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【558】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時53分)

類似事件の先例について
先例として、赤穂事件以前に起こった江戸城内での刃傷沙汰には次のものがある。

寛永4年(1627年):小姓組猶村孫九郎が、西の丸で木造三郎左衛門、鈴木久右衛門に切りつけた事件。理由は口論によるもの。加害者猶村は殿中抜刀の罪により切腹改易、被害者鈴木はその時の傷がもとで死亡、改易。木造は回復したが、逃げたことを咎められ、改易。加害者は死罪改易、被害者は死亡改易の例。口論が原因であったことから、喧嘩両成敗にされたものと思われる。
寛永5年(1628年):目付豊島信満が、西の丸表御殿で縁談のもつれから老中井上正就に斬りつけ、正就と制止しようとした青木義精を殺害し、その場で自害した(豊島事件)。加害者は死亡改易、被害者は死亡の例。
寛文10年(1670年):殿中の右筆部屋で、右筆の水野伊兵衛と大橋長左右衛門が口論になり、水野伊兵衛が刀を抜いた。水野伊兵衛は殿中抜刀の罪で死罪となった。喧嘩相手の大橋長左右衛門は無罪。加害者は死罪、被害者は無罪の例。
貞享元年(1684年):若年寄稲葉正休が、本丸で大老堀田正俊を殺害し、正休もその場で老中らによって殺害された事件。加害者は死亡改易、被害者は死亡の例。
【557】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時53分)

「乱心」について
浅野内匠頭は刃傷の動機に「遺恨あり」と述べ、幕府もそれを採用したものの、遺恨の内容について何も語らないなど不自然な点が多く、実際には乱心であったとする説も根強い。また、上記の説全て決定打に欠け、どの動機も不自然であるのだから消去法で乱心説を取ることも論理的には可能である。

梶川与惣兵衛によれば、刃傷の少し前に梶川が浅野と話した時には特に異変を感じていなかったといい[127]、刃傷は突発的犯行だったことが推測される[127]。また、仮に吉良を傷つける動機(「遺恨」など)があったとして、江戸城中で、しかも勅使接遇という重要行事の最中に事に及ぶ理由がなく、更に殺意があったにもかかわらず、相手をつくのではなく袈裟がけに切りつけたのも不審点であることから[127]、浅野が乱心していたのではないか、ともされる[127]。

また田村邸に預けられた浅野内匠頭は家臣に次のように伝えてほしいと依頼したという(『御預一件』)

此段、兼ねて知らせ申すべく候ども、今日やむを得ざる事故、知らせ申さず候、不審に存ずべく候[128]
(このことは予め知らせておくべきだったが、今日やむを得ざる事情で知らせる事ができなかった。不審に思うだろう)
「今日やむを得ざる事情」があったという事は、この日に何かあって突発的に斬りつけたのだともとれる。少なくとも以前からこの日に斬りつけようと計画したわけではないと思われる[128]。

一方、『元禄世間話風聞集』には刃傷事件に居合わせた茶坊主のものとされる文書が残っており、これによれば内匠頭は「小用に立つ」といって席を立ち、大廊下を通り、「覚えたか」といって上野介に切りかかったという[129]。これを信じれば、上総介から悪口を言われた直後にカッとなって刃傷に及んだわけではなく、悪口のあと多少なりとも時間をかけた後に切りかかったことになる[129]。

2016年12月には、京都の西本願寺で事件直後に記した古文書が発見され、そこには「浅野内匠頭殿 乱心」「浅野内匠頭殿の乱心の様子を承りたい」とあり、乱心説は事件直後の時点で既に有力な説として存在したことは事実のようである[130][131]。
【556】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時52分)

茶器に関する怨恨
浅野家伝来の「狂言袴」という茶入れを吉良が欲しがったが、断られたため確執ができたとする説。

これは「余程後世になっていい出された説」[124]で、高山喜内の『元禄快挙義士の真相』に載っている[124]。

一休の書画の鑑定に関する怨恨
浅野内匠頭と吉良が茶会で出会い、山田宗&#24487;が持ってきた一軸を吉良が「一休の真筆だ」といったところ、内匠頭がそうでない証拠を出して吉良をやり込めたので、確執ができたとする説[124]。

実録本の『赤穂精義参考内侍所』に載っている説である。

しかしこの話は史料には見当たらず、しかも浅野内匠頭と吉良が茶会で平素から交流があったとしており、事実とは考えにくい[124]。

内匠頭の謡曲
明治末期に著された小野利教の『赤穂義士真実談』にでている話[124]。

元禄13年に内匠頭が謡曲熊野を舞ったところ、上野介から「クセがよくない」と非難を受けた事を内匠頭が根に持ったとするもの[124]。 これも一休の書画と同じ理由で信憑性がない[124]。
【555】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時52分)

浅野内匠頭任官のときからの遺恨という説
『赤城盟伝』には「上野介に宿意があるのは一朝一夕の事ではない。ずっと前からの事である」と書いてあり、この「ずっと前の宿意」が寛文11年浅野内匠頭が将軍家綱にはじめてお目通りした際、その場にいた上野介が内匠頭を侮辱したものだとするもの[124]。『赤穂記』にこの説が書いてあるが、寛文11年の段階では内匠頭は5歳であり、この説には信憑性がない[124]。

衆道に関する怨恨
浅野内匠頭のお気に入りの美しい小姓の日比谷右近を吉良上野介が懇望したが、断られたため確執ができたという説。

『誠忠武艦』という「幕末に成立した赤穂事件の経緯を真偽取交ぜてのべた」[125]文献にこの説がでている[124]。また『正史実伝いろは文庫』の十三回にも同じ話が載っている[126]。

しかし福本日南は「吉良上野介は61歳の白髪翁、最早若い衆の争いでもあるまい」としている[124]。
【554】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時51分)

塩の生産をめぐる対立

赤穂の塩田(赤穂市立海洋科学館)
浅野内匠頭と吉良上野介の確執の原因は、赤穂と吉良地方における塩の製法や販路の問題で対立があった事が原因とする説がある。

吉良地方に古くから伝わる伝説[121]によれば、吉良上野介が自身の知行所で塩田を開発しようとして、塩の生産で有名な赤穂藩に隠密を放った。隠密は赤穂藩で捕らえられたが何とか逃げ帰り、吉良領に赤穂の入浜塩田の技術を伝えたという[121]。

また昭和22年に田村栄太郎の書いた『裏返し忠臣蔵』でも塩に関する対立説を扱っており[121]、昭和29年には吉良出身の作家の尾崎士郎も随筆『きらのしお』でこの説を唱え[122]、他にも海音寺潮五郎や南條範夫もこの説に沿った本を出している[121]。

史実においても当時赤穂が塩田の技術で全国をリードしていたのは事実ではあるが[121]、この技術は決して秘密にされていたわけではない[121]。当時、赤穂の製塩技術は瀬戸内海各地に急速に広まっており[121]、仙台藩が塩業技術者を依頼してきたときも赤穂藩はこれに応じており[121]、吉良との間に塩業で確執が生まれるとは考え難い[121]。

また赤穂の塩が主に大阪で売られていたのに対し、吉良産の「饗庭塩」は三河など東海方面で売られており[123]、販路・商圏の点でも直接の競合関係になかったとされる[123]。

そもそも義央が刃傷事件に遭遇した元禄14年以前に開発された三河国幡豆郡の塩田は本浜及び白浜のみで、このうち本浜塩田が所在する吉田村は甘縄藩松平領、白浜塩田が所在する富好外新田村は幕府領でいずれも吉良領ではない。当然ながら吉良家の歴史の中で塩作りを行ったという記録は無い。
【553】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時51分)

否定された理由
持病説
浅野内匠頭は3月11日未明に勅使一行が到着してから心身に不調をきたしており持病の痞(つかえ)が出たと『冷光君御伝記』にある[117]。

立川昭二はこの痞は今で言う偏頭痛か緊張性の頭痛だろうと考察している[118]。 一方痞とは癪の事とも解され[119]、中島陽一郎の『病気日本史』によれば、癪は「胃痙攣、神経性の胃痛、心筋梗塞、慘出性肋膜炎、胃癌、後腹膜腫瘍、脊髄の骨腫瘍、ヒステリーなどを含んでいる」と考えられる[119]。

『江赤見聞記』によれば、浅野内匠頭は「持病の痞のために行動に対する抑制が利かなくなり刃傷に及んだ」という趣旨の事を述べている[119]が、痞が癪の事だとすれば、「痞が刃傷の原因だとはとても信じられない」[119]。 宮澤誠一も、「痞」が精神発作を起こしたという説を、「単なる推測の域を出ない」ものとしている[116]。

また浅野内匠頭の母の弟である内藤和泉守忠勝も延宝八年に殺害事件を起こしているため、浅野内匠頭も刃傷を起こしやすい血縁にあったという説があり、『徳川実紀』にも母方の伯父(つまり内藤和泉守)が狂気の者であったと記しているが[120]、この説は「そう考えれば考える事もできる」という程度のものである[17]。 しかも『徳川実紀』は江戸後期に編纂されたもので、必ずしも当時の記録によったものではない[120]。

仮にこうした持病説が正しいとしても、それは事件を及ぼす為の要因の一つであってもそれだけで事件の原因を十分説明しきれるものではない[120]。
【552】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時50分)

吉良のいじめ
史実に俗説を取り交えて書かれた[116]『赤穂鍾秀記』(元禄16年元加賀藩士の杉本義鄰著)の憶測によれば、吉良は元来奢侈で利欲深く、いつも過言し「付届け」の少ない者には指図を疎かにしたり陰口をたたいたりする人物であったという[116]。 同書によれば、浅野が吉良に付届けをしなかったので吉良は不快に思い、浅野が勅使をどこで迎えるべきかと吉良に問うたところ、「そんな事は前もって知っておくべきだ」と嘲笑し、「あのような途方もないことをいう人間にごちそう人が勤まるか」と少し声高に雑言したという[116]。同書はさらに、勅使が休憩する増上寺宿坊の畳替えを吉良が指示せず浅野内匠頭が危うく失態を招きそうになったという話や、「吉良から無礼な事をされても堪忍すべきだ」と親友の加藤遠江守から浅野が忠告されたという話が載っている[116]。

また後の「赤穂義士」観に決定的な影響を与えた室鳩巣の『赤穂義人録』(元禄16年10月著、宝永6年改訂)では、さらにはっきりと吉良が儀式作法を伝授する際「賄賂」を受け取っていたと書かれている[116]。同書によれば、浅野は公私をわきまえず贈り物をする気は全くなかった事が吉良との不和の根本原因となったという[116]。そして「大広間の廊下」で浅野は勅使の迎え方で吉良から侮辱される[116]。梶川が「勅答の礼が終わったら連絡してほしい」と浅野に伝えると、吉良は横から口を挟み、「相談は私にすべきだ。そうでないと不都合が生じるでしょう」と浅野を侮辱し、さらに吉良が「田舎者は礼を知らない。またお役目を辱めるだろう」と追い打ちをかけた為、浅野は刃傷に及んだという[116]。こうした記述に対し、刃傷の場に居合わせた梶川与惣兵衛の書いた『梶川与惣兵衛筆記』の記述と矛盾がある[116]ことが指摘されているが、刃傷沙汰当日の記述に相違がある事だけから「吉良のいじめ」自体が無かったとするのには無理がある。

他にも江戸幕府の公式史書である『徳川実紀』の元禄十四年(1701年)三月十四日条には、

世に伝ふる所は、吉良上野介義央歴朝当職にありて、積年朝儀にあづかるにより、公武の礼節典故を熟知精練すること、当時その右に出るものなし。よって名門大家の族もみな曲折してかれに阿順し、毎事その教を受たり。されば賄賂をむさぼり、其家巨万をかさねしとぞ。長矩は阿諛せす、こたび館伴奉りても、義央に財貨をあたへざりしかば、義央ひそかにこれをにくみて、何事も長矩にはつげしらせざりしほどに、長矩時刻を過ち礼節を失ふ事多かりしほどに、これをうらみ、かゝることに及びしとぞ
とあり、吉良が行っていたいじめに関して、当時から公然と認知されていた事が伺える。一方で吉良上野介によるこうした侮辱的ないじめ行為があり、耐えに耐えかねて刃傷に及んだというのであれば、何故浅野がそれらを幕府に訴えなかったのかという疑問は残されたままである。
【551】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時50分)

前回の勅使御馳走役の差
浅野内匠頭はこの時二度目の勅使御馳走役であったが、それゆえ「前々の格式」にこだわりすぎ、そこから吉良との確執が生まれたのかもしれない[112]。

また前回の勅使御馳走役の後、急激な物価上昇があった為、前回の額面が通用しなくなっていた[112]。 浅野内匠頭が「前々の格式」にこだわりすぎたとすれば、物価上昇ゆえ、現実にそぐわないものになっていたであろうし、 風説にあるように吉良に「付届け」が必要だったとすれば、その額も物価上昇ゆえに少なすぎるものになっていたであろう。

浅野内匠頭の性格
吉良を治療した金瘡外科の栗崎道有は『栗崎道有記録』で「我慢できない事でもあったのか、内匠頭は普段から短気な人間だったというが、上野介を見つけて小さ刀で抜き打ちに眉間を切りつけた」と述べ、さらに内匠頭と上野介の人間関係はかねてからよくなかったと記している[114]。

『土芥寇讎記』という、元禄3年時点での大名の家計、略歴、批評等を書いた本には「内匠頭は智のある利発な人物で、家臣の統率もよく領民は豊かである。しかし女好きが激しく、内匠頭好みの女性を見つけてきた者が立身出世し、女性の血縁者も禄をむさぼる状態にある。昼夜を問わず女色に耽っており、政治は家老に任せきったままだ」とある[114]。

そして同書は大石内蔵助と藤井又左衛門を主君の内匠頭を諫めない不忠な家臣としている[114]。

元禄14年春に作成された『諫懲後正』には内匠頭は武道を好むが文道を好まず、知恵もなく短慮だが職務を怠らず不行跡なことはないとしている[114]。

多門伝八郎は内匠頭が「私は乱心したわけではないから離してほしい」と内匠頭を抱きとめた梶川与惣兵衛に言っていたと書き留めており、当人の言によれば内匠頭は「乱心」したわけではない。幕府は当初、内匠頭が乱心したと思い、外科の栗崎道有を呼んだが、結局乱心ではないと判断されたため、治療の判断を上野介にゆだね、治療費は上野介の自費になった[115]。
【550】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時50分)

文中にある「喜六、政右衛門」は建部喜六(250石)と近藤政右衛門(250石)で、ともにこうした折衝にあたる江戸留守居役である[107]。

また事件直後に書かれた『秋田藩家老岡本元朝日記』にも次のようにある

吉良殿日頃かくれなきおうへい人ノ由。又手ノ悪キ人二て、且物を方々よりこい取被成候事多候由。先年藤堂和泉殿へ始て御振舞二御越候時も、雪舟ノ三ふく対御かけ候へハ則こひ取被成候よし。ケ様之事方々二て候故、此方様へ御越之時も御出入衆内々二て、目入能御道具被出候事御無用と御申被成候由二候[108][107]。
(吉良殿は平生から横柄な態度で有名な人物だということです。また手の悪い人で、方々から物をせびりなさる事が多いということです。先年藤堂和泉殿(高久、伊勢津藩主)へはじめて御振舞に御越になった時も、雪舟の三幅対の御掛け軸をかけたところ、せびって自分の物にしたということです。このような事を方々でなされるので、こちら様へ御越の時も御出入の旗本衆が内々に、よい御道具は出されない方がよいと御申しなされたという事です[107])
ただしこの記事は事件直後のもの[107]であるのにもかかわらず、この文章の前段には、松の廊下の刃傷事件の顛末が綴られているが、「切り付けられた義央が刀に手を掛けて「何をするか」と取って斬り返した」などと記されている。しかしこれは、実際の刃傷の経緯とはかなり異なる(梶川与惣兵衛の証言とも逸脱している)。

尾張藩士の朝日重章も『鸚鵡籠中記』に次のように記している:

吉良は欲深き者故、前々皆音信にて頼むに、今度内匠が仕方不快とて、何事に付けても言い合わせ知らせなく、事々において内匠齟齬すること多し。内匠これを含む。今日殿中において御老中前にて吉良いいよう、今度内匠万事不自由ふ、もとより言うべからず、公家衆も不快に思さるという。内匠いよいよこれを含み座を立ち、その次の廊下にて内匠刀を抜きて詞を懸けて、吉良が烏帽子をかけて頭を切る[107]
(吉良は欲が深い者なので、前々から皆贈り物をして物を頼んでいたが、今度の内匠頭のやり方が不快だということで、何事につけても知らせをせず、内匠頭が間違って恥をかくことが多かった。内匠頭はこれを遺恨に思って座を立ち、その次の廊下で、刀を抜き、声を懸けて吉良の烏帽子ごと頭を斬った)
山本博文は、「朝日は当時名古屋にいたため、全国的に広まった噂だったとみられる[107]。」と考察している。しかし、『鸚鵡籠中記』は英邁と言われた徳川吉通[109]を「愚行を繰り返す暗君」と評するなど、いわば主君を侮辱する「不忠臣」のような記述が多く、尾張藩では禁書扱い[110]で尾張徳川家では公式資料とはされていない[111]。

浅野内匠頭のストレス
『冷光君御伝記』によれば、浅野内匠頭は勅使御馳走役が嫌で仕方がなかったらしく、「自分にはとても勤まらない」と述べている[112]。 御馳走役はほぼ家中をあげて準備をしなければならず、接待費は藩ですべて持たねばならず、しかも典礼の詳細は高家肝煎である吉良の指図を受けねばならないなど、ストレスの溜まる仕事であった[112]。特にこの年は、綱吉が最愛の母を慣例に反してまで従一位に推そうとしていたため、綱吉は公家の接待に熱心であり、例年よりも緊張を強いられた[113]。

また内匠頭は11日ころから持病の痞(つかえ、詳細後述)が出るなど、心身に不調をきたしていた[112]史実から考察するに、内匠頭に御馳走役を務めるに当たり心理的ストレスが蓄積され、ストレスの暴発により、刃傷に及んだ可能性も考えられる[112]。
【549】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時49分)

賄賂
当時の文献には吉良が暗に賄賂を要求したのに浅野内匠頭が十分な賄賂をおくらなかった事が両者の不和の原因だとするものがある。ただし、五千石の高家である吉良から浅野などの大名が指南を受ける場合、指南料や何らかの贈り物をするのが当時としては慣例となっており、当然だった[107]。

賄賂に関して書かれた文献には例えば『江赤見聞記』の一巻があり、以下のように記されている:

上野介欲ふかき人故、前々御務めなされ候御衆、前廉より御進物等度々これ有る由に付き、喜六、政右衛門、御用人どもまで申し達し、御用人共も度々その段申し上げ候処、内匠頭様仰せにも、御馳走御用相済み候上にてはいか程もこれを進らせらるべく候、前廉に度々御音物これ有る儀は如何しく思し召され候由、仰せられ候。尤も、格式の御付届けの音物は前廉に遣わされ候由也[107]。
(上野介は欲が深い人なので、以前に御勤めなさった方も、前もって御進物等を度々していたので、喜六や政右衛門、御用人たちまで伝え、御用人たちも度々その段を申し上げたけれども、内匠頭様は「御馳走御用が済んだ後にはどれほどでも進(まい)らせたいと思う。しかし、前もって度々御進物を贈るのは、如何かと思う」と仰せられました。もっとも、決まった御付届けの進物は前もって遣わされていたということです[107])
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