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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 12時36分)

ルドリフ・ボリソヴィチ・バルシャイ(Рудольф Борисович Баршай, Rudol'f Borisovich Barshai, 1924年8月28日 - 2010年11月2日)は、ロシアのクラスノダル近郊ラビンスカヤ(Labinskaya)出身でスイスに在住していた指揮者。



目次  [非表示] 
1 人物
2 歴任したオーケストラ
3 脚註
4 外部リンク


人物[編集]


 


ルドルフ・バルシャイ
1943年にモスクワ音楽院に入学し、ヴァイオリンをツァイトン、ヴィオラをボリソフスキーに師事した。ショスタコーヴィチにも師事したことがある。

当初はヴィオラ奏者として活躍を開始。1948年からモスクワ音楽院弦楽四重奏団(現ボロディン弦楽四重奏団)、チャイコフスキー弦楽四重奏団でヴィオラ奏者を務め、翌1949年にはブダペストで開催された世界青年学生フェスティバルで最高名誉賞を受賞している。

指揮者としてのスタートは1955年。レニングラード音楽院でイリヤ・ムーシンに師事した後、モスクワ室内管弦楽団を創設して指揮者に就任した。ソ連内でも積極的な活動を行い、ソ連の作曲家の多くの作品の初演を飾っている。また、師ショスタコーヴィチの交響曲第14番の初演指揮を行い弦楽四重奏曲第8番を「室内交響曲」として編曲している。以後も何曲か編曲している。

1976年にイスラエルへ亡命。数々のオーケストラの指揮者、音楽監督を務めた。1991年にはナチスドイツによるソ連侵攻50年記念日に、ドイツの若手演奏家(ユンゲ・ドイッチュ・フィルハーモニー管弦楽団)とモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団のメンバーで構成された臨時オーケストラの指揮をしている。1993年4月、亡命以来久しぶりにロシアに帰り、ロシア・ナショナル管弦楽団とベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」(サンクトペテルブルクで初演されている)を、モスクワ放送交響楽団とマーラーの交響曲第9番を演奏した。

初来日したのは1966年、以後たびたび来日。2004年12月には急病のシャルル・デュトワの代役でNHK交響楽団定期演奏会を振っている(偶然、直前の名古屋フィルハーモニー交響楽団の演奏会に客演しており、本来デュトワが指揮する予定だった曲目がバルシャイが得意とする室内管弦楽主体のものだったための人選だったようである)。
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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 12時35分)

クラウディオ・シモーネ(Claudio Scimone, 1934年12月23日 - )はイタリアの指揮者。パドヴァ出身。

人物[編集]

イ・ソリスティ・ヴェネティ創設者ならびにリスボン・グルベンキアン管弦楽団の名誉指揮者。ディミトリ・ミトロプーロスとフランコ・フェラーラに師事。指揮者としての国際的名声に加えて、音楽学者としても活動してきた。

多くのバロック音楽やルネサンス音楽の復活に寄与し、録音は150点を超える。ディスク・グランプリ(Grand Prix du Disque)などの受賞歴もある。

学究然とした容貌で、指揮のスタイルは端正であるが、人柄はユーモアに富んでいて、その人格的魅力にも高い人気がある。
【122】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 12時35分)

スタニスワフ・スクロヴァチェフスキ(Stanis&#322;aw Skrowaczewski, 1923年10月3日 - )は、ポーランド出身の指揮者、作曲家。ファースト・ネームは日本では「スタニスラフ」と表記されることが多い。名前が長く読みにくい為、欧米では略してMr.Sとも呼ばれる。



目次  [非表示] 
1 略歴
2 指揮者としての活動
3 作曲家としての活動
4 来日歴
5 主なポスト


略歴[編集]

ポーランドのルヴフ(現ウクライナ)生まれ。4歳でピアノとヴァイオリンを始め、7歳でオーケストラのための作品を作曲したという。11歳でピアニストとしてリサイタルを開き、13歳でベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番を弾き振りするなど、神童ぶりを発揮した。しかし、第二次世界大戦中の1941年、ドイツ軍の空襲によって自宅の壁が崩れて手を負傷したため、ピアニストの道を断念。以後、作曲と指揮に専念するようになる。

1946年にブロツワフ・フィルハーモニー管弦楽団の、1949年にカトヴィツェ・フィルハーモニー管弦楽団の、1954年にクラクフ・フィルハーモニー管弦楽団の、それぞれ指揮者を務める。1956年、ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任。同年、ローマの国際指揮者コンクールに優勝。1958年には、ジョージ・セルから招かれて渡米。クリーブランド管弦楽団を指揮してアメリカデビューを果たす。

その後も、1960年-1979年ミネアポリス交響楽団(現ミネソタ管弦楽団)音楽監督。(現在桂冠指揮者。)1984年-1991年、イギリスのハレ管弦楽団(マンチェスター)首席指揮者。1994年からザールブリュッケン放送交響楽団(現ザールブリュッケン・カイザースラウテルン・ドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団)の首席客演指揮者を務める。2007年4月-2010年3月、読売日本交響楽団第8代常任指揮者を務め、2010年4月から同団桂冠名誉指揮者。

2011年5月には病気療養のためキャンセルした小澤征爾の代役として25年ぶりにベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮台に立ち、聴衆はもとより楽団員からも絶賛された。日本では、NHK交響楽団と読売日本交響楽団、さらに札幌交響楽団に客演している。2011年8月には、フレデリック・ハリス(マサチューセッツ工科大学ウインド・アンサンブル指揮者)の著による伝記「Seeking The Infinite : The Musical Life of Stanislaw Skrowaczewski」が出版された。

アメリカ国籍を取得し、現在はアメリカ・ミネアポリス市在住。
【121】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 12時34分)

ヴォルフガング・サヴァリッシュ(Wolfgang Sawallisch, 1923年8月26日 - 2013年2月22日)は、ドイツ、バイエルン州ミュンヘン生まれの指揮者・ピアニスト。



目次  [非表示] 
1 概要
2 日本との関係
3 演奏スタイル・レパートリー
4 エピソード
5 著作
6 出典
7 参考文献
8 外部リンク


概要[編集]

幼少期からピアノ、音楽理論、作曲を相次いで学ぶ。指揮も、現代音楽の指揮で名高いハンス・ロスバウトに師事する。第二次世界大戦で通信兵として徴兵され、大戦後は1947年にアウクスブルク市立歌劇場でフンパーディンク作曲のオペラ「ヘンゼルとグレーテル」でデビューする。この指揮が高く評価され、第一指揮者に抜擢される。次いで1949年にはピアノ奏者としてヴァイオリニストのゲルハルト・ザイツと共演し、ジュネーヴ国際音楽コンクールの二重奏部門で1位なしの2位となる。以後、指揮者とピアニスト(主にリートの伴奏者)としての活動を並立させる。

1953年にはアーヘン、1958年にヴィースバーデン、1960年にケルンのそれぞれの市立歌劇場の音楽総監督に就任する。その間の1957年にはロンドン・デビュー(エリーザベト・シュヴァルツコップの伴奏者[1]、フィルハーモニア管弦楽団の指揮)と、バイロイト音楽祭初出演を果たす。33歳でのバイロイトへの出演は当時の最年少記録だった(1960年にロリン・マゼールが30歳で初出演し、現在はこれが最年少記録)。

これらの成功で、カラヤンはサヴァリッシュをウィーン国立歌劇場に、一方でルドルフ・ビングも当時支配人であったメトロポリタン歌劇場に引っ張りこもうとした。しかしサヴァリッシュは、自分はまだ経験不足だということを理由にいずれも断っている。結果的にこれが、プライドの高い2人の逆鱗に触れてしまい、カラヤンからは一度もベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に招かれることがなく、また生涯一度もメトロポリタン歌劇場で指揮することなく終わった[2]。

歌劇場での活躍の一方で、オーケストラの音楽監督でも活躍し、ウィーン交響楽団やハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団、スイス・ロマンド管弦楽団の首席指揮者を歴任した。スイス・ロマンド管弦楽団では創設者エルネスト・アンセルメ亡き後のオーケストラの再構築に尽力した(この再構築を評価する者と「アンセルメの響きが失われた」として評価しない者に二分している)。1971年からはバイエルン国立歌劇場の音楽監督(1982年から1992年は音楽総監督)に就任した。若手の逸材歌手を積極的に登用し、出演者の相対的な若返りに成功した。1988年には、ミュンヘン・オペラ・フェスティバルにおいて、リヒャルト・シュトラウスのすべてのオペラを上演して話題を呼んだ。

バイエルンのポストを退任後、リッカルド・ムーティの後任としてフィラデルフィア管弦楽団の音楽監督に就任した。フィラデルフィアのポストを退任した後は特定のポストには就かず、フリーの指揮者となっていたが、2006年3月に、5月以降に予定していたフィラデルフィアやローマなどでのコンサートを心臓病の悪化を理由にキャンセルし、現役からの引退を事実上表明した。2013年2月22日、バイエルン州グラッサウ(ドイツ語版)にある自宅で死去した[3]。
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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 12時33分)

ヴァーツラフ・ノイマン (Václav Neumann, 1920年9月29日 - 1995年9月2日) は、チェコの指揮者。1968年から20年以上にわたってチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務め、同管弦楽団の国際的な名声を築き上げた。



目次  [非表示] 
1 生涯
2 レパートリー
3 脚注
4 参考文献


生涯[編集]

プラハ生まれ。プラハ音楽院でヴィオラを学ぶかたわら、同時に指揮をヴァーツラフ・ターリヒに学んだ。在学中から音楽院内の弦楽四重奏団でヴィオラ奏者を務めた。1945年にチェコ・フィルハーモニー管弦楽団(以後「チェコpo」と略記)のヴィオラ奏者となる。同じ年に音楽院時代の弦楽四重奏団がスメタナ弦楽四重奏団として正式にデビューした。1947年、当時チェコpoの首席指揮者であったラファエル・クーベリックが急病となり、その代役として指揮者デビューを果たし、これ以後指揮に専念するためスメタナ弦楽四重奏団を退団した。さらに、1948年にクーベリックが共産党支配体制に反発し祖国を離れるとチェコpoの常任指揮者となった。

1950年、クーベリックの後任にカレル・アンチェルが就任すると同楽団を離れ、ブルノ交響楽団、プラハ市交響楽団で指揮を執り、その後活躍の場を東ドイツに移す。1957年から1964年までベルリン・コーミッシェ・オーパーの首席指揮者、1964年にはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の音楽監督およびライプツィヒ市の音楽監督に就任した。

1968年、プラハの春にソヴィエトが介入するとアンチェルはカナダに亡命、ノイマンはその後任としてチェコpoの首席指揮者に就任し、祖国に戻った。この際、ソ連の介入に東ドイツが同調し東ドイツ軍を参加させたことに抗議して、ライプツィヒのポストを辞任している。その後1970年から1973年までシュトゥットガルト国立歌劇場の音楽監督を兼任しているが、1990年に名誉指揮者となるまでの22年間チェコpoの首席指揮者の地位にあり、数々のツアーやレコーディングを通じ、同管弦楽団の国際的名声を築き高めていった。この頃、ウィーン音楽院の教壇にも立っている。日本へも1969年の初来日以降、9度来日し演奏を行った。

1989年、チェコ国内で発生したビロード革命では一貫して反体制派側につき、11月17日〜20日の間スメタナホールにおいて連日スメタナの「わが祖国」を演奏して学生ら活動家を応援し、民主化が成功した直後の12月14日には新大統領のヴァーツラフ・ハヴェルを招いてベートーベンの第9を演奏するなど、さまざまな面で活躍した。この直後、イルジー・ビエロフラーヴェクに首席指揮者の地位を譲るが、その後もチェコ・フィルとの活動は継続した。

1995年9月2日、滞在先のウィーンで逝去した。
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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 12時33分)

ヘルベルト・ケーゲル(Herbert Kegel, 1920年7月29日 - 1990年11月20日)は、ドイツのオーケストラ・合唱指揮者。

生涯[編集]

ドレスデンに生まれ、幼いうちから聖十字架合唱団の団員となる。はじめはピアニストを志すが、第2次世界大戦中に東部戦線で手榴弾の破片を受けて負傷し、指揮に転向した。指揮をアルフレッド・シュティアー、カール・ベーム、作曲をボリス・ブラッハー、パウル・デッサウに師事。

ドレスデン郊外のピルナで指揮者としての活動を開始するが、まもなくロストックに移る。1949年にヘルマン・アーベントロートのアシスタントとしてライプツィヒに招かれ、ライプツィヒ放送交響楽団、ライプツィヒ放送合唱団の指揮者となる。ライプツィヒ放送合唱団は今でも優秀な合唱団として評価が高いが、ケーゲルはその礎を築いた一人である。1956年アーベントロートの死去に伴い1978年までライプツィヒ放送交響楽団の首席指揮者となり、その後ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者となる。

1979年に初来日し、その後もたびたび日本を訪れている。NHK交響楽団を指揮した演奏記録の一部はCDとして発売されている。

ケーゲルは、ドイツ再統一の直後、1990年に拳銃自殺した。もともと彼は以前から何度か希死念慮を抱いていたといわれているが、統一後に自らの仕事の場所が無くなっていったことへの苛立ち、それによる周囲との不和で鬱状態に陥ったことが原因と考えられている。このさい、ライバルと見られていたクルト・マズアから嫌がらせをされていたという指摘もある。また、息子の病気を心配していたこと、社会主義思想を持っていたとされる彼が、事実上東ドイツが西ドイツに吸収される形での統一したドイツの将来を絶望したためではないか、と言われることもある。

旧東独時代の放送用録音を含め、古典派から現代音楽に至る膨大な録音を残し、現代音楽に理解の少ない共産圏においてそれらの普及にも力を尽くしたが、彼の活動は必ずしも正当な評価を受けるに至っていない。
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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 12時31分)

ウィリアム・スタインバーグ(William Steinberg, 1899年8月1日 - 1978年5月16日)は、ユダヤ系ドイツ人の指揮者。第二次世界大戦後にアメリカを中心に活動しており、もっぱら英語名で知られる。

略歴[編集]

ケルンに生まれ、本名はハンス・ヴィルヘルム・シュタインベルク(Hans Wilhelm Steinberg)といった。1933年にナチスによりフランクフルト歌劇場から引退を余儀なくされた上、演奏活動を制限されたことから、1936年にイギリス委任統治領パレスチナに移住した。同地でブロニスワフ・フーベルマンらと共にパレスチナ交響楽団(現イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団)を結成し、指揮者を務める。

第二次世界大戦後に欧米の楽壇に復帰し、1945年から1953年までバッファロー・フィルハーモニー管弦楽団を、1950年代にはロンドン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した。1969年から1972年までボストン交響楽団音楽監督を務めた。しかし一般的には、1952年から1976年までのピッツバーグ交響楽団の指揮者としての活動、とりわけ名ヴァイオリニスト、ナタン・ミルシテインの伴奏者として有名である。ピッツバーグ交響楽団とは日本での公演も行なっている。

ニューヨークで他界した。息子のピンカス・スタインバーグも指揮者である。
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RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 12時30分)

ヤッシャ・ホーレンシュタイン(Jascha Horenstein, ウクライナ語: Яша Горенштейн, 1898年5月6日 - 1973年4月2日)は、ウクライナ出身のアメリカ合衆国で活躍したユダヤ系指揮者。

生涯[編集]

オーストリア人を母親にキエフに生まれる。1911年に家族に連れられウィーンに転居し、同地でフランツ・シュレーカーほかに師事する。その後、ベルリンに移ってヴィルヘルム・フルトヴェングラーの助手を務める。1920年代にはウィーン交響楽団やベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮する。ナチスが権力を掌握すると亡命を余儀なくされ、1940年に渡米、最終的にアメリカ国籍を取得した。ロンドンで他界している。
【116】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 12時29分)

パウル・ヒンデミット (Paul Hindemith, 1895年11月16日 - 1963年12月28日)は、ドイツ・ハーナウ出身の作曲家、指揮者、ヴィオラ奏者。その他にもヴァイオリン、クラリネット、ピアノなど様々な楽器を弾きこなす多才な演奏家であった。

第一次世界大戦後、ロマン派からの脱却を目指し、新即物主義を推進。20世紀ドイツを代表する作曲家として同時代の音楽家に強い影響を与えた。また生涯に600曲以上を作曲。交響曲やオペラばかりではなく、オーケストラを構成するほぼすべての楽器のためのソナタを作曲した。



目次  [非表示] 
1 経歴
2 作風
3 音楽論
4 主な作品 4.1 歌劇
4.2 付随音楽
4.3 映画音楽
4.4 管弦楽曲
4.5 吹奏楽曲
4.6 協奏曲
4.7 室内楽曲
4.8 独奏曲
4.9 ピアノ曲
4.10 歌曲
4.11 合唱曲
4.12 その他の作品

5 著作
6 教え子
7 関連事項
8 外部リンク


経歴[編集]

1895年11月16日ドイツのハーナウに生まれる。11歳の時に音楽家になる決心をしてフランクフルトのホッホ音楽院でヴァイオリンを学ぶかたわら、作曲も専攻する。

その後ヴァイオリン奏者として音楽家としてのキャリアを開始し、一時映画館のジャズバンドで演奏していたこともあったが、20歳の時にフランクフルト・ムゼウム管弦楽団(フランクフルト歌劇場管弦楽団)のコンサートマスターを務めている。

第一次世界大戦に従軍、除隊後、弦楽四重奏団のヴィオラ奏者を務める。その後、ヴィオラのソロ奏者としての活動を行うとともに、多くの作曲を行う。1920年に結成したアマール弦楽四重奏団では、8年間にわたり活動し、自身の作曲した『弦楽四重奏曲第2番』の初演などを行っている。ヴァイオリンのシモン・ゴールドベルク、チェロのエマヌエル・フォイアーマンとの三重奏は有名で、自身が演奏するための弦楽三重奏曲も作曲している。1927年から、ベルリン音楽大学の作曲科の教授を務めている。

1934年には、代表作のオペラ『画家マチス』を作曲するが、ドイツ人でありながらナチスの意に沿う保守的作品を作曲しなかったため、「退廃音楽」であるとの烙印を押され、弾圧を受ける(ヒンデミット事件)。1935年にはトルコ政府からの依頼で、音楽教育の編成に携わり、アンカラ音楽院の開校に尽力した。

1938年にスイスへ亡命、さらに1940年にはアメリカに亡命し、市民権を得て、イェール大学の教授に就任している。アメリカ時代の教え子にはルーカス・フォス、ノーマン・デロ=ジョイオ、映画監督のジョージ・ロイ・ヒルらがいる。第二次世界大戦終結後の1953年にようやくスイスへ帰還。ウィーン音楽院の教壇にも立ち、1956年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の初の日本への演奏旅行に指揮者として来日している。

1963年、フランクフルトにて死去。
【115】

RE:続カンパチ・ベルガーX    評価

カンパチ (2015年04月26日 12時29分)

サー・ハロルド・マルコム・ワッツ・サージェント(Sir Harold Malcolm Watts Sargent, 1895年4月29日 - 1967年10月3日)は、イギリスの指揮者、オルガニスト、作曲家。

生涯[編集]

ケント州アシュフォード(英語版)出身。初めはオルガニストだったが、1921年、ヘンリー・ウッドの招請によりクイーンズホール管弦楽団の指揮台に立ち、自作の管弦楽曲「強い嵐の日の印象」(Impression on a Windy Day)作品9を振った指揮者デビューは大成功に終わり、以後指揮者としてロンドンを中心にキャリアを重ねる。

1928年にはロイヤル・コーラル・ソサエティの合唱指揮者に就任、死に至るまでこのポストに留まる。1931年、ウォルトンの「ベルシャザールの饗宴」(Belshazzar's Feast)の初演を指揮している。翌1932年、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団が創設されるとその客演指揮者の中心を占め、1942年から6年間にわたってリヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団(現ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団)の常任指揮者を務めた。この間、1947年にはナイトの称号が授与されている。
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