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【24】

RE:仁義の墓場  評価

野歩the犬 (2014年01月21日 21時36分)

【導火線】     


復員した大西は改めて呉の隣町、阿賀の土岡組・土岡博から盃をうけ、若衆となった。
土岡博は大西復員の知らせを聞くと
「マサが帰ってきた」と大喜びして、祝儀はもちろん、
賭場のカスリ(上納金)をまかせる手配、算段をした。

広島に修行に出ていた波谷守之も土岡の元にもどり、
「兄やん、兄やん」と大西を慕った。

「おう、お前、ええ若衆になったのう」
五年ぶりに再会した大西も十七歳にして骨っぽい男になっている守之の成長が嬉しかった。

大西が土岡組に戻ったそのころ、呉一帯は「山手」とよばれる、これも
被差別地区出身の愚連隊がゴロゴロしていた。
土岡は戦前からの生粋の「博徒」であり、行儀作法を知らないチンピラは相手にしない。

彼らは独自に組看板をあげ、数にものを言わせて闇市をのし歩いて
勝手にカスリをとったり、賭場に出入りした。

「ボンクラは相手にするな」と土岡博が無視していることにつけこみ
愚連隊たちは肩で風を切り出した。

なかでも、表向きは土建業看板の「桑原組」の舎弟、小原馨は戦闘的だった。
「お〜う、岡土がどしたん、ない。いつでも相手になるど」

この挑発は土岡博の弟・正三と大西を刺激した。
「なんぼ、親分がこらえい、いうて、このまま黙っとられるかい」


「昭和二十一年の八月十四日いうたら、ちょうど戦後丸一年よのう。
食うや、食わずの生活から少しはゆとりがでてきたころかいの。
広、で盆踊り大会をやることになったんじゃ。
なんせ、その櫓を組んだのが、ワシじゃけん、よう覚えとってで。

ほいで、その盆踊りを仕切ったのが、小原じゃ。
まだ、二十二、三。ちょうど大西と同じぐらいじゃった。
土岡の連中からすりゃ、この機会にヤキ入れちゃろう、狙うとったんじゃろな」

大西が「悪魔のキューピー」としてその名を轟かす夜がきた。
【23】

RE:仁義の墓場  評価

野歩the犬 (2014年01月21日 21時35分)

【無明の闇】

闇市に人が群がり、愚連隊や三国人が戦勝特権を振り回して
横暴を働く総アウトローの街と化した呉に大西は帰ってきた。

カシメ業で鍛えた体力が支えか、戦傷は負わなかった。
ただ、ひとつ異名なことがあった。

出征当時の肩書きと同じ二等兵のまま、だったのである。

一般に初年兵は徴兵されると一年間を経過すると一等兵に昇格する。
しかし、大西は足掛け四年の兵役を経過しても二等兵のまま帰国した。

軍人勅諭が覚えられないペナルティだったのか、
入隊当時と同じく上官への暴力があったのか、真偽は闇の中である。

戦場体験についても知る人はいない。
わずかに母・すずよに語った体験が残されている

「母ちゃんのう、戦争いうたら、まったく哀れなもんじゃ。
行軍の最中に一足でも遅れたら、もう、敵に捕まるか、野垂れ死にするだけじゃけん。
軍隊じゃのう、小便一丁、糞八丁いうて用足ししとるとそれだけ遅れるんじゃ。
ほいじゃけん、ピーピーでも道端にしゃがんだらしまいじゃけん
ズボンの尻、開けっ放しで垂れ流しで歩くんじゃ」

「水、いうても井戸は毒が入れられとるかもしれんけん、うかつに飲めん。
 豚の小便、ガーゼで漉して飲んだりするけん、
もう、ばい菌飲んどるのとおんなじじゃ」

弱った体力での徹夜行軍は死を招く。

「じゃけんど、死んだからいうて、敗走のあとを残さんために葬ることもでけん。
 死んだもんは、ヤマん中や谷底に放り込むしかないんじゃ。
普段は戦友じゃ、兄弟じゃ
 いうとっても、そうなったら石コロじゃけん。
石コロがゴロゴロ、ゴロゴロ行軍しとる
 もおんなじじゃ」

さらに大西には悪魔のキューピー、と怖れられた「ならでは」の噂があった。
大陸で捕虜の首斬り役を買ってでていた、というものである。

これも真偽のほどはわからない。
しかし、そのことを尋ねてみた人への大西の答えだけは伝わっている。
大西は顔色ひとつ変えず、つぶやくように言ったという。

「首を斬らされるもんは、斬られるもんより、根性がいるけんのう」

自分の自由を束縛するものを何より嫌い、
力で、武器で、反発し続けてきた大西。
二等兵のまま、復員した軍隊生活の「無明の闇」を垣間見せる一言であった。
【22】

RE:仁義の墓場  評価

野歩the犬 (2014年01月21日 21時33分)


〜★☆個レステタイム☆★〜

掛け持ちの身柄故、こちらで失礼いたします


■虹板・拳治郎さま

>あけましておめでとうございます^^  赤さんへのご祝辞、ありがとうございます!
お久しぶりですね。お元気そうでなによりです。

いや、かなりアルツが進んでおります・・・

>新トピ、おめでとうございます♪ お身体に気をつけてご無理なさらずで頑張って下さいませ^^

ハイヤ、知られてたぁぁああああ〜!
ゆっくり、隠居したかったのですが、なにかとむつかしゅうございます。


■五右衛門座衛門さま


>昨年末より、EX版のくっさん始め、皆様にお世話になっております五右衛門座衛門と申します。

なかなか酔狂なコテハンでござるな・・・

>凄く堅い文面になってしまいましたが汗、どうぞよろしくお願いしますm(._.)m

ムハハ♪ ダブル衛門よ。まだまだOLGのROMが足りんぞ。
カチコチレスではピワドでザイルの右に出るもんはおらん!



では、本編再開・・・
【21】

〜インターミッション〜  評価

野歩the犬 (2014年01月14日 21時50分)

なんとか、戦前編を書き終えた。

ご存知の方はいると思うが
「大西政寛」は
映画「仁義なき戦い」第一部で
梅宮辰夫が演じた「若杉寛」のモデルである。

しかし、映画の中では終戦直後がプロットのスタートであり、大西が戦前、
どんな生き方をした人物なのかは、描かれていない。
映画公開当時、私は「こいつが、あの大西か」と気づいたが
なにぶん、キャストが梅宮のおっさんとあっては「悪魔のキューピー」のイメージと落差があり、非常に違和感を覚えた。

(特に「仁義なき戦い」では死んでゆくものが多いので
主役の菅原文太、親分の金子信夫などの一部の役者をのぞくと
続編では死んだ役者が別の役回りで再登場する。これがヒジョーにややこしい)

それほど、まっちゃんや、古老たちは大西を
「キューピー人形のような、やさ男」と力説していた。

私が大西政寛の素顔の写真を見たのは二十年ほど前だった。
本堂淳一郎というライターによる「仁義なき戦い・外伝」という雑誌に掲載された大西の写真は、
まっちゃんたちから、聞いた通りに柔らかな眉、ぱっちりとした瞳の美男子だった。

しかし、その大きな瞳の底には確かに、憂いと狂気が同居していた。
「こいつが爺さんの下でカシメをしていた悪魔のキューピーか…」
いつしか、私は不思議な因縁にとらわれ、大西のことを書いてみたいと思い始めていた。

図書館で古い新聞のマイクロコピーなども集めてみた。

しかし、どれも大西の犯歴を伝えるだけで実像に迫る材料は乏しかった。

資料集めの情熱が冷めてしまった三年ほどまえ
一級の資料と出会った。

それは「仁義なき戦い」のシナリオを書いた脚本家、笠原和夫の「調査取材録集成」という本だった。

これには、今まで知らなかった大西政寛に関する膨大なメモが記載されていた。
とりわけ母・すずよから実際に聞き取りしたインタビューがあった。

どうやら笠原和夫は東映から正式なオファーがあったかは不明だが、
大西を主役にした映画のシナリオを考えていたふしが感じられた。


今回、談話室で隠居生活に入ったのをいい潮として
大西政寛のことを書いているわけだが、戦前編は大西一人を追いかけてきた。

ところが大西が文字通り「悪魔」となってゆく戦後編は人間関係が複雑で
ストラクチャー(相関関係)に難儀している。

大西の悪魔性に魅了されるもの、
利用しようとするもの
まさに複雑怪奇。

なるほど、映画にしにくいはずである。

プロのライターがシナリオ化できなかった代物だから
素人がさばけるワケがない。
といって、ここで投げ出しては、せっかく書き始めた苦労も水の泡である。

そんな次第で、しばし、休筆の時間をいただく。

ROMしていただいた方がいるか、いないか
うん、まずおらんな。

明日はちょっとパチってくる・・・
【20】

RE:仁義の墓場  評価

野歩the犬 (2014年01月14日 21時40分)


【荒 廃】

昭和二十年八月六日、午前八時十四分。
一瞬の閃光の後、広島の上空に巨大なキノコ雲が出現した。

その朝、軍の依頼でニュース映画フィルムを、ビルの地下倉庫へと運んでいた父は
背後から強烈な光を浴び、暗い階段にくっきりと映し出される自分の影を見た。

「走れ!」という、後ろからの大声で転がるように地下へと駆け下りる。
床にしゃがみこむと同時に地底から突き上げるような衝撃をうけ
頭上を爆風が襲った。

「ビルが直撃された」
そう、信じていた。

「外へ出たら機銃掃射だ」
同僚がささやく。しかし、不思議に飛行機の爆音は聞こえない。
不気味な静寂が続く。

父は一歩、一歩、階段を昇る。

その日は軍需物資を保管するビルを移転した初日だった。

夏の朝というのに、やたらと暗い・・・
階段を昇りきった。

のどを焼く熱風にせきこみながら、眼を凝らすと
直撃弾をくらって吹き飛んでいると思った
ビルには外壁がある・・・

ただ、窓という窓のガラスは残らず吹き飛び
つい先ほどまで看板文字を書いていたペンキ職人の
影も形もなかった。


父は走り出した。
走れど、走れど、我が家にたどりつけない。

見渡す限り、火の手と黒煙があがる焦土の中では
方向感覚がマヒしてしまっていたのである。

やっと、焼け残った板塀を頼りにたどりついた自宅とおぼしき場所には
くすぶる瓦と溶けたトタンがはりついていた。

妻、五歳と二歳になったばかりの息子二人の一片の遺骨も見いだせなかった。
私の仏壇に祀られているのは戒名すらない位牌のみである。

波谷守之は勤労奉仕先で難をのがれたが
一家の親たる、広島一の大侠客・渡辺長次郎も被爆死した。


二十キロ離れた呉でも焼け残った民家の窓ガラスが激しく揺れた。
人類初の「核」は一瞬にして多くの人たちの命を奪い
また、生き残った人たちの人生を大きく狂わせてゆく。


八月十五日、終戦。

原爆投下直後「広島には以後七十年、一木、一草も生えない」といわれていたが
秋風が立つころにはどこから、どう集まってきたのか焼けトタンのバラックや掘っ立て小屋が立つようになる。

生き残った人たちの生命力はたくましく、また、刹那的であった。
明日のことなど、考えない。
いかにして、今日を食いつなぐか、に必死だった。

そんなひっ迫な食料事情の中で軍港・呉だけは特殊事情があった。

膨大な量の軍の隠退蔵物資が闇市に溢れ出したのである。
米、砂糖、乾パン、食料油、缶詰などの食料や軍服、下着、反物などの衣料、
タバコも豊富だった。
人々は闇市に群がり、金のあるものは買い、ないものは盗んだ。
人心は荒廃し、略奪や強盗、放火、詐欺が横行した。

全市民がアウトローと化した呉に大西政寛は復員した。

終戦から八ヶ月後の昭和二十一年三月だった。
【19】

RE:仁義の墓場  評価

野歩the犬 (2014年01月12日 19時49分)



【出 征】

土岡組の組員として極道稼業を歩み始めた大西だったが、
時代の荒波に抗うことはできなかった。

昭和十八年。
二十歳になった大西は徴兵で広島第五師団、歩兵衛科部隊に入隊した。
カシメ時代の癖そのままに、ガニ股、肩をゆすって大西は営門をくぐった。

見送りに来た母・すずよと土岡組の面々は
「あの歩き方じゃ、危ない」と案じた。
果たして、入隊初日、班長から咎められた大西は
「なんぞ?どうしたあ?」と尻上がりの、つっけんどんな口調でくってかかり
班長をいきなり側溝に叩き込むという、無鉄砲ぶりを発揮した。

入営式で隊長が父兄を集めて
「息子さんたちの性格、癖を言ってくれ」と問われたすずよは
「小学校は出たが、字は名前しか読めない。
バカじゃないが、お国のためになるか、と言われればバカに近い。
丁寧に教えてくれたら働く子だから、どうか戦地の土を踏ませてください」
と、頼んだという。


「時代が時代と言ってみりゃしまいじゃが、我が子に戦地の土を踏ませてくれい、
言うんは、お国のために死に花、咲かせてくれい、言うんと同じじゃ。
おっかさんの本心も辛いもんじゃったろうのう」


古老の漏らした一言にまっちゃんは「じゃぎ」とうなずいた。


翌年、大西は召集令状によって中国大陸に出征する。
当日、すずよは広島駅にチョコレートとみかんを持って見送りに行き、
軍事列車に向かって「政寛、政寛」と呼びかけたが、中尉の隊長が気づき
窓を開けてやることはなかった。

字が読めない大西は一年間の教練の中でついに「軍人勅諭」を一行も覚えないまま
大陸へと旅立った。

昭和二十年三月。
大西が「守之、守之」と可愛がっていた波谷守之は尋常高等小学校を終了。
広島一の侠客・渡辺長次郎の盃を受けて若衆となる。

軍港・呉への空襲は激化し、広島の廃墟は五ヵ月後に迫っていた。
【18】

RE:仁義の墓場  評価

野歩the犬 (2014年01月12日 19時41分)

【 盃 】

究極の武器、拳銃を手にいれてからの大西は以前にまして、喧嘩好きとなる。
ホド仲間で揉め事があると真っ先に駆けつけた。

相手が「かたぎ」だろうが、懐から素早く拳銃をとりだすと銃口を突きつけた。

「逃げなや。逃げたら撃つけん」

ドギモを抜かれた相手は恐怖心から、思わずあとずさりする。
大西は足元へパーンと一発、威嚇射撃をして
「逃げるから、撃ったんじゃ」と涼しく言う。

蒼白になった相手が必死で命乞いをすると、器用に拳銃をクルリと回し、
銃把で頭をゴツンと殴りつけるのだった。

そのころ、大西の身内に辛苦が襲う。

大阪へ奉公に出ていた兄・隆寛が肺結核に感染、母・すずよの許にもどってきた。
すずよ、も連れ合いと別れ、独り身となった直後であった。
すずよは保養地で養生させるため、隆寛を別府の温泉病院に入院させた。

療養費を稼ぐため、すずよ、は満州へ出稼ぎ芸者となる。

大西も話を聞いて、兄の入院費を援助したが、
母が満州に渡ったことは知らされていなかった。
出稼ぎ芸者が何を意味するものか。母としては、当然息子たちには知られたくない。

読み書きのできない大西にとって、すべて、風の便りである。

冷えた、孤独な大西の心に暖かく響いたのが波谷組からの博打遊びの誘いだった。

カシメ仕事帰りに賭場に寄ると、親分が「政やん、よう、きた」と迎える。
若い衆も拳銃の一件や、呉での評判を聞いているから、一目おいてくれる。
さらに当時、尋常小学校四年生だった親分の甥っ子、守之が大西によく、なついた。

身内の愛に飢えていた大西も「守之、守之」と可愛がった。

波谷組への出入りが増えるうち、大西は兄弟分の「土岡組」とも知り合う。

そのころ、政党政治は崩壊し「大政翼賛会」が発足。
任侠道組織も「日本協力団」として大同団結を図る動きが活発化していた。
その風潮に反対していたのが、土岡組だった。

許より、大西は無学である。
反体制とか左翼といった思想など、分かるはずもない。
しかし、世論の言いなりになることに胡散臭さを感じ、
日ごとに我が物顔になってゆく軍人たちが疎ましかった。

大西の反骨精神は、一本気な「土岡組」に魅せられてゆく。

昭和十六年十二月八日、日米開戦。
仕事よりもすっかり賭場通いが目立つようになった大西を向井が呼びつけた。

「仕事を選ぶか、男を選ぶか、どっちにしよるんない」

大西はひと呼吸して向井にはっきりと言った。
「土岡の盃をもらいますけん」

背中には蛇をくわえた鷹、右肩に般若の彫り物。
十八歳の大西はカシメの足を洗って、博徒となった。
【17】

〜ブレイクタイム〜  評価

野歩the犬 (2014年01月12日 11時09分)

■バレンティンに記録を塗り替えられた男・・・55号さん

 隠居部屋への足運び
            恐縮です。

  ひとつだけ訂正(嘘の白状)いたします。


  実は・・・東京五輪のときは四年生でした。
  つい、御前さんに若づくりの嘘、つきますた


 ええ・・・55年生まれっす。 
   
  先輩は六年生でしたか・・・

   お互い、次回の東京五輪までは
     なんとか、シノイデイタイモノデスネ

 
【16】

RE:仁義の墓場  評価

虎55号 (2014年01月11日 23時47分)

 のほさん こんばんは♪

私は直感で分かったのですが・・・・・

>隠居爺の暇つぶしです

むむむ 若い若い若いですぞーーーー

東京オリンピックの時小学校1年

私なんか小学校6年でしたが・・・・・

皆さん 待っていますよ


  それでは・・・    削除OKです。
【15】

RE:仁義の墓場  評価

野歩the犬 (2014年01月11日 21時42分)

【モーゼル二号】

読み書きのできない大西にとって、力こそが、自己主張の表現だった。

しかし、無手勝流に生きるためには、肉体だけでは、限界がある。

大西はその力を武器に求めた。

幼いころは石、やがて刃物。

問答無用で相手を制圧する武器のいきつく先は拳銃である。

戦前の軍港・呉では金さえ、払えば闇ルートで拳銃を手に入れることは
さほど、難しいことではなかった。

酒・タバコはやらず、遊びといえばもっぱら、花札博打一辺倒だった大西にとって
拳銃はコンプレックスの代弁者であり無二の友人であった。

戦争への道をひた走る世相。

無学の大西にとって、全ての不条理を吹き飛ばしてくれるのは
仕事帰りに土蔵の壁に向けて発射する銃声音だったのか。

ドイツ製、モーゼル二号。

オートマティックになる前の弾倉式拳銃との出会いが
大西の後の人生を大きく左右することになる。

水兵刺傷事件からまもない、ある日。

向井組・向井信一は神戸から出稼ぎにきていたカシメ若衆と
地元の博徒との喧嘩の仲裁に立つことになった。

向井と双方の代表者数名ずつが料亭の一室で和解の席についた。

条件が整い、双方が納得し合ったその時、どこで耳にしたのか、大西が風のように現れ
向井の斜め後ろに素早く座ると、腹巻から拳銃をとりだし、ひざの前に置いた。

不意の乱入。
しかも和解の席でハジキを持ち出したことに
一座の驚きと非難の眼にさらされ、向井は気色ばんだ。

「マサ、なにしよんない!そげなもん、早くしまわんか!」

しかし、大西はキューピー人形のような目を動かすこともなく
涼しげに言い切った。

「親分、一人じゃぁ、聞いたもんじゃけん」

向井は二の句が継げなかった。

手打ちの作法を説いて拳銃をしまわせたが、この
命知らずの親分思いの若僧に相手の組長が一目、おいた。

「向井さん、ええ、若衆をつれてなさる」と苦笑いした親分は
クリクリとした眼を据えて、座っている少年に声をかけた。

「こんなぁ、わしのとこにも、遊びに寄んない」

呉の隣町、阿賀の博徒、波谷組の波谷乙一であった。
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