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【548】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時47分)

「遺恨」の内容について
幕府当局は、まずその場に居合わせた梶川与惣兵衛より状況を聴取、吉良が抜刀していないことを確認してから、ついで浅野を聴取し、内匠頭は刃傷の際言ったとされる「此間の遺恨、覚えたるか」(『梶川与惣兵衛筆記』写本)の「遺恨」について尋ねた。これに対する浅野の回答は、一言の申し開きもないとしたうえで、

私的な遺恨から前後も考えずに、上野介を討ち果たそうとして刃傷に及んだ。どのような処罰を仰せ付けられても異議を唱える筋はない。しかし、上野介を打ち損じたことは残念である。
というものであった。

一方、吉良は遺恨の内容について思い当たることがあるのではないか、と問われたが、

恨みを受ける覚えはなく、内匠頭は乱心したと思う。老体の身でもあり、恨みを買うようなことを言った覚えもない
と答えた。しかし身に覚えがあると言えば立場が悪くなるのは目に見えているので、身に覚えがあったとしても隠してこのように証言した可能性もありうる[105]。一方で、「乱心」とすれば裁定においても一定の酌量の余地が出ることもまた事実であるため、「乱心」ということにすれば浅野吉良双方にとって利害が一致しているのもまた事実である(乱心説については後述)

四十七士の一人堀部弥兵衛が討ち入り前に書いた『堀部弥兵衛金丸私記』には、以下のように原因が吉良の悪口にあると記している:

伝奏屋敷において、吉良上野介殿品々悪口(あっこう)共御座候へ共、御役儀大切に存じ、内匠頭堪忍仕り候処、殿中において、諸人の前に武士道立たざる様に至極悪口致され候由、これに依り、其の場を逃し候ては後々までの恥辱と存じ、仕らすと存じ候[105]。
(伝奏屋敷で、吉良上野介殿がいろいろと悪しざまにおっしゃいました。御役儀を大切に考え、内匠頭は堪忍しておりましたが、殿中において、諸人を前にして武士道が立たないようなひどいお言葉をかけられましたので、そのままにしておくと後々までの恥辱と思い、斬りかけたものと存じております)[105]
仮に、浅野が吉良に「武士道立たざる様に至極悪口」を言われたとしても文脈から刃傷事件当日のことと推察でき、堀部弥兵衛はその事情を伝聞以外で知ることは出来ないはずである。この記述の信頼性には疑問があるが、少なくとも家臣達にはそのように言われたと信じていたと推察できる[105]。

なお堀部弥兵衛は続けて「悪口は殺害同様の御制禁」と書いており、吉良がその御制禁を犯したから内匠頭はそれに応じたまでだとしている[105]。

他に塩田を巡る諍いも挙げられるが、信憑性が低い(吉良領には塩田はなく、堺屋太一『峠の群像』の誤認による創作が広まったとされる)[106]
【547】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時47分)

事件についての学術的な議論
刃傷事件の裁定の妥当性について
松之大廊下における刃傷事件に対して、加害者である浅野内匠頭は切腹となった一方、吉良上野介はお咎めなしとされた。この幕府の裁定を巡り、吉良側も喧嘩両成敗によって何らかの処分を受けるべきではないか、といった意見があり、旧赤穂藩士による討ち入りや、その後の「忠臣蔵」作品における浅野・赤穂藩士サイドを擁護する理由付けになった。

喧嘩両成敗は、常に帯刀している武士の間では口げんかが容易に抜刀、刃傷沙汰になり、さらに家族親類家臣知人にまで波及しかねない危険をはらんでいたことから、喧嘩が発生したこと自体を罪とし、双方を罰することにより、喧嘩に対する抑止力として定められたものである。今回のケースでは、事件発生時には二人は現場で一切言葉を交わさないまま浅野が吉良に一方的に切りつけ、吉良は抜刀、応戦せずにそのまま逃げようとしており、現場証拠だけでは吉良は浅野に対して一切の敵意を示していない。この意味では、喧嘩両成敗は成立しない。

しかし、浅野が切りつけた理由が遺恨によるものであり、その「遺恨」の内容が、浅野が切りつけるに足る程度のものであったならば、「遺恨」と刃傷とをあわせて「喧嘩」とみなされ、吉良にも処分が下るべきになる。そのため、今回のケースで裁定を下すには、「遺恨」の内容が重要になってくる。

幕府は刃傷直後に浅野、吉良双方に聴取を行ったが、いずれも、遺恨について具体的に口にしなかった。刃傷事件という重大事を起こしたにも関わらず、具体的な遺恨の内容及び吉良側の落ち度を主張しなかったのは明らかに不自然であるが、何故浅野が動機を具体的に主張しなかったのかもまた不明である。

ともあれ、結局浅野はそのまま切腹したため、遺恨の内容について当事者からは語られないままであり、公式にも「動機は不明」である。

また、浅野の「乱心」の可能性もあるが、浅野本人は「乱心ではない」と供述しており、幕府側もこれを認めている。
【546】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時46分)

海外への伝播
室鳩巣が『赤穂義人録』を漢文体全2巻1冊で著わしており、上巻は赤穂藩主浅野長矩が江戸城松の廊下で吉良義央に刃傷を起こした事件から、赤穂藩の家老であった大石良雄ら四十七士が吉良を討ち取って江戸幕府から切腹を命じられた経緯が時系列に記され、下巻は大石以下四十七士の経歴や逸話が記されている[102]。青地兼山(鳩巣の門人)の『兼山秘策』によれば、新井白石や対馬藩士との話で四十七士に関心を持った朝鮮通信使のために漢文体による赤穂事件の史料を求めていた対馬藩家老・平田直右衛門の要請を受けて、鳩巣が通信使に『義人録』の写本を与えることになり、鳩巣は兼山への書状で「四十七士に対して、私もずいぶん奉公したものです」と報告している[103]。
鳩巣は同書を単に四十七士の称賛する目的だけで作ったのではなかった。奥村脩運の跋文には『資治通鑑綱目』に比するものを目指し、上は朝廷から下に士庶に至るまで、さらに異域(海外)でも読まれるようになることを期待していたと記している[104]。実際、鳩巣は日本の慣習を知らない海外の読者を意識して、朝廷と幕府の二重体制や公武関係の説明を省いて幕府を含めて「朝廷」と表記し、日本独自の習慣と思われるもの(名乗りの方法、月代のスタイル、仏教による葬儀など)は全て「和俗」であると断りを入れている。
【545】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時45分)

明治維新後
明治維新によって徳川幕府が崩壊して以降は、公儀に対する反逆者であった赤穂浪士に対して、公式に顕彰する動きが出てきた。

1868年(明治元年)11月、東京に移った明治天皇は泉岳寺に勅使を派遣し、大石らを嘉賞する宣旨と金幣を贈った[99]。
1900年(明治33年)に赤穂に大石神社(赤穂大石神社)を創設する認可が出た。1912年(大正元年)に大石神社の社宇が完成し、鎮座し、1928年(昭和3年)には県社に昇格した[100]。
1933年(昭和8年)、京都市山科に大石神社(京都大石神社)の創立が許可された。1937年(昭和12年)4月には府社に列格する。
1978年(昭和53年)、大石邸長屋門が再建された。良雄が出入りした当時のものは江戸期に火災で焼失していた[101]。
【544】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時45分)

その後
浅野家
綱吉が死去した宝永6年8月には、内匠頭の実弟である浅野大学長広も赦免され、安房国朝夷郡・平郡に500石を与えられた。赤穂新田3,000石から減封のうえ、播磨からも移封ではあるが、旗本として浅野大学家(長広系)は続く事になった[87][84]。その後、長栄で男系は絶え、長楽の代で断絶した[88]。

吉良家
三河吉良家(西条家)の断絶後、武蔵吉良家(奥州管領家)の義俊は、姓を蒔田[注釈 6]から吉良に戻す許可を幕府に求めていたが、宝永7年(1710年)2月15日にこれが許された。武蔵吉良家は高家吉良氏の職を引き継ぎ、明治に至る[89]。また、吉良義周の没後に、三河吉良家(東条家)の義叔(上野介の実弟)は西条家の祭祀を引き継ぎ、三河吉良家も旗本として幕末まで続く。ただし、高家にはならず一般の旗本である[注釈 7]。

大石家
大石内蔵助の三男である大三郎良恭(よしやす)も、広島の浅野宗家に内蔵助と同じ1,500石(役付上士[90])で召抱えられた[91][84]。明和5年(1768年)3月18日に隠居。男子が2人あったが浅野家は家督相続を許さず[92]、小山良至(小山良速の孫)の五男良尚を養子に迎えて大石家の家督を継がせた。

その良尚は、後継男子(大石良完)とその嫡男が相次いで先立ち、自身も病んで大石家を去り、実家の小山家に帰って没した。嫡流が絶えた大石家は一旦断絶となった。ただし、寛政9年(1797年)以降に一族の横田温良が大石に改姓し、大石の名跡を再興した[93]という。広島藩では温良系図の主張を疑問視し[94]、小山流大石家(大石宗家・上士・知行高1200石)の相続はできなかった(大石家の祭祀は赤穂浪士の装束等の遺品を預かり、信清の瀬左衛門家を継承した大石良饒が赤穂にて祭祀を継承[95])。しかし、大石家が絶えるのを惜しんだ藩は、7月25日に、温良が別家として横田流大石家(知行高500石・馬廻組のち江戸詰)を立てるのは認めた。良督のあと良知が萱野氏から入る。

赤穂藩
浅野家の改易後、赤穂藩には元禄14年(1701年)の内に永井直敬が引き継ぐ(下野国烏山藩より転封、3万2000石)。5年後の宝永3年(1706年)には森長直に交代し(備中国西江原藩より転封、2万石。永井氏は信濃国飯山藩へ転封)、そのまま廃藩置県まで異動はなかった(12代165年)[96]。

吉良庄
吉良家の断絶後、高家職などは上野介の弟・東条義叔が継承したが、知行は武蔵国児玉郡と賀美郡内の自身の領地にとどまり、吉良庄は西尾藩のほか大多喜藩や沼津藩などの飛び地、寺社領、天領といった様々な領主の統治下に置かれた[97]。また、上野介の官名に因む、上野国白石の吉良家飛び地700石は、吉井藩、佐野藩、天領ほか、複数の旗本が統治した[98]。

なお、吉良義央の男系子孫である鷹司(松平)信謹(義央の仍孫)は、元治2年(1865年)から吉井1万石の藩主となり、吉井陣屋にて吉良の旧領の一部を統治した。
【543】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時44分)

その他処分
吉良家への処分
赤穂浪士の切腹と同日、上野介の跡を継いだ吉良左兵衛義周は諏訪忠虎(信濃高島藩主)にお預けとされた[82][83]。

幕府が左兵衛の処分を命じた理由は、義父・上野介が刃傷事件の時「内匠に対し卑怯の至り」であり、赤穂浪士討ち入りのときも「未練」のふるまいであったので、「親の恥辱は子として遁れ難く」あるからだとしている。ここで注目すべきは吉良上野介の刃傷事件の時のふるまいが「内匠に対し卑怯」であるとしている事で、幕府は赤穂浪士の討ち入りを踏まえ、刃傷事件の時は特にお咎めのなかった上野介の処分を実質的に訂正したのである[82]。

左兵衛はその後20歳余りの若さで亡くなり、ここに三河吉良家(西条家、義央系)は断絶する事になった[84]。

赤穂浪士側への処分
赤穂浪士の遺児らも、15歳以上の男子は伊豆大島に遠島、15歳未満の男子は縁のあるものにお預けとなり、15歳になるのを待って遠島という処分が幕府から下された[85](女子は構いなし)。

15歳以上の男子は4人(吉田伝内、中村忠三郎、間瀬惣八、村松政右衛門)おり、彼らは処分にしたがって遠島に処せられたが、赤穂浪士の名声は伊豆大島まで届いていた為、彼らの待遇は良かったと伝えられる[85]。

間瀬惣八のみ伊豆大島で病死したが、残りの3人は浅野内匠頭の正室・瑤泉院をはじめとした旧赤穂藩の関係者の働きかけにより、宝永3年に赦免された。他の遺児たちも綱吉が死去した宝永6年に大赦とされた[86]。
【542】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時44分)

赤穂浪士の大名家お預け
赤穂浪士の吉田と富森から討ち入りの報告を受けた大目付の仙石伯耆守は、月番老中の稲葉丹後守正往にその旨を報告し、二人で登城して幕府に討ち入りの件を伝えた。

幕府は赤穂浪士を、細川越中守綱利、松平隠岐守定直、毛利甲斐守綱元、水野監物忠之の4大名家に御預けとした[72]。赤穂浪士達は預け先にて、細川家などで罪人扱いではなく、武士としての英雄として扱われたとする話が残る[73]。一方、毛利家には浪士の部屋をくぎ付けにするなど罪人として厳しい扱いをした記録も残る[74]。その他、各大名家で多少の混乱もあった[注釈 5]。

浪士切腹の決定
赤穂浪士討ち入りの報告を受けた幕府は浪士等の処分を議論し、元禄16年2月4日 (旧暦) (1703年3月20日)、彼らを切腹にする事を決めた。赤穂浪士が「主人の仇を報じ候と申し立て」、「徒党」を組んで吉良邸に「押し込み」を働いたからである[75]。

ここで重要なのは幕府が「主人の仇を報じ候と申し立て」という言い回しをしている事である。あくまで赤穂浪士達自身が「主人の仇を報じる」と「申し立てて」いるだけであって、幕府としては討ち入りは「徒党」であり仇討ちとは認めないという立場なのである[75]。

通常、このような罪には斬首が言い渡されるが[75]、赤穂浪士達の立場を考慮したのか、武士の体面を重んじた切腹という処断になっている。

切腹

泉岳寺の赤穂浪士の墓

花岳寺の赤穂義士の墓
元禄16年2月4日 (旧暦) (1703年3月20日)、幕府の命により、赤穂浪士達はお預かりの大名屋敷で切腹した[76]。

切腹の場所は庭先であったが、切腹の場所には最高の格式である畳三枚(細川家)もしくは二枚(他の3家)が敷かれた[77]。

当時の切腹はすでに形骸化しており、実際に腹を切ることはなく、脇差を腹にあてた時に介錯人が首を落とす作法になっていた[76]。ところが、久松松平家では無体に扱った記録も残っており、「切腹者が小脇差を取り上げ腹に当てる前に首を打つ」「左の手にて髻(たぶさ)を持って落とした首をもち上げ[78]、目付に見せる」などの記述がある[79](松平家の扱いを揶揄した狂歌が今に伝わる)。間新六のみ肌脱ぎせずにすぐに脇差を腹に突き立てたため、実際に腹を切り裂いている[80][76]。

赤穂浪士の遺骸は主君の浅野内匠頭と同じ泉岳寺に埋葬された[76]。赤穂の浅野家菩提寺である花岳寺にも37回忌の元文4年(1739年)に赤穂浪士達の墓が建てられている[81]。(墓には赤穂浪士の遺髪が埋められたと伝えられる[81])。
【541】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時43分)

泉岳寺への引き上げ

浅野内匠頭が埋葬された泉岳寺
吉良上野介を討った浪士達は、亡き主君・浅野内匠頭の墓前に吉良の首を供えるべく、内匠頭の墓がある泉岳寺へと向かった。

途中、吉田忠左衛門と富森助右衛門の二人が大目付の仙石伯耆守に討ち入りを報告すべく隊を離れた。また寺坂吉右衛門も理由は分からないがどこかに消えた。寺坂が隊を離れた理由は古来謎とされている(#寺坂吉右衛門問題)[70]。

泉岳寺についた一行は内匠頭の墓前に上野介の首を供え、一同焼香した[70]。

上野介の首と共に内匠頭の遺品の小刀も供えられた。鞘から抜かれた小刀は、軽く三度上野介の首に当てられた。この儀式をそこにいた浪士全員が行った。近松行重が書いたとみられる記録では、上野介を墓前にお連れしたと記載し、内匠頭自身がそれを討って悔いを晴らしたとする[71]。

首の返還と遺体の供養
吉良上野介の首はその後箱に詰められて泉岳寺に預けられた。寺では僧二人が吉良家へと送り届け、家老の左右田孫兵衛と斎藤宮内が受け取った。この時の二人の連署が書かれている、上野介の首の領収書(首一つ)が泉岳寺に残されている。その後、先の刃傷時に治療にあたった栗崎道有が上野介の首と胴体を縫って繋ぎ合わせたあと、上野介は菩提寺の万昌寺に葬られた。戒名は「霊性寺殿実山相公大居士」。

この当時の万昌寺は市ヶ谷にあったが大正期に「万昌院」と名を改めて中野へ移転し、それに伴って墓も改葬して現在は歴史史跡に指定されている。
【540】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時43分)

吉良の最期に関して
山本博文は、武林唯七が即死に追い込んだ吉良の首を間十次郎が取ったのだろうとしている[62]。

その根拠は『江赤見聞記』巻四で、同書には四十七士の武林唯七が物置の中の人物を十文字槍でついたところ小脇差を抜いて抵抗してきたので間十次郎が刀で首を打ち取ったとしており、さらに同書によれば引き上げの際、間十次郎が吉良の首を取ったのを自慢した所、武林唯七が「私が突き殺した死人の首を取るのはたいした事ではない」と憤慨したという[62]。

一方、宮澤誠一は四十七士の不破数右衛門の書簡に「吉良は手向かいせず唯七と十次郎その他にたたき殺された」という趣旨のことが書かれているのを根拠に、本当は不破の言うように吉良はたたき殺されたのに、記録が後世に残るのを意識して残酷さを和らげるために間十次郎が一番槍をつけたのだと記したのではないかとしている[69]。
【539】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時42分)

討ち入り

吉良邸討ち入り。二代目山崎年信画、1886年
元禄15年12月14日(1703年1月30日)、四十七士は堀部安兵衛の借宅と杉野十平次の借宅にて着替えを済ませ、寅の上刻(1703年1月31日午前4時頃)に借宅を出た。そして吉良邸では大石内蔵助率いる表門隊と大石主税率いる裏門隊に分かれ、表門隊は途中で入手した梯子で吉良邸に侵入、裏門隊は掛矢(両手で持って振るう大型の木槌)で門を打ち破り吉良邸に侵入した[59]。

表門隊は侵入するとすぐに、口上書を入れた文箱を竹竿にくくりつけ、玄関の前に立てた[60]。

裏門隊は吉良邸に入るとすぐに「火事だ!」と騒ぎ、吉良の家臣たちを混乱させた。また吉良の家臣達が吉良邸そばの長屋に住んでいたが、その長屋の戸口を鎹(かすがい)で打ちつけて閉鎖し、家臣たちが出られないようにした。吉良邸には100人ほど家来がいたが、実際に戦ったのは40人もいなかったと思われる[59]。

四十七士は吉良上野介の寝間に向かったものの、上野介は既に逃げ出していた。茅野和助が上野介の夜具に手を入れ、夜具がまだ温かい事を確認した。上野介はまだ寝間を出たばかりだったのである。四十七士は上野介を探した[61]。

そして台所の裏の物置のような部屋を探したところ、中から吉良の家来が二人切りかかってきたのでこれを返り討ちにし、中にいた白小袖の老人を間十次郎が槍で突き殺した。この老人が上野介であると思われたので、浅野内匠頭が背中につけた傷跡を確認し、吉良方の足軽にこの死骸が吉良である事を確認させた。無事上野介を討ち取ったのである[62]。

そこで合図の笛を吹き、四十七士を集めた[62]。ここまでわずか二時間程度であった[63]。

双方の死傷者は、吉良側の死者は15人、負傷者は23人であった[30]。一方の赤穂浪士側には死者はおらず、負傷者は2人で、原惣右衛門が表門から飛び降りたとき足を滑らせて捻挫し、近松勘六が庭で敵の山吉新八郎[64] と戦っているときに池に落ちて太ももを強く刺されて重傷をおっている[61]。

浪士たちの討ち入り事件は、討ち入り2日後の14日[疑問点 &#8211; ノート]の記録にすでに「江戸中の手柄」と書いてあるほど[注釈 4]、すぐさま噂として広まった[68]。
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