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【8943】 | 連続無駄話です S・Pエス (2007年11月15日 13時40分) |
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モンスター大王さんの含蓄あるスレを挟んでごめんなさい。今日は、北条氏の話をしましたので、派生的な内容をぐだぐだ書きます。 北条早雲こと伊勢新九郎氏長は、今川義元の何代か前の当主・義忠の正室・北川殿の実兄であり、義忠戦死後の家督争いの助っ人として今川家に招かれました。北川殿の子・氏親が幼少のため、成人するまで分家の小鹿氏が当主代行を努めましたが、氏親が元服しても家督を譲らなかったので、武力で氏親に家督を譲らせました。 そのお礼に駿河東部の興国寺城と1、2郡の土地をもらい、東の守りをしました。駿河東部の安定のためには伊豆くらいまで今川勢力が及ぶ必要があったため、堀越公方のお家騒動に乗じて伊豆を切り取り、大森藤頼から小田原城を奪い取ったそうです。 この時早雲(氏長)は80才を越え、嫡子・氏綱に家督を譲り、北条氏は本格的に関東管領の上杉氏と争いました。氏綱の嫡子・氏康の代で伊豆、相模、武蔵、上野、下野など、所謂関八州を得て一大勢力となりました。 早雲(氏長)は非常な傑物で、年貢を四公六民にしたり、領地の病人を手厚く看護したり、合議制を取り入れたそうです。ただ、2代氏綱、3代氏康と傑物が続き、4代氏政の暗愚がために、5代氏直で滅亡に至ったことは残念です。 合議制は世界的に初の民主主義だったかもしれませんが、100年経てば制度も形骸化し、最後は「小田原評定」という悪評を付けられたことは無念です。 現在、小田原市で北条五代祭りという催しがあるそうですが、徳川280年、明治、大正、昭和を経て、なお北条五代を慕う地域住民の思いを察すると、滅亡したとは言え、如何に優れた武家だったかが伺えます。 また、京都の丹波地方では、今でも明智光秀を慕う名残りがあるそうですね。 「明智光秀、丹波を広め、広め丹波の福知山」という詩が残っており、祭りで歌われるそうですね。 歴史は勝者の歴史と言われますが、争いに敗れた人物の中にも優れた人が多かったと思うと、感慨深いものを感じます。長々とご無礼つかまつりました。 |
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【8959】 |
ロータリー7 (2007年11月16日 06時47分) |
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これは 【8943】 に対する返信です。 | |||
S・Pエスさん おはようございますー♪ *゜:+.。☆┗(^▽^*)*゜:+.。☆ >「小田原評定」という悪評を付けられたことは無念です。 興味がありますので・・・また、ご都合の良いときにでも詳細をお願いします♪ ○┓ペコリ >現在、小田原市で北条五代祭り うちの嫁さんの実家方面では『源氏祭り』というのがあります。 各地域で英雄を祭ったりする催し・・・日本の良き文化の継承ですねぇ♪ o(*^▽^*)o >「明智光秀、丹波を広め、広め丹波の福知山」という詩が残っており 丹波といえば、黒豆の印象しかなかったのですが(汗)(;^_^A 明智光秀が丹波方面で慕われていたのですねぇ。・・・勉強になります☆ >歴史は勝者の歴史 よく似た例えに・・・『敗者の論理は通用しない』 敗者=悪 勝者=善の論理がまかり通っておりますが(欧米など) 敗者も祭る文化が大切にされているのは・・・掬われる気分になります。 |
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