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【73】

RE:カンパチ・ベルガーZII  評価

ヒラマサ☆ (2015年07月21日 10時17分)

皆様おはよう


>ついでに、最初にゆっき☆あてに書いたレスも消されてる。

そのゆっきとやらに宛てたレスが消えてるというから、
超簡単に遡ってみたけど、どの部分かわかりませんでした

君のいつもの天然だろうか、はたまたそのゆっきとやらに
関わるなという管理者からの警鐘か?
もっとも考えられないのは、俺の勘違いですが…すみません


>「三木聖子」の方がよかった。

知らない人でしたので検索しましたが、本当に知らない人でした
ローカルで活動してた人?

※沢田聖子ならギリ知ってる
【72】

RE:カンパチ・ベルガーZII  評価

カンパチ (2015年07月21日 10時16分)

≪ページ13≫


平和主義的意識はそれほど高くはないけれども、

戦闘任務だけは逃れたいと考えていた人たちは、

通常、徴兵されるよりも、志願して軍に入る方を選んでいた。


志願することによって、空軍や海軍の任務、

あるいは、軍隊内の非戦闘的専門任務を選ぶこともできたのである。

そうした任務に就けば、ベトナムに上陸させられるようなこともまずなかったからである。


ところがバーカー任務部隊は、

戦闘的軍務を意識的に選んだ生え抜きの軍人か、

あるいは、同様の若い『徒歩戦闘員』のいずれかで構成されていた。


ソンミ村事件以後も、1968年末までは、

アメリカのベトナム派兵は志願者中心に行われていた。

職業軍人にとって、ベトナムに派遣されることは望ましいことであり、

従って、希望者も多かった。


なぜなら、ベトナムに送られれば、勲章、特別手当、

また、何ものにも代えがたい昇進が約束されていたからである。  


C中隊やバーカー任務部隊は平均的アメリカ市民を代表するものでは決してない。

任務部隊の隊員全員が、それぞれの経歴や自己選択によって、

また、米軍部およびアメリカ社会全体によって設けられている選別制度で選ばれ、

1968年3月にソンミ村に送られたのである。


このバーカー任務部隊の専門化された人的構成は、

3つの大きな問題を提起するものである。


1つ目が柔軟性の問題である。


C中隊は専門化された殺し屋の集団だった。

この中隊に加わっていた個人は、

何らかの理由で殺し屋的役割を引き受ける性向を持ち、

また、制度によってそうした役割に意図的に引き込まれた人間たちである。


しかも、我々社会が、そうした役割を果たすための訓練を彼らに施し、

それを実行するための武器を与えたのである。


そのほかの様々な誘因となった状況を考え合わせると、

彼らが無差別殺人を行ったとしても何の不思議もない、ということになる。


我々が彼らにさせた行為に対して、

彼ら自身がさほど罪の意識を感じていないように見受けられたとしても

別に驚くべきことではない。


専門化集団に加わるよう奨励され操られた人間に対して、

自分たちの専門領域をはるかに超えた

幅の広いものの見方を期待するなどということは、

非現実的なことである。


2つ目は、スケープゴーテイングである。

あの決定を下したのは、むろん、兵士個人ではない。

カリー中尉でもなければ、その上官のメデイナ大尉でも、バーカー中佐でもない。

これは、アメリカの下した決定である。


その理由はどうあれ、アメリカが殺しを行うことを決定したのであり、

また、その殺しを実行した人間に関して言うならば、

彼らはアメリカの命令に従ったまでのことである。


アメリカ社会が、意図的に彼らを選び、雇い、

アメリカにとって「汚れ仕事」である殺しを、

アメリカに代わって彼らにやらせたのである。


その意味では彼らは皆、アメリカ国民のスケープゴートとなった人間達である。


このスケープゴートの問題がクローズアップされたのは、

一つには反戦運動の歴史においてである。


1965年頃には、

すでに、ベトナムにおけるアメリカの役割に対する批判が

広がり始めてはいた。


しかし、ベトナム反戦運動が根付いたのは70年以降のことである。

なぜ、反戦運動の根付きが遅れたのであろうか。
【71】

RE:カンパチ・ベルガーZII  評価

カンパチ (2015年07月21日 00時41分)

≪ページ12≫


専門化には潜在的に悪が伴うということはすでに述べた。

一方、専門化された個人は、

道徳的責任を

組織内の他の専門化された人間、あるいは組織そのものに転嫁しがちとなる。


個人が集団内において

追随者としての役割を演じるときに生じる退行もまた、

この専門化に関係を有するものである。


追随者というのは完全な人間ではない。

考えもしなければ指導もしないという立場を受け入れた人間は、

思考能力や指導能力を放棄した人間ということになる。


また、考えたり指導したりすることが

その人間の専門外のこと、あるいは任務外のこととなるため、

ついでに良心までも捨て去ることになりがちである。


専門化された集団にも、同様に危険な力が働くことが分かる。


バーカー任務部隊は、専門化された集団だった。

複数の目的を持った集団ではない。

1968年当時のベトナムクアンガイ省内のベトコンを見つけ出し、

これを壊滅させるという、

高度に専門化された、

ただ一つの目的のためにのみ存在していた集団である。


この専門化という問題を考える際に忘れてならないことは、

専門化というものは

偶然あるいは無作為に行われることはまれだという事実である。


専門化というのは、通常、きわめて選択的に行われるものである。


例えば、医師という専門的職業に就いた個人は、

偶然に医師になったわけではない。

その個人自身が医師になることを選んだのであり、

この専門化された役割を果たすうえで必要とされる仕事を選択的に行う。

しかも、この役割をその個人自身が選んだというだけでなく、

社会がこの役割のためにその個人を選んでくれたのである。


数多くの段階を経て、

医師という資格がその個人にあるかどうかがチェックされたのである。


専門化集団というのは、いずれも、

自己選択と集団選択の結果生まれた特殊な集団である。


バーカー任務部隊は専門化された集団であり、

クアンガイ省において

索敵掃討作戦を遂行するという唯一の目的のために存在していた。


しかも、この部隊の編成は、大々的な選別と自己選択によって行われたものである。

当時は、徴兵制が敷かれ、一般市民が軍に徴用されていたが、

しかし、バーカー任務部隊を

一般アメリカ市民の無作為抽出サンプルとしてみることは無理である。


平和主義的アメリカ市民の多くは、

カナダに移住したり、良心的兵役拒否を唱えて徴兵を逃れていた。
【70】

RE:カンパチ・ベルガーZII  評価

カンパチ (2015年07月20日 17時30分)

2,3日前、運転中のFMから、聞き覚えのあるイントロ。


「夕暮れの、街角、

 のぞいた喫茶店、

 微笑み、見つめ合う、

 見覚えある、フ・タ・リ」


曲が終わって、DJが

「石川ひとみさんでした」。



そうだな〜、オレとしては、

「三木聖子」の方がよかった。


「恨み」がこもってたし。


「もうすぐ、あたし、き〜っと、

 あなたを振り向かせる〜っ!!」



この頃の、今でいうJ−POP,には、

恨み節、敗北者感があふれてたような。



「あたし、待ーつわっ!

 いつまでも、待ーつわっ!

 たとえ、あなたが振り向いてくれなくてもーーーっつ!!!』


POPではないけど、


「着てはもらえぬセーターを、

 寒さこらえて、編ん〜でます」






                        なあ、あきらめろよ。
【69】

RE:カンパチ・ベルガーZII  評価

カンパチ (2015年07月20日 21時25分)

≪ページ11≫


バーカー任務部隊には予め決められた敵がいた。

ベトコンがそれである。


しかし、ベトコンの大多数は南ベトナム現地の住民で、

一般人とベトコンの見分けが付かないことが多い。


こうして、ほぼ不可避的に、

「特定の敵」がベトナム人すべてを意味するように一般化され、


一般のアメリカ人は、

ベトコンを憎むだけでなく、

ベトナム人全体を憎むようになる。


集団凝集性を強化する最善の方法が、

外部の敵に対する憎しみを助長することだ、

とは広く知られていることである。


外集団の欠点や「罪」に関心を向けることによって、

グループ内の欠陥は、

容易に、なんらの痛みも感じることなく看過される。


こうして、ヒトラー時代のドイツ人は、

ユダヤ人をスケープゴートにすることによって

国内問題を無視するようになったのである。


また、第二次世界大戦中、

ニューギニア戦線で米軍の戦果がはかばかしくなかったとき、

司令部は、日本人の残虐性を描いた映画を見せることによって、

部隊の集団精神の高揚を図っている。


しかし、こうした集団的プライドの利用は、

無意識のものであろうと意図的なものであろうと、

潜在的に邪悪なものである。


邪悪な個人は、自分の欠陥に光を当てるすべての物、

あるいは、すべての人間を非難し、抹殺しようとすることによって

内省や罪の意識を逃れようとする。


同様に、集団の場合にも、

当然、これと同じ

「悪性の自己愛(=プライド)」に支配された行動が生じる。


こう考えると、

物事に失敗した集団が

最も邪悪な行動に走りやすい集団だ、

ということが明らかとなる。


失敗は我々の誇り(=プライド)を傷付ける。

傷を負った動物はどう猛になる。


一般に、健全な有機体組織においては、

失敗は内省と自己批判を促すものである。


ところが、邪悪な人間は自己批判に耐えることができない。

従って、邪悪な人間がなんらかの形で攻撃的になるのは、

自分が失敗した時である。

(ヤクザ映画を観てると、それがよくわかりますね)


これは、集団にも当てはまることである。

集団が失敗し、それが集団の自己批判を促すようなことになると、

集団のプライドや凝集性が損なわれる。


そのため、国を問わず、時代を問わず、

集団の指導者は、その集団が失敗した時には、

外国人つまり「敵」に対する憎しみをあおることによって、

集団の凝集性を高めようとするのが常である。


ソンミ村事件当時のバーカー任務部隊の作戦(索敵掃討)は失敗であった。


(索敵掃討とは、敵を見つけ出し、殲滅すること)


1か月もの時間を作戦地帯で費やしながら、

敵と交戦することすらできなかった。


つまり、敵を見つけることができなかった。


にもかかわらず、アメリカ兵の死傷は

徐々にではあるが確実に増えていた。

これに対して、敵の死傷者数はゼロである。


任務ーーーそもそもこの任務というのは敵を殺すことであるーーーに失敗した集団の指導部は、

ますます血に飢えていた。

あの状況にあって、この飢えは見さかいのないものとなり、

隊員たちはやみくもに飢えを満たそうとしたのである。
【68】

RE:カンパチ・ベルガーZII  評価

カンパチ (2015年07月20日 09時16分)

≪ページ10≫


ソンミ村のような状況のもとでは、

一人一人の兵隊が

ほとんど有り得ないような状況に置かれる。


一方では兵隊たちは、

「軍人といえども

 自分の良心を捨て去るようなことは要求されない、

 不当な命令を拒否する成熟した判断力を持つべきである、

 というより、これは義務である」

といった、どこかで教えられたことを 

おぼろげながらも記憶している。


ところが、一方では、

軍隊の組織とその集団力学が、

兵隊が独立した判断力を働かせ、

あるいは服従拒否を実行することを、

可能な限り苦痛かつ困難かつ不自然なものにする方向に

全力を挙げて働く。


C中隊に下された命令が、

「動くものはすべて消せ」

というものであったかどうか、

あるいは

「村を廃墟にしてしまえ」

というものであったかどうかは定かでない。


しかし、もしそうした命令が下されていたとすれば、

隊員たちがその命令に従うことに何の不思議もない。


それとも、集団で反抗することを彼らに期待すべきだろうか。

集団で反抗すること、つまり反乱は無理だとしても、

上官に反抗する勇気を持ち合わせた人間が、

少なくとも数人はいたはずだと

期待できないものだろうか。


しかし、これは必ずしもそうはならない。


集団の行動パターンは驚くほど個人の行動に似ている。

これは、一つの集団というものが一つの有機体組織だからである。


この有機体組織は単体としての機能を持っている。

個人の集まりである集団が、

「集団凝集性」

と呼ばれるものによって個体として行動するのである。


集団内では、

個々の構成員の結束と調和を維持しようとする大きな力が働く。

こうした凝集力が失われると、

その集団は解体を始め、

集団ではなくなるのである。


この集団凝集力として最も大きな力を持っているのが、

集団のプライド(=誇り)である。


グループの構成員が

自分の所属するグループに誇りを抱くと同様に、

グループ自体が自分自身に対して誇りを抱くようになる。


ここでもまた軍隊は、

他の多くの組織以上に、

意識的に集団のプライドを高める方向の動きをする。


集団を象徴する様々なもの、

隊旗、そで章、

あるいは,

グリーンベレーなどの特殊部隊の場合には

特別の軍服、

を作り、

また、隊内スポーツ大会から、

隊ごとの敵の戦死者数(ボディー・カウント)の比較

といったことに至るまで、


競争を奨励することによって

集団のプライドを高めようとする。


あまり感心しないことではあるが、

現実に広く見られる集団的プライド(愛国心、愛校心、愛社精神など)を形成するには、

「敵を作る」こと、

すなわち「外集団に対して憎しみを抱く」ことである。


これは、初めて集団を組むことを学んだ子供たちにも

自然に発生するものである。


自分の集団に所属しない人間は、

劣った人間、か、悪い人間、

あるいはその両方であるとして見下される。


その集団にまだ敵がいないときには、ごく短期間に敵が作られる。
【67】

RE:カンパチ・ベルガーZII  評価

カンパチ (2015年07月20日 09時10分)

【2】は消されてる。


今、気づいた。



ついでに、最初にゆっき☆あてに書いたレスも消されてる。



つまり、「あの人の最後のレス」

に関して書いたレスは、ほぼ全部消されてる。



誰が、どうやって?。



ピワドって、不気味なことが起きますね。
【66】

RE:カンパチ・ベルガーZII  評価

ヒラマサ☆ (2015年07月20日 07時45分)

乙 精読してるぜ

ところで元の【2】は消した?消された?

後々触れなきゃならん核となる部分だったのだが
【65】

RE:カンパチ・ベルガーZII  評価

カンパチ (2015年07月19日 07時58分)

≪ページ9≫


ところで、

人間はストレスを受けたときに退行するだけでなく、

集団環境の中においても退行を見せるものである。


これが信じられないというのであれば、

様々な集会やカレッジの同窓会を見ればうなずけるはずである。


この退行の一つの現われとして、

リーダーに対する依存心という事象が挙げられる。

これは驚くほど明白に現れる。


互いに知らない人達の小集団、

例えば10数人程度のグループが集まったときに、

まず最初に何が起こるかといえば、


その中の1人か2人の人間が

すばやくグループのリーダー役を買って出ることである。


これは、意識的に選ぶといった

合理的過程を経て行われるわけではない。


ごく自然な形で、自然発生的、無意識的に起こるものである。

なぜ、こうしたことがすばやく、しかも容易に行われるのであろうか。


その原因の一つとしてあげられるのが、

言うまでもなく、

他の人達に比べてリーダー役に適している人間、

あるいは、リーダーになりたいという欲求の強い人間がいるということである。


しかし、これとは逆の、より基本的な原因もある。

つまり、大半の人達は、リーダーとなるよりはむしろ

追随者となることを好むという事実である。


これは、何よりもまず、怠惰の問題として考えることができる。

人に従うことは容易なことである。

指導者となるよりは追随者となるほうがはるかに楽なことである。


複雑な決定を下すに当たって

苦悩したり、前もって計画を立てたり、

率先して物事を行ったり、不評を買う危険を冒したり、

あるいは勇気をふるったりする必要がないからである。


追随者の役割を演じるということは、

子供の役を演じることである。


成人した人間は、

個人としては船長であり、

自分の運命を決定する支配者である。


ところが、追随者としての役割を演じているときには、

自分の支配力、つまり、自分自身に対する権威、

意思決定者としての自分の成熟性を

指導者に譲り渡してしまう。



子供が親を頼りにするように、

リーダーに対する心理的依存が生じる。


こうして、普通の人は、いったん集団の一員となるや、

たちまちにして情動的退行を引き起こす。


(飲み会の二次会をどこにするか、となった時、そういうことが起きますね)


バーカー任務部隊C中隊の第一小隊は、

リーダーを育てるためのものではなく、

ベトコンを殺すことを目的とした集団である。


古くから言われてきたことであるが、

兵隊はものを考えるべきではないとされている。


隊長はグループ内で選ばれるわけでなく、

上層部から指名され、

意識的に権威の象徴を身にまとうものである。


服従(忠誠)が軍の規律の第一のものとされている。

隊長に対する兵隊の依存は、

単に奨励されるというだけでなく、

絶対命令となっている。


軍隊というものは、その使命の性格からして、

集団内の個人の自然発生的退行依存(=幼児化)を意図的に助長し、

おそらくは、現実にこれを育てているものと思われる。
【64】

RE:カンパチ・ベルガーZII  評価

カンパチ (2015年07月19日 07時49分)

≪ページ8≫


邪悪性というのは一種の未成熟の状態であると考えることができる。

未成熟な人間は成熟した人間より悪に走りやすい。


我々は、子供の無邪気さだけでなく、

その残酷さに驚かされることがある。


成人であれば、

ハエの羽をむしりとって喜ぶ者はサディスティックな人間とみなされ、

邪悪な人間ではないかと疑われる。

これは当然のことである。


しかし、同じ事を行う4歳の子供は、

注意されることはあっても、

それは単なる好奇心からだとみなされる。


ストレスに直面したときに退行を起こすのが普通だとするならば、

我々人間は、ストレスを受けているときのほうが

快適に過ごしているときよりも悪に走りやすい、

ということができるのではなかろうか。


50人から500人もの人間(その中で邪悪な人間はほんの一握りだったと思われる)の集団が、

ソンミ村虐殺のような残虐行為を行うなどということがなぜ起こるのか、

との疑問を我々は抱く。


これに対する一つの答えとして、

バーカー任務部隊の隊員たちは、

彼らが被っていた慢性的ストレスのせいで

より未成熟な状態に退行し、

そのため、通常の条件下にあるときより

邪悪になっていたということができる。


とはいえ、これは、

ソンミ村事件の邪悪性を構成する数多くの要素の一つに過ぎない。


邪悪性とストレスの関係について考える以上、

善とストレスの関係についても触れるべきだと思われる。


苦労のないときに立派な振る舞いをする人、

言うならば、順境のときの友、が、

いざという時、あまり立派な行動を取らないこともある。


したがって、ストレスとは「善の試金石」とも言うべきものである。


真の意味で善良な人とは、

ストレス下にあっても

自分の高潔さ、成熟性、感受性、思いやりを

捨て去ることのない人のことである。


高潔さとは、

状況の悪化に反応して退行することなく、

苦痛に直面して感覚を鈍らせることなく、

苦悩に耐え、

しかもそれによって影響を受けることの無い能力である、

と定義することができるかもしれない。


「人間の偉大さを測る尺度の一つが、

 そして、おそらくは

  最良の尺度と思われるのが、

 苦しみに耐える能力である」

ということができる。
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