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【2879】 | スペエースさん☆ 侍魂 (2008年11月01日 12時22分) |
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スペエースさん☆ コンチャ〜お。(o^∇^o)ノ > 江戸幕府開設から100年、 > 世の中が平和に慣れ始めた頃という時代背景もあったでしょうね。< 確かに元禄年間は徳川体制が落ち着き, 独自の文化が芽生えた時期ですね。(*^ ^* )V > また、最終的に四十七士になりましたが、 途中離脱した浪士も多かったと聞きます。< > 一つの事象には、有名無名に拘わらず多くの人達が携わったんですね。< 一士が誰だったか失念しましたが, 実際の討ち入りは四十六士プラス一士だったそうですね。 違うかなあ?・・(^0^;A > 幸若舞の敦盛ですね。< > 桶狭間合戦は、・・(略してゴメンなさい)・・ 当時必然的に起こった今川軍の後詰め決戦だったとする説があります。< 流石にお詳しい♪(-^〇^-) > 信長は出張る今川軍の一部隊をどこかで叩いておけば、 東尾張の高まった緊張感を一時的には凌げると思ったのでは?と 言うことでしょうかね。< 成る程,必勝ではなくて,決定的な敗北を喫しない作戦ですね。 ご見解は頷けますね。(*゜▽゜)*。_。)*゜▽゜)*。_。)ウンウン とても参考になりました。 これからもご教示をお願いしますね♪ ヾ(*^。^*)ノ |
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【2905】 |
S・Pエス (2008年11月04日 10時24分) |
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これは 【2879】 に対する返信です。 | |||
侍魂さん、おはようございます。 >確かに元禄年間は徳川体制が落ち着き, >独自の文化が芽生えた時期ですね。(*^ ^* )V 研究家の中には、元禄期が日本史上一番自由な時代と言う方もいらっしゃるようですね。封建社会にあっても庶民の生活力、文化の表現力が強い時代だったのかもしれませんね。 >一士が誰だったか失念しましたが, >実際の討ち入りは四十六士プラス一士だったそうですね。 >違うかなあ?・・(^0^;A 討ち入りは四十七士でしたが、赤穂藩取り潰し当初、大石内蔵助に従う浪士はもっと多かったと思いますが、内蔵助への疑念やら生活苦などから離脱する浪士も多かったそうですね。 >流石にお詳しい♪(-^〇^-) いえいえ、名前を忘れましたが、作家さんの受け売りですよ。 でも、当時の状況を思うと、父・織田信秀の死から8年、信長も漸く尾張支配に目処が立った頃と推察しますと、今川義元へ決戦を挑む状態ではなかったように感じます。 >とても参考になりました。 >これからもご教示をお願いしますね♪ ヾ(*^。^*)ノ それは私の台詞でーす。これからもいろいろお教え下さいませ。よろしくお願いしまーす。 |
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