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【34】 |
カンパチ (2015年04月25日 13時22分) |
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こういうのに頼ってちゃ…って聞くわね(笑) だけどさ、真面目な話…私15歳から摂食障害と共に生きて来て、多分今までの人生で一度もないんだ。 キチッと、“ダイエット”というものと向き合った事が。 つい数日前…とあるキッカケで数年ぶりに(?)自分の裸を鏡で見ました。 |
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【33】 |
カンパチ (2015年04月25日 13時20分) |
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…ずっと、ずっと、ずっと泣いてる。 …昨日の夜も、今朝も、今この瞬間も。 自分の居場所は何処なのか。 泣く事だけが私の人生なのか。 心を決めては、一瞬で砕かれ…不安にしがみ付いては、引き剥がされ…地獄の底に堕とされる。 病気の自分が憎い。 どこまでも自信が無く、毎日朝から晩まで怯えている自分が憎い。 …自分を責めちゃいけない。 分かってる、ちゃんと分かってる。 …だけど、自分以外に誰を責められる? 出来ないよ…どうしたら他者に怒りをぶつけられる? |
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【32】 |
カンパチ (2015年04月25日 13時18分) |
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一昨日からワタクシ、とある島にて生活しております…今回はだいぶハードなロケです映画カチンコ 日々、体力とメンタルの闘いです。 他人とコミュニケーションを取ることを何よりも不得意としている私は、現場でも確実に浮いている事でしょう。 つくづく自分の醒め方と協調性の無さを痛感致します。 正直今回は不安しかない。 でも、頑張ろう。 いつもいつも、同じことやってたってしょうがない。 チャンスは活かさなきゃ。 チャレンジしなきゃ。 爪痕残さなきゃ。 皆んなー。 東京から遠く離れた場所で私も頑張ってるよー。 一緒に頑張ろう。 1ミリずつでいいんだ、今日が無理なら明日でも明後日でもいいんだ。 ゆっくり、でも着実に。 一緒に進んで行こう |
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【31】 |
カンパチ (2015年04月25日 12時52分) |
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ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler, 1886年1月25日ベルリン - 1954年11月30日バーデン=バーデン)はドイツの指揮者。作曲活動、ピアノ演奏活動も行った。 目次 [非表示] 1 概要 2 略年譜 3 主な録音 4 映像 5 主な初演作品 6 作品 6.1 交響曲 6.2 その他の作品 7 ピアニスト 8 主要な著作 9 脚注 10 関連項目 11 参考文献 11.1 文献資料 11.2 報道資料 12 外部リンク 概要 カラヤンの前にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者を務め、20世紀前半を代表する指揮者のひとりとされている。ベートーヴェン、ブラームス、ワーグナー等のドイツ音楽の本流を得意とした。一般には後期ドイツ・ロマン派のスタイルを継承した演奏とされ[1]、作曲家としても後期ドイツ・ロマン派のスタイルを継承したことから、ライバルのトスカニーニと対極に位置づけられることもあるが、「堅固な構築性をそなえた演奏を『ロマン主義的演奏』というだけで片付けてしまうのは軽率」とする見解もあり[2]、またフルトヴェングラー自身は「後期ロマン主義者」と看做されることを極度に嫌い、「私はロマン主義者でも古典主義者でもない」と語ったともいわれる[3]。主な称号はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団名誉団員[4]。 音楽評論家の吉田秀和は、フルトヴェングラーについて、「濃厚な官能性と、高い精神性と、その両方が一つに溶け合った魅力でもって、聴き手を強烈な陶酔にまきこんだ」[5]「(ベートーヴェンが)これらの音楽に封じ込めていた観念と情念が生き返ってくるのがきこえる」[6]と評している。 現在でもCDが続々と発売され、放送録音、海賊録音の発掘も多く、真偽論争となったレコードも少なくない。 妹メーリットは、哲学者マックス・シェーラーの妻。甥ベルンハルトと妻エリーザベトの連れ子カトリーンの間の娘のマリア・フルトヴェングラーは女優で医師。 音が出る前から指揮棒の先が細かく震え始め、アインザッツが非常にわかりにくいその独特の指揮法[7]から、日本ではフルトヴェングラーをもじって「振ると面食らう」などと評され、「フルヴェン」の愛称で親しまれている。 略年譜 1886年 ベルリンにて誕生。正式な洗礼名はグスタフ・ハインリヒ・エルンスト・マルティン・ヴィルヘルム(Gustav Heinrich Ernst Martin Wilhelm)。父は考古学者アドルフ。 1906年 カイム管弦楽団(現在のミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団)を指揮しデビュー。 1920年 音楽学者ハインリヒ・シェンカーと親しく交わる。 1922年 同年死去したアルトゥール・ニキシュの後任として、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団およびベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任。 1927年 フェーリクス・ヴァインガルトナーの後継としてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任。 1933年 ベルリン国立歌劇場でワーグナーの「マイスタージンガー」を指揮した際、首相ヒトラーと握手している写真を撮影される。9月15日、ヘルマン・ゲーリングの指令により、プロイセン枢密顧問官に就任。同年11月15日には帝国音楽院副総裁に就任。 1934年 ヒンデミット事件によりナチス政府と対立。12月5日、プロイセン枢密顧問官および帝国音楽院副総裁を辞任。 1936年 ニューヨーク・フィルの次期音楽監督にトスカニーニから指名されるが、ナチスの妨害により破談。 1938年 ドイツのオーストリア併合後、ナチスによるウィーン・フィル解散を阻止。 1939年 第二次世界大戦が勃発するがドイツに残る。国内のユダヤ人音楽家を庇護。 1945年 2月 ウィーン・フィルの定期演奏会後にスイスへ亡命(彼を嫌うナチス高官ハインリヒ・ヒムラーに逮捕命令を出されていた)。 5月 戦時中のナチ協力を疑われ、演奏禁止処分を受ける。 |
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【30】 |
カンパチ (2015年04月25日 12時52分) |
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ブルーノ・ワルター(Bruno Walter, 1876年9月15日-1962年2月17日)は、ドイツ出身の指揮者・ピアニスト・作曲家。より正確なドイツ語読みはヴァルターであり、そのように表記される場合もある。また、本来の苗字はシュレージンガーであり、これは彼がブレスラウの歌劇場の指揮者になったとき、ブレスラウにはシュレージンガー姓のものが多いので、ヴァルターに改めたという。そのため、ヴァルター・シュレージンガーと表記されることも稀にある。 20世紀を代表する偉大な指揮者の1人で、モーツァルトやマーラーを得意とした。戦前や戦後間もなくの日本では、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、アルトゥーロ・トスカニーニとブルーノ・ワルターを「三大巨匠」と呼ぶことが多かった。 作曲家として2曲の交響曲、室内楽曲、歌曲などを残している。 目次 [非表示] 1 ワルターの生涯 1.1 生誕から指揮者となるまで 1.2 マーラーとの出会い 1.3 人気指揮者へ 1.4 ナチスの台頭とアメリカ移住 1.5 戦後 2 ワルターの名演奏(録音) 2.1 レパートリーと演奏スタイル 2.2 マーラーとモーツァルト 2.3 その他 2.3.1 モノラル録音 2.3.2 ステレオ録音 3 他の指揮者との関係 3.1 マーラー 3.2 トスカニーニ 3.3 フルトヴェングラー 3.4 クレンペラー 3.5 ベーム 3.6 クナッパーツブッシュ 4 作曲した作品 5 著書 6 映像作品 7 脚注 8 外部リンク 9 ポスト ワルターの生涯[編集] 生誕から指揮者となるまで[編集] ドイツ系ユダヤ人の父親とキリスト教徒に改宗した東欧から移住したユダヤ系の母親の間の子として、ベルリンに生まれる(ブルーノ本人はキリスト教徒)。本名は、ブルーノ・ヴァルター・シュレージンガー (Bruno Walter Schlesinger)。 ベルリンのシュテルン音楽院を卒業後、ピアニストとしてデビューしたが、ハンス・フォン・ビューローの実演を目の当たりにして指揮者になることを決意し、1894年にケルン市立歌劇場でデビューした。 マーラーとの出会い[編集] 1896年にはハンブルク歌劇場へ移った。そこで当時音楽監督(1891年ー1897年) 、すなわち上司であったグスタフ・マーラーに認められ、マーラーの部下、弟子、そして親友として交流を深めていった。その後マーラーとともにウィーンへ転任し、ウィーン音楽院(現ウィーン国立音楽大学)で教鞭をとる。また、名前からユダヤ系を示す「シュレージンガー」という姓を除き「ブルーノ・ワルター(ヴァルター)」と名乗ったのもこの頃からである。 [1] |
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【29】 |
カンパチ (2015年04月25日 12時51分) |
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アルトゥーロ・トスカニーニ(Arturo Toscanini, 1867年3月25日 - 1957年1月16日)は、イタリア出身の指揮者。 目次 [非表示] 1 略歴[1] 2 人物 3 逸話 4 主要な録音 5 映像記録 6 関連図書 7 トスカニーニ財団 8 関連項目 9 脚注 10 参考文献 11 外部リンク 略歴[1][編集] 1867年 3月25日、イタリア北部の町パルマのオルトレトレンテ(労働者階級が住む地域)ボルゴ・サン・ジャコモ(現ボルゴ・ロドルフォ・タンツィ)13番で生まれる。父クラウディオは仕立屋。母パオラ(パオリーナ、旧姓はモンターニ)は裁縫師。アルトゥーロは第1子で、唯一の男児。(子供は計4名。) 1871年 初めて歌劇場に連れて行かれ「仮面舞踏会」を聴く。 1876年 パルマ王立音楽学校に入学。当初は通学生。後に寮生となる。 1885年 9年間の厳しい教育の後、チェロと作曲で最高の栄誉を得て首席で卒業。(ピアノも最高点。)巡業歌劇団と首席チェロ奏者・副合唱指揮者の契約を結ぶ。18歳の若者にとってこれは名誉な事であった。 1886年 6月30日、歌劇団のブラジル リオ・デ・ジャネイロ公演において、ヴェルディの「アイーダ」の指揮者として突然デビューすることとなる。帰国後の11月4日、トリノのカリニャーノ劇場でカタラーニの「エドメア」でプロ指揮者としてデビュー。 1887年 2月5日、ミラノ・スカラ座におけるヴェルディの「オテロ」初演で第2チェロ奏者を務める。以降10年間、地方歌劇場を回って指揮をする。 1892年 ミラノ ダル・ヴェルメ劇場でレオンカヴァッロの「道化師」を初演。ジェノアのカルロ・フェリーチェ劇場でフランケッティの「クリストフォロ・コロンボ」を指揮。(なおこれはヴェルディがトスカニーニの指揮を聴いた唯一の機会であった。) 1895年 トリノ レージョ劇場の首席指揮者に就任。ヴァーグナーの「神々の黄昏」をイタリア初演。 1896年 2月1日、レージョ劇場でプッチーニの「ラ・ボエーム」初演。3月20日、トリノで自身初の管弦楽演奏会を行う。 1897年 6月21日、ミラノでカルラ・デ・マルティーニと結婚。 1898年 3月21日、トリノで第1子となる息子ヴァルテル誕生。ヴェルディの「聖歌四編」のうち3つをイタリア初演。31歳の若さでスカラ座芸術監督に任命され、12月26日、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」でシーズン初日を飾る。 1899年 スカラ座でヴァーグナーの「ジークフリート」をイタリア初演。 1900年 1月16日、長女ヴァッリ誕生。スカラ座でチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」をイタリア初演。ミラノ リリコ劇場でレオンカヴァッロの「ザザ」を初演。プリマドンナ ロズィーナ・ストルキオと恋に落ちる。 1901年 1月、ミラノでヴェルディが死去。トスカニーニはその後の追悼演奏会などで指揮。9月28日、次男ジョルジョ誕生。この年以降1906年まで4回にわたり、アルゼンチン ブエノス・アイレスのオペラ座で指揮。(ベルリオーズ「ファウストの劫罰」、プッチーニ「蝶々夫人」、チレア「アドリアーナ・ルクヴルール」など) 1903年 4月を以てスカラ座芸術監督を辞任。原因は聴衆や新しい運営委員会との不和。 1906年 父クラウディオ、死去。6月10日、次男ジョルジョがジフテリアのため死去。スカラ座に復帰。リヒャルト・シュトラウスの「サロメ」イタリア初演をめぐり作曲者といざこざ。 1907年 トスカニーニの主張に従った新しいオーケストラピットが完成し、「神々の黄昏」で披露となる。12月5日、次女ヴァンダ誕生。 |
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【28】 |
カンパチ (2015年04月25日 11時46分) |
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エルネスト・アレクサンドル・アンセルメ(Ernest Alexandre Ansermet, 1883年11月11日 - 1969年2月20日)は、スイスの指揮者・数学者。 目次 [非表示] 1 人物・来歴 2 演奏会 3 録音 4 参考文献 5 脚注 人物・来歴 アンセルメは、スイス西部のフランス語圏にあるレマン湖畔の町ヴヴェイに生まれた。父は幾何学の学者であったこともあり、彼もパリのソルボンヌ大学とパリ大学で数学を学んだ後、数学者としてローザンヌの大学の数学の教授になった。 しかし、音楽好きの母親の影響から、ローザンヌで3歳年上の新進作曲家であったエルネスト・ブロッホについて音楽の勉強をはじめた。作曲家としてもいくつかの作品を残している他、 ドビュッシーの『6つの古代碑銘』をオーケストラ編曲し、譜面はデュラン社から出版されている。 数学者として生きるべきか音楽に進むべきか一時は迷い、1909年にベルリンを訪れて、指揮者のニキシュとワインガルトナーに助言を求め、ようやくアンセルメは指揮者としてたつ決心を固めた。 1910年、アンセルメはモントルーで指揮者としてデビューした。この時のプログラムは、ベートーヴェンの『運命』を中心としたものであった。このコンサートがきっかけとなり、アンセルメはモントルーのクア・ザールの指揮者となる。 指揮者となったアンセルメは、モントルーのカフェでストラヴィンスキーと運命的な出会いをして意気投合した。ストラヴィンスキーは当時まだスイスのローカルな指揮者に過ぎないアンセルメを、第一次世界大戦のためスイスに疎開していたディアギレフに紹介した。モントゥーの後任を探していたディアギレフにとってはまさに渡りに舟で、彼は1915年のロシア・バレエ団(バレエ・リュス)によるジュネーヴ公演の指揮者としてアンセルメを指名した。ディアギレフは、アンセルメをアメリカ公演の指揮者としても指名し、ついに専属指揮者とした。 彼がバレエ・リュスで初演を担当した作品にはプロコフィエフの『道化師』、ファリャの『三角帽子』、サティの『パラード』などある。 他にストラヴィンスキーの数多くのスイス時代の作品を初演し、マルタンやオネゲルなどスイスの作曲家たちの作品を頻繁に取り上げた。なおこれらの活動の多くは、1918年にジュネーヴに創設したスイス・ロマンド管弦楽団によってなされた。 スイス・ロマンド管弦楽団は、設立当初は財政的に不安定であった。1930年代はじめには一時活動休止にまで追い込まれている。しかし、1938年にローザンヌのスイス・ロマンド放送のオーケストラを吸収合併し、当時成長をはじめた放送局のオーケストラとして財政的にも安定すると、一気に活動も活発となり、多くの名指揮者を客演として招聘するようになる。ブルーノ・ワルターやフルトヴェングラー、カール・シューリヒト(ヴヴェイに住んでいた)などが積極的に招かれている。フルトヴェングラーは、1944年1月17日ローザンヌ、1月19日ジュネーヴで客演した(後にスイスに亡命)。カール・シューリヒトとは、第2次世界大戦前から親交があったが、アンセルメが終戦の前年に彼をスイス・ロマンド管弦楽団に客演を依頼して、ドイツから亡命する手助けをした。終戦後数年にわたって、このオーケストラへの客演がシューリヒトの主な活動となった。 戦後、イギリスのレコード会社英デッカと専属契約を結んだアンセルメとスイス・ロマンド管弦楽団は、かつてディアギレフの元で演奏したバレエ音楽、親交のあったラヴェルやルーセルなどの作品をはじめ、ストラヴィンスキーの作品など、網羅的に録音をする機会を得た。それらは、アンセルメのホームグラウンドとなったジュネーヴのヴィクトリア・ホールで行われた。但しこのホールは録音のための部屋がなく、レストランの厨房をコントロール・ルームとして行うなど、難しい面もあったようだ[独自研究?]。 |
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【27】 |
カンパチ (2015年04月25日 11時44分) |
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カルロ・マリア・ジュリーニ(Carlo Maria Giulini, 1914年5月9日 - 2005年6月14日)は、イタリア出身の指揮者。世界的な名声と比べて、特定のポストに就いていた期間が短く、孤高の巨匠として知られる。少年時代を北イタリアのドイツ語圏ボルツァーノ(ジュリーニ誕生の時点ではオーストリア領で1919年に正式にイタリア領に編入)で過ごしたこともあって完全にネイティブなドイツ語を話し、イタリアオペラ以上にドイツ系レパートリーを得意としていた。 略歴[編集] プッリャ州北部のバルレッタに生まれる。サンタ・チェチーリア国立アカデミアに学び、ヴィオラ奏者として出発している。さらにサンタ・チェチーリア音楽院のアレッサンドロ・ブスティーニ(Alessandro Bustini)に作曲を学んだ[2][3]。ヴィオラ奏者時代には、客演したブルーノ・ワルターなどの当時の大指揮者の指揮に触れる機会を得る。 1946年 - ローマRAI交響楽団首席指揮者。 1950年 - ミラノRAI交響楽団首席指揮者。 1953年 - ミラノ・スカラ座の音楽監督となるも、1956年に辞任。 1969年 - シカゴ交響楽団の首席客演指揮者。 1973年 - ウィーン交響楽団の首席指揮者。 1978年 - ロサンジェルス・フィルハーモニックの音楽監督。このときチョン・ミュンフンがアシスタントを勤め、副指揮者となっている。 1984年 - 夫人の病気のためロサンジェルス・フィルハーモニックの音楽監督を辞任。これ以降演奏旅行の範囲をヨーロッパに限定したため、晩年来日が待ち望まれながらも実現しなかった。 以後、フリーの指揮者としてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団などヨーロッパの名門オーケストラに客演する。 1998年に指揮活動から引退。ミラノに在住していた。墓所は北イタリアのボルツァーノにある。 ジュリーニは39歳で名門ミラノ・スカラ座の音楽監督に就任し、EMIと契約してフィルハーモニア管弦楽団と多数の録音を残すなど早くから活躍しているが、日本において名声を確立したのは、シカゴ交響楽団と録音したシューベルト、ドヴォルザーク、ブルックナー、マーラーの各交響曲第9番のいわゆる「第九」シリーズが発売され、ロサンジェルス・フィルハーモニックの音楽監督に就任した1970年代後半になってからである。また、ウィーン・フィルと完成させたブラームス交響曲全集、ロサンジェルス・フィルとのベートーヴェンの交響曲、ベルリン・フィルとのモーツァルトの交響曲でも高い評価を受けた。最晩年にはミラノ・スカラ座フィルハーモニー管弦楽団とともにベートーヴェンの交響曲全集のレコーディングに取り組んだが「第九」を録音せずに死去し、プロジェクトは未完に終わった。 ジュリーニの録音は、フィルハーモニア管弦楽団やウィーン交響楽団、客演時代のシカゴ交響楽団など比較的初期のものがEMIレーベルに、シカゴ交響楽団やロサンジェルス・フィルハーモニック、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団などとの演奏がドイツ・グラモフォンレーベル、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、バイエルン放送交響楽団などとの演奏がソニー・クラシカルレーベルに残されている。また、BBCレジェンド・レーベルよりイギリスでのライヴ録音が発掘されている。その演奏スタイルはきわめて精緻なスコアの読みから導き出されたもので、一音たりともおろそかにしない姿勢から紡ぎだされる音楽は、ドイツ的な構築性とイタリア的な流麗さを両立させた独自のスタイルであった。 |
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【26】 |
カンパチ (2015年04月25日 11時43分) |
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ウラディミール・サモイロヴィチ・ホロヴィッツ(Vladimir Samoilovich Horowitz[1]、1903年10月1日 - 1989年11月5日)は、ウクライナ生まれのアメリカのピアニストである。義父(妻の父)は名指揮者として知られるアルトゥーロ・トスカニーニ。 目次 [非表示] 1 生涯 2 主な受賞歴 3 主なレパートリー 4 ピアノ演奏技法 5 来日 6 脚注 7 参考文献 生涯 ホロヴィッツ(1931年・28歳) ホロヴィッツ自身は、ウクライナのキエフで生まれたと主張していたが、隣のジトームィル州の小都市ベルディーチウで生まれたとする説が有力である。彼は1903年に生まれている。しかし、軍隊で彼の手が傷つくことを恐れたユダヤ系の父は、徴兵から逃れられるように生まれ年を1年遅い1904年として申告した。1904年を生まれ年とする文献が散在するが、権威筋は1903年が彼の正しい生まれ年であるとしている。 幼少の頃よりアマチュアピアニストであった母から手ほどきを受け、1912年にキエフ音楽院に入学し、1919年に卒業。卒業時にはラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を演奏している。翌1920年には、初のピアノ リサイタルを開催、ソ連(現ロシア)において国内ツアーを開始し、しばしばヴァイオリニストのナタン・ミルシテインとも共演した。1926年には初の国外コンサートをベルリンで開催、このとき舞台名をロシア語名のGorovitzから西欧風のHorowitzに改めた[2]。続いて、パリ、ロンドンで演奏を行った。 アメリカデビューは1928年。同じくアメリカデビューを飾ることになっていたトーマス・ビーチャムの指揮でチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を演奏した。テンポの件で指揮者と意見が異なったまま演奏会が始まったが、聴衆の反応から第1楽章の途中で「このまま指揮者に従っていてはこの演奏会を失敗してしまう」と判断したホロヴィッツは次第にテンポを上げ、オーケストラをリードし始めた。最終楽章でのコーダは圧倒的な加速で弾ききり、同曲の演奏を終了した。演奏後割れんばかりの喝采を浴び、翌日の新聞では奇跡的なピアニストの登場が大々的に報じられた。 同年、アメリカでRCAと契約しレコーディングを開始した。世界恐慌の影響でRCAは企業成績が悪化し、契約下のアーティストのヨーロッパレコーディングをHMVに許可したため、最初期の録音の多くは現在EMIが保管している。リストのロ短調ソナタ、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番など、当時としては非常に珍しいレパートリーを録音しており、音質の限界はあるが、今なおこれらの曲の最高の演奏と評価する声も多い。 |
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【25】 |
カンパチ (2015年04月25日 11時42分) |
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アルトゥール・ルービンシュタイン(Arthur Rubinstein, 1887年1月28日 - 1982年12月20日)は、ポーランド出身のピアニスト。様々な作曲家の作品の演奏で国際的な名声を博し、特にショパンの演奏では同時代の最も優れたピアニストであるとみなされている.[1][2]。また、20世紀の代表的なピアニストの1人である[1] 。ルービンシュタインの演奏家としてのキャリアは80年にも及んだ[3]。 前半生はヨーロッパで、後半生はアメリカ合衆国で活躍した。ショパン以外では、ブラームスやスペインのピアノ音楽も得意とした。 目次 [非表示] 1 経歴 2 ルービンシュタインと室内楽 3 ルービンシュタインと現代音楽 4 ルービンシュタインと録音 5 脚注 経歴 ウッチの街角にあるルービンシュタインの彫刻 出生名Artur Rubinstein(Arthurではない)としてウッチのユダヤ人の家庭に生まれる。8人きょうだいの末子で、父は富裕な工場主であった[4]。2歳の時、姉のピアノのレッスンを聴いて、即座にその演奏を魅惑的に再現してみせ、絶対音感とともにピアニストとしても並ならぬ才能の持ち主であることを証明した。ルービンシュタインも4歳の頃までには、既に自らが神童であることを自覚していた。ハンガリーの著名なヴァイオリニストであったヨーゼフ・ヨアヒムは、4歳のルービンシュタインの演奏を聴いて強い印象を受け、家族に次のように話したという。「この少年はとても偉大な音楽家になるかも知れない ― 確かに彼には才能がある・・・本格的に勉強する年齢になったら私の所に連れて来なさい。私は彼の音楽教育を監督することに喜びを感じることになるだろう」。1894年12月14日、7歳のルービンシュタインは、モーツァルト、シューベルト、メンデルスゾーンの作品でデビューを飾る[5][6]。 10歳の時、ベルリンに移って音楽の勉強を続け、1900年、13歳の時に、初めてベルリン交響楽団と共演を果たす[1]。ヨアヒムはルービンシュタインのピアノの師として、カール・ハインリヒ・バルトを推薦した。 1904年にパリに行き、フランス人作曲家のサン=サーンスやポール・デュカス、ラヴェルらや、ヴァイオリニストのジャック・ティボーと面会する。ルービンシュタインはサン=サーンスの前で、《ピアノ協奏曲第2番》を演奏した。さらにユリウシュ・ヴェルトハイメル一家を通して、ヴァイオリニストのパウル・コハンスキ、作曲家のカロル・シマノフスキと親交を結んだ[7]。 1906年にニューヨークのカーネギー・ホールで行なったリサイタルは聴衆に支持されたようだが、評論家から批判が相次いだため4年間、演奏活動を中止して自らの技巧・表現に磨きをかけた。その後、アメリカ合衆国やオーストリア、イタリア、ロシアで演奏旅行を行なった。1908年、困窮と絶望と借金取りの厳しい取立てに加え、ベルリンのホテルの部屋の立退きも迫られたルービンシュタインは、首吊り自殺を図るが失敗する。だがその直後、自らが生まれ変わり、人生の無限の愛が授けられたように感じた、とルービンシュタインは後に語っている。1910年、第5回アントン・ルービンシュタイン国際ピアノコンクールで優勝するが、ユダヤ人だったために審査員や聴衆から人種差別を受けたという[6]。1912年にはロンドンデビューを果たし、その後同市南西部のチェルシーに定住する。同地のドレイパー兄弟のサロンで、コハンスキ、イーゴリ・ストラヴィンスキー、ジャック・ティボー、パブロ・カザルス、ピエール・モントゥー、などと親しく交わった[7]。 第一次世界大戦中は主にロンドンに暮らし、ウジェーヌ・イザイの伴奏者を務めた。1916年から1917年まで、スペインや南米を旅行し、同地で熱烈な歓迎を受ける。 |
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