■ 154件の投稿があります。 |
< 16 15 14 13 12 11 10 9 8 7 6 5 4 【3】 2 1 > |
【24】 |
カンパチ (2015年04月25日 11時38分) |
||
これは 【トピック】 に対する返信です。 | |||
ジュゼッペ・シノーポリ(Giuseppe Sinopoli、1946年11月2日 - 2001年4月20日)は、ユダヤ系イタリア人の指揮者・作曲家。 人物・来歴[編集] イタリアのヴェネツィアで生まれ、パドヴァ大学で心理学と脳外科を学ぶと同時にマルチェルロ音楽院で作曲を専攻する。 その後、ダルムシュタットでシュトックハウゼンやマデルナのクラスに在籍。ウィーン音楽院ではハンス・スワロフスキーやカール・エスターライヒャーについて指揮法を師事。 1975年、現代音楽の演奏を目的として師の名を冠したブルーノ・マデルナ・アンサンブルを設立、指揮者としてのデビューを飾る。 1981年、バイエルン国立歌劇場で初演された歌劇「ルー・ザロメ」(Lou Salomé)などの作品によって現代音楽の作曲家としても名をなしていた。 以上のような経歴(死の直前には考古学の博士号も取得)からインテリ指揮者としての側面がクローズアップされ、衒学的で音楽解釈に精神医学的観点の援用を示唆する言動や彼の異色の音楽解釈は、熱烈な崇拝と批判を同時に呼び起こした。マーラー、ワーグナー、リヒャルト・シュトラウス、プッチーニら、独伊の後期ロマン派の管弦楽曲及びオペラでの解釈が、特に知られていた。ドイツ・グラモフォン、フィリップス、テルデックなど、クラシックの一流レーベルから数多くのCDを発売していた、スター指揮者であった。ドイツ語をほぼ母国語同様に操り、「ルー・ザロメ」などのドイツ語オペラを残したほか、来日時のNHKインタビューにもドイツ語で応じた。 1987年、フィルハーモニア管弦楽団と共に来日した折に、桐朋学園オーケストラで非公開授業を行い(ヴェルディ:「運命の力」序曲)、この録音は、当時発売されたシノーポリの「運命の力」全曲盤に初回プレス限定で添付され、この授業は、現在でも桐朋学園大学で「伝説」として語り継がれている。シノーポリが日本のオーケストラを指揮したのは、後にも先にも、この時だけである。 2001年4月20日、ベルリン・ドイツ・オペラでヴェルディの歌劇「アイーダ」を指揮中、第3幕の所で心筋梗塞で倒れ急逝する。 1984年、フィルハーモニア管弦楽団、そして1992年にシュターツカペレ・ドレスデンの常任指揮者になり、後者のポストは最後まで在任していた。オペラ指揮者としては1990年にベルリン・ドイツ・オペラの音楽監督に就任予定だったが、直前に辞退。また2002年よりザクセン州立歌劇場の音楽総監督に就任予定だったが、死去により果たせなかった。 |
|||
【23】 |
カンパチ (2015年04月25日 10時40分) |
||
これは 【トピック】 に対する返信です。 | |||
アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(Arturo Benedetti Michelangeli[1], 1920年1月5日 – 1995年6月12日)は、イタリアのピアニスト。単にミケランジェリと呼ばれることが多いが(本項でも以下これを用いる)、本来は「ベネデッティ・ミケランジェリ」が姓である。 目次 [非表示] 1 略歴 2 業績 3 奏法 4 エピソード 5 その他 6 参考文献 略歴[編集] ブレーシャ地方の出身。アッシジの聖フランチェスコの末裔と自称していた。3歳から音楽教育を受け、最初はヴァイオリンを学んだが、間もなくピアノに切り替えた。10歳でミラノ音楽院に入学。父親の主張により、一時期医学を学んだこともある。1938年、18歳で国際イザイ音楽祭に参加。一次予選の演奏から早くも注目を集めるが、初見が苦手であったことが災いし、第7位の入選にとどまった。翌1939年、ジュネーヴ国際音楽コンクールで優勝し、審査員長のアルフレッド・コルトーから「リストの再来」と賞賛された。 第二次世界大戦中はファシズムに対するレジスタンス運動の闘士としても活躍した。 戦後間もなく楽壇に復帰したが、1950年代に入ってから重病を患って一時は復帰が危ぶまれた時期もあった。しかし、1955年にショパンコンクールの審査員及び公式ピアニストに選ばれたことを機に復活。以後、世界中でコンサートを開き、その圧倒的なテクニックと比類のない美しいピアノの音色で瞬く間に名声を確立した。 一方で、非常に強い完璧主義からコンサートのキャンセルを頻発するいわゆるキャンセル魔としても有名になり、次第に年間に「実際に」とり行われた演奏会が10回に満たないという例も珍しくなくなっていった。しかし、その貴重な演奏会が更に評判を呼び、一層ミケランジェリというピアニストを伝説に押し上げて行った。 録音嫌いとしても知られていたが、1970年代以降、ドイツ・グラモフォンからショパン、ドビュッシー、ベートーヴェンなどの録音を多数リリースした。 1988年に演奏会の途中で心臓発作で倒れる。翌年には復帰したが、病の後遺症からか完璧な演奏は陰りを見せ、しかし一方で伸びやかな演奏スタイルになる。 初来日は1965年。日本の音楽界に衝撃を与える。以降も数度来日しているが、予定通り日程をこなしたのはこの初来日の時だけで、後はキャンセル魔の評判に違わぬ騒動を引き起こすこととなる。1973年に2度目の来日を果たした際は、コンディションを理由に演奏会の日程・会場を変更したり、中止となった公演もあった。翌1974年は前年の代替公演のために来日した。1980年の来日の際は盟友チェリビダッケとの共演も予定されていたが[要出典]、日本に持ち込んだ2台のピアノ双方のコンディションに満足できず、やむなくヤマハのピアノを使用したがNHKホールでの1公演だけであり他の公演は全てキャンセルした。開催されたその公演も暖房不使用のためコート着用、また後半にプログラムされていたベートーヴェンの作品101は弾かれなかった(尚ミケランジェリは生涯この曲を公開演奏していない)。結果、怒った日本の招聘元である松岡企画がミケランジェリの持ち込んだ二台のスタインウェイを差し押さえるなどして、日本との関係が悪化、しばらく来日が途絶える結果となる。1992年が最後の来日となった。チェリビダッケとの2度の共演、3度のリサイタルが予定されていた。チェリビダッケとの共演及び最初のリサイタルは予定通りこなすものの、次のリサイタルは会場・日程を変更して開催し、3回目のリサイタルはキャンセルとなった。翌1993年にも来日計画があったが、持病の心臓病の悪化からドクター・ストップがかかり、幻に終わった。 最後の演奏会は1993年5月7日、ハンブルクにおいて行われた。1995年、病気の亢進によりルガーノにて他界した。 |
|||
【22】 |
カンパチ (2015年04月25日 10時39分) |
||
これは 【トピック】 に対する返信です。 | |||
ムスティスラフ・レオポリドヴィチ・ロストロポーヴィチ(ロシア語: Мстислав Леопольдович Ростропович, Mstislav Leopol'dovich Rostropovich, 1927年3月27日 - 2007年4月27日 )はアゼルバイジャン(旧ソビエト連邦)出身のチェリスト・指揮者。特にチェリストとしては20世紀後半を代表する巨匠として名高い。愛称は名前の一部と「光栄」を意味するロシア語の単語に由来するスラヴァ。声楽家のガリーナ・ヴィシネフスカヤは妻。 目次 [非表示] 1 略歴 2 チェリストとしての活動 3 指揮者としての活動 4 ピアニストとしての活動 5 その他 6 参考文献 7 外部リンク 略歴[編集] 1927年 バクー生まれ。チェリストの父、ピアニストの母から音楽の手ほどきを受けた。4歳でピアノ、7歳でチェロを始め、10歳でカミーユ・サン=サーンスのチェロ協奏曲第1番を弾いたという。第二次世界大戦が勃発すると父母の故郷であるオレンブルクに移住。 1943年 モスクワ音楽院入学。チェロはセミヨン・コゾルポフに師事した。作曲の師はドミートリイ・ショスタコーヴィチだった。 1945年 全ソビエト音楽コンクール金賞受賞。 1949年 ブダペスト国際コンクール優勝 1950年 プラハ国際チェロ・コンクール第1位。 1951年 ヨハン・ゼバスティアン・バッハの無伴奏チェロ組曲の演奏でスターリン賞受賞。1953年にも同賞を受賞。 1955年 歌手ガリーナ・ヴィシネフスカヤと結婚。 1956年 モスクワ音楽院教授(-1974年)。 1961年 ゴーリキーで指揮者デビュー。 1963年 レーニン賞受賞。 1966年 ソビエト連邦「人民芸術家」の称号を受ける。 1968年 オペラ「エウゲニー・オネーギン」の指揮で大成功を収める。 1970年 社会主義を批判した作家アレクサンドル・ソルジェニーツィンを擁護したことによりソビエト当局から「反体制」とみなされ、以降、国内演奏活動を停止させられ、外国での出演契約も一方的に破棄される。 1974年 2年間のビザを取得して出国し、そのまま亡命。 1977年 アメリカ合衆国へ渡り、ワシントン・ナショナル交響楽団音楽監督兼首席常任指揮者。 1978年 ソビエト当局により国籍剥奪。 1990年 ワシントン・ナショナル交響楽団を率いてゴルバチョフ体制のソ連で16年ぶりに凱旋公演。国籍を回復。 1995年 阪神淡路大震災の追悼で小澤征爾共に追想演奏を行った。 2005年5月22日、神戸で、NPO国際チェロアンサンブル協会主催の「1000人のチェロ・コンサート」を指揮する。 2007年 3月27日、ロシア政府より勲1等祖国功労章を授与。4月27日、モスクワにて死去。80歳だった。 チェリストとしての活動[編集] チェリストとしてのロストロポーヴィチは、圧倒的な技巧と豊かな音量に裏付けられた、スケールの大きな表現性で広く知られた。レパートリーはバロック音楽から現代音楽まで幅広い。 プロコフィエフの交響的協奏曲(チェロ協奏曲第1番の改作、1952年)、ショスタコーヴィチの2つのチェロ協奏曲(第1番 1959年、第2番 1966年)、ブリテンのチェロ交響曲(1964年)、ブリスのチェロ協奏曲(1970年)をそれぞれ初演した。このほか、カバレフスキー、ハチャトゥリアン、ルトスワフスキ、ジョリヴェ、デュティユー、シュニトケ、バーンスタイン、外山雄三ら、20世紀の代表的な作曲家が競ってロストロポーヴィチのために作曲しており、ロストロポーヴィチに捧げられた現代作品は170を超すといわれる。このように、ロストロポーヴィチの存在がチェロの現代レパートリーを大きく拡大したといえる。主としてEMIクラシックスに数多くの録音がある。1995年にはバッハの無伴奏チェロ組曲の録音がリリースされた。 室内楽では、ホロヴィッツ、リヒテル、ギレリス、アルゲリッチ、コーガン、オイストラフら世界的演奏家と共演した。 |
|||
【21】 |
カンパチ (2015年04月25日 10時38分) |
||
これは 【トピック】 に対する返信です。 | |||
カルロス・クライバー(Carlos Kleiber、出生名:カール・ルートヴィヒ・クライバー (Karl Ludwig Kleiber)、1930年7月3日 ベルリン- 2004年7月13日 コニシツァ)は、ドイツ出身の指揮者。第二次世界大戦期にアルゼンチンに亡命し、後にオーストリア国籍を取得した。父は世界的な指揮者であったエーリヒ・クライバー。 目次 [非表示] 1 生涯 1.1 出生 1.2 デビュー 1.3 世界的指揮者へ 1.4 晩年 2 逸話 2.1 ウィーン・フィル 2.2 リハーサル 3 評価 4 来日 4.1 来日演奏会 5 ディスコグラフィー 6 ドキュメンタリー 7 注釈・エピソード 生涯[編集] 出生[編集] 彼は名指揮者で当時ベルリン国立歌劇場音楽監督を務めていたエーリヒを父として生まれる。母はユダヤ系アメリカ人のルース・グッドリッジ、生まれた時にはカール(Karl)と名乗っていた。父親がナチスと衝突、一家でアルゼンチンに亡命するとともに、スペイン語風にカルロスと改名する。 デビュー[編集] カルロスは1950年、ブエノスアイレスで音楽を学び始めるが、父の勧めで1952年からスイスはチューリッヒの連邦工科大学に一旦は入学する。しかし、その翌年にはミュンヘン・ゲルトナープラッツ劇場の無給練習指揮者になり、父の手助けで1954年にはポツダムの劇場でミレッカーのオペレッタ『ガスパローネ』を振って指揮者デビューを飾る。この時彼は有名指揮者である父の七光りで判断される事を嫌ったのか、あるいは指揮者になる事を反対していた父エーリッヒへの配慮か「カール・ケラー」という芸名を用いている(カルロスのデビューに際し、エーリッヒは『幸運を祈る 老ケラーより』と打電したという)。父は指揮者志望の息子に助言を与え、劇場関係者に紹介の労をとる一方、公の場で息子の音楽活動を手厳しく批判したこともあったようだ。偉大な指揮者である父との関係は息子の指揮者人生に複雑で深い影を投げかける事になる。 世界的指揮者へ[編集] その後、デュッセルドルフ、チューリッヒ、シュトゥットガルトなどの歌劇場で第1指揮者を務め、1968年にはバイエルン国立歌劇場の指揮者となり名声を確立する。1973年、ウィーン国立歌劇場に「トリスタンとイゾルデ」でデビューし、翌年6月にはロンドンのロイヤル・オペラに「ばらの騎士」で、7月にはバイロイト音楽祭に「トリスタンとイゾルデ」でデビューを果たす。1978年にはシカゴ交響楽団を指揮してアメリカデビュー。その後も世界の著名な歌劇場やオーケストラの指揮台に立つが、一度も音楽監督のポストに就任せずにフリーランスの立場に徹している。 |
|||
【20】 |
カンパチ (2015年04月25日 10時36分) |
||
これは 【トピック】 に対する返信です。 | |||
マリア・マルタ・アルゲリッチ(Maria[1] Martha Argerich[2][3], 1941年6月5日 - )はアルゼンチンのブエノスアイレス出身のピアニスト。現在、世界のクラシック音楽界で最も高い評価を受けているピアニストの一人である。 目次 [非表示] 1 経歴 2 演奏スタイル 3 レパートリー 4 人物像 5 日本とのつながり 6 脚注 7 外部リンク 経歴[編集] ブエノスアイレスの中産階級に生まれた。父フワン・マヌエル・アルゲリッチは経済学教授や会計士を務めた[4]。母フワニータ(旧姓ヘラー)はベラルーシからのユダヤ系移民の二世だが、ユダヤ教からプロテスタントに改宗していた[5]。 保育園時代に同じ組の男の子から「どうせピアノは弾けないよね」と挑発された時やすやすと弾きこなした[6]ことがきっかけで才能を見出され、2歳8ヶ月からピアノを弾き始める。5歳の時にアルゼンチンの名教師ヴィンチェンツォ・スカラムッツァにピアノを学び始める。 1949年(8歳)、公開の場でベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番ハ長調作品15を演奏した。翌1950年(9歳)にはモーツァルトのピアノ協奏曲ニ短調K466とバッハのフランス組曲ト長調BWV816を演奏した。 ブエノスアイレス知事のサベテという人物がマルタの熱烈なファンだったため[7]、1954年8月13日、サベテの仲立ちにより大統領府でアルゲリッチ親子と会ったフアン・ペロン大統領は、マルタに留学希望の有無を尋ね、「フリードリヒ・グルダに習いたい」との申し出に従って、彼女の父を外交官に、母を大使館職員にそれぞれ任命し[8]、1955年初頭から一家でウィーンに赴任させた[9]。これに伴って家族とともにオーストリアに移住した彼女は、ウィーンとザルツブルクで2年間グルダに師事した後[10]、ジュネーヴでマガロフ、マドレーヌ・リパッティ(ディヌ・リパッティ夫人)、イタリアでミケランジェリ、ブリュッセルでアスケナーゼに師事した。ウィーン時代、プエルトリコ出身の「最高にハンサムな男の子」を相手に処女を喪失したと自ら発言している[11]。 1957年、ブゾーニ国際ピアノコンクール優勝。またジュネーブ国際音楽コンクールの女性ピアニストの部門においても優勝し、第一線のピアニストとして認められるものの、更にその後も研鑽を続ける。1959年には、ブルーノ・ザイドルフォーファーのマスタークラスを数回受講している。なお、絶対音感の持ち主ではなく、調性を正しく認識していないこともあり、聴衆の一人から「ト長調の前奏曲」の演奏を褒められても自分が弾いた曲のどれを褒められたのか判らず、考え込んだことがある[12]。 1960年、ドイツ・グラモフォンからデビューレコードをリリースする。22歳のとき作曲家で指揮者のロバート・チェンと最初の結婚をするが、1964年、長女リダの出産前に破婚。 1965年、ショパン国際ピアノコンクールで優勝し、最優秀マズルカ演奏者に贈られるポーランド放送局賞(マズルカ賞)も受賞した[13]。 1969年、1957年に出会った指揮者のシャルル・デュトワと結婚し(2度目)、娘をもうけるが、来日の際に夫婦喧嘩となり、アルゲリッチだけが帰国し離婚。後にピアニストのスティーヴン・コヴァセヴィチと3度目の結婚。 ソロやピアノ協奏曲の演奏を数多くこなすが、1983年頃からソロ・リサイタルを行わないようになり室内楽に傾倒していく。ヴァイオリニストのクレーメル、イヴリー・ギトリス、ルッジェーロ・リッチ、チェリストのロストロポーヴィチ、マイスキーなど世界第一級の弦楽奏者との演奏も歴史的価値を認められている。 |
|||
【19】 |
カンパチ (2015年04月25日 10時26分) |
||
これは 【トピック】 に対する返信です。 | |||
梅雨が明けると『梅雨明け10日』といって 晴れの日が続き、いよいよ真夏に突入する。 海水浴シーズンの到来だ。 日本人は昔から海水浴をしていただろうか。 「古事記」には海水で穢れを清めたと書いてあるが、 もちろんこれは海水浴ではない。 沐浴だ。 海水浴は1881年(明治14年)に、 居留していたアメリカ人に誘われて江ノ島で泳いだ人が最初。 |
|||
【18】 |
カンパチ (2015年04月25日 10時17分) |
||
これは 【トピック】 に対する返信です。 | |||
富士山は、静岡県と山梨県にまたがり、山頂が県境となっているので 持ち主はこの2県かそのどちらか、 あるいは、富士箱根伊豆国立公園に指定されているので国か、 あるいは、この三者の共有のどれかと思うだろうが、 そのどれでもない。 持ち主は、静岡県富士宮市にある浅間(せんげん)神社(正式には富士山本宮浅間大社)である。 では、住所表記はどうなっているかというと、それは無い。 ただ、夏の間だけ富士山頂郵便局が開かれるので郵便番号はある。 ≪418−0011≫だ。 |
|||
【17】 |
カンパチ (2015年04月25日 10時06分) |
||
これは 【トピック】 に対する返信です。 | |||
1907年、アメリカのある少女が、 亡くなった母をしのんで、 命日にあたる5月12日(5月の第2日曜日)に教会で追悼の会を開き、 参加者に白いカーネーションを渡した。 花言葉が、「母の愛情」だったからである。 これがきっかけとなり、 その少女は友人たちと「母の日」を作って国を挙げて祝福することを提案した。 そして、1914年に「母の日」はアメリカの祝日に制定された。 亡くなった母親には白、元気な母親には赤の花を贈ることとした。 |
|||
【16】 |
カンパチ (2015年04月25日 09時59分) |
||
これは 【トピック】 に対する返信です。 | |||
「611年6月10日、天智天皇が水時計を使い、その時計が、時を告げる鐘を打った」 という内容の記述が『日本書紀』にある。 それを記念して、1920年(大正9年)、東京天文台が、 「時間を大切にしよう」と呼びかけ、この日を時の記念日とした。 明治まで、時刻は十二支の呼び名が当てられた。 例えば、午前11時から午後1時までは、午の刻と言った。 だから、その真ん中の12時は正午、また、午の刻の前と後だから、 午前・午後という。 |
|||
【15】 |
カンパチ (2015年04月25日 08時14分) |
||
これは 【トピック】 に対する返信です。 | |||
あのさ、このトピ、明らかに「釣り」だよな。 もう、その手には乗らんよ。 先の大戦は、「植民地支配と侵略」の戦争だったのか、 「アジア解放と自存自衛のためのやむを得ない戦争」だったのか。 |
|||
© P-WORLD