| トップページ | P-WORLDとは | ご利用案内 | 会社案内 |
■ 13件の投稿があります。
<  2  【1】 
【3】

〜さん〜   編集  評価

StrawberryLetter (2024年03月16日 13時29分)

さて、その頃のぱちんこ屋の印象は?というと暗くジメジメした印象しかありません。
外はネオンで明るいのですが、中はそれ程明るくも無く板張りの床からはジットリと油の匂いが立ち昇り、鼻腔を擽っていました。(昔は床板が腐らないように+蟲に喰われないように油っぽいモノ(ワックスの代わり?)が一面に塗られていました)
店員はというと、パンチパーマの「いかにも」といったお兄さん風かあるいは、ちょっと草臥れた住み込みの中年夫婦か、の大体2者択一。
新聞や折り込みチラシ、職安なんかにもパチ屋の住み込み店員募集がされていました。(パチ屋の2階が居住スペースになっている店が多かった)

カウンターに座ってるおばちゃんの白粉の匂いに顔をしかめながらお金を渡すと、あらかじめ用意してあった球入り小箱を手渡してくれました。
小箱は、大体15cm×10cm×8cm位だったでしょうか、球数は500〜600個位。
大箱(中箱?)で大体25cm×10cm×8cm位で、1000〜1200個位だったと思います。
(柔らかい樹脂で出来ていて、一杯に球を詰めると真ん中辺がたわみ球が余計に入った)

まだナンバーランプやコールランプが無い時代。
発射レールが詰まったり、ブドウが出来たり、そんな時は大声で呼ぶシステム。
今のような自動補給では無いのでパチ台の球が無くなったときは、島の内部に人一人がやっと通れるくらいの通路を店員が大箱を持ってその中を移動して補給してくれました。

いま考えるとその効果は殆ど無い、(いやいや)絶対に無いと思う、(でも、もしかすれば)極々ほんの少しの効果を求め、補給後は下皿に目一杯球を詰め込んで打ってました。(補給球はパチ台裏側上部の皿に入れられるのでネカセがきつくなる(と思っていた)ので、少しでも緩めるために下皿を重くしていた)

今で言う「オカルト」の走り、だったのかもしれません。
でも、このオカルトはCRの時代になっても結構続けられていて、今となっては聞くことの出来ない「下皿が一杯です。球を抜いてください。」の音声がオカルターの台から聞こえていました。
(でも、そのお陰で「黄門ちゃま」や「海物語」の攻略法が生み出された!と言っても過言でも無いwww)
【2】

〜に〜   編集  評価

StrawberryLetter (2024年03月09日 13時40分)

次にぱちんこ台に触れたのは、意外にも大学生になってから。
補欠でようやく引っ掛かった大学に通うため、M市の下宿で生活していた頃です。(当時はアパートの一人暮らしより賄付きの下宿が主流)
温泉とは縁があるのか、その下宿もA温泉場の山手の一角にありました。

ちょうどその頃M市で国体が開催され、現在の上皇様ご夫妻(当時は皇太子ご夫妻)が下宿先の近くのホテルにご滞在されました。
下宿とその先のホテルに上る交差点には24時間体制で警察官が立哨していて、コンパ帰りの帰宅時に職質を受けました。

警 「きみ、どこへ行くの?」
私 「(指指しながら)あの下宿に帰るんです。」
警 「免許証とか持ってる?」
私 「あ、はい。」(高校3年の時に小型2輪免許を取得していた)
警 (免許証を見ながら)「学生さん? 何学部?」
私 「工学部ですけど。」
警 「ちょっと、鞄の中確認させてね。」

 ※後で下宿仲間に聞いた所、工学部や理学部の学生がチェックされていたようでした。

警 「はい、ありがと。きみ、お酒飲んでるね?」
私 「あ・・。すみません。」(まだ18歳、免許証でバレました ^^;)
警 「ほどほどに、外では控えて家で飲むぐらいにしておけよ。」
私 「・・・・。はい。」

鞄を返してもらって、無事、無罪放免(?)になりました。
未成年だからといって「飲むな」とは言わない時代でした。

あ・・、早速脱線、パチのハナシに戻ります。

仕送りはほぼ無く奨学金とバイト代で生活する中、息抜きにと月1位のペースでパチ屋へ・・。
まだまだ手打ち式が主流でしたが、ちょうど電動役物が流行りだした頃でした。
電動役物と言っても平台に搭載されているモノですから、現在のソレとは全く違うモノです。

その頃のオーソドックスな台は両脇にチューリップ、左右袖に落とし、センター(中央)に二連チューリップというような構成。
電動役物は大概、中央の二連チューリップの上に鎮座していて回転または往復動作により入賞する位置(ポケット)を変え、オープンする(開く)チューリップの位置や個数を決定させてました。
それまでの固定式や機械式の役物とは違い、役物の動きによりどの入賞口に入るか分からないといったスリルが流行りの要因だったと思います。
良台はじわじわと球が増えていく、そんな印象が残っています。
【1】

〜いち〜   編集  評価

StrawberryLetter (2024年03月09日 00時07分)

初めてぱちんこ台に触れたのは、小学校低学年の頃。
今から五十年以上も前のハナシ。
滅多に無い家族旅行でY温泉に行った時でした。
そこはパチンコ店というよりも温泉場の遊技場といった感じで、パチンコ台の他にスマートボールや雀球もあったように思います。(既に記憶が曖昧www)

もちろん台はチューリップのみの平台で手打ち台。
自分と親父、兄の三人で球を借り並びで打ちました。
記録によると当時は貸玉料金2円時代。
たぶん3人とも百円分50球を借りて打ったのでしょう。

球を弾いたことも無い小学生ですから、一球々々ゆっくりと何処を狙うでもなく、ただやみくもに打っていたのだと思います。
それが功を奏したのか、はたまた生まれつき博才があったのか、球はどんどん増えていき、やがて小箱一杯に。(親父と兄はすっからかんになり、二人とも末っ子の台を鑑賞してました)
親父にはタバコ二箱を、それ以外をチョコレートやお菓子に替え、満面の笑みの笑みを浮かべる鼻垂れ小僧がそこにはいました。

親同伴なら子供でも堂々と打てる、ゆる〜い時代でした。
<  2  【1】 
メンバー登録 | プロフィール編集 | 利用規約 | 違反投稿を見付けたら