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【4】

RE:仁義の墓場  評価

野歩the犬 (2014年01月05日 21時07分)


【悪魔のキューピー】


昭和十年。

日中戦争が目前に迫り、いよいよ軍国主義が台頭し始めた時代

広島・呉にカシメ業を専門とする「向井組」は旗揚げした。

カシメは元々、軍・政府から造船を請け負う
大手の造船会社の孫請組織だったが
軍艦を中心に造船産業が活況となり、
カシメ専門の組織が必要となったのだ。

その新興「向井組」の小頭として祖父は迎え入れられた。
親方の向井信一は祖父より三歳年下だったが、
昔から祖父の腕を高く買っていて、
是非にと、頭を下げた。

祖父としても「ほいと」の出身でありながら、
厚遇してくれる向井の心意気はありがたいものだったに違いない。

当時、カシメの外着用の半纏は、それだけで
遊郭の玉代(宿泊代)はあっさりと、借してもらうだけの箔があった。

盆、暮れに新調される「向井組」と染め抜かれた
黒羽二重の「印半纏」は祖父にとって
カシメ一代の誇りであり、宝物であったのだ。


ボーシンから組の幹部に昇格した祖父が
ヒトホドを十ほど、束ねて、采配をふるっていた翌年、
一人の少年が母親に連れられて、向井組の門をたたいた。

中肉中背。
色白で端正な顔立ち。
なにより、クリクリとした眼が印象的で人形のように愛くるしかった。

この少年が、後に「悪魔のキューピー」と呼ばれ
広島中の極道が名前を聞いただけで震え上がる男になるとは、
誰もが予想だに、していない。

少年の名前は大西政寛。

「悪魔のキューピー」十三歳の夏だった。
【3】

RE:仁義の墓場  評価

野歩the犬 (2014年01月05日 21時06分)


【カシメ一代】


カシメ。

「交い締める(かいしめる)」の転訛。
鉄骨と鉄骨の接合部を熱したボルトやリベットで締め付ける職人のこと。

戦前、軍港だった呉の花形職業である。
電気溶接のない時代、軍艦はじめ造船業はカシメなしでは成り立たなかった。

特殊技能と強靭な肉体の双方が要求される危険作業のため、
報酬も高額で、当時はボルトをいれてある「かます」が
札束の詰まっている袋に見えた、といわれている。

カシメは四人一組のチームプレイで作業をする。
この四人が「一程(ひとほど)」⇒ヒトホドという単位で呼ばれる。

ヒトホドをたばねるのが「ボーシン」と呼ばれる鋲(びょう)⇒ボルト打ちで、その下に「ホド番」「とりつぎ」「あて番」の三人の若衆がつく。

作業はまず、「ホド番」が鉄の炉の中にボルトを突っ込み、焼く。
真っ赤に焼き上がったボルトを鋲火箸でつかむと現場へ投げ上げる。
軍艦なら二〜三十メートルはある梁の上へ
ボルトが冷めないうちに正確に投げる力とコントロールが要求される。

その力技たるや、カシメの現場を知っている古老に言わせると
「イチロー並のレーザービーム」らしい。

投げてきたボルトを受け取るのが「とりつぎ」で
シャベルのような、三角形の受け缶でボルトを受け取り
素早くボルト穴に差し込む。

反対側で「あて番」がエアーハンマーの圧力に負けないよう、
渾身の力で「あて板」でボルトを固定すると「ボーシン」がハンマーを打ち込む。

文字で説明すると冗漫になるが、焼けたボルトがヒューンと宙を舞い
梁の上で「カン!」とキャッチされ、ハンマーが「バリバリッ」と火花を散らす
この一連の作業に要する時間はわずか5秒。

ボルトが焼けすぎているとハンマーの圧力で先端は潰れる。
(これをベソをかく、という)
時間がかかって冷えてしまうと摩擦でボルトは穴を通らない。

「ホド番」のボルトの焼き加減と正確なコントロール
「とりつぎ」のキャッチング技術と敏捷性
「あて番」の呼吸と筋力
「ボーシン」のハンマー技術、全てが完璧でないとボルトのカシメは成功しない。

成功しないどころか、真っ赤に焼けたボルトを足場の悪い鉄骨の梁の上で操るのだから
危険極まりない、命がけの作業なのだ。
実際、カシメの体というのは二〜三針縫う火傷はざら、だったらしい。

さらにカシメはボルト一本単位の賃金となるから
稼ぎの良し悪しのすべては四人、ヒトホドの呼吸と連帯感にかかっている。

一日六時間、千〜千五百のボルトをカシメる。
ひと月、十五日の稼動で十五、六歳の少年でも
教員給与の二倍は稼いだ、という。

体を張って高額の収入を得るヒトホドの結束力は強く
日常生活でも四人は束になる。

喧嘩にしても一人が殴られれば、三人が出向いて殴り返す。
気の荒さが売りのような稼業だから、当時の呉の街ではカシメに喧嘩を売るものは
命知らずか、馬鹿か、といわれたらしい。

祖父は、カシメの「ボーシン」をつとめた顔役だった。
【2】

RE:仁義の墓場  評価

野歩the犬 (2014年01月05日 04時02分)

【囃子唄】


私の祖父は明治三十二年、広島県・山県郡、津久茂に五人兄弟の長男として生まれた。
「ほいと」と呼ばれる被差別地区の出身である。

だから、私にも「ほいと」の血が流れている。

父は四男二女、下から二番目の末弟である。
先天的な心臓疾患をかかえていた父は
徴兵をまぬがれ、戦前から戦中にかけては広島市内で軍需の仕事についていたらしい。

らしい、というのは、父が戦前のことについては
ほとんど語っていなかったから、知らないのである。
原爆で先妻と二人の息子を亡くしている。
私の母は後妻であった。

私が、ものごころ、ついたときには家族は
広島市内で通称、「原爆スラム」とよばれる一帯の長屋に住み、
父は映画などの興行の仕事をしていた。

兄二人を戦争で失い、被爆しながらも一命を拾った父は
中風(今でいう脳梗塞)を患い、半身が麻痺した祖父の面倒をみていた。
父が祖父をひきとったのは、すでに兄弟に養い手がなかったこともあるが
祖父が被差別民でありながら、体を張る「カシメ業」で
六人の子供を食わせた恩義に報いたかったからであろう。


そのころ、正月になると、きまって一升瓶を片手に祖父をたずねてくる
「まっちゃん」とよばれる男がいた。

歳は祖父より十歳ぐらい若かった。
小柄だが肩から上腕にかけてのつくりが
あきらかに違う体躯の男だった。

「まっちゃん」がくると祖父は実にうれしそうに顔をゆるませた。
まっちゃんは、大きな訛声で
「じゃぎ、のう!」と祖父と昔話をして、呑んだ。
やがて酔いが回ると、まっちゃんは、歌いだす。

「昔、楠木〜、今は乃木〜♪
 昔の仁吉〜、今は昭和の〜大西まぁちゃん〜♪」

祖父はいっそう、懐かしそうに目を細める。

「あの歌はなんない」と母に聞くと
「楠木いうんは、楠木正成、乃木は乃木希典さん、いうんよ。
どっちも天皇陛下によーく、お仕えんしゃったんよ」

「ふーん、にきちは、だれない?」

父がひきとって「吉良の仁吉ゆう、親分じゃ」

「なら、大西まぁちゃんも親分ない?」

そこまで聞くと、きまって父は
「そうじゃろうで」といったきり、眉をひそめた。

子供心にも、あまり、聞かせたくない名前なんだろうな、
という気配を察した。


昭和四十年九月、彼岸を前にした、残暑の朝
祖父は六十六歳でこの世を去った。

長屋暮らしから借家とはいえ、一軒家の座敷で
死に水をとったのが父の最期の親孝行であった。

通夜に訪れた、まっちゃん、を初めとする昔の仲間たちは
母手作りの質素な膳を前に手酌で、
祖父の現役時代の「カシメ業」の思い出話にひたっていた。

まっちゃんが、また、いつもの唄をくちずさむ。

「大西のぉ、ありゃ、はげしかったのぉ」

だれかが、相槌をうった。

父も、もう、話をさえぎることはなかった。
【1】

RE:仁義の墓場  評価

野歩the犬 (2014年01月05日 03時47分)


〜プロローグ〜


【一枚の半纏】


冬場に書き物をするときは、綿入れを着る。
昔でいうところの「どてら」である。
袖を通すと筆運びがしにくいので、肩にひっかけて原稿用紙にむかう。
ちょっとした「文士気分」が味わえる。

湯呑み茶碗の冷や酒がまわってきたら
こたつに丸くなり、綿入れがそのまま掛け布団になる、という算段だ。

最近は軽くて暖かいテクノロジー素材衣料のおかげで
綿入れにごぶさたしていた。

ところが、この冬の寒さはハンパない。

久しぶりに綿入れの重さが恋しくなった。

さて、どこにしまいこんだか。
クローゼットの衣装ケースをひっくり返す。

十年ほどまえ、通販で買った
背中に写楽絵がプリントされた綿入れがでてきた。
こいつを着て、正月二日の初パチで7万ほど抜いた
ゲンのいいやつだが、改めてみると、相当、悪趣味な代物だ。

はてさて、まともな綿入れはどこだ・・・

ここ数年、タンスの肥やしとなっているセーター類の下から
やっと見つけ出した。

ひっぱりだすと、ケースの底に黄ばんだ「和装紙」が見えた。

なんだっけ?

包装を解くと、かびくさい匂いが漂った。
半纏である。
黒襟に白文字で「向井組」と染め抜かれている。

思い出した。



戦前、広島・呉で「カシメ」仕事をしていた爺さんの形見である。




これは
今は姿を消した「カシメ業」の世界に伝説として残る
狂気の男の物語である。
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