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【2946】 | 侍魂さん S・Pエス (2008年11月10日 08時16分) |
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侍魂さん、おはようございます。 >それまでの文化は支配層が中心の文化でしたが, >江戸時代から民衆中心に移り変わりました。(o^-^o) 堺屋太一氏は農業生産性の向上、商業(農機具等の生産性、流通などと推察します)の発展、人口の増加を指摘され、武家の困窮と商人の富裕化があった旨表していますね。 徳川幕藩体制では経済成長率0社会が建前でしたでしょうから、実質成長した利益の殆どは商業へ集まったのかもしれませんね。 長州の毛利氏は、周防、長門の2ヶ国で表石高36万石、裏石高79万石だったそうです。政策的に武家は成長率0でしたから、その分商家を中心に栄えたのでしょうね。 >信長が恐れた武将は武田信玄と上杉謙信ですよね。 >あの信長が媚を売るぐらいですからね。 >凄い恐怖だったのでしょうね。(=^^=) ニョホホホ 加えて尾張の弱兵ですから尚更でしょうね。信長は美濃制圧に6年を費やし、強兵国の手強さを知りつつ明智光秀、羽柴秀吉と言う2人の逸材を見出したと思います。柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀などの従来の重臣ともう一人、滝川一益を加え、本格的に天下平定に向け動けたのではないでしょうか。 尾張は物流の集積地であったそうですが、同時に各地の情報も多かったと推測すると、武田信玄、上杉謙信を中心に、段階的に警戒すべき武家をランキング出来たようにも思えますね。 >魅力たっぷりの凄い時代ですね。ヾ(*^。^*)ノ 本当にそうですね。同時代に生きた武家、人々の思いや考えは想像し得ない部分も多いですが、後世の私達には大変興味深い時代ですね。 信長も尾張を制定し、尾張守を朝廷に認可してもらうために上洛した際、京の悲惨さを目の当たりし、後奈良天皇さえ短歌を売って生計を立てる現実を知り、平和な世にするための天下制定だった訳ですからね。途中で目的がぶれたのかもしれませんが、それだけ乱れた世の中だったんですね。 |
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【2957】 |
侍魂 (2008年11月10日 16時13分) |
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これは 【2946】 に対する返信です。 | |||
スペエースさん☆ 魂ちゃ〜お。(o^∇^o)ノ > 堺屋太一氏は農業生産性の向上、 商業(農機具等の生産性、流通などと推察します)の発展、 人口の増加を指摘され、 武家の困窮と商人の富裕化があった旨表していますね。< 堺屋太一氏の経済論説は好きですね。( ・∇・) 現代を語る時は歴史を持ち出され, 桃山・江戸時代を語る時は現代と比較されますので,判りやすいです。 > 長州の毛利氏は、周防、長門の2ヶ国で表石高36万石、 裏石高79万石だったそうです。< 物価の上昇に併せ,冠婚葬祭に掛かる費用や他家との交際費, 更に幕府からの負担などで,何処の藩も資金繰りが逼迫していました。 各藩では新たな産業を興したり,新田開発は不可欠だったでしょうね。 富山県の砺波平野は加賀藩の領内でしたが, ここで有名なのは「散居村」です。 加賀藩はこの散居村の特性に注目し重視しました。 その特性とは農家が集落を形成していないため, 田が纏まっている感がなく,実高ほどの収穫を感じさせなかったのです。 例えば,加賀前田藩は加賀・能登・越中を封じられていましたが, 太閤検地では約95万石,家光時代の寛永期では約110万石とされています。 ところが,実高では160万石だったらしいです。d(・-・*) > 尾張は物流の集積地であったそうですが、 同時に各地の情報も多かったと推測すると、< 都市が発展する重要な要素に,陸水路が大きく絡んできます。 その意味では,尾張名古屋の発展も頷けます。 京に近い尾張の大名だった信長は地理的にも, 他の有力大名と比較すると有利でしたよね。(o^-^o) |
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