返信元の記事 | |||
【2957】 | スペエースさん☆ 侍魂 (2008年11月10日 16時13分) |
||
スペエースさん☆ 魂ちゃ〜お。(o^∇^o)ノ > 堺屋太一氏は農業生産性の向上、 商業(農機具等の生産性、流通などと推察します)の発展、 人口の増加を指摘され、 武家の困窮と商人の富裕化があった旨表していますね。< 堺屋太一氏の経済論説は好きですね。( ・∇・) 現代を語る時は歴史を持ち出され, 桃山・江戸時代を語る時は現代と比較されますので,判りやすいです。 > 長州の毛利氏は、周防、長門の2ヶ国で表石高36万石、 裏石高79万石だったそうです。< 物価の上昇に併せ,冠婚葬祭に掛かる費用や他家との交際費, 更に幕府からの負担などで,何処の藩も資金繰りが逼迫していました。 各藩では新たな産業を興したり,新田開発は不可欠だったでしょうね。 富山県の砺波平野は加賀藩の領内でしたが, ここで有名なのは「散居村」です。 加賀藩はこの散居村の特性に注目し重視しました。 その特性とは農家が集落を形成していないため, 田が纏まっている感がなく,実高ほどの収穫を感じさせなかったのです。 例えば,加賀前田藩は加賀・能登・越中を封じられていましたが, 太閤検地では約95万石,家光時代の寛永期では約110万石とされています。 ところが,実高では160万石だったらしいです。d(・-・*) > 尾張は物流の集積地であったそうですが、 同時に各地の情報も多かったと推測すると、< 都市が発展する重要な要素に,陸水路が大きく絡んできます。 その意味では,尾張名古屋の発展も頷けます。 京に近い尾張の大名だった信長は地理的にも, 他の有力大名と比較すると有利でしたよね。(o^-^o) |
■ 10,000件の投稿があります。 |
【2959】 |
S・Pエス (2008年11月10日 16時50分) |
||
これは 【2957】 に対する返信です。 | |||
侍魂さん、こんにちは。 >堺屋太一氏の経済論説は好きですね。( ・∇・) >現代を語る時は歴史を持ち出され, >桃山・江戸時代を語る時は現代と比較されますので,判りやすいです。 ほんとですね。しかし、以前読んだ本の内容は随分忘れてしまっていますので、大きな声じゃ言えませんけどね。でも、例えは本当に上手いなぁと感心した記憶があります。 >その特性とは農家が集落を形成していないため, >田が纏まっている感がなく,実高ほどの収穫を感じさせなかったのです。 なるほど、そういう地域があったんですね。 >太閤検地では約95万石,家光時代の寛永期では約110万石とされています。 >ところが,実高では160万石だったらしいです。d(・-・*) 初めて教えて頂きました。この差は大きいですね。一国分の石高ですもんね。それだけ商家の発展も大きかったと推察出来ますね。 >京に近い尾張の大名だった信長は地理的にも, >他の有力大名と比較すると有利でしたよね。(o^-^o) 本当にそうですね。加えて美濃を併合するまでの期間を、信玄公が信濃を併合するまでの期間と比較しても、信長の凄さを感じますね。逆に言えば、謙信公のずば抜けた戦上手が浮き上がってもきますね。 |
|||
この投稿に対する 返信を見る (1件) |
© P-WORLD