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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 08時48分)

キリル・ペトローヴィチ・コンドラシン(ロシア語: Кирилл Петрович Кондрашин, 1914年3月6日 - 1981年3月7日)は、旧ソ連出身の指揮者である。

モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団在任中、ショスタコーヴィチの交響曲の初演に携わった。交響曲第4番、交響曲第13番「バビ・ヤール」は、彼の指揮により初演された。モスクワ・フィルを指揮して、世界で初めてショスタコーヴィチの交響曲全集を録音した。



目次  [非表示] 
1 略歴
2 1981年3月8日の出来事
3 録音
4 放送
5 著作


略歴[編集]
1914年、モスクワ生まれ。
1943年、ボリショイ劇場の常任指揮者となり、1956年まで在任。
1960年、モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督となり、1976年までそのポストにあった。
1967年、モスクワ・フィルと来日。この際にマーラーの交響曲第9番を日本初演した。
1978年、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団に客演中のアムステルダムにおいて、オランダへの亡命を表明。同楽団にて、常任客演指揮者に就任する。
1980年、再来日してNHK交響楽団を指揮。
1981年、心臓発作のためアムステルダムにて死去。この日、コンドラシンは、アムステルダム公演中の北ドイツ放送交響楽団の演奏会において、クラウス・テンシュテットの代役として急遽リハーサルなしでマーラーの交響曲第1番「巨人」を演奏して成功を収めた後、戻ったホテルで心臓発作を起こして息を引き取った。この突然の死から、KGBによる謀殺説が囁かれたが、当時のKGBは暗殺の際に偽装自殺を用いていたため、KGBの関与の可能性は低いとされている。この時、コンドラシンは1982年からラファエル・クーベリックの後任として、バイエルン放送交響楽団の首席指揮者になることが内定していたが、実現することはなかった。
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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 08時47分)

アタウルフォ・アルヘンタ(本名アタウルフォ・エクスペリオ・マルティーン・デ・アルヘンタ・マサ(Ataúlfo Exuperio Martín de Argenta Maza))(1913年11月19日 カンタブリア州カストロ・ウルディアレス - 1958年1月21日 マドリッド市ロス・モリノス)は、スペインの指揮者である。

生涯[編集]

アルヘンタは1927年に13歳で王立マドリッド高等音楽学校に入学。1930年にピアノ科で首席を獲得し、1931年にはクリスティーナ・ニルソン賞を受賞する。ダンスホールや酒場でピアノを弾く傍ら、父親と同じくレンフェ(スペイン国鉄)に勤務した。音楽院で首席を獲得していたために、スペイン内戦への徴兵を免れ、ベルギーやドイツでピアノと指揮の研鑽を積むことができた。ドイツでは、指揮法をカール・シューリヒトに師事した。内乱が終わるとスペインに帰国。

第2次世界大戦中は、マドリッド・スペイン国立管弦楽団に入団して、ピアノやチェレスタなどの鍵盤楽器を担当する。1944年にマドリッド室内管弦楽団の指揮者に就任し、1945年10月10日よりスペイン国立管弦楽団を指揮するようになる。1947年より終身音楽監督に就任した。

1958年1月に一酸化炭素中毒により不慮の死を遂げる。書斎の暖房のスイッチを入れっぱなしにして自動車に乗り込み、車庫の扉を下ろしたままエンジンとヒーターをふかしたのである。車内に同乗していた学生は生き残った。国際的な成功はこれからという矢先の突然の死であった。
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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 08時46分)

ジャン・フルネ(Jean Fournet, 1913年4月14日 - 2008年11月3日)は、フランスの指揮者。明快な造形と繊細・高雅な感覚を兼ね備えたラテン系指揮者として知られる。



目次  [非表示] 
1 略歴
2 日本での活動
3 芸風
4 人柄


略歴[編集]

ルーアン生まれ。パリ音楽院で指揮及びフルートをフィリップ・ゴベールに師事し、首席で卒業する。

1936年、ルーアンで指揮者デビューする。直前に病気で倒れた指揮者の父の代役として舞台に立った。マルセイユ歌劇場の第二指揮者を経て、1944年にフランス国立放送管弦楽団常任指揮者及びパリ・オペラ=コミック座音楽監督。1945年からエコール・ノルマル音楽院で指揮を教授する。

1958年、ドビュッシーのオペラ『ペレアスとメリザンド』の日本初演のため初来日する。このとき指揮を依頼されたのはデジレ=エミール・アンゲルブレシュトであったが、アンゲルブレシュトは当時78歳で高齢を理由に断り、代わりにフルネを指名したという。以後フルネは頻繁に来日する。

1961年、オランダ放送フィルハーモニー管弦楽団常任指揮者に就任する。のち終身指揮者となった。

1968年から1973年まで、ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団音楽監督を務める。その後アメリカでメトロポリタン歌劇場、シカゴ・リリック・オペラ、サンフランシスコ歌劇場などのオペラ界で活動する。

2005年12月21日、東京都交響楽団の定期演奏会を最後に引退した(92歳)。
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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 08時46分)

セルジュ・チェリビダッケ(セルジウ・チェリビダッケとも、Sergiu Celibidache, 1912年7月11日[1] - 1996年8月14日)は、ルーマニア生まれでドイツで活躍した指揮者・作曲家。



目次  [非表示] 
1 出生
2 指揮者として
3 厳しいリハーサル
4 死後
5 作品
6 教育
7 演奏解釈
8 脚注


出生[編集]

ローマンに生まれ、第一次世界大戦中にヤシに転居、同地で21歳頃までを過ごす。6歳頃からピアノを学びはじめるが、これが直接音楽家を目指す契機にはならなかったようで、27歳になるまで天職を決めかねていたと告白している。父親は彼を政治家にしたがっていた、というのは本人の弁。ユダヤ文化の中心地であったヤシで育ちユダヤ人と深く交流したため、イディッシュ語も堪能であった。

指揮者として[編集]

チェリビダッケは初めパリに留学したが、1936年にドイツのベルリンに移り、ベルリン大学やベルリン芸術大学で哲学、数学、作曲、指揮などを専攻した。彼は戦時中もベルリンに留まり、同地で終戦を迎えた。ベルリン滞在中にヴィルヘルム・フルトヴェングラーの演奏会をチケットが手に入ろうが入るまいが聴き逃した覚えはない、と後年に回想している。

戦後、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者だったフルトヴェングラーをはじめとする有名指揮者たちはナチスとの関係をとがめられて謹慎生活に入り、ロシア生まれの指揮者レオ・ボルヒャルトがベルリン・フィルを率いることになるが、わずか3か月後の8月に米軍の誤射でボルヒャルトは帰らぬ人となった。このため、後継指揮者を探すコンクールが開かれた。受けるように勧めたのは師のハインツ・ティーセンだったという。この大事なチャンスに、チェリビダッケは遅刻したらしい。課題曲はヨハネス・ブラームスの交響曲第4番第1楽章(一説によると交響曲第1番)。審査員全員一致で優勝。ボルヒャルト死去のわずか6日後にベルリン・フィルの野外コンサートで指揮者デビューを飾る。曲はロッシーニのセビリアの理髪師序曲とカール・マリア・フォン・ウェーバーのバスーン協奏曲、そしてアントニン・ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」だった。
【90】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 08時45分)

ジャン・マルティノン(Jean Martinon, 1910年1月10日 - 1976年3月1日)は、フランスの指揮者、作曲家である。



目次  [非表示] 
1 生涯
2 来日
3 人物
4 外部リンク


生涯[編集]

ジャン・マルティノンは1910年1月10日、リヨンに生まれた。パリ音楽院ではヴァイオリンを学び、ヴァンサン・ダンディ、アルベール・ルーセルに作曲、シャルル・ミュンシュとロジェ・デゾルミエールに指揮を師事。

ヴァイオリン奏者として出発するが、指揮者に転身、パリ音楽院管弦楽団、ボルドー交響楽団、コンセール・ラムルー、イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団、デュッセルドルフ交響楽団などの首席指揮者などを歴任。1958年からはフリーランス。その後1963年にはシカゴ交響楽団の音楽監督となるが、オーケストラとの相性は決して良くなかった。後年のインタビューで「アメリカでの苦渋に満ちた時代は思い出したくない」とコメントしているほどである。1968年からはフランス国立放送管弦楽団の音楽監督に就任し、フランス指揮界における重鎮として活躍したが1976年3月1日、66歳という熟年期に他界した。
【89】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 08時43分)

アーネスト・ヘンリー・シェリング(Ernest Henry Schelling, 1876年7月26日 - 1939年12月8日)はアメリカ合衆国のピアニスト・指揮者・作曲家。

ニュージャージー州ベルヴァディアー出身。スイス出身の父親の手ほどきを受けて音楽的神童として名をはせ、わずか4歳にしてフィラデルフィア音楽アカデミーに入学。7歳でヨーロッパに留学し、パリ音楽院に進学する。ハンス・フーバー、モーリッツ・モシュコフスキー、テオドール・レシェティツキー、ヤン・パデレフスキらに師事。

シェリングは、後にバーンスタインによって有名になったニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の青少年のためのコンサートを開始した指揮者である。初回は1924年3月27日に催された。この演奏会は、オーケストラの演奏に、オーケストラについていくつかの側面からの講演を交えるというもので、青少年にさまざまな刺激を与えることができるように考慮されていた。この演奏会は、親ばかりか子供たちからも受けが良く、シェリングはニューヨークだけでなく、フィラデルフィアやロンドン、ロッテルダム、ロサンジェルスなどでも同様の演奏会を主宰した。
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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 08時42分)

ウィレム・メンゲルベルク[ヴィレム・メンヘルベルフ](Willem Mengelberg, 1871年3月28日 - 1951年3月22日)は、オランダの指揮者。フランツ・ヴュルナーの弟子であるため、ベートーヴェン直系の曾孫弟子にあたり、ベートーヴェン解釈には一目を置かれた。

甥にルドルフ・メンゲルベルク(音楽学者)とカレル・メンゲルベルク(作曲家)、カレルの息子にジャズピアニストのミッシャ・メンゲルベルクがいる。



目次  [非表示] 
1 生涯
2 音楽
3 エピソード
4 参考文献


生涯[編集]

幼少期から特異な音楽的才能を見せ、8歳の時に作曲した合唱曲などはすでにCD化されている(オランダ国内盤のみ。廃盤)。メンゲルベルクは美声に恵まれ、幼少期から父(ブランデンブルク門の彫刻を担当)の彫刻工房の職人たちをまとめて教会音楽を中心とした合唱指揮などを行っていた。また、ケルンでの学生時代は、ヴァイオリン・管楽器などオーケストラの楽器を広く演奏する腕前を持っていた。このため回りの学生からの信任も厚く、声楽家の友人の伴奏を頻繁に手伝うなど、音楽家として見識を非常に広げた。肩を壊してヴァイオリン演奏を医師に止められたため、以後ヴァイオリンを自ら演奏することはなかったが、奏法自体は熟知しており、こうしたことがオーケストラ・トレーニングにすべて役立った。

1895年に24歳でアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者として採用される。この際バッハの宗教曲を演奏する必要性を強く説き、特に『マタイ受難曲』の演奏に特別の意思を示した。このため、自ら合唱団を組織することを条件として提示し、コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者を引き受けている。後に、自らオーディションして組織した合唱団はトーンクンスト合唱団で、有名な1939年録音の『マタイ受難曲』などで実際に聴くことができる。その後、常任指揮者に就任した彼は、徹底した訓練で一流のアンサンブルに育て上げ、世界的な名声を得た。1922年から1930年の間は、自らオーディションして5つのオーケストラを統合再編したニューヨーク・フィルハーモニックの首席指揮者も兼任した。
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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 07時42分)

クリストフ・フォン・ドホナーニ(Christoph von Dohnányi, ハンガリー語: Dohnányi Kristóf, 1929年9月8日 - )は、ドイツ出身の指揮者、作曲家。

来歴[編集]

ベルリン生まれ。父はウィーン生まれのドイツの法律家ハンス・フォン・ドホナーニである。しかし、反ナチスとユダヤ人支援のレジスタンス活動をしたため、1945年にナチスの強制収容所で処刑された。母はクリスティーネ・ボンヘッファー。母方の叔父はルター派の神学者で、やはり反ナチスのレジスタンス活動家であり、ヒトラー暗殺計画に関わって1945年に強制収容所で処刑されたディートリッヒ・ボンヘッファー。兄は後にハンブルク市長をつとめたクラウス・フォン・ドホナーニ。ハンガリーの作曲家でありピアニストのエルンスト・フォン・ドホナーニ(1877年 - 1960年)を祖父に持つ。一度目の結婚でもうけた息子ユストゥス・フォン・ドホナーニは俳優。2番目の妻はソプラノ歌手のアニャ・シリヤ。オペラと演奏会の両方で評価が高く、ドイツ系の現役指揮者として重鎮的存在である。

第二次世界大戦後、ミュンヘン大学で法律を学ぶが、1948年に音楽の道に転じ、指揮と作曲でリヒャルト・シュトラウス賞を獲得して卒業、祖父の元で作曲を学ぶためにフロリダ州立大学に留学する。アメリカではレナード・バーンスタインに師事したと言われる。その後、指揮の勉強に専念し、1952年にゲオルク・ショルティの指名により、フランクフルト歌劇場の助手となる。
【86】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 07時41分)

エーリヒ・ラインスドルフ(Erich Leinsdorf 1912年2月4日 - 1993年9月11日)はオーストリア出身で、後にアメリカに帰化した指揮者である[1]。アメリカやヨーロッパを渡り歩いて一流のオーケストラや歌劇団を指揮し、演奏に求める水準の高さとともにその辛辣な人柄で有名になった[2]。音楽に関する著書やエッセーもある。

経歴[編集]

ラインスドルフはウィーンのユダヤ人家庭に生まれ、5歳から地元の学校で音楽を学び始めた。父はアマチュアのピアニストだった[3]。ザルツブルクのモーツァルテウムで指揮法を学び、その後はウィーン大学、ウィーン国立音楽大学でチェロとピアノを学んだ[4]。

1934年から1937年までザルツブルク音楽祭で著名な指揮者であったブルーノ・ワルターやアルトゥーロ・トスカニーニの助手を務める。1936年にはイタリアのボローニャで歌劇を指揮している。1937年にアメリカのメトロポリタン歌劇場でワルキューレを指揮[3]。その後はフランス、イタリアなどで活動する[3]。

1937年11月、ラインスドルフはアメリカに向かい、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で副指揮者の地位を得た。オーストリアがナチス・ドイツに占領されるのは、彼が祖国を発ってわずか数ヶ月後のことであった。当時新人の上院議員であった(そして後の大統領である)リンドン・ジョンソンの支援をうけてラインスドルフはアメリカに留まることが可能になり、また1942年にはアメリカ市民権をえて帰化することができた[1]。

1938年からニューヨーク市のメトロポリタン歌劇場で常任指揮者を務め、とりわけリヒャルト・ワーグナーの解釈で名声を博す。メトロポリタン時代はとりわけ彼の指揮するワーグナーに注目が集まった。1939年にアルトゥル・ボダンツキーが突然の死を迎えると、ラインスドルフはメトロポリタン歌劇場のドイツ物レパートリーの責任者となった[5][1][6]。

1943年には3年契約でクリーヴランド管弦楽団音楽監督の地位を得たが、実際にはほとんど在職期間がなかった。第二次世界大戦のためにアメリカ軍に徴兵されてしまい、契約も更新されなかったからだ。1982年から1984年にかけてクリーヴランド管弦楽団の音楽監督がロリン・マゼールからクリストフ・フォン・ドホナーニへと移行していた時期に、ラインスドルフは何度か同楽団でコンサートを指揮したことがある。彼の言葉を借りればラインスドルフは「政権交代の橋渡し」役だった[6]。
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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 07時40分)

ジョージ・セル(George Szell 、Széll György 、György Endre Szél、Georg Szell、1897年6月7日 - 1970年7月30日)はハンガリーのブダペストに生まれ、アメリカ合衆国クリーヴランドに没した指揮者である。ハンガリー語でセーッル・ジェルジ(ジェルジ・エンドレ・セール)、ドイツ語でゲオルク・セルとも呼ばれる。



目次  [非表示] 
1 生涯
2 芸風
3 レコーディング 3.1 戦前期
3.2 戦後期
3.3 ライヴ録音

4 ザルツブルク音楽祭とセル
5 作曲
6 逸話
7 脚注
8 参考文献


生涯[編集]

ハンガリー人の父とスロヴァキア人の母の間に生まれ、3歳で一家ともどもユダヤ教からカトリックに改宗。幼くしてピアノ演奏に才能を示し、「神童」と呼ばれた。わずか3歳からウィーン音楽院でピアノ、指揮、作曲(教師はマックス・レーガーなど)を学んだ。11歳で自作を弾いてまずピアニストとしてデビューし、次いで16歳でウィーン交響楽団を指揮して指揮者としてもデビュー。さらにベルリン・フィルハーモニー管弦楽団にもピアニスト・指揮者・作曲家として顔を出すようになった。セルは青年期までは作曲家としての作品も数多く残したが、最終的には指揮者の道を選び、リヒャルト・シュトラウスの教えを受け、彼のアシスタントを経た後、1917年ごろからストラスブールの歌劇場をはじめドイツ各地の歌劇場でキャリアを積んだ。1924年には当時ベルリン国立歌劇場に君臨していたエーリヒ・クライバーの下で第1指揮者を務め、その後プラハのドイツ歌劇場音楽総監督に就任した。しかし、ナチの台頭に脅威を感じてイギリスに移動し活動を続けた。1939年オーストラリア・アメリカへの演奏旅行中に第二次世界大戦が勃発したため、帰国をあきらめそのままアメリカに定住した。トスカニーニの援助で彼のNBC交響楽団の客演指揮者として迎えられた後、メトロポリタン歌劇場でも指揮をとった。

1946年、ラインスドルフの後任としてクリーヴランド管弦楽団の常任指揮者に就任した。これは1945年〜46年のシーズンに客演した際に大好評だったから招聘されたといわれている。このとき、セルは地元の代議士トーマス・セルドーの後援を受けて、経営陣から一切のマネジメントの権限を手に入れ管弦楽団の改革に大ナタを振るう。こうして一旦はアルトゥール・ロジンスキ(ラインスドルフの前任)が鍛えたものの決して一流とは言えなかった同楽団をさらに鍛えぬいた結果、程なく全米の「ビッグ・ファイブ」と呼ばれる第一級のオーケストラのひとつ[1]として高い評価を得るに至った。

1960年代にはウィーン、ベルリン、ロンドンなどでも客演指揮を行なった。1970年5月13日から5月27日にかけてクリーヴランド管弦楽団とともに日本万国博覧会を記念した企画の一環として来日公演を行い、日本でも極めて高い評価を受け、多くの聴衆に感銘を与えたが、帰国後まもなく多発性骨髄腫のため急逝した。
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