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【2942】 | スペエースさん☆ 侍魂 (2008年11月07日 15時28分) |
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スペエースさん☆ 魂ちゃ〜お。(o^∇^o)ノ > 江戸時代と言っても270年程ありますからね、 時期によって随分違いがあったんでしょうね。< 応仁の乱以降,長く続いた戦乱を終え, 天下泰平と言われる時代ですよね。(’-’*) それまでの文化は支配層が中心の文化でしたが, 江戸時代から民衆中心に移り変わりました。(o^-^o) > 特に長篠合戦では、 圧倒的な勝利を収めても追撃戦での武田側の反撃を恐れ、 必要以上の深追いを禁じました。< 信長が恐れた武将は武田信玄と上杉謙信ですよね。 あの信長が媚を売るぐらいですからね。 凄い恐怖だったのでしょうね。(=^^=) ニョホホホ 信玄が亡くなり勝頼が当主になっても, 信玄が育んだ騎馬軍団と戦法は,信長にとって脅威だったでしょうね。 > 尤もこの頃でも、関東の北条氏、中国地方の毛利氏など巨大勢力もあり、 油断出来ない状況だったのでしょうけどね。< ご賢察の通りだと思います。(*^^*) 対武田戦が長期化すると,背後から狙われます。 尤も織田軍は急成長しましたので,一枚岩では在りませんでしたし, 家臣の謀反も或る程度の想定内だったでしょうね。(~ ~;) > 同時代に今川義元、北条氏康、武田信玄、上杉謙信、朝倉氏、 毛利氏などなど強力な武家が揃っていたことも 戦国期の魅力かもしれませんね。< 四国には長宗我部氏,九州には島津氏・大友氏・竜造寺氏, 東北奥州には新興勢力の伊達氏が頭角を現しています。 魅力たっぷりの凄い時代ですね。ヾ(*^。^*)ノ |
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【2946】 |
S・Pエス (2008年11月10日 08時16分) |
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これは 【2942】 に対する返信です。 | |||
侍魂さん、おはようございます。 >それまでの文化は支配層が中心の文化でしたが, >江戸時代から民衆中心に移り変わりました。(o^-^o) 堺屋太一氏は農業生産性の向上、商業(農機具等の生産性、流通などと推察します)の発展、人口の増加を指摘され、武家の困窮と商人の富裕化があった旨表していますね。 徳川幕藩体制では経済成長率0社会が建前でしたでしょうから、実質成長した利益の殆どは商業へ集まったのかもしれませんね。 長州の毛利氏は、周防、長門の2ヶ国で表石高36万石、裏石高79万石だったそうです。政策的に武家は成長率0でしたから、その分商家を中心に栄えたのでしょうね。 >信長が恐れた武将は武田信玄と上杉謙信ですよね。 >あの信長が媚を売るぐらいですからね。 >凄い恐怖だったのでしょうね。(=^^=) ニョホホホ 加えて尾張の弱兵ですから尚更でしょうね。信長は美濃制圧に6年を費やし、強兵国の手強さを知りつつ明智光秀、羽柴秀吉と言う2人の逸材を見出したと思います。柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀などの従来の重臣ともう一人、滝川一益を加え、本格的に天下平定に向け動けたのではないでしょうか。 尾張は物流の集積地であったそうですが、同時に各地の情報も多かったと推測すると、武田信玄、上杉謙信を中心に、段階的に警戒すべき武家をランキング出来たようにも思えますね。 >魅力たっぷりの凄い時代ですね。ヾ(*^。^*)ノ 本当にそうですね。同時代に生きた武家、人々の思いや考えは想像し得ない部分も多いですが、後世の私達には大変興味深い時代ですね。 信長も尾張を制定し、尾張守を朝廷に認可してもらうために上洛した際、京の悲惨さを目の当たりし、後奈良天皇さえ短歌を売って生計を立てる現実を知り、平和な世にするための天下制定だった訳ですからね。途中で目的がぶれたのかもしれませんが、それだけ乱れた世の中だったんですね。 |
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