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【345】

さんさんはなはなさんへ。  評価

パチ屋の狼 (2014年06月22日 14時29分)

お久しぶりです。

どうやら、こうして復活する事が出来ましたので、ご挨拶に参りました。

それと、前にあった私のトピを潰した直接の原因は、さんさんはなはなさんにはございませんので、そこはお気になさらないで下さい。

では、また今後ともよろしくお願いいたします。
【344】

RE:嵌張大好き(カンチャンだいす...  評価

環八 (2014年06月21日 23時46分)

お開きにしてください。



お世話になりました。



>   「じゃ、失礼します。」
【343】

RE:嵌張大好き(カンチャンだいす...  評価

井上陽水 (2014年06月21日 11時05分)


「皆さん、お元気ですか?」


   「じゃ、失礼します。」
【342】

RE:嵌張大好き(カンチャンだいす...  評価

環八 (2014年06月21日 00時43分)

このトピがまだ、生き残ってるので。


サザエさんの最終回についての都市伝説。




父親の波平さんは寝たきりになり、母親のフネさんやサザエさんは看護に疲れはてる。

かまってもらえないマスオさんは浮気に走り、サザエさんとの仲は険悪に。

カツオやワカメは非行に走り、タラちゃんは事故にあう。



*僕が考えたんじゃない。
【341】

RE:嵌張大好き(カンチャンだいす...  評価

環八 (2014年06月19日 20時02分)

映画監督:宮崎駿の場合。

《P−1》

宮崎駿もまた、母という病を引きずった人だと言えるだろう。

母親が、長く病床にあって、甘えられたなかったというエピソードは、『となりのトトロ』のような作品に昇華され、一つの美談のように語られることも多いが、渦中にいた当時は、きれいごとだけではすまないものがあったようだ。

宮崎は生来過敏な子供だった。内気でひ弱で、運動も苦手な、おとなしいが、爆発すると手が付けられない。『新しい服』が嫌いで、着替えるのに抵抗し、ひと騒動になったという。

好きだったのは本を読むことと、絵を描くことで、お小遣いのほとんどは本に費やしていたという。その小遣いは、潤沢に与えられていたようだ。

というのも、宮崎の実家は、当時、非常に裕福だった。父親は町工場を営んでいたが、戦時で、戦闘機の製造の仕事を請け負うようになり、工場には、千人を超える働き手を抱えるまでになっていた。

二千坪もある別荘を持ち、桧皮葺(ひわだぶき)の屋敷には滝や噴水があり、父親は貴重品となっていたガソリンで走る車を乗り回していた。

のちに、宮崎は、戦争で多くの人が犠牲になっているときに、自分たち家族が軍需工場の利益で、ぬくぬくと暮らしていたことに、強い罪悪感を抱くようになる。ことに、その思いを強くさせたのは、4才の時に襲った宇都宮大空襲の記憶だった。

宮崎の一家が、空襲を避けようと車に乗り込んだとき、子供連れの女性が、『乗せてください』と駆け寄ってきたのを振り切るように、車は走りだしていた。

どうして、誰も、助けてあげて、と言わなかったのかと、宮崎は悔やむ気持ちを語っている。
【340】

RE:嵌張大好き(カンチャンだいす...  評価

環八 (2014年06月19日 20時04分)

《P−2》


宮崎が、その後一時期マルクス主義に傾倒するのにも、そうした原体験が関係していると言われている。東映動画にいたころに、高畑勲とともに労働運動の先頭に立ち、熱心に活動することになるのだが、それも宮崎の純粋さを示すものだろう。

だが、小学校時代の宮崎には、そんな威勢の良さは片鱗も見られず、活発で、運動神経抜群で、リーダー的資質に恵まれていた兄に、いつも、いじめっ子から守ってもらわなければならなかった。

不安が強く、新しい環境になじむのにも時間がかかる方だった。小学4年生の時、宇都宮から永福町に引越したときは、『存在の根底を揺るがすような不安』を感じたという。

そうした背景には、過敏な体質ということだけでなく、少年・駿が置かれていた不安な状況も関係していた。母親が、彼が小学1年の時から、脊椎カリエスのため、長く病床にあったのだ。

だが、母親への思いは、それほど単純なものではなかったという。母親は『天空の城ラピュタ』に出てくる空賊の親分ドーラと雰囲気がそっくりの女性だったというから、たくましく、頼りになる一面の一方で、厳しく支配的なところがあったのだろう。

そんな母親に、駿は素直に甘えることができず、『いい子』を演じてしまうところがあった。そうした子供の常で、本音をぶつけることができないモヤモヤした思いを抱えていたに違いない。

しかし、心に秘めた思いや寂しさをずっと引きずっていたからこそ、『となりのトトロ』のような作品が生まれることになったのだろう。

彼の中には、自分は兄とは違い、母親から認めてもらえていないというコンプレックスがあったようだ。
【339】

RE:嵌張大好き(カンチャンだいす...  評価

環八 (2014年06月19日 20時01分)

《P−3》


しかし、兄に負けないこともあった。絵の才能だ。兄も絵が得意だったが、3年生の時、5年生の兄よりも、既にうまくなっていたという。

高校に進むと、駿は漫画家になろうという志望をはっきり持ち始める。しかし、父親から絵では飯が食えないと言われると、それ以上逆らえなかった。

芸術系の大学ではなく、学習院の政経学部に進んでいる。それでも、美術への未練は断ちがたく、アトリエに通ったり、中学時代の恩師の油絵を習ったりしていた。

ずっと反抗期のなかった駿が、真っ向から親にぶつかることができるようになったのは、彼が学習院を卒業し、東映映画で労働運動に携わるようになってからだった。

労働運動の先頭に立って活動した背景には、先に述べたような事情もあったが、それは同時に、それまで支配されてきた親の価値観への反抗という意味合いがあったように思える。

逆らったことのない母親と激論を戦わして、それでも母親が受け入れてくれないと、宮崎は悔しさで、涙さえ流すこともあったという。そのぶつかり合いと涙が、宮崎がずっと我慢していた何かを吹っ切るうえで重要だったように思える。

それは、親の支配を脱し、自分自身のアイデンティティを確立する大きな一歩ともなったはずだ。
【338】

RE:嵌張大好き(カンチャンだいす...  評価

環八 (2014年06月15日 22時06分)

水虫のCMを見ていて、いつも思う。

例えば、つい、いましがた見たCMでは、「24時間、かゆみを止める」と言っていた。『治る』とは言わない。

なぜだろうか。

水虫になった人は、『水虫は治らない。せめて、かゆみだけは何とかしてほしい』と思っているのではないだろうか。

それは、大間違いだ。

水虫は治るっ!!。

オレは、治した。

方法は、一つしかない。

皮膚科に行くこと。

医師に診てもらわないと、本当に水虫かどうかわからない。自分で、勝手に水虫だと思わないこと。

水虫と診断されたら、医師が処方してくれた薬を、3か月間塗り続けること。

『3か月間』というのが重要。

薬を塗ると、すぐにかゆみが止まり、1週間で、見た目がきれいになる。たいていの人は、そこで、塗るのを忘れてしまい、再発を繰り返す。

かゆみが止まり、見た目がきれいになっても、忘れずに、薬を3か月間塗り続ければ、治る。

以上。
【337】

RE:嵌張大好き(カンチャンだいす...  評価

環八 (2014年06月14日 21時56分)

《Pー1》


「永遠のゼロ」の主人公、宮部久蔵は、リアリスト(現実主義者)だと思います。


歴史関係の本は、だいぶ長いこと読んでないのですが、

政権が劇的に変わるときには、必ずと言っていいほど、大規模な内乱や戦が起きます。そして、その時代背景を背にして、リアリストが、静かに存在します。

内乱や戦というものは、新政権が確立されるためには、避けて通れないもののようです。新政権に対する反乱勢力を完膚なきまでに叩きのめさなければならないからです。

今、なんとなく思い浮かぶのは、源平合戦、島原の乱、西南戦争、太平洋戦争、と言ったところです。

例えば、島原の乱は、徳川幕府が成立する過程での最後の内乱です。徳川幕府への最後の抵抗勢力を鎮圧した乱です。

幕府は、この乱を鎮圧するのに、大変手を焼きます。天草四郎時貞の妖術に恐れを抱き、思うように攻め込めませんでした。しかし、ある局面で、ある有能な指揮官が登場します(名前は、忘れました)。

その指揮官は、天草四郎時貞の妖術は『妖術』ではなく『トリック』だと見破ったのです。リアリスト登場、といった感があります。彼が登場してからの幕府側の戦術は、ガラッと変わり、兵糧攻めで、原城を陥落させました。つまり、至って現実的な戦術で勝てる、と分かった、ということです。


天草四郎時貞は、妖術使いとして歴史に名を残しているようですが、僕は、彼もまた、リアリストだったのではないか、という気がします。
【336】

RE:嵌張大好き(カンチャンだいす...  評価

環八 (2014年06月14日 21時54分)

《Pー2》


島原の乱は、島原側には、はなっから、勝ち目のない戦いでした。そのことは、天草四郎時貞も、分かっていたはずです。圧倒的武力で襲いかかってくる幕府軍に対して、農民ばかりの集まりでは、勝てるはずなどないからです。

四郎は、自分の役目は、単なる「延命治療」に過ぎない、武力がないのなら、少しでも、延命するために、敵を惑わすしかない、と考えたのでしょう。そして、いずれ、トリックは見破られると思っていたでしょう。


島原の乱は、リアリスト対リアリストの戦いであり、幕府側の指揮官も、四郎も、島原側に勝ち目はない、ということを十分承知の上で、絶望的な思いで戦っていたのではないか、という気がします。勝敗を分けたのは、ただ単に、幕府側にいたか、島原側にいたか、という違いでしかなったんじゃないか、と思います。

日本人は、どうしても、判官びいきなところがあるので、そういった乱や戦で、敗北していった側の人物に対する思い入れが強いのですが、「リアリスト対リアリストの戦い」という視点で、改めて、そういった乱や戦を見直してみると、勝者になるか敗者になるかは、その時代背景が生み出した偶然だったんじゃないか、という気がします。

敗者となってしまったリアリストは、実に気の毒だ、と思います。


『永遠のゼロ』の宮部久蔵も、絶望的な思いを抱きながら、あの時代において、自分ができる精一杯の抵抗を示したリアリストだった、と思います。そして、彼に対して、最大の敬意を表した米海軍将校も、やはり、リアリストだったと思います。

勝敗を分けたのは、たまたま、日本側にいたか、アメリカ側にいたか、の違いでしかなかったのです。
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