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【2453】 | RE: だからどうしたと言われましても。 はぐれベス (2012年05月23日 23時38分) |
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>『たった今を生きるのだ』 死後の世界で「幸福」が約束されているってのも信じられませんしね。あっ、私が思うにです。 >シャカとニーチェの接点。 あっ、仏教もそうなんですか・・・ 無知なもんで仏教とキリスト教は上に書いた「死後の〜」に重点を置いてると思っていました・・・ |
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【2456】 |
カンパチ (2012年05月24日 08時09分) |
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これは 【2453】 に対する返信です。 | |||
>無知なもんで仏教とキリスト教は上に書いた「死後の〜」に重点を置いてると思っていました・・・ 池上彰著『宗教が分かれば世界が見える(文春文庫)』の中で、釈徹宗というお坊さんが、こんなことを言ってます。 『仏道は、まず『生きるということは、苦である』と言った自覚から始まります。 この場合の苦とは『思い通にならない』の意です。生きるということは思い通りにならない。これは誰もが直面せざるを得ない苦悩です。 すべてを思い通りにできる人などいません。自分の思い通りに現実をコントロールすることなどできない。 そこで、『思い』の方を調える。 『思い(執着)』が強ければ強いほど、現実との落差は大きくなります。つまり苦悩が強くなるわけです。 身体を調え、思いを整え、言葉を整え、生活を調えるトレーニングを実践することによって、執着を小さくすれば、苦悩も小さくなる。 究極的には、執着をなくしてしまえば、苦悩もなくなってしまう地平を目指します。仏教とはそういう宗教です』 ニーチェについてですが、 ネットにこんな問答があります。 問い「きみたちが、きみたちの父祖の子孫であることを、きみたちは、きみたちの子孫たちによって償うべきだとは、『過去に囚われるな、未来を見よ』という事なのでしょうか?」 『この文章の私流の解釈は、「自らの過酷な『運命』や悔恨の『過去』(ある意味では運命とも言える「過去」)を、 きみたちは、積極的に『未来』に働きかけることによって、その意味をプラスにすべきなのだ」といった具合です。 つまり、肯定的な「未来」を創造することによって、過酷な「運命」や「過去」は自分にとって大切な存在になるのです。 ところが、それに「囚われ」ているということは、「運命」や「過去」を呪っている結果であり、「超人」の創造的な生き方ではないのです』 結局、釈迦にしろ、ニーチェにしろ、執着 するな、とらわれるな、と言っているようです。 社会心理学者南博(みなみひろし)著『社会心理学入門』と言う本に、 『偏見は、しつけや教育によって、植えつけられる』とあります。 偏見と言うのは、常識とか、価値観、とか正義感、とか、基準、とかと言い換えてもいいと思います。 よく、海外旅行をすると、日本人の常識では考えられないことが普通に行われていて驚く、と言うことはよくあるわけですが、 僕流に言わせてもらえば、そういう驚きを沢山経験すれば、いつの間にか、『とらわれない』自分になれるんじゃないのかな、と思います。 言い換えれば、自分がいかに硬い囚われの中にいたかを思い知らされるわけです。その固い囚われが偏見です。 シャカとニーチェが似てるな、と思うのは、どちらも、それまでの常識を破ろうと、あるいは、『なんか変じゃね?』と疑問を持ち続けた人だ、と思うからです。 |
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