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【568】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 12時00分)

太平記との関係
元禄時代に『太平記』は、太平記読みや人形浄瑠璃を通じて武士はもちろん町人にも広く浸透していた[164]。 このため赤穂浪士達は書簡や日記の中で、赤穂事件を太平記になぞらえて表現している[164]。

たとえば進藤源四郎は内匠頭刃傷の後の赤穂藩の混乱を太平記における南北朝の動乱にたとえている[165]し、堀部安兵衛も太平記になぞらえて大石に決起を促している[165]し、小野寺十内の書簡にも太平記への言及がある[164]。

また討ち入り後には大石を太平記の忠臣・楠木正成の再来とみなす落首が出たと『易水連袂録』に載っているし[166]、室鳩巣も大石を楠木正成に例えている[166]。

浪士の娘だと騙る女たち
赤穂浪士が切腹した後、浪士の娘だと騙る女が何人か登場した。

妙海尼は堀部安兵衛の妻だと騙り、清円尼は大石内蔵助の娘だと騙り[167]、長国寺の尼は武林唯七の娘だと騙った[167]。

本願寺関係者の動き
吉良家と関係が深かった西本願寺は刃傷事件や討ち入り後、築地本願寺と書状を交わして吉良の傷の様子や浅野の心情など状況を把握しようとしていた[168][169][170]。
【567】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 12時00分)

その他の論点
「此間の遺恨、覚えたるか」
『梶川与惣兵衛筆記』の東大史料編纂所写本には、浅野内匠頭は刃傷の際、「此間の遺恨、覚えたるか」と言ったとされるが、同じ『梶川与惣兵衛筆記』でも南葵文庫本(東大図書館所蔵)には「声をかけた」としか書かれておらず、本当に内匠頭がこの発言をしたのかはよくわからない[162]。

刃傷の場所
浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだ場所は通説では江戸城の松之大廊下であるが、本当の刃傷の場所は中庭を隔てて反対側の柳之間の前の廊下ではないかという説がある[163]。

その根拠は、松之大廊下は将軍や御三家、勅使などの特別に地位の高い人が通る場所で高家の吉良が通れる場所ではない事と、赤穂浪士切腹直後に書かれた『易水連袂録』に「浅野と吉良が柳之間で言い争いをした後に吉良が廊下を逃げていき御医師之間の前で浅野が刃傷に及んだ」という趣旨の事が書かれている事である[163]。

しかし宮澤誠一は、刃傷の場所は通説通り松之大廊下であろうとし、その根拠として事件の場に居合わせた梶川与惣兵衛による『梶川氏日記』に刃傷の場所が松之大廊下だと書いてある事と、田村家の記録に松之大廊下で事件があったと推定される場所に勅使と高家の控える定位置が記載されている(ので高家の吉良はこの日松之大廊下にいた可能性が高い)事を挙げている[163]。

にもかかわらず『易水連袂録』に柳之間から御医師之間へ続く廊下で刃傷が起こったと書いてあるのは、柳之間と御医師之間がそれぞれ浅野を目付に引き渡した場所と吉良が他の高家に引き取られた場所なので、それが混同されたものであろう[163]。そもそも吉良と浅野は『易水連袂録』の記述とは異なり口論をせずに急に斬りかかっている[163]。おそらく、「口論の上刃傷に及んだ」という分かりやすいシナリオが俗説として流布した結果、大名や勅使が控える故に口論しにくそうな松之大廊下よりもより自然な場所として柳之間の前の廊下で刃傷に及んだというシナリオが流布されたのであろう[163]。
【566】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時59分)

その他の説
佐々木杜太郎によると、逃亡説・密命説以外でこれまで論じられた説は以下の3つになる[153]:

公儀に対する遠慮:高家に武士が乱入して首を取っただけでも公儀から秩序の破壊とみなされかねないのに、身分の低い足軽である寺坂吉右衛門が討ち入りに加わっていたら問題視されるので、寺坂を除外したというもの[153]。
亡君の名誉の為:身分の低い足軽である寺坂が討ち入りに加わっては亡君の名誉にならないので、寺坂を除外した[153]。
寺坂の本意から:寺坂は吉田忠左衛門に仕える足軽なので、直接の主人は浅野内匠頭ではなく忠左衛門である。よって他の者と違い、討ち入り後は忠左衛門の意思を重んじて退去し、忠左衛門の家族に活躍を物語ったとするもの[153]。
佐々木杜太郎は「公儀に対する遠慮」や「亡君の名誉の為」という理由であるなら、なぜ最初から寺坂吉右衛門を同志に入れたのかという疑問がわくという理由により、最後の「寺坂の本意から」の説をとっている[153]。

また山本博文は武士ではない寺坂を哀れんで吉田忠左衛門が寺坂を逃がしたのではないかとしている[161]。
【565】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時59分)

八木哲治も寺坂が密命をおびて広島の浅野大学のもとに行ったという説を退けている。 前述のように寺坂の孫は『寺坂信行私記』に寺坂が芸州広島に行ったと書いているものの、伊藤十郎太夫浩行が寺坂から聞き書きした史料には広島に行ったとは書いていない[158]。寺坂の孫と違い伊藤が寺坂をかばう立場にはない事を考えると、伊藤の聞き書きの方が信用でき、寺坂は広島に行っていないと見る方が自然ではないかと八木哲治は述べている[158]。史料から確実に言えるのは寺坂が討ち入り後、吉田忠左衛門の娘と孫がいる播磨国亀山へ向かった事だけである[158]。

山本博文も寺坂の孫が書いた(6)の文章に関し、足軽の身分が「内匠頭殿」と書くはずがないとして(6)を孫による弁明なのだと解釈している[159]。

また『寺坂信行私記』は『寺坂信行自記』に加筆して作られたものだが、加筆部分は例えば寺坂の名前の入った口上書など、寺坂が討ち入りに参加した事を証拠づける意図が見え隠れするものが多い[158]。したがって前述の芸州広島に行ったとする加筆も、寺坂の作為と解釈するべきであろう[158]。

なお前述した伊藤による聞き書きには、「大石から播磨に向かうように言われたので、皆が泉岳寺から仙石邸にいくのを見届けて播磨に行った」という趣旨の事が記載されているが、前述のように寺坂は泉岳寺に行っていない可能性が高いので、これも寺坂の作為がある弁明であると考えられる[158]。

さらに言えば、前述のように寺坂は泉岳寺引き上げの早い段階で姿を消していると考えられ、大石が播磨にいくよう説得する暇がなかったと思われる[160]。

また密命説では寺坂の身分が低かったから寺坂を報告役に選んだとするが、大石は身分が低いものの討ち入り参加を歓迎しており、身分が低い事で差別される事はなかったのではないかと八木哲治は述べている[160]。
【564】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時58分)

密命説に否定的な意見
一方、宮澤誠一は、(2)と(3)により、寺坂と忠左衛門には「何か二人の間で個人的に複雑な事情についての了解があったのかもしれない」[154]としつつも、密命説に対しては批判的で、その理由として以下の二つを挙げている。

第一に、仮に内蔵助や忠左衛門が寺坂をかばうためにあえて嘘をついているにしても、私信にまで「欠落」したと書く必要はないはずである[154]。寺坂とは直接関係がないと思われる四十七士の一人・三村次郎左衛門すらも泉岳寺で母にあてて書いた手紙に、寺坂が立ち退いた旨を述べている[154]。

第二に、そもそも討ち入りが終わった時点で浅野大学らに密かにどうしても伝えなければならない事柄が果たしてあるのか疑問である[154]。仮にあったとしても、浅野大学が差し置きになったときすら主家に累が及ぶのを恐れて会うのを避けたほど慎重な内蔵助が、討ち入りの顛末を知らせる使者を立てるとは思えない[154]。また内蔵助は大石無人・三平に書簡を出し、死後の供養を頼むとともに「芸州・上方へも仰せ遣わされ下さるべく候」と述べている[154]。つまり危険を冒して寺坂を派遣するまでもなく、無人や三平に言伝を頼むなど、もっと安全な方法で討ち入りの報告ができたはずである[154]。

佐々木杜太郎も宮澤誠一と同様、浅野大学が差し置きの際にすら会うのを避けた内蔵助が寺坂を浅野大学や瑤泉院への報告に使うはずがないとして密命説を退けている[153]。
【563】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時56分)

中間派・その他
三田村鳶魚は、「江戸学」に関する複数の評論・随筆において「あくまで実証・考証に立場を置きながら、伝説や脚色を廃して観察した一件の顛末を記した」として「是は是、非は非」の立場で意見を述べている[150]。

寺坂吉右衛門問題
四十七士のひとりである寺坂吉右衛門は討ち入りに加わったにも関わらず、泉岳寺に引き上げた時には姿を消していた。 これは古来謎とされており、逃亡したという説から密命を帯びて消えたという説まで様々である。

そもそも討ち入りに参加しているか
今日、寺坂が姿を消したのは討ち入り後の引き上げの際だと考えられているが、事件当時の資料にはそもそも討ち入りに参加していないとするものもある。例えば、内蔵助、原惣右衛門、小野寺十内が連名で寺井玄溪に出した書状には

(1)「寺坂吉右衛門の儀、十四日暁迄これ在るところ、彼屋敷へは相来たらず候、かろきものの儀、是非に及ばず候」[151]
と、「十四日暁」まではいたが吉良邸にはいかなかったと書いてある。(「かろきもの」という発言は寺坂が四十七士の中で最も身分が低く唯一の足軽である事を指していると思われる)。なお当時の感覚では夜明けが来るまでを「十四日」とみなしていたので、「十四日暁」というのは今日の言葉でいえば十五日の夜明けの事である[151]。

また原惣右衛門が堀内伝右衛門に対して「寺坂は討ち入り前までいたが討ち入り時に逐電した」という趣旨の事をいっており[151]、やはり寺坂は討ち入りに参加していない事になる。

しかし八木哲浩は以上の発言は「誤解か作為のあるもの」[151](すなわち間違いか嘘を含んだもの)で実際には寺坂は討ち入りに参加しているのではないかと述べている[151]。その証拠として八木哲浩は、『堀内伝右衛門筆記』において吉田忠左衛門が討ち入りについて述べている箇所の記述と寺坂が『寺坂信行筆記』で討ち入りについて述べている箇所の記述がほぼ同一である事を挙げている[151]。『堀内伝右衛門筆記』と『寺坂信行筆記』は互いに相手を参照できない状況で書かれており、両者の内容が偶然一致する事はありえない[151]。したがって、寺坂が討ち入りに参加して吉田忠左衛門とともに行動していたと解釈するのが正しいと思われる[151]。

そして(1)の書状に関しては、寺坂が公儀の追及から逃れられるように討ち入りに参加しなかったと嘘をついたのではないかとしている[152]。

また八木哲浩は寺坂が引き上げの早い段階で離脱したのだと推測しており[151]、その理由として『寺坂信行筆記』には引き上げの記述が短い事と、寺坂の主人である吉田忠左衛門が仙石邸に行った事実が記載されていない事を挙げている。さらに『寺坂信行筆記』の「新大橋へ係り」という記述も理由として挙げている。というのも実際には引き上げの際に新大橋を通ってないし[151]、仮にこの記述を「新大橋の近くを通った」と解するにしても今度は永代橋を渡った事を記述してないのがおかしい事になるからである[151]。
【562】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時55分)

赤穂浪士への批判・否定論
一方、佐藤直方は『四十六人之筆記』(宝永2年以前)において、内匠頭の刃傷において吉良上野介は無抵抗に逃げただけだという事実に着目し、刃傷事件は喧嘩ではなく内匠頭の暴力に過ぎず、よってそもそも上野介は赤穂浪士にとって「君の讐」でないとした[141]。また佐藤は、赤穂浪士達は吉良邸討ち入りの後に自主的に切腹すべきで、そうせずに幕府に報告にあがったのは、生きながらえて禄をはむ為ではないかと批判している[141]。

荻生徂徠も、『政談』のうち「四十七士の事を論ず」[146](宝永2年頃)において、内匠頭は幕府に処罰されたのであって吉良に殺されたわけではないから吉良上野介は赤穂浪士にとって「君の仇」ではなく[141]、「内匠頭の刃傷は匹夫の勇による「不義」の行為であり、赤穂浪士の行動は、「君の邪志」を引き継いだものだから「義」とは認められないとして死を与えるべき」と主張している[147]。

一方、「徂徠擬律書」では、同情の憐みを禁じえないものの[141]、「今四十六士の罪を決せしめ、侍の礼を以て切腹に処せらるるものならば、上杉家の願も空しからずして、彼等が忠義を軽せざるの道理、尤も公論と云ふべし。」と「義士切腹論」を述べたとされている。 しかし、赤穂市は「徂徠擬律書」が、幕府に残らず細川家にのみ残っていること、上述の「四十七士の事を論ず」と比べ徂徠の発想・主張に余りに違いがありすぎることから、後世の偽書であるとの考察をしている[148]。

また、後述の徂徠の弟子・太宰春台が、「徂徠以外に『浪士は義士にあらず』という論を唱える者がなく、世間は深く考えずに忠臣と讃えている」と述べている点から「四十七士の事を論ず」のほうが徂徠の真筆であると思われる[149]。

享保17年に太宰春台が『赤穂四十六士論』で「義士」を徹底批判[141]した事で、義士論争は新たな局面を迎える[137]。春台の論が斬新なのは、幕府の処罰の可否を正面から論じた事にある[141]。春台によれば、浅野は吉良を傷つけただけなのに浅野を切腹に処したのは幕府の処罰が不過当である[141]。よって赤穂浪士達は吉良を恨むのではなく幕府を怨むべきであり[141]、彼らは幕府の使者と一戦を交えた後、赤穂城に火を放って自害するべきだったという[141]。

その後も浅見絅斎や三宅尚斎らにより義士論叢は続けられた[141]。
【561】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時55分)

討ち入りに対する見解
「仇討ち」か否か
主君の遺恨を晴らすべく命をかけて吉良邸に討ち入った「義士」達が切腹に処せられた事は人々に大きな衝撃をもって迎えられた[136]。

論争の焦点は多岐にわたるが、その主なものは赤穂浪士の行動が「義」にあたるのかという事である。これは浪士達の吉良邸討ち入りが「仇討ち」とみなせるかどうかにかかっている[137]。浪士達の行動が「仇討ち」だとすれば、それを果たした浪士達は忠臣であり義士であるという事になるし、そうでなければ彼らは忠臣でも義士でもない事になるのである[137]。

この事件当時「仇討ち」というのは子が親の仇を討つなど目上の親族の為に復讐する事を指し[138]、主君の仇を討ったのは本事件が初めてである為[138][注釈 8]、事件当時は自明なことではなかった。 この問題は武士の生き方や幕藩制度の構造に深くかかわるものであった事もあり[139]、論争は幕末まで続いた[140]。

「義士」としての肯定論
赤穂浪士達が切腹した元禄16年には早くも林鳳岡が『復讐論』を著し、「義士」達が主君の讐を討つのは儒教的道義にかなうとして彼らの行動を賛美した[141]。しかし鳳岡は同時に、彼らは法を犯した者達であるから「法律」の観点からは処罰は正当であるとして幕府の裁定を肯定した[141]。ただし鳳岡は、儒教的道義にかなう行為がどうして罰せられなければならないのかという肝心な点には答えていない[141]。

また同じく元禄16年には朱子学者の室鳩巣が赤穂事件に関する最初の「史書」[142]である『赤穂義人録』を著し、義士を賛美した[142]。本書では泉岳寺引き上げの最中にどこかに消えた寺坂吉右衛門は大石内蔵助の命で浅野大学のもとへ向かったのだとし[142]、寺坂を義士の一人に数え赤穂浪士は寺坂を含めた「四十七士」だとした[142]。これにより「四十七士説」は生まれた[143]。室は周の武王が殷を伐った行為とこれに抗議して餓死した伯夷兄弟の行為が後世ともに称えられた例を引き合いに出して義士への賛美と幕府の処分の正当性は矛盾するものではないとしている他、大石の忠義は称えつつも家老の職務は藩主が過ちを犯さないように補佐するものであると指摘して刃傷事件の原因は大石の家老としての能力不足にもあるという批判もしている[144]。なお本書は「史書」として出されたものであるが、今日の目から見れば赤穂事件に関する虚伝俗説を信用して書かれたものである[145]。
【560】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時54分)

類似の討ち入り事件
浄瑠璃坂の仇討
赤穂浪士の吉良邸討入りに類似した事件には、討入りの30年前に起こった寛文12年(1672年)の浄瑠璃坂の仇討がある。 浄瑠璃坂の仇討とは宇都宮藩を追放された奥平源八が寛文12年(1672年)2月3日に父の仇である同藩の元家老奥平隼人を討った事件である。 源八の一族と同情した脱藩有志の総勢40人以上が徒党を組んで火事装束に身を包み、明け方に火事を装って浄瑠璃坂の屋敷に討ち入ったという方法などは、30年後に起こる元禄赤穂事件において赤穂浪士たちが参考にしたとされている。

源八ら一党は、目的を達成後には幕府へ出頭して裁きを委ねた。そこで本来ならば死罪であるところを、幕府により死一等を減じられて伊豆大島への流罪という寛大な処分に減刑された。しかも数年後の恩赦により、一党は他家へ召抱えられた。

この事件を知っていた赤穂浪士(内蔵助で当時14歳)は同様の寛大な処置を期待していた可能性もある[135]。

深堀事件
深堀事件(ふかほりじけん)は、元禄13年12月19日(1701年1月16日)から12月20日(同1月17日)にかけて起こった、肥前国天領長崎(現・長崎県長崎市)において長崎会所の役人と佐賀藩深堀領の武士(家老格深堀鍋島家の家中のこと)の間に起こった騒動。
【559】

RE:呉井爺タクシー  評価

す一す一す (2021年10月17日 11時54分)

後年の例としては以下のものがある。

享保10年7月28日 (旧暦)(1726年8月25日):江戸城本丸で発生。水野忠恒(松本藩主7万石)が扇子を取りに部屋に戻ったところ、毛利師就(長府藩主5万7,000石)が拾ったが、そのとき毛利は「そこもとの扇子ここにござる」と薄く笑ったため、水野は侮辱されたと思い、毛利を討とうと斬りかかった。しかし、水野は周りにいた者に取り押さえられ、毛利師就は右手、左耳、のどなどに傷を負ったが、一命を取り留めた。師就は「殿中につき、吉良義央に倣い刀を抜かずに対応した」と証言している[132]。このとき将軍徳川吉宗は、水野の行動を乱心によるものであると裁定し、秋元喬房に預かりとして改易に処しながらも切腹はさせず、また親族の水野忠穀に信濃国佐久郡7,000石を与えて水野家を再興させた。加害者は改易、被害者は無罪の例。
延享4年8月15日 (旧暦)(1747年9月19日):江戸城内の厠で発生。熊本藩主・細川宗孝が旗本板倉勝該に斬られて死亡した。宗孝には御目見を済ませた世子がおらず、このままでは細川家は無嗣断絶になりかねないところ、その場にたまたま居合わせた仙台藩主・伊達宗村が機転を利かせ、「宗孝殿にはまだ息がある。早く屋敷に運んで手当てせよ」と細川家の家臣に命じた。そこで、家臣たちは宗孝の遺体をまだ生きているものとして藩邸に運び込み、弟の重賢を末期養子に指名して幕府に届け出た後で、宗孝が介抱の甲斐無く死去したことにして事無きを得たと言われている。加害者は死罪改易、被害者は死亡の例。 細川家では板倉は「乱心」のうえ「人違い」による殺人[133]としているが、板倉家は「遺恨」[134]で元々、宗孝を狙ったと主張している。
天明4年(1784年)3月24日:江戸城中の間で発生。若年寄田沼意知(相良藩田沼家世子)に新番士佐野政言が切りつけ、田沼は重傷を負い佐野は拘束。田沼は事件から8日後に事件での傷が悪化し死亡し、田沼家世子は意知の子田沼意明に変更。佐野は田沼の死後すぐに切腹となるも、佐野家自体は政言に子が無かったため断絶するも親族には咎めは無かった。加害者は死罪改易、被害者は死亡の例。
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