を営む大西家の四男坊、
万之助に見染められた。

大正八年、十九歳ですずよは
大西家に嫁入りしたが、
万之助の母、サヤは「ほいと谷」出の
すずよを歓迎しなかった。

やがて長男、隆寛が生まれ
大正十二年、次男が誕生した。

すずよに似て、色白で目がキューピー人形のように
ぱっちりと丸い整った顔立ちの男の子は
「政寛」と名付けられた。
【40】

RE:THE  LAST  OF ...  評価

のほSEIL☆ (2023年05月21日 10時54分)

一年半にわたり二つのトピに
跨って綴ってきたヤクザたちの死に際伝説も
今回を最終章とすることにした。

そして、今回の連載を最後に
談話も休筆することを決めた。

思えば最初に談話に書き込んだころには
100を超える部屋があり所属していた
部屋主のおかげもあり多くの方々との
交流を結ぶことができた。

時代の流れか、パチンコ業界は衰退の一途で
ここ談話に往時の活況を望むのは困難な状況となっている。

自身もいつしか齢を重ね、
精神エネルギーの支えを失いつつある。


潮時であろう。


長きに渡り陰から応援していただいた方々に
この場を借りて厚く御礼申し上げたい。

さて、最終章は、やはりこの男の話で締めたい。

九年前、最初に墓場を立ち上げたとき
序章にとりあげた伝説の侠。

悪魔のキューピー、
こと大西政寛。

題して  血染めの黙字録    
【39】

最後の博徒 その究極の美学  波谷守之  評価

のほSEIL☆ (2023年05月09日 18時14分)

「最後の博徒」と言われた
波谷組・波谷(はだに)守之組長が
大阪市阿倍野区播磨町の自宅で
拳銃自殺を遂げたのは
平成六年十一月二日のことだった。

午後三時三十五分ごろ、当番組員が
「組長が頭から血を流して倒れている」と110番。

阿倍野署員が駆け付けたところ、
波谷組長が一階八畳間の寝室、
布団の上で頭部から流血して死亡していた。

枕元に使用したとみられる
実弾四発入りの38口径拳銃があり、
弾丸がこめかみから頭部を貫通していた。

遺書は残されていなかった。


葬儀は三日後、波谷家葬として
自宅でしめやかに営まれた。

読経の中、親族や組関係者が焼香。
生前の波谷組長の人柄からか、
堅気の参列者も目立ち斎場外の路上から
そっと手を合わせる人の姿もあったという。

博徒としての分をわきまえ、
派手なことを好まず
生涯、博奕以外のシノギに
手を染めなかった波谷守之。

自宅兼事務所には組の代紋や看板を掲げず
しもた屋風の家には
「波谷」の表札がかかっているだけだった。

大阪府警によると全盛期には
傘下二十団体、約二百五十人の組員を
抱えた波谷組員だったが、
平成二年の山口組との抗争以後は
組員の減少が著しく自決のころには
わずか数人を抱えるだけという状態であったという。

(↓)
【38】

最後の博徒 その究極の美学  波谷守之  評価

のほSEIL☆ (2023年05月09日 18時13分)

波谷守之は昭和四年十一月、
広島県呉市阿賀町でカシメ土建業・波谷組を仕切る
波谷吾一の長男として生まれた。

昭和二十年春、十六歳のとき、
広島一の博徒といわれた
渡辺長次郎の盃を受ける。

このとき、父の吾一はこう言って
息子を送り出したという。

「他人の茶碗には骨がある。
 今日からお前が一膳抱えるたんびに
 義理というもんが付いて回るようになる。
 この義理をよう返さんような男なら
 ひとさんはお前のことを
   ほいと、と呼ぶようになるど」

この父親の教えをひたすら守って実践に務め、
義を全うしたのが波谷の生涯だったともいえる。

波谷は「この親分が生きていたら
後の広島抗争は起きなかっただろう」
と言われる渡辺長次郎が原爆で死亡すると
渡辺の舎弟だった土岡博の盃を受け、
呉・土岡組組員となる。

当時、土岡組は呉市で最大勢力を誇ったが
新興・山村組との抗争で昭和二十七年、
土岡博組長が射殺されたのをきっかけに壊滅してゆく。

当時、殺人未遂罪で服役中だった波谷は
昭和二十九年、広島刑務所を出所すると
土岡・山村の広島一次抗争のさなかで射殺された
父・吾一の報復を胸に西日本各地の賭場を渡り歩いた。


波谷の博奕は親分衆の間で
「古風な美学を持った本物の博徒」
と評判になった、という。

少年のころから賭場に出入りしていた波谷の
度胸はケタ違いで、胴の資金がたまった頃を見計らって
一発勝負を挑んで、胴を潰した。

勝負事だけにもちろん負けるときもあったが、
波谷は顔色ひとつ変えずに賭場を去り、
その潔さでも侠名を高めた。


昭和三十九年、愛媛県宇和島市に身を寄せていた波谷は
三代目山口組幹部・菅谷政雄が市内に
菅谷組を興したのをきっかけに親交が始まり
四十五年、舎弟盃を交わし、山口組傘下となる。

四十七年、大阪に移った波谷は波谷組を旗揚げする。

五十二年、福井県三国町で菅谷から破門された
元舎弟「北陸の帝王」川内弘射殺事件が発生。

このとき逮捕されたヒットマンが
「波谷から殺害を命じられた」と自供したことから
波谷は殺人教唆などの容疑で福井署に逮捕される。

罪状否認のまま、起訴された波谷は一、二審で
懲役二十年の判決を受けるが、
一貫して無罪を主張して上告。

波谷のもとには戦後の冤罪、
再審事件をてがけた弁護士が集まり
ヤクザの事件としては異例の弁護活動を行い
五十九年四月「原審破棄、差し戻し」の
逆転判決を勝ちとり
七年ぶりに金沢刑務所を出所した。

晴れて無罪となり、復帰した波谷だったが、
ヤクザ社会はまたしても波谷を抗争の渦中に引き込む。


平成二年六月、九州・福岡で波谷組から山口組へと
寝返った組員を巡って銃撃事件が発生。

これをきっかけに波谷組と山口組は大阪を中心に
半年にわたって抗争となる。

その過程で山口組ヒットマンが一般男性を
波谷組幹部と誤認、射殺させるという惨劇が起きる。

この一件は冤罪弁護を担当した弁護士をして

「まるで江戸時代の(ヤクザの美学を持つ)化石のようだ」

と言わしめた波谷にとっては
衝撃の極致であったのは間違いない。

十二月、山口組と和解が成立、抗争は終結したが
以後、波谷はほとんど自宅にこもり、
近所の人もその姿を見かけることはなくなった、という。


渡世の表舞台から姿を消してから
四年後の拳銃自決。


それは波谷美学の究極の
実践だったのかもしれない。


(了)
【37】

平成ヤクザ武士最期の所作  鈴木竜馬  評価

のほSEIL☆ (2023年04月28日 09時01分)

住吉会・大日本興行最高顧問、
鈴木竜馬が壮絶な割腹自決を遂げたのは
平成十四年十月二十一日のことだった。

遺体の第一発見者は夫人だった。

午後七時半ごろ外出から戻った夫人が
鍵のかかった浴室を不審に思い
呼び出された若者がこじ開けると浴室では
鈴木が腹部から大量の血を流し、すでに息絶えていた。

遺体のそばには血塗れの柳葉包丁が落ちており
麻布署の現場検証、検視の結果
覚悟の割腹自決と断定された。

しかも包丁を腹に突き立ててから
心臓が停止するまでに七時間以上が
経過していたというから凄まじい自決であった。

遺書はなく、動機ははっきりしなかったが、
鈴木竜馬が自決に至った遠因は
その一年前の九月十八日に起きた事件と言われている。

その日、午後二時過ぎ、東京・赤坂の
大日本興行本部事務所を訪れていた二十人のうち、
一人が口論の果てに突然、拳銃を発砲。

事務所にいた大日本興行会長が
腕や首などに五発の銃弾を受け重傷
居合わせた幹部三人も負傷した。

撃ったのは同じ大日本興行系列組織の
組員でいわゆる内部抗争であった。

結果、二人が実行犯として赤坂署に出頭し
現場にいた四人が傷害容疑で逮捕されたが、
そのうちの一人が鈴木だった。

発砲した側の組長は住吉会から
絶縁処分となり、鈴木も破門処分となる。

因縁というか、その事件は鈴木にとって
昭和三十一年の「浅草妙清寺事件」の
再現と映ったかもしれない。

銀座警察として名を売った高橋輝男、
向俊平という当時の住吉会最高幹部同士が
ともに銃弾に倒れた事件である。

鈴木竜馬は高橋輝男の末子分にあたり、
この事件で宮城刑務所に服役している。

鈴木はヤクザに珍しく酒、
タバコはやらず大の甘党。

健康に気を使い毎朝のジョギングを欠かさず
読書家、論客で知られ、かなり異色の親分であった。

壮絶な自決を遂げたのは
破門が解けた翌日であった、という。

当時、傷害罪で係争中の身だったが、
自らを最高刑に処したのはヤクザ武士としての
見事な所作であったと伝えられている。
【36】

常在戦場の武闘派の最期    城島健慈  評価

のほSEIL☆ (2023年04月22日 13時16分)

平成七年三月三十日、午後三時を少し回っていた。

東京・六本木のパチンコ店「ミナミ」の出入り口で
突然、乾いた銃声四発が響いた。

その直後、濃紺のスーツに身を包んだ
身長160センチの小柄な男が背中、腰から
大量の血を噴き出し昏倒した。



白昼、都心の繁華街。

居合わせた五十人ほどの通行人の中から
女性の悲鳴が上がり、現場は騒然となった


撃たれたのは東亜会城島連合会会長・城島健慈。

救急車で搬送されたが六時間後の
午後九時過ぎ出血多量で死亡した。
五十二歳の若さだった。

警視庁捜査四課と麻布署の調べで
狙撃に使用した拳銃は38口径で
城島会長の背後から発射されており
四発のうち二発は胸、腹部を貫通、
二発が体内にとどまっていた。

つまり一発も外さず全弾命中していたわけで
その鮮やかな手口からプロのヒットマンと思われた。

城島健慈は関東二十日会所属、
東亜会理事長を務める大幹部であった。

本拠は大阪、高槻市においていたが
「ミナミ」の近くに東京事務所を構え、
ここで宝石商を営んでいた。

事件当日「ミナミ」は翌日の新台入れ替えの為、
午後五時に閉店予定だったが
城島は四日前に韓国から来日した先妻と
四歳の娘と待ち合わせをしていた。

つまり、内部事情に詳しい者の犯行とみられた。

生涯五十回あまりの抗争に参加し、
小柄な体に無数の銃創や刀傷を刻んだ
武闘派の壮烈な最期であった。

城島はその12年前にも高槻市の事務所を訪れた
三代目山口組・藤原組組員から三発の銃弾を浴びせられ、
医者から「もう、助からん」と宣告されたが
息を吹き返すという驚異の生命力を持つ男だった。

城島は一命をとりとめ抗争も和解となった当時、
病院のベッドで
「極道に斬った、はったはつきものや
 俺はこれまで五、六回は狙われ、
 今まで命があるのが不思議や
 今度こそアカンと思ったがまた、命を拾った
 つくづく悪運が強いんやな」とうそぶいたという。

そして抜糸一週間後には分厚い包帯を巻いた体で
高槻市内を飲み歩いたという伝説が残っている。


城島は昭和十七年四月、戦時下の満州に生まれたが
幼くして両親を亡くすという不幸な生い立ちだった。

終戦を迎えると兄とともに両親の故郷、
熊本の施設に預けられる。

山鹿市の中学を卒業、学業は優秀で
熊本の名門、濟々黌高校に入学したが
他校の不良とのケンカ三昧がばれ、退学となる。

自衛隊の入隊が決まったが上京した新宿で
東亜会の前身、東声会と交流をもつようになり
自衛隊を蹴って、ヤクザ稼業へ足を踏み入れた。

少年院を転々としたあと大阪へ渡り
ミナミ、キタ、高槻の愚連隊を束ね
正式に東亜会から盃を受けることになる。

当初は「東亜会友愛事業組合城島興行」として
スタートしたが翌年、三十一歳で
「城島連合会」を旗揚げする。

当時、城島は
「組織を大きくするためには
 私を追い越すぐらいの人材が
 一人でも多く集まらないといかん」
と盛んに口にしていたという。

京阪神には老舗組織が軒を連ねており、
そこへ関東二十日会系列の城島連合会が
割り込んだ波紋は大きく、常に抗争の嵐にさらされた。

「寝るときも腹巻の中に拳銃を忘れなかった」城島。

「常在戦場」の姿勢を貫いた男も
最後はついに背後からの凶弾に斃れたのだった。
【35】

舞妓も泣いた会津小鉄の残侠  図越利一  評価

のほSEIL☆ (2023年04月13日 07時26分)

京都の大名跡、会津小鉄会三代目・図越利一総裁が
山科の病院で八十七歳の天寿を全うしたのは
平成十年七月七日のことであった。

その通夜、本葬儀、告別式は四日間にわたって営まれた。

七日が近親者による仮通夜
八日が一般人の通夜
九日が稼業関係者による本葬儀
十日が告別式であった。

中島会事務所での八日の通夜には
会津小鉄会関係者五百人の三倍近い一
般市民千三百人が弔問に訪れた。

十日の告別式も一般の参列者が圧倒的で
参列の波は途絶えることがなかった。

出棺前、図越総裁の棺が組員らに担がれて
高瀬川を渡ると炎天下にもかかわらず
八百人近い人が見送り、その半分以上が女性で
涙ぐむ舞妓の姿もあったという。



図越利一は大正二年、京都生まれ。

若くして七条の貸元、中島源之助一家の
賭場に出入りしているうち、中島親分の目に留まり
昭和十六年、盃を受けわずか三年後には
中島一家若頭となった。

図越利一の名を京都中に知らしめたのが
昭和二十一年、日本人ヤクザと不良朝鮮、台湾人の衝突で
多数の死傷者を出した「京都七条署事件」であった。

当時、京都市内の不良朝鮮、台湾人は
各地で無法の限りを尽くしていた。

昭和二十年末、京都五条署が襲撃されたほか、
警官の拉致、暴行事件が頻発し一般市民は恐怖に慄いた。

彼らの前に武装解除された当時の警察は
無力で警官が駆け付けても
「俺たちは戦勝国民だ。日本の法律に従う必要はない」
と追い払われた。

一月十八日、七条署は闇米買い出しをしていた
朝鮮人三人を物価統制令違反で逮捕したが、
犯人は連行中に逃走し在日朝鮮人連盟事務所に逃げ込んだ。

七条署は身柄引き渡しを要求したが、連盟側はこれを拒否。
逆に朝鮮人四十人が七条署に押しかけ、抗議した。

これを受け、対立していた被差別部落出身の
博徒、テキヤらは、彼らを排除することで
警察を懐柔しようとして五百人が集結、
拉致されようとしていた七条署署長を救出した。

両者の対立は決定的なものとなり、
連盟側は七百人を動員して「七条署襲撃」を通告、
署幹部らは「親父さん、助けてくれ」と図越に泣きついた。

かねてから横暴を苦々しく思っていた図越は
申し出を受け若衆を呼号し完全武装で
迎え撃つことを決める。

一月二十四日、京都駅前で朝鮮、台湾人連合と
図越率いる博徒連合が激突、
大乱闘の市街戦となる。

これが結果死者三人(五、もしくは九人の説もある)
重軽傷者七十人を出した「京都七条署事件」である。

戦いの結果、不良朝鮮、台湾人の進出を阻止して
引き揚げてきた図越らを地元・七条の市民は
さながら討ち入りを果たした赤穂義士を
迎えるように拍手喝采でとりまいた、という。

昭和三十五年、図越は中島源之助が
病死すると二代目を継承。
まもなく京都ヤクザを大同団結する
中島連合会を結成する。

昭和五十年にはその実直で一徹な人柄が買われ
各組織の長老に推され、京都の幕末の大侠客
「会津小鉄」の大名跡を復活させ会津小鉄会三代目を継承。

代紋も伝統の「大瓢箪」に統一し
京都ヤクザ社会の頂点に立った。

カタギに迷惑をかけない、という任侠道を貫き
抗争を好まず、一般市民からの人望も厚かった晩年。

東京、稲川会会長・稲川聖城
神戸、山口組三代目・田岡一雄

と並ぶ残侠の最後はひとつの時代の終焉でもあった。
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