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【318】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年06月15日 16時37分)

【46】

汽笛は鳴りやんだ。

蒸気の噴出で鳴らせるこの汽笛には
手動用のワイヤーロープがつけられている。

このロープが突風でどこかにひっかかり、
蒸気噴出弁を開けてしまったのだ。

航海中に汽笛がひとりでに鳴り出すというようなことは
ブリッジの航海士や川上二等機関士はもちろん
近藤船長にも経験のないことだった。

それほどすさまじい風だった。

ブリッジの風速計は40メートルを超えてきた。

「これはひどい。アンカーを入れる」

近藤船長は言った。

このまま港外へ出てゆくのは明らかに危険である。

吹き返しは想像以上に強い。

用意していた二つの作戦のうち、仮泊して
やりすごすほうを彼は瞬間的に選択した。

「アンカー、入れます」

小石川三等航海士がブリッジの窓を開けて、
船首へ大声で言った。
船首には水野一等航海士が出航配置のまま残っていた。

しかし、強風に吹き消されて、
ブリッジのすぐ下にいる一等航海士に声が届かない。

ボイスチューブを使ったが、これもだめだ。
操舵手が伝令に走った。

「左舷機関、微速前進」

全速で走っていた洞爺丸は
左舷エンジンだけを微速に落とした。

いま、船は防波堤の出口を西へ走っている。

   
風は南だ。

だから風は左舷側へとほぼ直角に吹きつけてくる。

錨を下ろすには船を左旋回させて、
船首をまっすぐ風に立ててやらなければならない。

続いて船長は命じた。

「取舵一杯」

船首が南に向いたと思われたところで
船長は笛を吹いた。

錨を下ろせ、の合図である。

だが、これも船首に聞こえない。

船長は右手を振って右舷錨を下ろせと指示した。
右舷錨がただちに投下され、八節まで延ばされた。

一節は25メートルである。

続いて左舷錨が下ろされた。
こちらは七節で止めた。

「投錨時間、一九時〇一分」

小石川三等航海士が報告した。

「防波堤から真方位三百度、八・五ケーブル」
※一ケーブルは10分の1マイル  八・五ケーブルは1370メートルになる。

レーダーをのぞいていた山田二等航海士が
続いて投錨位置を報告し、それを海図に書き込んだ。
赤灯台の北西にあたる港外であった。

洞爺丸は停船した。

船首の一等航海士たちに戻ってこい、
と近藤船長は手招きした。

船首の甲板では舷側の手すりに
つかまらなければ歩けないほど
風は強くなっていた。
途中で足を滑らせて手を離した操舵手は
そのまま吹き飛ばされて甲板を転がり、
反対側の舷側に全身をいやというほど叩きつけられた。




青山妙子は三等食堂から船室に戻ってきて、
アンカーを打つ音を聞いたが
それがなんなのか、わからなかった。

食堂で彼女はお腹いっぱい食べた。

夕焼け雲を見て東京へ帰ろう、
と決めてから急に食欲がでた。

彼女には今日初めての食事がとてもおいしかった。

早く船が青森に着いてくれればいい、と思った。

一刻も早く東京へ帰りたかった。

勤めを変えてやり直そう、と彼女は考え始めていた。

あんな男のことはもう、忘れるのだ。

この船で青森に着くと何時の汽車に乗れるのだろう。
新しい旅に出るような浮き立つ気持ちで
時刻表をとりだしてみた。

午後十時四十五分に急行「きたかみ」がある。

船が青森に着くのは十一時二十分ごろだが、
きっと接続のため急行は待っていてくれるに違いない。

これに乗れば、明日の夕方、妹が勤めから
帰ってくるまでにアパートへ着ける。

妹はきっとびっくりし、喜ぶだろう。
その顔を思い浮かべながら、彼女はくすっと笑った。

切符は仙台までしか買っていなかったが、
船の中で変更ができるはずだった。

ボーイさんがきたら頼んでみよう、と思った。
【317】

S0S洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年06月15日 16時35分)

【45】

午後六時四十五分、イタリア船・エルネスト号が
再び函館港内を走錨し始めた。

風が強まり、波浪も高くなったため、あおられた船体が
いったんは固定していた錨を引きずり出したのだ。

南からの風をうけ、連絡船の航路になっている
港の中央に向かってエルネスト号は流されていった。

航路の両側をびっしりと埋めた船は
エルネスト号が近付いてくるのを見て
再び避難準備にとりかかった。

風下にいた連絡船は大雪丸、日高丸、
第六青函丸、第八青函丸だった。

いずれも機関をウォームアップし、
いつでも錨を上げられるようにしながら
サーチライトでエルネスト号の動きを追った。

交差するサーチライトの青白い光の中を
ときどき、船影が横切ってゆく。

エルネスト号の巨体から逃れようと
右往左往する民間の小さな貨物船だった。

港内には混乱が起き始めていた。

もはや、安全な錨地はどこにもない。

大雪丸でも日高丸でも船長は
めまぐるしく頭を回転させた。

波にもまれて逃げまどう貨物船がいつ、
こちらにぶつかってくるかもしれない。

それにこの風浪では次にどの船が
走錨を始めるかわからないのだ。

そのころすでに北見丸、第十一青函丸は
港外に出て、錨泊していた。
狭い湾内よりも行動の自由を保てる、
と判断したためだった。

青森から函館湾に入ったばかりの貨物専用船、
十勝丸も混雑する港内に向かわず
貨車を満載したまま、港外に錨泊した。

十勝丸はテケミせずに青森を出港した
この日、最後の下り連絡船だった。

いましがた出航した洞爺丸を除けば、
航路には一隻の連絡船もなくなった。

青森には羊蹄丸と渡島丸がつながれ、
残りの九隻の連絡船が函館に集っていた。

混乱した港内の様子を横目に
洞爺丸は航路を全速で進んでいた。

防波堤の赤灯台が左前方に見える。
この防波堤を過ぎれば港外で、
そこから進路をまっすぐ南へとるのだ。

ちょうど防波堤をかわそうとするころ、
ブリッジに激しく波しぶきがぶつかりだした。

波がしらが風に吹きちぎられて飛んできた。
ブリッジの航海士たちは思わず、顔を見合わせた。

不意に汽笛が鳴りだした。

外の様子を見やすいように明かりを消して
真っ暗にしてあるブリッジに
その音は高く、低く、不気味に響いている。

「なんだ ?」

船長がいぶかしげに言った。

自動汽笛の操作弁はブリッジにある。
しかし、誰もそれを押していない。

汽笛は鳴りやまずにいる。

「なぜ、汽笛を鳴らしているんですか」

二等機関士の川上昭夫がブリッジにとびこんできた。

当直までの時間を船底の自室で
横になっていた彼の耳にも
鳴るはずのない汽笛の音がよく聞こえた。

「鳴らしていない。わけがわからん」

山田二等航海士が叫び返した。

川上はすぐ甲板に上がった。

風に吹き飛ばされそうになりながら、
煙突の中にある自動汽笛の中間弁を手さぐりで閉めた。
【316】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年06月15日 16時32分)

【44】

海洋気象台の成田予報官は
部屋を出て、浜辺の方へ降りた。

朝から無線電信や電話の音の中で
天気図をにらみ続けていたせいで
顔がほてっている気がした。
 
少し風にあたりたかった。

戸外はもう暗くなろうとしている。

六時四十分だ。

厚みを増した雲の流れがあわただしい。
台風の吹き返しはいっそう、
強くなるだろうと思われた。

桟橋を離れていこうとする大きな船が見える。
いっぱいにつけた航海灯が迫ってくる
夕闇のなかにまぶしく輝いている。

連絡船だ。

岸壁を離れて港内に錨を入れるつもりだろうか。

しかし、それにしては船内が明るすぎる。
部屋のどの窓からもこうこうと灯りがもれている。

「まさか、客を乗せて出航したのではないだろう」

五時のニュースで連絡船が出航を
見合わせていることを彼は聞いていた。

さきほど青函局から問い合わせてきた電話には
「これから風が強くなる」と答えておいた。

いま、出てゆく船はないはずである。

成田予報官はもう一度、空を見上げた。
不気味な雲を背に函館山の
黒いシルエットが浮かんでいる。

明け方まで、忙しい夜になるな、
と成田予報官は予感した。

そのころ青森では羊蹄丸がテケミを続けていた。

「船長、何時になるのか、
  と客がうるさいんですが …」

事務長が顔を出して言った。

給士や事務長はテケミ中に乗客から
それを聞かされるのを一番嫌がる。

手持ちの情報がないからだ。

それで事務長は客の様子の報告をかねて、
船長の腹づもりを探りに来る。

乗客が不満口を言っているのを佐藤船長は知っていた。

さっきから何度かワイシャツ姿に
無帽で客室へ降りていって見ていたからである。

「意気地ないじゃないか。
  さっきは晴れていたくらいだし風なんかでないよ
 これで出さないなんて、船長の顔が見たいぜ」

そばに船長がいることも知らず
乗客たちは声高に言い合っていた。

出航予定時刻からもう、二時間以上待たされている。
不満といらだちが大きくなって当然だった。

いちばんいらだっているのは船長自身だった。

思ったほど気象に変化が起きてこないのである。

午後五時ごろから空は雲に覆われて、
雨がばらついている。

四時に6メートルに落ちた風は
そのあとずっと10メートル前後だ。

吹き返し、というにはあまりに弱く、
台風が去ってしまった、という自信がもてない。

気圧は午後四時ごろの981ミリバールを底に
上昇してきているが
六時にはまだ986ミリバールだ。

上がった、というのには心もとない。

むしろ、これは台風の中心がそれほど
遠ざかっていないことの証拠ではないだろうか。
この点の佐藤船長の判断は
洞爺丸の近藤船長よりよほど慎重だった。

もうひとつは風だ。

四時からずっと南南西の風が吹いている。

これは台風がまだ北海道の東側へ
抜けてしまっていないことを意味している。

東へ抜けたら風は北西に変らなければならない。
いましがた、竜飛崎と大間崎から
打電されてきた気象通報では
海峡の風は18〜19メートルである。

行こう、と思えばいける。

しかし、気圧や風向きを考え合わせると、
どこかおかしい。   すっきりしない。

はっきりと割り切れるまで、
彼は船を出したくなかった。
台風の眼は通り過ぎた、と彼も信じていた。
自分の目で見たのだから間違いないはずだ。

しかし、その後の台風の推移が見えてこない。

見えないなら、肉眼でそれを確かめない限り、
船は出すべきではないだろう。
もうしばらく待とう、と思った。

それは彼にとってあまり愉快な決断ではなかった。

意気地がない、と言われるぐらいなら
出航するほうがよほど気楽だ。

しかし、ここは辛抱しなければならない、と
佐藤船長は自分に言い聞かせた。
【315】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年06月12日 16時19分)

【43】

気圧の降下と急激な風速の増大とが重なり、
船長の出航の決意はぐらつき始めていた。

テケミしたほうがいい、と思った。

それが慎重な彼にこういう場合起きる
当然の反応だった。

しかし反面、頑固な彼はいぜん、
自分の読みにこだわっていた。

それが間違っているはずはないのだ。

もし、間違っているのなら、
現実に台風の眼が遠ざかっていったのに
気圧が下がる、ということのほうではないのか。

風にしたって、気まぐれな突風が
ちょっとやってきただけのことなのだ。

いったい、なにが俺の読みを
裏切ろうとしているのだ ――――

船長は自分自身に問いかけてみた。

しかし、彼の豊富な気象知識も長い経験も
なにひとつ答えを出してくれなかった。

出航すべきなのか、すべきではないのか。
決断のはざまに立たされているのを彼は感じた。

風の音に混じってドラが聞こえる。

出航五分前だ。

船長は白い髪をいちど手でなでつけて
帽子をかぶり直すと双眼鏡を首から下げて
ブリッジへの階段を上がった。


     出よう。


そのとき思った。

綿密な自分の読みを彼は信じたかった。

吹き返しが一時的に強いにしても、
そんなに長い時間続くはずはないのだ。
その時間を耐え抜く自信が彼にはあった。

一方で彼はもうひとつの柔軟な作戦も
腹の中に用意していた。

港外へ出て、あまりに風浪が
大きいようだったら、錨を入れて仮泊する。

相手と戦わずにやりすごす、のだ。

いかにも老練な船長らしい和戦両様の構えだった。

ブリッジに立った近藤船長の目の前では
石狩丸が揺られ、もがいていた。

まだ、接岸できないでいる。

うねりは相当ひどいと思わなければいけなかった。

出航予定の六時半をすぎてもいぜん、
石狩丸の接岸作業は続いていた。

係船索を投げるのだが、どうしても岸壁に届かない。
船首の正面に石狩丸がフラフラしている限り、
洞爺丸は危なくて出られない。

十分近くたって、五隻のタグボードに
押し付けられるようにして
ようやく石狩丸は第二岸壁につながれた。

それを確認して近藤船長は
小石川三等航海士に命令した。

「もやい綱をはずせ」

三等航海士の復唱を操舵手が受けて
船首と船尾へ伝えられてゆく

「船首、オールクリア」

「船尾、オールクリア」

一等航海士と二等航海士から返事がくる。

近藤船長は命じた。

「ワン・ロング・ブロー(長音一声)」

   高く、長く、汽笛が鳴った。

   午後六時三十九分だった。

「左舷機関、微速前進」

三等航海士が復唱して機関室から
アンサーが返ってくる。

船長が命じた。

「ハード・スタード・ボード(面舵一杯)」

操舵手が復唱しながら舵輪をくるくると回してゆく。

定員を超える千百六十七人の乗客と
百十一人の乗組員、三十六人の公務職員
合計千三百十四人を乗せて
洞爺丸はゆっくりと右へ回りながら岸壁を離れた。
【314】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年06月12日 16時15分)

【42】

港内にはまた風が強く吹き始めた。

それも深く吸った息を長く大きく吐き出すような
粘っこくて重く、速い風だった。

デッキにいた山田二等航海士は
足元をすくわれそうに感じた。

いよいよ、吹き返しが来たな、と思った。

それにしても吹き始めからなんと強い風だろう。

マストが悲鳴をあげるようにうなりだしている。

ちょうど目の前の第二岸壁には大雪丸が乗客を下ろして
沖出ししたあとへ石狩丸が入ってこようとしていた。

船を回して横付けしようとするのだが、桟橋側から
吹き付ける風のためにどうしても岸壁に近寄れない。

係船索を投げようにも風にあおられ、届かないのだ。

石狩丸はうねりの中であえぐようにもまれていた。

これはいけない、と山田二等航海士は思った。

おそらく桟橋の風速は20メートルを超えているだろう。
突風は25メートル、あるかもしれない。

と、すると函館湾を出て、
津軽海峡へ入ればもっと厳しい。

いま、出航するのは危険ではないだろうか。

彼はブリッジに上がり有川桟橋へ
無線電話で問い合わせた。

「現在の港内模様を知りたい」

有川桟橋は貨物専用で客船が発着する
桟橋から5キロほど北、港の出はずれにある。

そこへ問い合わせたのは
吹きさらしの有川の方がここより
風が強いだろうと思ったからである。

有川桟橋はすぐに答えてきた。

「南南西の風20ないし25メートル、突風32メートル」

思ったとおり、港の内ふところを少し出ただけで
突風は30メートルを超えている。

山田二等航海士は時計を見た。

六時三十三分だった。

そのまま、船長室へ降りドアをノックして
有川桟橋から聞いた内容を報告した。

「はい、どうもありがとう」

いつもと同じようなおだやかな口調で
近藤船長は答えた。

しばらく前まで出航できる、という
近藤船長の自信はほとんど揺らいでいなかった。

無線室に問い合わせた青森の天候は
午後六時に南南西の風、10メートル、
気圧は986ミリバールだった。

四時の6メートルより少し強くなっているが、
気圧は順調に回復してきている。

目的港のおだやかさが吹き返しはたいしたことはない、
という彼の読みを十分に裏付けているように思われた。

ただひとつ、気にかかることがあった。

船長室の気圧計の針が再び下がり始めていたのである。

五時に983.3ミリバールを指していた針は
しばらく横ばい状態だったが以後、
わずかずつだが降下してきていた。

もう、上がるだろう、とほとんど十分おきに
船長は気圧計に目をやった。
しかし、六時に981.6ミリバールになって
まだ下がり始めている。

「ほんとに妙な台風だ。
  眼が遠ざかっていきながら
  逆に気圧が落ちるとは、な」

何度も船長はつぶやいた。

そこへこの風だ。

船長室の窓が鳴る音で突然、
風が強くなったことはわかっていたが
港内の有川で突風32メートルという
二等航海士の報告は青森の吹き返しに比べれば
ほとんど信じられなかった。
【313】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年06月12日 16時11分)

【41】

午後六時、洞爺丸は出航配置の汽笛を二度鳴らした。

晴れ間は去って厚い雲が再び空を覆い始め、
急に薄暗くなってきていたが
風は穏やかだった。

桟橋にある運航司令室で
当直の西岡平次郎はどことなく不安を感じた。
これから風が強くなりそうないやな予感がした。

函館桟橋と青森桟橋の間には
電話による定時連絡が行われている。
船がスケジュール通り運航したか、
あるいはテケミしているかを
お互いに連絡しあうためである。

ついさっき、青森からは羊蹄丸と渡島丸が
テケミしている、午後四時前に
台風の眼が通って空は晴れ、風もおさまったが、
いままた、少し吹き始めている、
という連絡があったばかりだった。

彼がいやな気がしたのはこの
「また、少し吹き始めている」というところに
ひっかかるものを感じたからだった。

函館でも今しがたまで空はよく晴れ上がり、海もないでいた。
だが、青森で晴れ間のあとまた風が吹き始めたとなると
ここでもじきに風が強くなるのではないだろうか。

西岡は海洋気象台に問い合わせてみる気になった。

予報室の番号を調べてダイヤルした。

「青函局です。天気はこれで回復するのでしょうか」

「いまは静かですが」

相手は答えた。

「まもなく風は南西から北西に変って強くきます。
 25メートルくらいになるでしょう」

応対した成田予報官に礼を言って西岡は電話を切った。

運航司令室が日常業務として気象台に
天候見通しを尋ねることはない。

まして、それをもとに出航の可否を
船に指示したりはしない。

気象判断をして出航か、欠航かを決断するのは
船長で、いわばそのあとの船のやりくりを
考えるのが運航司令室の仕事である。

青函局長でさえ、船長の決定に
口をさしはさめない慣例になっているのだから
運航司令室にはなんの権限もない。

つまり、彼がこの日電話したのは業務というより
この日に限っての個人的な関心のせいだった。

実際、彼は運航司令室勤務になってこのかた、
気象台に電話したことなど一度もなかった。

しかし、まもなく風が強まる、
という返事を聞いた西岡はそれが
個人的な関心にとどまらないことを意識した。

すぐに桟橋助役への直通電話をとって気象台から
聞いた内容を洞爺丸に伝えるように言った。

桟橋助役は船へ上がり、
水野一等航海士にこれを知らせた。

水野は短く「わかった」と言った。

出航を前に航海士たちはみな、忙しそうだった。

車両甲板の後部開口には可動橋が架けられ、
置き去りになっていた米軍客用の
寝台車が積み込まれるところだった。
今度は十分、時間があった。

その下のボイラー室では火手たちが缶に石炭を放り込み
タービンエンジンの蒸気圧を上げ始めていた。

「おい、台風の眼を見たかい」

「眼? なんだ、それは」

「台風の眼を知らねえのか。
 おれも見たわけじゃないが、
  セカンドオフィサー(二等航海士)が
 見たってさ。きれいに晴れてたそうだよ」

火手たちは船底に近い部屋でお茶を飲んだり、
仮眠したりしていたので
誰も晴れ間を見ていない。

「待てよ。眼が通ったとすりゃ、
 これから吹き返しが来るんじゃないのか」

台風の眼に知識があるものが言った。

「そうだ、こいつはシケるぜ」

「だとすれば、出るのはやめてもらいたいもんだな」

桟橋改札口で番号札をもらっていた客たちが
洞爺丸に乗り込み始めた。

新しい客が入ってきたので
タラップが架けられたことを原田勇は知った。

しかし、さっきから船は揺れなくなって
節子も気分が回復したようだ。

これなら降りるより、
早く家へ帰った方がいい、と思った。
【312】

★☆〜インターミッション〜☆★  評価

野歩the犬 (2015年06月02日 15時46分)


 300トピを突破し、本編も丁度
 折り返し地点を迎えましたので
 少しばかり休筆いたします。

 
のほ
【311】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年06月02日 15時31分)

【40】

気象衛星からのデータが入手できる現代であれば
台風15号の位置は確実に捕捉できたであろう。

しかし、地上の観測網にしか
頼ることができなかったこの時代、
まだ捕まえきれていない重要な事実が二つあった。

ひとつは午後三時ごろ、青森県西方海上にあった台風は
西側から流入する寒気と東側からの暖気に刺激されて
さらに発達し、中心示度は960ミリバールへと下がった。

もうひとつは午後五時ごろ、函館の緯度線上にあたる
渡島半島西側の日本海上に来た時点で台風15号は
ちょうどそのころオホーツク海上に現れた
背の高い高気圧に妨げられて時速が110キロから
40キロへと急激に落ちてしまったのである。

低気圧が発達しながらゆっくりと
進むことほど恐いものはない。

同一方向の風が長時間にわたって吹き続けるからだ。

観測網はこの恐るべき変化が台風15号に
起きつつあることに気付けなかった。

二つの変化がいずれも観測地点から
隔たった日本海上で起きたためである。

では近藤船長たちが台風の眼と
信じた晴れ間はなんだったのだろう。

台風15号がこの朝日本海へ出たころ、
海上には複雑に低気圧や前線が発達していたが
午後になってそのうちのひとつの温暖前線が
台風に押し上げられるようにして北上を始めた。

函館で午後から強くなった東風は
実は台風の直接の影響というより
この温暖前線の仕業だった。

一方、台風の東側に寄り沿うかたちで
寒冷前線が北東進していた。

この寒冷前線は奥羽山脈北部で温暖前線とぶつかり
ちょうど青森付近で閉塞前線となった。

寒気は暖気の下に潜りこみ、
暖気は上空に持ち上げられて消滅する。

気圧は低下から上昇へ転じ、
風はなぎ、晴れ間がのぞく。

羊蹄丸の佐藤船長が台風の眼だと思ったのは
この閉塞前線のいたずらだったのである。

閉塞前線は台風と並行してさらに
北上を続け午後五時には函館に達した。

五時少し前から降り始めた滝のように激しい雨は
この前線が仕組んだもうひとつのいたずらだった。

閉塞前線が通過した瞬間、
函館でも風がなぎ、美しい青空が現れた。

つまり、洞爺丸で近藤船長が見た晴れ間は
その一時間ほど前に羊蹄丸の
佐藤船長が見たものと同じものであった。

二人の船長は台風の眼だと思ったものが
幻にすぎないことに気付かなかった。

自然は壮大な欺瞞をやってのけたのである。

だが欺瞞の罠に落ちた二人の船長を
責めることはできない。

成田予報官も札幌管区気象台も
この時点では閉塞前線の通過によって
海がなぎ、晴れ間がのぞいたことを
予測できなかったのだから ―――

それよりも重要なのは台風が観測網をかいくぐって
ひそかに日本海上で牙をむこうとしていることだった。

これからやってくるものこそが
本物の暴風雨圏でありそれがどれほど
凄まじいものであるか誰も知らなかった。
【310】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年06月02日 15時26分)

【39】

函館海洋気象台の成田信一は
予報室の外へ出て青空をながめ回した。

彼にもまた、その晴れ間は台風の眼だ、
としか思えなかった。

「おかしいな」   彼は首をかしげた。

台風は今ごろ、もっと西側、少なくとも
函館から百五十キロ離れた
日本海を通っていなければならないのだ。

「台風はあと一時間ぐらいで
  渡島半島西部に上陸し …」

という午後五時の時報直前に流された
台風情報は北海道全域の観測網から集められた
データをもとに札幌管区気象台が発表したもので
そのデータにはむろん、成田予報官自身の
観測結果が入っている。

「おかしいな」

彼はもう一度つぶやいた。

いま、ここに台風の眼があるという現実は
各地から積み重ねられた観測結果と矛盾している。

朝からずっと台風を追っている多くの観測者たちが
気圧計や風速計をにらんで緻密に包囲してつかまえた
台風の位置は虚構とでもいうのだろうか。

長く気象観測に携わっている彼もまた、
現実に台風の眼というものを見たことがなかった。

だが、この突然の晴れ間となぎを説明しうる
気象学上の知識は台風の眼でしかない。

そのことが彼を戸惑わせた。

函館の西方、百五十キロのところにあったはずの中心が
ここに現れるためには台風は直角に
東進しなければならない。

そんなことはありえなかった。

また、台風の眼にはかなり大きいものもあるが
その半径が百五十キロにわたる、
というのも考えられないことである。

さらにまた、眼に入ったにしては
気圧が下がっていない。
この疑念は洞爺丸の近藤船長が
抱いたものと同じだったが、
その事実が専門家としての成田予報官を
一層、戸惑わせた。

説明がつきかねるままに、
彼は台風の眼らしきものを観測したことを
赤川の本台に報告した。

赤川でも晴れ間を見ていたので
この情報はただちに札幌へ送られた。

札幌管区気象台はこの情報に緊張したが、
すぐほかの気象官署からデータをとって
台風の眼が函館を通過しつつある、
という考え方を捨てた。

たとえば函館より西に位置している
江差では午後五時すぎに
気圧が979ミリバールに落ち、
南東の風15メートル前後である。

また、函館の北西にあたる寿都でも
五時過ぎの気圧は979ミリバール
南南東の風、13メートル前後になっている。

同じころ、函館の気圧は
983ミリバールだから江差や寿都の方が
より、台風の中心に近いことは明らかだ。

しかも江差と寿都では南東〜南南東の風が
吹いているのであれば
台風の中心はそれよりさらに西側、
つまり日本海上にあることを示している。

それならば函館を覆っている
晴れ間はいったいなんなのか。

台風の中心が二つに分裂したのかもしれない、
と札幌の予報官たちは考えた。

そうだとしても函館の気圧が
江差や寿都より低くなっていない以上、
主たる中心はいぜん、渡島半島西方の日本海上にある。

観測上、函館の晴れ間は無視してよかったし、
そうすべきであった。

予報官たちのこの判断は正しかった。

台風の中心はその時間、間違いなく
日本海にあったのである。
【309】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年06月02日 15時19分)

【38】

近藤船長は自分の部屋の窓から青空を見上げていた。

この突然の晴れ間を彼も
「台風の眼だ」と判断していた。

気象好きな彼は自分のその判断に完璧な自信をもった。

「と、すると台風は西の方へずれたのではなく
 やはり、こちらへ来たのだな」

船長はひとり、指先で海図を叩いた。

彼があらかじめ立てた午後五時という
予想にほとんど一致している。

それにしてもなんと手を焼かせるやつなのだろう。

最初はずっと南を東進するように見えていた。

それがまっすぐ来るかと思ったころには
気象台の観測網には西に偏ったように見せかけ、
そのうえでいま、ここに正体を現したのだ。

もう、だまされんよ

そう、言ってやりたい気がした。

気をもまされ続けたせいで
近藤船長には空の青さがどこか毒々しく見えた。

気圧計は依然、983ミリバールのあたりを指している。

そのことがおかしい、といえば言えた。
眼に入ったら気圧はもっと下がるはずである。

「衰弱し始めているのだろう」

羊蹄丸の佐藤船長がしばらく前に
下したものと同じ判断を彼も、した。

午後四時より五時のほうが、
気圧が高くなった理由もそれで納得できた。
台風は遠ざかりつつあったのではなく、
やはり接近してきていた。
しかし、近付くにつれ、どんどん
衰弱したのではないか。

なんでもない低気圧になってしまった、と思った。

ただ、スピードだけは相変わらず速そうだ。

それはこちらにとって願ってもないことで、
あと一時間もすればうんと北の方へ遠ざかってくれる。

多少の吹き返しはくるだろうが
眼に入るまでの吹き方からすれば
おそらく、たいしたことはないだろう。

たしかに今までは荒れていたけれど、
航海しようと思えばできないことはない程度だった。

いまとなっては北上して去ってゆく
台風に背を向けて船は南下すればいい。

吹き返しに出会ったとしてもその時間はごく短い。

しばらく我慢すればあとは
おだやかな夜の航海になるだろう。

たぶん台風一過、満天に
美しい星をいただきながら ――

「よし、出よう」

近藤船長ははっきりと声にした。

念のため青森と津軽海峡の様子を確かめるため
無電室を通じて問い合わせた。

青森では南西の風10メートル、
気圧は985ミリバールである。

近藤船長は会心の笑みを浮かべた。

しばらく前に台風の眼が通過したはずの青森では
風はおさまり、気圧も順調に上昇してきている。

大間崎では南南西の風16メートル
竜飛崎では南東の風、やはり16メートルである。

どちらも20メートルを割っている。

海峡もようやく静かになる気配を見せ始めた。

午後五時四十分、近藤船長は水野一等航海士を呼んだ。

「六時半に出航する。六時スタンバイ」

「六時スタンバイ、了解しました」

水野一等航海士が弾んだ声で答えた。
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