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【4686】 | 殿下♪ 吉宗最終部だぜい 侍魂 (2008年02月01日 15時31分) |
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こうして大御所になった吉宗は, 宗武(次男)に田安家を,宗尹(三男)に一橋家を封じ創設します。 これが有名な御三卿の内の二家です。 吉宗の死後(享年六十九歳)に家重の次男重好が清水家として封じられ, 正式に御三卿の体制が確立しました。 御三卿の大きな特徴は,親藩大名として家格が徳川御三家に次ぎ, 幕府からは各家に十万石が給せられていましたが,独自の「藩」は立てず, 諸国に分散していた領地の実効支配は幕府に委ねられていました。 また家老以下の家臣団も,主に旗本・御家人などの幕臣が, 自分の家臣を引き連れての出向により構成されていた由があります。 この様に御三卿は独立した別個の「大名」,いえ,「家」と言うよりも, 徳川宗家の将軍家の「家族・身内」として認識されており, 社会的にも経済的にも大きく幕府に依存しているのが実態だった様です。 これが一般的な大名家の「藩」との大きな相違点です。 一説では,御三卿の領地経営による幕府への委任が結果として, 御三卿間の対立や幕府内の政争を必要以上に激化させたとの見識もある様です。 後に田安家の松平定信(吉宗の孫)が実権を握り, 寛政の改革を断行するのは有名ですよね。 当時は身分制度が厳格にされていましたが, 実質,大商人の存在は幕府にとっても日本経済全体においても, 途轍もなく大きく,決して無視をする事はできませんでした。 オランダ・清・朝鮮以外とは鎖国の中で, その商業よりも武士の給料である米,即ち農業に依存して呪縛されていたのが, 商業蔑視の儒教に濃く色づけられた当時の江戸幕府と諸大名の実態です。 その中において数々の大英断を実行した吉宗も, 残念ながらその枠組みからは抜け出す事ができなかった様です。 しかしながら,三代目家光時代までの将軍権威の復活を目指し実現させ, また破綻寸前の幕府財政を再建した事から, 「江戸幕府中興の祖」などと崇め呼ばれています。 ※以上で殿下からご依頼を受けた吉宗の事を書き殴りましたが, お分かり戴けたでしょうか? 可なり“はしょり”,且つ,チト説明が下手でゴメンチャイです。 時代背景と時代の流れが分らないと,歴史は面白くないかも?ですが, その他,吉宗について何か関心のある逸話があれば,説明差し上げますよ。 |
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【4688】 |
S・Pエス (2008年02月01日 16時42分) |
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これは 【4686】 に対する返信です。 | |||
○侍魂さん、こんにちは。 吉宗のご説明お疲れ様でした。大作ですね。私から申すことは何もありません。RX-78-2さんも読むのが大変ですよ。 でも、とても読みやすく勉強になりました。 ○RX-78-2さん、こんにちは。 侍魂さんの知識は凄いですね。それにしても、これだけのことを書いてくれるRX-78-2さんの慕われ振りも凄いですよ。 ○要さん、こんにちは。 もう要さんとは「言わずもがな」の仲と自負していますので、直接の返信をしていませんでしたが、先程の私へのご返信は改めて感謝しています。 ロンネコさんは今頃充電中でしょうか。それともパチ屋で放電中だったりしてね。 ○ヤンチャーさん、こんにちは。 顔文字上手いですね。私にも運をくださいね。これからも楽しい内容で明るくしてください。 皆さん、一週間お疲れ様でした。明日は朝遅くまで寝ていたいなぁ、娘が起こしに腹に飛び乗らないことを祈りつつ、今週の締めに入ります。では、良い週末を。 |
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