| トップページ | P-WORLDとは | ご利用案内 | 会社案内 |
■ 1,796件の投稿があります。
<  180  179  178  177  176  175  174  173  172  171  170  169  168  167  166  165  164  163  162  161  160  159  158  157  156  155  154  153  152  151  150  149  148  147  146  145  144  143  142  141  140  139  138  137  136  135  134  133  132  131  130  129  128  127  126  125  124  123  122  121  120  119  118  117  116  115  114  113  112  111  110  109  108  107  106  105  104  103  102  101  100  99  98  97  96  95  94  93  92  91  90  89  88  87  86  85  84  83  82  81  80  79  78  77  76  75  74  73  72  71  70  69  68  67  66  65  64  63  62  61  60  59  58  57  56  55  【54】  53  52  51  50  49  48  47  46  45  44  43  42  41  40  39  38  37  36  35  34  33  32  31  30  29  28  27  26  25  24  23  22  21  20  19  18  17  16  15  14  13  12  11  10  9  8  7  6  5  4  3  2  1  >
【538】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時42分)

直前の脱盟
11月になってからも江戸潜伏中にも同志の脱盟があり、小山田庄左衛門(100石。片岡源五右衛門から金と着物を盗んで逃亡[56])、田中貞四郎(小姓あがり、150石。酒乱をおこして脱盟[要出典])、中田理平次(100石[57])、中村清右衛門(小姓、100石[57])、鈴田重八郎、瀬尾孫左衛門(大石内蔵助家来)、矢野伊助(足軽5石2人扶持)が姿を消した[58]。

そして討ち入り三日前の12月11日まで同志の中にいた毛利小平太(大納戸役[要出典]20石3人扶持[57])も脱盟し、最後まで残った同志の数は47人となった[54]。
【537】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時41分)

討ち入り日の決定
赤穂浪士達は討ち入りの日を12月14日に決めた。 これは、吉良上野介がこの日に茶会を開くために確実に在宅している事を突き止めたからである。茶会の情報を手に入れたのは 大石内蔵助の一族である大石三平であった。三平は茶人山田宗&#24487;の弟子だが、三平と同門の材木屋の所に在宅していた羽倉斎が江戸で新道や歌道を教えており、その関係で羽倉は吉良邸にも出入りしていて、この情報を聞いたのである[54]。

また赤穂浪士の一人である大高源五もやはり山田宗&#24487;の弟子で、彼も同じく14日の吉良邸での茶会の情報をつかんでいたという。しかし宮澤誠一は、これは歌人として人気の高かった大高に活躍の場を与えるための初期の実録書以来の俗説として退けている[55]。ただし、大高が茶会の情報をつかんでいたという話は『江赤見聞記』に記されているため可能性は否定できない[54]。
【536】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時41分)

深川会議
大石内蔵助は円山会議での約束にしたがい、10月7日に京を出て、11月5日に江戸に到着している[50]。道中には箱根を通り、仇討ちで有名な曾我兄弟の墓を詣でて、討ち入りの成功を祈願した。このとき墓石を少し削って懐中に納めたという[51] 。10月26日には平間村の家に入り、討ち入りの計画を練っている[50]。

このころ、同志たちはすでに困窮を極めており、大石瀬左衛門は秋も深まったのに着替えすら買えなかったというし、磯貝十郎左衛門も家賃が2カ月も払えなかったという。大石は彼らに金銭的な援助をしたが、すでに赤穂藩の残金も少なくなっており、もうあまり猶予はなかった[52]。

12月2日 頼母子講を装って深川八幡前の大茶屋に集まり、討ち入り当日の詳細を決めた(深川会議)[53]。
【535】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時40分)

神文返しと討ち入り候補の絞り込み
討ち入りの決行が正式に決まると、討ち入りに参加する旧藩士の絞り込みが始まった。

討ち入りの意志表明の身安になっていたのは、大石内蔵助が赤穂城受け渡しの時と深川会議の時に集めた神文で、最大時には120名ほどが提出していた。しかし、廃藩に伴って解散してから連絡が取れていない旧藩士も少なくなかったため、横川勘平が江戸、貝賀矢左衛門と大高源五が上方の同志の間を一人一人訪ねて回り、討ち入りの意志の確認が行われた。具体的には、「敵討ちをやめるほかない」とまず説明して提出済みの神文を返却し、受け取りに抵抗したものを志あるものとみなして、盟約に加えた(神文返し[9]。ここで一旦盟約に加えたものの中からもさらに離脱するものがあり、最終的に討ち入りを行った47人になったのは決行の数日前であった。

この際、大石の親戚でありこれまで大石の行動を支えてきた奥野将監、小山源左衛門、進藤源四郎の三人が脱盟している[49]。大石は討ち入りの際、家中の主だった面々が加わっている事を強く期待していたが、位の高い彼ら三人が脱盟したことにより、それはかなわなくなった[49]。
【534】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時40分)

浅野大学閉門と円山会議
そのさなかの7月18日、浅野大学に対して「広島藩預かり」という処分が下った。これはお家再興が事実上あり得ない事を示していた。大学は同日、本家の広島藩邸に移った[8]。

大学処分の報せが上方に届いたのは、24日であった。大石内蔵助が最後まで望みを託していた浅野家再興の望みは絶たれ、また堀部安兵衛らの突き上げを喰らって旧藩士が分裂寸前の状態にあっては、もはや討ち入りを止めることはできなかった。

7月28日、急ぎ京都の円山にある安養寺の塔頭「重阿弥」に近隣にいた同志が呼び集められ、会議が開かれた(円山会議)。この席で、大石は10月に江戸に下り吉良邸に討ち入る事を正式に表明した[8]。この会議に参加したのは、大石、堀部のほかに、大石主税、大石瀬左衛門、潮田又之丞、小野寺十内、小野寺幸右衛門、岡野金右衛門、大高源五、間瀬久太夫、間瀬孫五郎、原惣右衛門、貝賀弥左衛門、武林唯七、不破数右衛門、矢頭右衛門七、三村次郎左衛門、大石孫四郎、岡本次郎左衛門の19名で、この内、大石孫四郎、岡本次郎左衛門を除く17名が最終的に討ち入りの浪士の中に含まれている[46]。

なお円山会議は秘密会議であった為、議論の詳細は一切分かっておらず、今日伝わる円山会議の「詳細」と称するものは初期の実録本『赤城義人伝』で創出されたものである[47]。

堀部達は江戸に戻ると、隅田川で二艘の船を借り、月見の宴を装いつつ、船の中で同志達に円山会議の報告をしている(船中会議)[48]。
【533】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時40分)

山科会議
翌元禄15年(1702年)正月9日、原惣右衛門と大高源五が上洛、大石内蔵助と面会して堀部の訴えを伝えた。その後も京都周辺の旧藩士らと会合を重ねるが、上方勢は吉良上野介の隠居を「是切(これきり)の事と覚悟」はしながらも、早急に討ち入りを決行する方向へはまとまらなかった。大高は彼らの態度について「生煮え」と評し、落胆している。この頃、原から堀部安兵衛へ充てた上方勢の情勢報告では、討ち入り案への理解者として、小野寺幸右衛門、岡野金右衛門、大高源五、潮田又之丞、中村勘助、岡嶋八十右衛門、千馬三郎兵衛、中村清右衛門、中田理平次、矢頭右衛門七の名前を挙げている。

2月15日から数日間、山科に大石、原らが集まり、今後の行く末を決める会議が開かれた(山科会議)[38]。この会議は、先立つ旧藩士間での会談内容の色彩が強く[41]、「浅野大学の処分を待って事を起こす」という大石の従来の主張が通った。また、討ち入り期限としても、大石が新たに設定した「浅野内匠頭の三回忌」(翌年3月)が通った[38]。原らにとっても、大石抜きで討ち入りに必要な頭数を揃えるめどが立たなかった以上、大石の提案に賛同するよりほかなかった。

山科会議での決定を受け、討ち入り案件は「大学の処分待ち」となり、堀部ら急進派は大石による御家再興の運動を見守ることになった。この頃の大石は、大学の閉門が解かれたら、すぐさま大学に討ち入りの許可を取り、その上で吉良を討つことを考えていた[42]。大石がこのような仇討ちにこだわった理由は、事件当時「仇討ち」というのは、親や兄などの目上の親族に対して行うものであり、主君の仇を討つというのは前例がなかったからである[43]。しかし主君・内匠頭の弟である大学の指示によって上野介を討てば、従来通り兄の仇を討つという枠組みに収まる事になる。だから大石は、大学と無関係に討ち入りしようとする堀部達の意見には賛同できなかった[42]。後述するように、結局吉良邸討ち入りは大学の許可を得ずに行っている。このため討ち入りの際の口上書では、「君父の讐、共に天を戴くべからず」と仇討ちの概念を「父」から「君父」へと拡大している[44]。こうした拡大された価値観が武士社会へと受容される事で、赤穂事件は武士の生き方と道徳を変え、武士道概念の体系化を促し、大名の「家中」が武士の帰属する唯一の集団へと変わっていくのである[44]。

4月に入ると堀部らは再び大石抜きでの討ち入りを模索し始める。4月2日の原の堀部宛書簡では、大石抜きでも同志は14,5人ほど集められるめどであると報告(名指しされたのは原、堀部、奥田、武林唯七、大高、潮田、中村、岡野、小野寺幸右衛門、倉橋伝助、田中貞四郎の11人で、その他に3,4名ほど得られる目算であったと思われる)、7月中には江戸へ下る予定であった。大石が気にする大学への影響についても、大石に近いものを外して自分たちだけで討ち入りをしたら、大学に迷惑がかかることもないであろう、と推測した。また、大石の討ち入り期限の後ろ倒しに賛同した一部同志を名指しで非難するなど、大石・堀部両派の確執が深まっていった[45]。

大石は重ねて自重を呼びかけたが、堀部は6月に入ると十人ほどでも討ち入る覚悟を示し、大学の御家再興を待って帰参する心積もりの旧藩士らを「腰が立たない」言語道断のものであると切り捨てた。6月末に堀部は上洛して原、大高らと大石外しの相談に及び、7月中に頭数を揃えて江戸へと下る予定であった[45]。
【532】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時39分)

吉良の隠居
12月11日、吉良上野介の隠居と、嫡男義周(左兵衛)の家督相続が許可された[38]。

これを聞いて堀部安兵衛たち急進派は焦り始めた。隠居した上野介が、米沢藩上杉家に養子入りしていた実子の綱憲に引き取られてしまうと、討ち入りが難しくなってしまうからである[38]。堀部たちは、江戸会議のために下向してそのままとどまった原惣右衛門、大高源五と相談の上、上方へ戻っていた大石内蔵助へ書状を送り、上野介の居場所を継続して監視する手はずは整えており、自分は2月に上洛するのでそこで談判し、3月上旬には江戸にもどって討ち入りを行いたい、と具体的なスケジュールを提示してせかした[39]。また、渡世を度外視した浪人生活が一年近くに及び、当座の生活にも苦しくなる旧藩士の実情をも訴えた。

一方、大石にとっては、討ち入りの条件として「浅野家再興 および 吉良家への処分」がどちらもなされないこと、としており、後者がなくなった時点で討ち入りに反対する理由はなかった。しかし、浅野大学に対する処分が下る前に討ち入りをした場合は御家再興に影響が出る可能性があるため、引き続き討ち入りを先延ばしすべきだと主張した[38]。上野介が無理なら息子の左兵衛を討てばよいし [39]、閉門はたいてい三年で解けるものだから、大学の閉門が解かれるであろう主君の三回忌まで討ち入りを待ち、後悔しないようにすべきだといった[40]。

堀部は、大石が前言と違うこと(上野介がお咎めなしになったのに、討ち入りに賛同しないこと)を言い出し、更に期限を浅野内匠頭の三回忌まで延ばすことを提案したことから大石に対して不信感を抱き、原、潮田、中村、大高らと連携し、大石抜きで討ち入りに必要な頭数を揃える方向を模索し始めた。
【531】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時38分)

赤穂城引き渡し
これらの議論が行われるのと並行して、収公に向けた手続きが行われた。

まず、藩札の引き換えの方針が早々に決定された。藩庁は、藩札の交換レートを六分、つまり額面価格の6割と定め、改易の報が赤穂に届いた翌20日から換金に応じた[19]。この比率は他の藩札処理の事例と比べて破格の高さであった[注釈 3]。このとき大石内蔵助は次席家老の大野九郎兵衛と相談し、広島の浅野本家に不足分の金の借用を頼むことにしたが、広島藩は藩主が不在であることを理由にしてこれを断っている[24]。この件に限らず広島藩は、自藩に累が及ぶのを恐れ、赤穂藩に一貫して冷ややかな態度をとり続けた[24]。

そして、城に収められた武器については、城付き武具のほかは売り払いの許可がでたため、赤穂入藩時に前藩主池田輝興から引き継いだ分の武器以外は、大坂の商人が落札した。

これらの実務作業のほか、必要とされる書類については、元禄7年(1694年)の備中松山藩の転封の際に浅野内匠頭が受け取りを担当、大石以下赤穂藩士もこれに関わっていたため、書類作成もスムーズに進んだ。

4月19日、幕府派遣の受城目付荒木政羽・榊原政殊、代官石原正氏、受城使脇坂安照・木下&#13494;定立会いの下、赤穂城引き渡しが完了した。この引き渡しは特に厳戒態勢で行われ、脇坂・木下がともに軍勢を引き連れてきたほか、近隣の岡山・姫路・明石・徳島・高松・丸亀・松山の各藩が陸上・海上に軍勢を展開させた[25]。

その後も大石ら一部藩士は遠林寺会所を間借りして残務作業を続け、5月18日に全ての書類引継ぎが終了した。同日、奉行・小役人に魚料理が振る舞われ、士分のものには金子が渡された。
【530】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時38分)

改易当初の藩士の所見
事件が起こるとすぐに、事件を知らせるための早駕籠が赤穂藩へと飛んだ。

第一報は、14日未の下刻(午後3時半頃)に早水藤左衛門と萱野三平が早駕籠に乗って江戸を出発し、19日寅の下刻(午前5時半頃)に赤穂に到着した。この時点では、刃傷沙汰のみが伝えられた[19]。次いで14日夜更けに江戸を発した第二の早駕籠(原惣右衛門と大石瀬左衛門)が19日の内に赤穂に到着し、浅野内匠頭の切腹と赤穂藩の改易を伝えた。江戸・赤穂間の早籠は通常7日程度かかるが、この時は昼夜連続で駆け続け、4日半程度で赤穂に着いている[19]。一方、吉良上野介の生死が赤穂側に伝わったのは3月下旬であった[19]。

筆頭家老の大石内蔵助は、第一報が届いた時点で藩士に総登城を命じ、事件を皆に伝えた[20]。そして大石を上座に据え、連日[19]、城に集まって対応を議論した(『浅野綱長伝』)[20]。幕府からは城を明け渡すよう要請されていたが、赤穂藩士は内匠頭の家臣であっても幕府の家臣ではないので、幕府からの命令があったとはいえ、簡単に明け渡す事はできないのである[19]。一方で親族の大名家からは連日のように穏便に開城をという使者が派遣されていた。

家臣達の意見は、上野介が処罰されなかった事に対する抗議の意思を籠城によって示すというものが多かったが、大石はこの意見には与しなかった。籠城をすれば公儀に畏れ多いと思ったためである[6]。

また、内匠頭の弟にあたる浅野大学に迷惑がかかると大石が考えたのも、籠城を辞めた理由の一つである[6]。大石は城内での議論と並行して、上野介の処分を再考するよう城受け渡しの上使に嘆願書を出していたが[19]、この事が大学の耳に入ったため、籠城が大学の指示だと思われるのを恐れたのである[6]。

連日の議論を経て、大石の出した結論は、赤穂城の前で皆で切腹しようというものであった[6]。こういう決断を下したのは、切腹の際に自身らの思いを述べれば、幕府も上野介への処罰を考え直してくれるのではないかと考えたからである[6]。また、大石はほどなく切腹を口にしなくなるので、切腹という方針を出す事で本当に味方する藩士を見極めようとしたとする説もある[6]。

最終的に切腹という結論が出ると、切腹に同意する旨の神文(起請文)を60人余りが提出した[6]。

なお、議論がすぐに収束しなかったのは、次席家老の大野九郎兵衛等による反対意見もあった事による[6]。大野はとにもかくにも主君の弟である大学が大事だから、まずは穏便に赤穂城を幕府に明け渡すのが先決だと考えていたのである[21]。

しかし切腹の神文を提出する段になって、原惣右衛門が「同心なされない方はこの座をたっていただきたい」と発言すると、大野をはじめとする10人ばかりが退出した[6]。なお原はもしこのとき大野が立ち退かなかったら大野を討ち果たしているところだったと後で回想している[21]。大石は4月12日に赤穂城の明け渡しを最終的に決定した[22]。

一方で、この時点ですでに吉良邸討ち入りを明確に標榜していたのは、江戸藩邸詰めの堀部安兵衛・奥田孫太夫・高田郡兵衛の3人であった。3人はこの時点で、20人ほどの同志を得られたら直ちにでも討ち入りをする算段であったが、賛同者は得られなかった。国元での世論については情報を得られなかったため、籠城・討ち死にも視野に入れて赤穂へ向かい、4月14日に到着した。大石は3人に対し、将来の御家再興を視野に入れての自重を求めた。3人は他のものとも意見交換をしたが、いずれも一旦の恭順をとるという大石の意見に従っていたため、3人はこの時点での討ち入りを断念した[7]。
【529】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時37分)

浅野内匠頭の切腹・赤穂藩改易

浅野内匠頭の切腹(2009年赤穂義士祭にて撮影)
浅野内匠頭は目付より取り調べを受けたのち、幕府の裁定を待つため、芝愛宕下[注釈 2]の陸奥一関藩主田村建顕の屋敷にお預けとなる事になった。

内匠頭はこの時点から罪人としての待遇になっており、乗せられた駕籠は江戸城の平川門から出されたが、この門は「不浄門」とも呼ばれ、死者や罪人を出すための門であった[14]。16時頃に田村邸に到着して駕籠から降りたときには、すでに厳重な受け入れ態勢ができており、部屋は襖を全て釘づけにし、その周りを板で覆い白紙を張っていた[15]。

内匠頭の切腹の場所は田村家の庭で、畳2枚、若しくは筵(むしろ)をしき、その上に毛氈を敷いた上で行われた[14]。このしつらえは内匠頭の身分に不相応な略式であり、おそらくその背後に将軍・綱吉の強い意向が働いていたとされる[16]。

一方で、当時打ち首が屈辱的な刑罰だとみなされていたのに対し、切腹は武士の礼にかなった処罰だとみなされていたので、内匠頭は切腹を言いつけられた事に礼を言った上で切腹をした[14]。

切腹の際の立会人は検使正使の大目付庄田安利(下総守)と、 検使副使の目付多門伝八郎・大久保権左衛門、介錯は御徒目付磯田武太夫であった[14]。

遺体は浅野家の家臣達の片岡源五右衛門、礒貝十郎左衛門、田中貞四郎、中村清右衛門、糟屋勘右衛門、建部喜内によって引き取られ、菩提寺の泉岳寺にひっそり埋葬された[17]。

同時に赤穂藩の改易も決まった。まず伝奏屋敷に詰めていた赤穂藩士は、内匠頭が御馳走役を外されたことを理由に退去を命じられ、急遽御馳走役を引き継いだ佐倉藩主戸田忠真が到着したのと入れ違いに、上屋敷へと引き上げた。この時、藩士らが騒動を起こしたときに備え、武力で抑えられるよう上使に任ぜられた水野監物忠之の配下の者達に廻りを固めさせた[16]。14日夜、内匠頭の正室の阿久里は剃髪し、名を瑤泉院と改め、翌15日明け方に実家の三次藩主浅野長澄に引き取られた[17]。

15日からは江戸詰めの藩士が藩邸を退去、町家の借家に引き上げ始めた。18日には内匠頭の従弟の大垣藩主戸田氏定が、赤穂藩の地権書である朱印状を幕府へ老中土屋政直へ返還している。17日には上屋敷、18日には赤坂下屋敷、22日には本所下屋敷がそれぞれ、幕府に収公された。この騒動の最中、町人の中で藩邸に忍び込んで空巣をやる者がおり、大垣藩や浅野本家の広島藩から警護のものが派遣されている[18]。
<  180  179  178  177  176  175  174  173  172  171  170  169  168  167  166  165  164  163  162  161  160  159  158  157  156  155  154  153  152  151  150  149  148  147  146  145  144  143  142  141  140  139  138  137  136  135  134  133  132  131  130  129  128  127  126  125  124  123  122  121  120  119  118  117  116  115  114  113  112  111  110  109  108  107  106  105  104  103  102  101  100  99  98  97  96  95  94  93  92  91  90  89  88  87  86  85  84  83  82  81  80  79  78  77  76  75  74  73  72  71  70  69  68  67  66  65  64  63  62  61  60  59  58  57  56  55  【54】  53  52  51  50  49  48  47  46  45  44  43  42  41  40  39  38  37  36  35  34  33  32  31  30  29  28  27  26  25  24  23  22  21  20  19  18  17  16  15  14  13  12  11  10  9  8  7  6  5  4  3  2  1  >
メンバー登録 | プロフィール編集 | 利用規約 | 違反投稿を見付けたら