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【6324】 | RE:1パチ・2パチで楽しもう♪ カンパチ (2013年08月21日 11時55分) |
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笑夏’さん ◎【ちょっと笑える話】・・・・本気で笑っちゃいました。 ◎僕からの問いかけに、一生懸命、お答えいただいてありがとうございます。 『全ての人間は仏様の子である』 これは、キリスト教で言うところの『神の下の平等』に通ずるものでしょうか。 しかし、仏様の「子」としてしまっているのは、人間を、一個の確立した人格とは捉えていないように感じます。 『誰でも同じように仏性を持っていて』 「仏性」というのが、何のことか分らないです。また「同じように」という「一くくりにする」と言う発想は、なんか、安易な感じがします。ものの受け取り方は人によって違いますから。 『仏性を磨き』 これも、仏性の意味が分からないから、何を磨くのか分りません。 『仏の境地を目指す』 「仏の境地」って、どんな境地ですか。 『悟りを得られる』 悟っている状態というのが、どういう状態なのか、が、分かりません。 『悲心の悲の心が、相手の思いになり、相手を救いたいという心だそうです。 慈は、慈しみ、思いやりの心、人を幸せにしてあげたいという心です。 なので、慈悲心を持つ事が、人を救うことに繋がるんでしょうね それから、喜捨という事も大切で、喜は嫉妬心をなくし、人の喜びを我が喜びにする事が出来る心。捨は、執着を捨てる心です。執着心がある事が一番不幸を生む事になるそうです。なので、どんな事があっても拘らず、なるようになるという、執着を捨てることで すごく楽に生きられ、幸せを多く感じる事が出来るということです』。 もしかしたら、それが、悟った状態、ということなのかな。一種の理想論ですね。 疑問点がまだいくつかありますが、笑夏’さんのご回答から、何となく感じるのは、仏教というのは、どうやら、『受身』の教えではないか、ということです。あまり、能動的に、自分から何かしていく、という雰囲気は感じないです。だから、おそらく、仏教の異宗派間では、あまり、宗教戦争は起きなかったのかもしれません。 歴史上、仏教徒間でも宗教戦争はありましたが、キリスト教やイスラム教に比べれば、平和な方だと思います。 ついでですけど、僕が読んだ『法華経入門(岩波新書)』に、こんなことが書いてあります。 『具体的に布施を例に取り上げると、AさんがBさんにCを布施する場合、このABCのいずれも空であると認識し、執着を捨てて清浄でなければならない。もしも『私があの人にこのことをしてあげた』という観念に執われるならば、それは純粋な慈悲心から出た行為ではなく、汚れたものとなってしまう。ABCの三者それぞれが執着を離れて清浄であることを『三輪清浄(さんりんしょうじょう)』といい、そのようであって初めて布施の完成たりえるといわれる。 宗教には、このような極端な理想を示す教えが多い。とてものこと、凡人には実践が不可能と思われてしまうだろう。しかし、仏教においても、煩悩に汚された善、例えば、功名心に発するものであっても貧しいものに布施することは、しないよりはよほどましな行為と認められているのである』 仏教の教義が、例えば、児童虐待やリストカットといった、現代人の苦悩の解決に役立つとすれば、それは、なんなのだろう、と思います。 葬式仏教に成り下がってしまっている現状を、『救済』や『現世利益』といった、もっと、現実的で、実効性のある宗教活動に戻していく必要があるではないか、と思うのです。 それで、笑夏’さんに仏教で言う『救済』ってなに?、とお尋ねしてみたのです。ボランティア活動みたいなもんかな、と。 いろいろと、ありがとうございました。 |
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【6326】 | ![]() |
笑夏’ (2013年08月21日 17時23分) |
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これは 【6324】 に対する返信です。 | |||
カンパチさんにレスを書いたのですか・・・ 長過ぎてまた消えてしまいました(/_;) 後程また時間のある時に書きなおしますね。。 |
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