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【2933】 | スペエースさん☆ 侍魂 (2008年11月06日 16時50分) |
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スペエースさん☆ 魂ちゃ〜お。 > 研究家の中には、 元禄期が日本史上一番自由な時代と言う方もいらっしゃるようですね。 封建社会にあっても庶民の生活力、文化の表現力が 強い時代だったのかもしれませんね。< 元禄時代は朱子学の影響を色濃く受けていますからね。(*^。^*) 元禄時代は花のお江戸にとって上方の影響が不可欠な時代でしたが, この元禄から文化・文政の化政時代にかけて, 庶民的なお江戸文化が大きく開花しました。(=^0^=)v > 内蔵助への疑念やら生活苦などから離脱する浪士も多かったそうですね。 成る程,今の時代に準えるならば, アルバイトをしながら生活を支えていたのでしょうね。(∩.∩) だから,気持ちが強くないと離脱せざるを得なかったのでしょうね。 > 信長も漸く尾張支配に目処が立った頃と推察しますと、 今川義元へ決戦を挑む状態ではなかったように感じます。< 楽市楽座政策採用は桶狭間の戦いの可なり後の時代になりますから, 経済力・兵力では完全に東海の雄・今川に劣りますよね。 信長とすれば,今川との全面対決はもっと後に行いたかったのでしょうね。 |
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【2939】 |
S・Pエス (2008年11月07日 09時36分) |
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これは 【2933】 に対する返信です。 | |||
侍魂さん、おはようございます。 >この元禄から文化・文政の化政時代にかけて, >庶民的なお江戸文化が大きく開花しました。(=^0^=)v 江戸時代と言っても270年程ありますからね、時期によって随分違いがあったんでしょうね。 忠臣蔵は今でも人気が高いでしょうから、特に武士の忠義の典型のように捉えられているように感じます。赤穂浪士の忠義も朱子学の影響を受けているのでしょうね。 >信長とすれば,今川との全面対決はもっと後に行いたかったのでしょうね。 桶狭間合戦以後の戦での信長は、勝利を確信できる軍備が整うまで決戦を避けた程慎重でしたね。 特に長篠合戦では、圧倒的な勝利を収めても追撃戦での武田側の反撃を恐れ、必要以上の深追いを禁じました。尤もこの頃でも、関東の北条氏、中国地方の毛利氏など巨大勢力もあり、油断出来ない状況だったのでしょうけどね。 それにしても、同時代に今川義元、北条氏康、武田信玄、上杉謙信、朝倉氏、毛利氏などなど強力な武家が揃っていたことも戦国期の魅力かもしれませんね。 |
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