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【2763】 | スペエースさん☆ 侍魂 (2008年10月23日 15時38分) |
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スペエースさん☆ コンチャ〜お。(o^∇^o)ノ > ただ、武家社会では戦や切腹、斬首など「死」が公然と存在しますので、 現代の辞職ではちょっと比較しようがない部分もありますね。< 当時の“武家”にとってはプライドが尤も大事でしたから, 切腹などの自決と打ち首斬首では, 行って帰って来る程の差が在ったみたいです。(’-’*) 因みに赤穂浪士は二転三転して最終的には,切腹になりましたから, 元禄時代のヒーローに成ったのでしょうね。(o^<^)o > その後の桶狭間から京都掌握までの人生に、非常に惹き付けられますが、 > とてもとてもそんな行動力、統率力は私にはありませんね。< 桶狭間の戦いは今川軍2万5千に対し, 織田軍はその十分の一の2千の軍勢で今川本陣を急襲したそうですね。 信長は逸話の多い人物で山岡荘八の著書では,・・ 今川勢の進軍が迫る最中,悠々と能を舞っていたと書かれていました。 まぁ,信長らしいと言えば,信長らしく感じますね。v(^。^*) |
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【2772】 |
S・Pエス (2008年10月24日 08時26分) |
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これは 【2763】 に対する返信です。 | |||
侍魂さん、おはようございます。 >当時の“武家”にとってはプライドが尤も大事でしたから, >切腹などの自決と打ち首斬首では, >行って帰って来る程の差が在ったみたいです。(’-’*) そうですね。武家にしろ公家にしろ、しきたりや伝統もあったでしょうから、現代の私達が今の慣習で考えたら、理解し難いこともあったのでしょうね。 >因みに赤穂浪士は二転三転して最終的には,切腹になりましたから, >元禄時代のヒーローに成ったのでしょうね。(o^<^)o 江戸幕府開設から100年、世の中が平和に慣れ始めた頃という時代背景もあったでしょうね。 また、最終的に四十七士になりましたが、途中離脱した浪士も多かったと聞きます。一つの事象には、有名無名に拘わらず多くの人達が携わったんですね。 >今川勢の進軍が迫る最中,悠々と能を舞っていたと書かれていました。 >まぁ,信長らしいと言えば,信長らしく感じますね。v(^。^*) 幸若舞の敦盛ですね。 桶狭間合戦は、前年暮れから年初にかけて、今川方に寝返った鳴海・大高両城に対する付け城作戦を信長がしたことで、当時必然的に起こった今川軍の後詰め決戦だったとする説があります。 信長は出張る今川軍の一部隊をどこかで叩いておけば、東尾張の高まった緊張感を一時的には凌げると思ったのでは?と言うことでしょうかね。 「付け城作戦」は信長公記にも記載されていますから、後詰め決戦は信長の予定行動だったとは思います。また、今川方の大軍が押し寄せる前触れはあったでしょうが、尾張国内に大きな緊張を思わせる資料(公家や僧侶の日記など)が見つかっていないのも裏付けになるかもしれませんね。 |
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